『SS』 月は確かにそこにある 29

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 翌朝は快適とは言えない目覚めから始まった。最近の寝不足が祟ったのか戻れるという安心感がそうさせたのか、それとも昨日の出来事から逃避したかったのかは定かではないが俺は久しくなかった程に熟睡をしていたと見え、数日振りに妹のダイビングボディプレスを腹に食らってしまったのであった。妹よ、何故そんなにいい笑顔なのだ。お兄ちゃんは朝っぱらから内臓が飛び出そうになっているので勘弁してくれ。
 朝飯を食ってる間にどうにか痛みも引いた(我ながら回復力だけは自慢できるな)ので着替えて玄関に行けば、
「おはようございます」
 もう驚く気もないのだが矢張りいるだけで周囲の目を引くに違いない女は昨晩の出来事など無かったような輝く笑顔でそこに立っていた。いかん、思い出すな俺。顔が赤くなるのを見られないようにしながら隣を素通りして自転車を引っ張り出すと、当然のように荷台に座ろうとする。もう一々止めろと言う気もないけど自然すぎる行動が逆に不自然な感じと言えばいいのだろうか。
 俺が自転車に跨れば腰に手が回される感触。と同時に背中に柔らかいものが押し付けられる。いい加減慣れたぜ……………って慣れるか! しかも密着度が高い、気のせいじゃなくて背中全体に圧し掛かられたような。おい、これじゃ運転出来ないだろうが。
「大丈夫ですよ、たとえ倒れても私が支えますから」
 いらん、それより倒れないように離れてくれ。と言っても無駄なのは分かりきってはいたのだが。それどころか肩の上に顎を乗せ、完全に見せ付けようとしてるかのごとく腰まですり寄せてくるではないか。だから危ないって、バランスが取れん!
 多少フラフラと、まるで俺が運転が下手くそみたいに見えるんじゃないかと思いながらも倒れたりもする事はなく駐輪場に到着する。というか時間が倍くらいかかった気がするんだが気のせいか? しかもここからあの天国へと伸びていくような地獄の坂道を登らねばならんとは。それも右腕にはっきりと感触のある重りをぶら下げて。重りだけど柔らかあったかいというのは無視してくれ、朝比奈さんと違い狙って谷間に腕を挟み込もうとするような痴女にかける情けなど無い。周囲の視線? 気にしたら負けだ、というか目が合ったら殺られる。
 そんなアンバランスな他人から見れば天国へとそのまま昇っていけ、と言わんばかりの坂道を疲労を蓄積させて登り終えたところでようやく開放されると思ったら大間違いだった。
「では下駄箱までで構いませんから」
 なんと、この馬鹿は腕から離れたと思ったら手を繋いできやがった。シェイクハンドではない、指と指が絡まって、という何とも恋人チックな繋ぎ方で。離せ、離れろ、と口に出す寸前に『これで最後ですから』と目で訴えられて(器用な事に潤んでいる)何も言えなくなるのは男の性なのだろうか。だとすれば元男なだけに男の急所は掴んでいると言える、これは難敵ではないか。というかいつ敵になったんだ、こいつは。
 じんわりと意思に背いて汗ばむ掌に脳内で悪態をつきながら、衆人環視の羞恥プレイは本当に下駄箱まで続き、靴を履き替えるために仕方なくといった風情を隠そうともしない古泉にヒソヒソと小声で話す女生徒の声など聞こえてはいないのだろう。ちなみに俺には男子生徒の『なんであいつが』や『後で殺す』などといった物騒な小声ははっきりと聞えていたがね。これは長門にでも警護をお願いした方がいいのだろうか、それとも古泉に責任を持って俺を守れと言うべきか。それもそれで情けないな、今の古泉は女だし。
 個人の名誉や尊厳など民衆の噂話の前には所詮塵芥なのだとつくづく思いながらクラスが違うことを神(間違っても俺の後ろの席にはいない)に感謝しながら教室に入れば生暖かい視線になめし切りされるのも我慢せねばならないのか。そうだ、今日でこんな生活もお終いなんだ。だからってこれはないだろ?
 何か言いたそうな国木田や何も言われたくない谷口のアイコンタクトを全て無視して自分の席へと避難する。問題は避難場所が火薬庫のすぐ近くだという事を俺が失念しやすいというくらいで。背後の火薬庫内の取り扱い注意女は俺と視線を合わせるのが嫌な時のポーズである窓の外睨みで俺を迎えてくれたのだった。
「今日はまたずいぶんと楽しそうだったわね、あんな馬鹿な事して目立っても嬉しくないけど」
 お前はあれ以上の事をしてきたと思うのは気のせいか? 俺も古泉も校門前でバニーガールにはなっていない。だがまるで見てきたような言い草だな、来るのが同じくらいだったのか?
「窓の下であれだけ大騒ぎしてりゃアホでも気にするわよ」
 どうやら視線や小声だけじゃなくて大騒ぎだったらしい。それでも自分の関心の無い事には首を突っ込まない奴だと思ってたがな。
「まったく、一姫さんもおかし過ぎるわよ。何なの、あの態度」
 お前が望んだんだろ、と言いそうになって止めた。ハルヒが望んだのは古泉の立場だなんてありえない――――――とも言えないのか。だが俺が口にすることじゃない。それに古泉自身が望んだとも言っていた。それはそれで考えさせられるものがあるのだが。
 なあ、お前が不機嫌なのは俺と古泉が付き合っているように見えるからなのか? それは所謂ヤキモチ、嫉妬って言えるものだったりするのかよ? それはおかしいだろ、お前は俺なんて……
 俺なんか、何だ? 俺はハルヒにどう思われたいんだ、そして俺はハルヒをどう思っていると言いたいんだ? これもハルヒの望みなのか、俺は何を、などとほとんど進まないループを繰り返していると狙ったように岡部が入ってきて思考は中断された。
 午前の授業中、ハルヒは俺にちょっかいをかけるでも机に伏せて寝るでもなく窓の外をただ見ていた。不機嫌なオーラを感じた訳でも無く、まるで心ここにあらずといった風情だ。つまりは俺に何も害が無かったはずなのに気が休まるような事も無く、時間が過ぎて行く事を願うだけだったのは何故なのだろう。
 不思議なもんだな、一番怖いのはハルヒが明るく騒ぐ事でも怒って怒鳴り散らす事でもなく、呆然と何もしない事だなんて。それが俺に大ダメージを与えてくれる、何でもいいから声が聞きたくなってくるのだから。しかしハルヒ長門の読書よりも動かないままで昼休みを告げるチャイムを聞くと同時に立ち上がり、どこにも視線を向けないままで走ることも無く静かに教室を後にした。逆に不気味に感じたクラスメイト達が波が引くようにハルヒの前を開けていくのが入学当時のハルヒを彷彿とさせ、それを見た俺の気持ちが暗澹とする。ハルヒがこうなってしまったのは俺の責任なのか? そうだとも違うとも言い切れないのはハルヒだけが原因だからではない。
 俺は手に何も持たずに席を立つと教室を出る。国木田や谷口が何も言わなかったことに感謝だな、国木田はともかく谷口は嫉妬のあまりかもしれんが。それなら替わってやるとも言えないのも辛いんだけどな。
 クラスを出た途端に俺に視線が集中する。正確に言えば俺に向かって可愛く手を振る奴がいるから何事かとこちらにも視線が飛んでくるのだが。最早隠そうとする素振りなど一切見せない古泉一姫は嬉しそうに俺に駆け寄ってきたのだった、その手に弁当の包みを二つ持って。しかもこのタイミングは完全にハルヒと遭わないようにしたものだ、計算づくなのが分かるのが苛立つ。
 それでも何も言わずに俺は古泉を引き連れていつもの中庭まで歩いた。今日一日だけだから、というのは言い訳にしか聞こえないのかもしれないが、俺としては古泉の機嫌を損ねる訳にもいかない。何でハルヒだけじゃなくてこいつの機嫌まで伺わねばならないんだと腹も立てたいところなんだけどな。しかし、それでも、古泉一姫は最高の笑顔なのだ。こんな笑顔が出来る奴はハルヒしかいないと思っていたのに、そのハルヒは表情を無くしたかのような不機嫌顔のままだ。まるでハルヒが乗り移ったかのような、と言ってしまうと今までの出来事も喜緑さんの言うとおりなのかもしれないとなってくる。つまりはこれはハルヒが望み、古泉がそれに取って替わった世界ということなのか。答えは知らない、俺はここの世界の住人でもない。
 俺には帰るべき場所がある。喜緑さんの言葉が重いのも承知の上で俺は自分の考えを曲げてはいけないんだ。この世界のハルヒにも、あの世界の長門にも俺は謝る事はあっても後悔はしない。そう決めたのだから。
 などとやたらカッコいいことを思っているはずなのに現実は、
「はい、キョンくん」
 とミニハンバーグを目の前に差し出されているという状況なのだ。これはあれか、俺に口を開けというのか? あ〜ん、か、あ〜んって言えっていうのか?! 出来るか馬鹿野郎。周りを見ろ、俺は呪い殺されるに違いないぞ。
 これが最後と言うのは俺にとっては決意であっても古泉にとっては免罪符のような効果しかもたらさなかったようで、浮かれきったアホ女は見せ付けるかのように俺へのアプローチを大胆かつ積極的に行ってくる。なまじっか見た目だけは素晴らしすぎるのがここでは大問題になるのであった。
 どう見ても蜂蜜に漬けすぎてふやけ切ったハニートーストが裸足で逃げ出す甘ったるさで胸焼けが喉元までやってきて呼吸困難に陥りそうになりながらも鋼の精神でクリアした俺は(あ〜ん、なんぞはやってない。これはハルヒが神であっても誓おう)弁当の旨さが逆に嫌になりながらもどうにか教室まで戻ることに成功したのだった。後十分長ければあの馬鹿は口移しで紅茶を飲ませようとしたかもしれない。男子トイレに逃げ込んで正解だった、今回だけは異性になったことを感謝しよう。
 といった状態の俺なのだ、もうクラスの男子連中の刺すような視線など完全に無視して自分の席へと逃げ帰る。考える気力など一切なくして机に伏せた俺の背後に重い気配を感じたが、そいつはまるで午前中からそうだったかのように同じポーズで窓の外を見つめ、こちらに目を向けることなど無い。完全に俺など居ないかのような態度に言いたいことはあったのだが、それ以上に疲れたので何も言えずにいつの間にか午後の授業は開始されていた。
 この時、少しでも俺がハルヒに話しかけていれば事態は多少変わっていたのかもしれない。それと古泉の豹変した理由も分かっただろう。その態度は放課後まで続き、それを俺は止められなかった。
 


 
 結局のところ、歯車は噛み合っていないままで軋んで動いていただけだったのだ。俺は何も気付かないままでただ時間が過ぎてゆくのを祈るだけだったのに。