『SS』 桃華月譚

 静かな闇の中を一人歩く。
 足元に絡みつく草、新緑の香りが鼻腔をくすぐる。ああ、もうすぐ春なんだな。ふとそう思った。
 何故歩いているのかなんて事は俺には分からない。ここが何処かなども知らない。今が何時なのか、そんなもん知らん。ただ空は暗く、星一つ無い。それなのに俺が歩けるのは草の匂いと天空にただ独り輝く月の光があるからだ。
 月の輝きに誘われて。緑の香りに導かれ。俺は行く先すら知らないままに足を運んでいる、緑と黒に包まれた世界を。





 どれだけ歩いたのだろう。感覚は既に闇の中に置き去っていて青草の絨毯を嗅覚と月光だけを頼りに進んでいる。いつになれば終わるのか、いつまでも続くのか、それすらも分からないままに。
 しかし終わりはいつか訪れる。目の前に広がる光景が俺の歩みを止めたからだ。おお……、我知らず声が洩れる。
 それは闇に浮かんだ幻想のように。月の明かりに照らされる巨木。満開の花びらの一つ一つが照らされているようだった。淡紅色に色付く花びらが、一陣の風に舞う。散った花が視界を遮るように吹き荒んだ。
「…………ふぅ」
 自然と息が漏れる。圧倒的な美の前には人は矮小な創造物に過ぎず、ただ佇むのみなのだろう。しかも俺は無知であり、今尚舞い散る花びらが如何なる種類に属する花なのかすら理解していなかった。
「桜か? けど……」
 どことなく違うのは分かるが発想が貧困なせいでイメージの枠から抜け出す事が出来ない。闇夜に煙る花霞、それは桜嵐と呼べるものだった。すると耳朶をくすぐるようなクスクスという笑い声、
「違うわよ、これは桃。桜とは全然似てないじゃない」
 揶揄するような声は曰く桃の樹の下からしていたのであった。何故視界に入っていなかったのか、いつの間にか樹の下には毛氈が敷かれて一人の女性が座っていた。どうして毛氈だと分かったのか? 暗い樹の元で染み入るような紅が昔何かで見た様な、そう、茶会のような雰囲気を感じさせたからだろう。
 燃えるような真紅に引き込まれてゆくように足が自然と前に出る。ゆっくりと歩を進めると真紅の毛氈の上に着物姿の女性が正座をしているのが分かった。いや、ただの着物姿ではない。
 それは女性の姿を大きく見せるような重ね着だった。内側から、小袖(こそで)、長袴(ながばかま)、単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)、表衣(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)。小袖の色は常に白、袴は捻襠(ねじまち)仕立てで、色は未婚者なのか濃紫(こき)である。
 しかも髪の毛を結い上げ、宝冠(ほうかん)を頭に載せている。どうして俺にそんな知識があるのかなど自分でも分からないのに、それが何かなのかは理解した。
 五衣唐衣裳(いつつぎぬ、からぎぬ、も)、または女房装束(にょうぼうしょうぞく)という。一般的な呼び名でいうならば、
「どうかしら? 私には有機生命体の十二単の概念なんて理解出来ないんだけど」
 と言う衣装である。髪を上げた十二単の女性は清廉な微笑みを浮かべて俺を迎えたのだった。





「お前か」
「そう、私」
 何故か居るのかなど訊く気にもならない。墨滴を落としたような暗闇に輝く白皙の月光。新緑の絨毯に敷かれた真紅の毛氈、薄桃色の花が咲く樹の下。
 藤色の十二単を纏った朝倉涼子は清楚にして可憐にもその景色に溶け込むように佇んでいたのだから。
「どうしてそんな格好なんだよ?」
 朝倉の十二単は見惚れてしまうほどに綺麗だったのだ。結い上げられた日本髪も揃えた前髪と相まってとても似合っている。髪の短い長門や柔らかな巻き毛の朝比奈さん、同じく髪の短いハルヒなどには出せない清冽な色気がそこにはあった。俺の知り合いで匹敵するとすれば鶴屋さんなのだろうが、整えられた前髪などから見れば日本髪が似合うのは朝倉だな。
 すると朝倉は檜扇で俺を指すと、
キョンくんの格好も同じ様なものなんだけどな」
 そう言って檜扇で口元を隠し、静かに笑う。何を、と自分を見てみると確かに着た事のない衣装に身を包んでいた。
 内側から、小袖(こそで)、大口袴(おおぐちばかま)、単(ひとえ)、表袴(うえのはかま)、下襲(したがさね)、裾(きょ)、縫腋袍(ほうえきのほう)、石帯(せきたい)。頭には冠を被り、その手に笏(しゃく)を握っている。
 やれやれ、どうやら俺は最初からここを目指すべくして歩いていたという事なのか。
「そういう事みたいね」
 ころころと鈴の音のような笑い声を上げると、朝倉は俺に座るよう促した。毛氈の大きさを鑑みれば俺は自然と朝倉の隣に腰掛けるしかない。まさかこいつと二人きりで並んで座る日がくるとはな、だが不思議と恐怖も感じずにいる。
 朝倉と違い、礼儀というものに疎い俺は胡坐をかいて座る。それを見た朝倉はまたもころころと笑った。どうせだらしない男だよ、俺は。
「いいのよ、キョンくんはそのままで」
 朝倉は毛氈の端に置いてあった蒔絵の箱から銚子(ちょうし)と盃を取り出した。
「まあ色々と省いてるんだけど、まずはどうぞ」
 銚子から注がれた液体は白色で仄かなアルコール臭がする。
「酒か?」
「そう、白酒よ。今日はそういう日じゃないの?」
 そう、なのだろう。だから俺は禁酒を誓っていたはずなのに盃を一気に飲み干した。味などはどう評価していいものか分からないし、アルコール分が強い訳でもなさそうなので普通に飲めたのだが。
「いい飲みっぷりね、私にも貰えるかな?」
 そう言いながら朝倉が盃を差し出したので銚子を手に取り朝倉の盃に白酒を注ぐ。朝倉もそれを一気に飲み干した。
「あら、意外と美味しいのね」
 お前は酒なんか飲んだ事ないだろうな、真面目な委員長だったし。それに三年間待機した後は数ヶ月で消えてしまったのだから。
「ふぅ…………アルコールは分解させない方がいいのよね?」
 さてね、長門は酔わなかったみたいだが。
「まあいいわ、キョンくんもお替りどうぞ」
 そうだな、頂くか。
 こうして俺と朝倉は差しつ差されつで盃を交わし、白酒を飲む事になったのだ。
「何かおつまみがいるかしら? ちゃんとした食事ならちらし寿司とか蛤のお吸い物なら用意出来るけど?」
 いらんな、酒の味が壊れる。米を絞った白酒と酢飯が合う気がしない。
「そう。それなら、あられだったらあるけど?」
 まあそれでいいや。あられを噛み締めるといい塩梅で酒の甘みが感じられる。いつの間にかお互いの盃を満たしながら無言で酒を酌み交わしていた俺と朝倉だったのだが。
「なあ、これって夢なんだよな」
 ふと呟いた。この光景全てが幻想的で、隣には朝倉涼子。これが夢でなければ世界は大掛かりな変貌を遂げたに違いない。
「どうかしらね、夢なのかしら」
 酔いが回ったのか俺の肩に頭を乗せ、全身を預けるようにもたれかかった朝倉も小さく呟く。心地良い重みとアルコールのせいで火照った身体から感じる熱が風が吹いている屋外の寒さを和らげる。
 暗闇の中月光に照らされた桃の樹の下で殿上人の衣装を纏った俺と朝倉が酒を酌み交わしながら花を愛でる。
 いつしか朝倉の身体は俺の身体に寄り添うようにもたれかかり、俺の左腕は朝倉の肩を抱いていた。抱かれたままの朝倉の酌を受けながら盃を傾ける、火照った頬に風の流れが気持ちいい。
「お前はこうしたかったのか?」
「何を?」
 何をだろうな。酒を飲みたかったのか、着物を着たかったのか、それとも、
「俺に抱かれたかったのか?」
 酔いがそう言わせているのだろう、そうじゃなきゃ俺を殺そうとした女にこんな事は言えない。
「随分と過剰な自信ね、私がそうだって言ってくれると思った?」
 いいや、言葉なんかいらない。俺の腕の中には確かな温もりがあるのだから。そして朝倉涼子は俺の腕の中で、
「…………おかしいわね、語彙が不足してるわ。だから聞いて、一度だけしか言わないから」
 潤んだ瞳で見上げて俺の目を見つめ、
「あなたと、こうなりたかったのよ」
 そう言って俺の胸に顔を埋めた。
「…………そうか」
 顔を上げず表情の見えない朝倉を抱きしめる。しがみ付いた腕に力が入ったのが分かった。
「夢じゃないといいな」
 俺の言葉に朝倉が顔を上げる。潤んだ瞳に月光の輝きが映っていた。そして朝倉はおずおずと口を開いた。
「ほ、本当に?」
 ああ。
「私、あんな事したのに?」
 ああ。
キョンくん、私……」
 何も言うな、今お前は俺の腕の中にいる。それだけでいいんだ。
「…………ありがとう」
 俺は手に盃を持つ。朝倉は分かっているかのように白酒を注ぐ。
「あ……」
 風に待った桃の花びらが盃の上に降りてきた。白い酒に浮かぶ桃色の花びら。
「風流ってやつだな」
「そうね」
 ああ、朝倉?
「何?」
 やっぱりお前は笑顔が良く似合うよ。そう言って俺は花びらの浮かんだ酒を一気に飲み干した。







 そして俺は意識を失った。





























「………………あたまいてぇ…………」
 朝目覚めてから最初に言った言葉がこれだ。昨日は何も無かったのに今朝起きてから強烈な頭痛と吐き気に襲われた。
 一体どうしたんだ? 昨日は何もしていない、とすると寝相でも悪かったのか? 春が近いとはいえ夜はまだ冷え込む季節だ、風邪の引き始めかもしれないな。
 だがいきなり片頭痛に襲われたと言っても親が納得するかどうか。とりあえずシャワーでも浴びれば様子が変わるかもしれない、まだ痛む頭を押さえながら風呂場に向かう。
 その時リビングから、
「あー! キョンくんが起きてるー、めずらしー!」
 などと甲高い声で騒がれてしまい、頭を抱え込んでしまった。お前の声は響くからもう少し声を抑えてくれ、頼むから。
キョンくん、どこか悪いの?」
 だからシャワーでも浴びればさっぱりするから風呂場に、
「って、なんだあれは?」
 妹の陰、リビングの奥に何か物体が見える。すると妹が嬉しそうに、
「へへ〜、昨日田舎から送ってきてくれたんだよ〜」
 と言いながら俺の手を引く。頼む、まずはシャワーを! と思ったのだが、そいつを見て俺の表情が固まった。
 それは雛人形だった。段飾りなどではなく内裏雛の二人だけである。しかもどことなく古ぼけているように見えるのだが。
「昔っからあったんだって。それであたしにって送ってくれたっておかあさんが」
 そうなのか。もうそんな時期なんだな、祖父も祖母も妹には甘いようだ。まあ田舎の納屋などに眠っているよりも妹の為に飾る方がマシなのかもしれないな、
「場所もとらないからいいって」
 そんな大人の事情を語るなよ、マイマザー。と、ここで気付いたのだが、
「いつからここにあったんだ?」
 妹は小首を傾げると、
「昨日からだよ、キョンくんは学校から帰ってすぐ部屋に行っちゃったから見てないでしょ?」
 器用にそのまま頬を膨らませたので、すまなかったと謝りながら俺は雛人形から目が離せなかった。
 何故ならばその顔が良く知っているヤツの顔にそっくりだと思ったからだ。まさか、あいつが…………


 その時、脳裏に昨夜の夢が再生された。そうだ、あれは桃の樹の下で。


「ははは、嘘だろ……」
 妹の不審そうな目をかわして俺は風呂場に駆け込んだ。シャワーを浴びて意識がはっきりすると生々しいまでの感触が蘇る。
 頭痛の原因は二日酔いかよ、間違いなく飲みすぎたのだろうしな。
「…………そうか、そういうことか」
 お前はやはり居たんだな、そして何がしたかったのか。俺は頭からシャワーを浴びながらこの後どうするのか考えていた。もう、頭痛は無くなっていた。








 家を出て自転車を駆る。目的地は決まっている、通いなれたマンションまでの道のり。
 着いたら頼れる宇宙人にお願いしないといけないんだ。多分あいつも嫌とは言わないだろう、何と言ってもバックアップだったんだしな。
 さあ、あいつの部屋でこう言わないとな。






「なあ長門、会いたい奴がいるんだが………」