『SS』 月は確かにそこにある 14

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 残り日数は二日。週末が待ち遠しくなっているが、何一つ楽しみな訳ではない。むしろ焦りしか生まれないのは、この二日間が決して平穏に過ぎていく事がないのを実感しているからだ。
 そうだな、朝を迎え(最近は自然と目覚めが早くなった)起こせなかった事を不満そうにしている妹の頭を撫でながらトーストを齧り、睡眠不足の体を持ち上げるように靴を履いて玄関を出てみれば、
「おはようございます」
 既に準備万端といった顔で笑顔の美女に迎えられるのである。お前、朝飯食ってるのか?
「お気遣い感謝します。これでも簡単な朝食は食べてますけどね」
 いや、お前の食生活には興味はない。ただ、朝っぱらからご苦労なことだと思っただけだ。それにしても俺よりも複雑な心境に至っていなければならないはずの古泉が相も変わらずスマイルを貼り付けていることに驚嘆というよりも不気味なものすら感じられる。
 どんな気持ちでこうして人の家の玄関先に立っているのか知らないが、堂々としたその態度はウチの家族からしても好意的に見られているようで妹も何も言わないどころか俺が来るまで「一姫ちゃん、一姫ちゃん」と姦しいことこの上ない。それを愛想良く相手をしている古泉を見ていると、まるでこれが日常のような錯覚に捕らわれそうになってくる。
 そういえば近所の奥様方の視線もやや生暖かくなってきたのではないかと益体も無い事を思いながら自転車を引っ張り出し、
「ほれ、行くぞ」
 と声をかければ当然のように荷台に座る奴がいる。今更歩けと言っても仕方が無いとはいえ、俺も二人乗りを当たり前にしているのもどういうことだろうか、よくよく考えればこの場面を警察になど見つかればヤバイはずなのであって、それは後ろに座るこいつも本意ではないはずなのだから注意して然るべきなのではないだろうか?
 それなのに古泉は何も言わずに俺の腰にしがみついたままであり、その柔らかい感触を背中に感じている事に俺も何も言わないのだから。
 あと二日。それだけが俺が何も考えない理由だ。この焦燥感だけが募る奇妙な環境から二日我慢すれば抜け出せる。それまでは出来るだけ平穏に、ハルヒが望むのならばその通りに動く事を優先する。それが俺と古泉の共通認識だったはずだ。
 だからこそ、まるで全身を預けるようにしな垂れかかる柔らかく温かな感触に。走る風に逆らうように鼻腔をくすぐる背後からの爽やかな香りに。表情を窺い知ることは出来ないが、周囲の反応から恐らく笑顔であろう古泉の態度に。
 俺は動揺などしていないのである、そう思いながらペダルに力を込めるしかなかった。決して後ろに気を取られないように。
 そして俺の内心に関わらず、事故など起こさないで無事駐輪場にたどり着く。
「ありがとうございました」
 こいつは何を考えているのだろうか、いつものような微笑みを浮かべている古泉は風で乱れた髪を手櫛で直しながら俺に礼を言った。その動作の一つ一つが一々様になっている、まるで生まれた時から女だったように。
 それが俺に違和感を与えているのだが、関係無いとばかりに古泉は俺の腕を抱え、
「お待たせしました。では行きましょう」
 当然のように俺を引いて歩き出したのだった。おい、くっつくな! 昨日みたいに離れて歩けよ!
「そうしたいのですが、昨日の話の流れですと涼宮さんが望むのはこのような状況ではないかと。ですからあなたも我慢してください」
 いや、言っている意味は理解出来なくはない。ハルヒ曰く、俺と古泉はSOS団認定カップルとやらに無理矢理させられたのだからな。だがそれはあくまで部室内限定であって、お前もそれでいいと言ったはずだ。
 にも関わらず、何でそんなに楽しそうなんだ? 俺の腕に当ててるのもデフォだというなら勘弁してくれ、これじゃ本当に仲が良いカップルだ。しかも俺が尻に敷かれるタイプの。
 急激に積極的になった古泉の変化に戸惑いながらも、心の中で残り日数を数えるしかない。腕に残る感触に脳内を占められる訳にはいかないんだ、そう言えば古泉は何時からあんな香水の香りをさせていた? 感触と残り香が俺の意識をどこかへと飛ばそうとしている、今までの自分を、無かった事にしようとしている。それはハルヒの意思なのか? それとも、
「何よ、鼻の下を伸ばしちゃって。そんなに一姫さんと付き合えるのが楽しいわけ?」
 登校後、クラスの席に着いた俺にハルヒの第一声がこれだった。必要以上に大きな声にクラス中が騒然とする、これで古泉一姫がこの学校の憧れの的であるという設定を思い出すしかなかった。というか、そんなに大袈裟なことになってるなんて思いもよらなかった。それならば以前から朝比奈さんや長門と話をしていた俺というのはかなり羨ましい状況だったはずなのだが、何故古泉に対してだけここまで騒ぎになっているんだ? これもハルヒが望んだのならば意味が不明すぎる。
 ハルヒに否定の声を上げるよりも早く俺の席に詰め掛けたアホがいた。言うまでも無く谷口だ、頼むから泣くな、アホにしか見えん。だがアホなので谷口は泣きながら俺に詰め寄るのであった。
「おぉ〜い、キョ〜ン…………裏切りじゃねえか、何で古泉さんのような学年、いや学校中の男子生徒が誰しも羨むような美人がお前なんかとお付き合いしている状況になっちまってんだよぉ〜?」
 そんな事言われても知らん。あえて言うならそれを聞いて得意そうに、いや? 何故か不機嫌な後ろの席の女が望んだからだとは言えない。ましてや代わってやろうかなどとは口が裂けても言えないので、曖昧に頷くしかないのであった。
 だがお構いなしに尚も俺へとにじり寄るアホこと谷口。気色悪い、鼻水出てるぞ。思わず俺の右拳がアホの顔面へと吸い込まれそうになった時だった。
「何言ってんの?! こいつと一姫さんはあたしのSOS団公認のカップルなのよ! あんたなんかが出る幕なんか最初っから無ければ今後ともスタッフロールの端っこにも載る予定も無いわ!」
 機嫌の悪さはキープしたままでハルヒの奴は俺と古泉を擁護するような事を高らかに言い放ったのである。その瞬間、場の空気が一変した。凍りついた、と言った方が正解かもしれない。
 谷口も先程までの泣き顔が嘘のように白けた顔で、
「げっ! また涼宮絡みかよ? そりゃ古泉さんも災難だな…………よし! キョン、骨なら拾ってやるからな」
 などと抜かしやがったのでハルヒに殴られた。まあハルヒが行かなければ俺が殴っていたので問題は無い。それよりも大問題が一つある。
 それはこのハルヒの宣言によりSOS団公認カップルというあくまで部室内限定だったはずの俺と古泉のお付き合い関係が一般の生徒の周知することとなったのである。兎角この手の噂話というものは伝播が早く、おまけに谷口などはこの手の噂を拾うのも上手いが広めることもまた上手すぎる。恐らく放課後までには俺と古泉が正式に付き合っているという半分デマが校内に響き渡っていることだろう。
 これで放課後まで気が休まることは無い事は確定した。俺は馬鹿騒ぎを巻き起こした谷口と、それに乗っかって騒ぎ立てたハルヒを睨む。アホの谷口は任せておけ、とばかりに親指を立て、ハルヒは我関せずと窓の外を向いていた。誰も何も分かっちゃいない、俺はそれを見せ付けられて溜息をつくしかなかったのだった。
 とはいえこのままではいけない、今後の事を考えればなるべく平穏無事に行きたいのだ、現にあれだけ騒いでいたくせにハルヒの機嫌はあまりよろしくない。こんな調子で残り二日を過ごすのは苦痛でしかない、と言う事は何らかの対策を取らねばならないのだが。
 やれやれ、そうなるとあの不気味なまでにテンションを上げた馬鹿と話さねばならないのか。美人は三日で飽きるというが、もう三日目だ。そろそろ勘弁願いたい。登校中の爽やかな笑顔の美少女を思い出したにも関わらず俺の胃は重いままだった。

 そんな事が朝からあったものだから当然午前中の授業も上の空である。これでも午前の授業はハルヒの妨害があったりしても良く聞いていた方だと思っていたのだが、今週に入ってからは何をしに学校に来ているのだか自分でも理解出来ない程に授業内容が頭の中に入っていかない。
 万が一俺が進級出来ない場合はハルヒに文句を言えるのだろうかと疑念も湧くが、この世界から抜け出せればどうせ同じ事なのだと自分を納得させながら、どうにか昼休みのチャイムを聞くまでに至る。その間も周囲の視線が集中しているような気がしていたのは自意識過剰だとばかりは言えないのだろう、現にふと見回せば誰かと視線が合ったように思う。
 兎にも角にも昼休みだ、少しは俺にも気を休める時間が欲しい。そう思わせるのもチャイムが鳴ると同時に後ろの席の女が教室を飛び出していってくれるからに相違は無い。しかして単に休めるのかと言えば今回の場合そうはいかないのもまた明白なのである。何故かと言えば、入り口がざわついている事でも分かるのではないだろうか。
「おーい、キョン
 国木田に言われるまでもなく、俺は弁当を持って立ち上がっていた。別に待ち遠しかった訳ではない、むしろこの騒ぎを広めない為にも自己犠牲の精神を発揮した結果に過ぎない。哀れなる生贄はクラスの平和を守るために自らの身を捧げる決意を固めていたのである、誰もやれとも言ってないのだが。
 嫌々ながらも入り口に出来つつある人垣を掻き分けてみれば、そこには女神の微笑みを湛えた元同性の美女が立っている。この喧騒にも動じていないところは流石だと言うしかないのだろうか? 古泉は俺の姿を確認すると笑顔で手を振る余裕すら見せたのであった。人事だな、お前。
「では、参りましょうか」
 言われるまでも無い、これ以上ここにいても空気が悪くなるだけだ。俺は殺意すら籠もっていそうな視線の針山に背中を刺されている感覚を味わいながらも定番となりつつある中庭へと赴く。どうでもいいのだが、今の古泉は嫌でも視線を引くようだ。笑顔というかスマイルが張り付いているのは変わりはないのだが、滲み出る雰囲気が違うといえばいいのか? とにかく並んで歩く俺ですら気付くほど注目をされている。
 それは古泉自身が醸し出しているのか、ハルヒや谷口などクラスメイト達が騒いだ結果なのかは俺には判断がつかないが、居心地が悪くなるのは仕方がないのではないだろうか。校内の廊下を歩くだけで疲労感を覚えるのは不必要なプレッシャーのせいであることだけは理解した。
 どうにか昼食時の定位置とも言える様になった中庭のベンチまでたどり着いた俺たちであったが、ここで俺は古泉に一言言わねばならなかった。実は教室の入り口に立っていた古泉が注目を浴びた原因の一つがこれであることは自明の理であり、それについて問い質すタイミングを見計らっていた俺は席に着くなり切り出したのだった。
「おい、お前がその手に大事そうに抱えているのは、もしかしなくても俺がこの手に持っているものと同一の存在であると思って間違いは無いのか?」
「はい、ご想像の通りです。まあいつも購買のパンというのも味気ないかと思いまして」
 古泉が持っていたのは可愛いデザインの小さな巾着袋だ。いそいそと開ける古泉の姿はそのまま楽しみにしていたプレゼントの包装紙を破ろうとする妹を彷彿とさせるほどの浮かれようだった。無論中身はおもちゃなどではなく小さな弁当箱なのだが。いや、どうやら菓子パン一つで満足出来てしまう現在の古泉にとっては十分な量なのかもしれないが、問題はある。
「なんで二つもあるんだ?」
 聞くまでもないだろう、という顔をされても訊かねばならない事はあるんだ。これは、その、あれなのか?
「当然あなたの分です」
 矢張りそうだった。予測というよりも見た感じからそうとしか思えなかったが、古泉はわざわざ俺の分の弁当まで用意していたということになる。
「だからお弁当はいいですよ、と言っておけばよかったのですが。すいません、明日からは私が用意しますから」
 言いながら弁当を広げているが、聞き捨てならない言葉が混じっていたぞ。なんだ、明日からって? 展開の速さに呆然としている俺を尻目にランチの用意を終えた古泉は、水筒も用意しておくべきでしたね、と言いながら何処かへと去るところだった。どうやらお茶でも買ってくるのだろう。
 俺はといえば訳も分からないままベンチに座るしかない。自分の持っている弁当を開ける気にもならないままで目の前に広がるファンタジーな光景を見やるしかない。女の子が俺の為にお弁当を作ってきて、それが目の前にある。うむ、説明すると涙もののシチュエーションのはずなのに何故にここまで気分が重いのだろうか。
 食欲がすっかり失せてしまってのだが、それでも古泉を待っているようにしか見えない状況なのだが最早そんなことにまで気を回す余裕も無い。すると古泉の奴が笑って戻ってきやがった。お茶を買ってきたのは構わないが、弁当に紅茶は合わないと思うぞ、たとえそれがストレートだったとしても。
「お待たせしました、ではどうぞ」
 そう言いながら古泉は自分の分の弁当箱の蓋を開ける。中身は結構色取り取りにおかずも詰められていた。俺は何か言いたい事があったのだが、正面の女の期待を込めた笑顔に何も言えずに目の前の弁当箱を開けてみる。そこには古泉のと同じ様に彩られた見た目にはかなり美味そうな弁当があった。唐揚げに卵焼きにポテトサラダ、まるで手作りしましたと主張してるようだな。
 黙って唐揚げを口に運ぶ。これが文句のつけようが無いほど美味い、朝比奈さんやハルヒの料理の腕は体験済みだったが勝るとも劣らないといった風である。俺はそこまで舌が肥えている訳ではないが、これが美味いということくらいは理解出来た。だからこそ余計に怖いのだが、恐る恐るながら訊いてみる。
「これはお前が作ったのか?」
 すると古泉は自分の恥部を晒すかのように、
「あまり時間が無かったのですけど、一応は。まあレシピなどは『機関』などに用意してもらって私はその通りに作っただけですけど。出来るだけあなたが好みそうな味付けを選んでみたつもりですが…………………美味しくなかったですか?」
 恥かしそうに、はにかんで言われてしまった。その上で俺の感想を自分の弁当に箸も付けずに待っているのだから、何だこの状況はと頭を抱えたくなってくる。見たまんまゲームやマンガで見かけるシチュエーションなのだが、デザインはハルヒか? あいつはベタなネタが好きだからな。これで登場人物が俺じゃなければ笑い話なのだが。
 とはいえ、あまり沈黙が続いても埒が明かない。こうなってしまった以上は早めに食事を片付けて今後のこの阿呆の行動に釘を刺しておかないと、ハルヒの思い通りに行き過ぎるというのもまた良くない。状況に流されたままで改善は無いのだから、せめて俺だけでも立場をしっかりと守らねば。
「いや、正直言って美味い。俺が女になってもこうはいかないだろ、お前は本当に無駄なところで力が入ってるな」
 皮肉を込めて言ったつもりだったのだが、どうやら効果は無かったらしい。目の前の少女は頬を赤らめ、良かった………、と言って微笑んだのだから。だからそんな顔をするんじゃない、古泉なら皮肉には皮肉で返してくれ。
 早く食え、とだけ言って俺は弁当箱を空にする作業に終始する。まともに顔を見たらこっちまで妙な気分になってくる、大体女子と二人きりでランチを囲むなんてちょっと前なら憧れてたはずの光景なのにな。相手が元男(精神的には現在も男、のはずだ)しかもかなり良く知る人間なだけに嬉しさよりも違和感しかない。
 黙々と、妙に視線を(主に正面からの)感じつつ、俺は弁当を空にした。正直なところで言えば、こんな状態でなければ賞賛の声を止ませることも無く俺はこの弁当の作者を讃えた事であろう。ただ目の前の女を褒め称えるなどとは死んでも御免だ、むしろ男のくせにと言いたくなる。俺はどちらかといえば男子厨房に入るべからずだと思っているのだ、決して古泉が女になっても卒が無いことが悔しいからではない。
 兎にも角にも弁当を食べ終わった俺は食後のコーヒーを買いに行こうとした古泉を止め、この馬鹿馬鹿しい流れをどうやって断ち切るか話さねばならない。そう話を切り出すと、古泉は眉を寄せて困ったように問いかけてきた。
「もしかしたら、ご迷惑だったでしょうか?」
 だから何故お前が瞳を潤ませて俺を責めるんだよ、筋違いもいいところじゃねえか。朝比奈さんでもやらないような上目遣いで様子を伺う様は下手な女の子よりも可愛いとしか言えない。元々の容姿が良すぎるのだ、これは汚いだろ? たとえ男だと分かっていても、俺も男なのでこんな女性には強くは出れないのである。
「あー、弁当なんかは確かにありがたいんだがな? だがここまでハルヒの思い通りに進みすぎると長門に相談しても何らかの妨害が入るんじゃないかと不安になってきてな」
 だがここで奇妙な事に気付く。ハルヒは自分の思い通りに事を進めているはずなのに、何であんな機嫌が悪いのだろうか? それどころか俺達に積極的に関わる事もしない。むしろ俺と古泉をくっ付けて自分は距離を置こうとしてさえ見える。それがハルヒにとってどのような利益があるのか俺にはまったく理解出来ないのだが。朝比奈さんも長門もそんなハルヒを応援するように従っている。これはどういうことだ?
 機嫌を直したのか、ニコニコと微笑んでいる古泉だっておかしい。あのハルヒイエスマンであるところの古泉が、ハルヒの機嫌をあまり気にしていないように見えるのだ。それどころか、今朝の登校といい、弁当の件といい、これだとハルヒの言うなりながらハルヒを無視しているようですらある。いや? 言い方はおかしくなるのだが、まるで挑発しているようでハラハラする事この上ないのだ。一体何を挑発しているのかと言うと答えに詰まるが、とにかくハルヒの機嫌を損ねても構わないと言わんばかりの態度だ。
 そして今、だ。真正面の古泉はこの事件が起こって以来、俺が知る古泉と違いすぎている。それにこの世界の『機関』がいくら古泉が女であることが当然になっているとはいえ、ハルヒが機嫌が悪いのに接触が少なすぎる。弁当のレシピより先に言う事があるだろうって文句を言ってもいいんじゃねえか?
 問題が解決に進むような気がしない。今までは無理矢理にでも動けば何とかなるだろうと根拠の無い自信もあったのだが、それはあくまで誰かが手助けをしてくれていたからだと今更ながら思うのだ。それが今回は助け舟を出してくれそうな人間がいないのだ、代表として宇宙人などは完全に俺を無視している気配だし。
 頼みの綱、というか今回の主役と化した超能力者は俺の憂慮が異常なのかと思えるほどにこの世界に溶け込んでしまっている。こいつ、本当に戻る気があるのか? 本来なら一緒に深刻な表情になっているはずのこいつは笑ったままなのだ。つい苛立って声の調子が変わった。
「おい、いい加減にしろよ。お前も笑ってないで少しは考えろ、こんな状態が続くなんて勘弁してくれ。お前はこのままでいいのかよ?」
 正直俺は疲れている、精神的には限界に近いんだ。前に長門が作った世界の時のようにパニックになって騒ぎ立てないだけマシなのかもしれないが、その分ストレスが溜まっているような気がしなくも無い。
 だが、古泉は笑顔を失くして真顔になると、小さく私は………、とだけ呟いた。その態度も俺を苛々させる、自分の意見を聞きたくもないのに長々と並べ立てるのが古泉一樹だろうが。
 まったく、調子を狂わされたままだ。俺は黙って席を立ち上がった。古泉が不安そうに俺を見る、そんな顔するんじゃねえよ。
「放課後までにどうするか考えておけよ。後はお前が着替えるなら朝比奈さんと話せるかもしれない、そうすれば少しは事情が分かってもらえるだろう? 上手くやってくれ、古泉」
 返事を待たずに俺はその場を立ち去ろうとした。俺なんかに言われなくても本来なら古泉がやっていてしかるべきことのはずなのだが。些細なミスを繰り返すような古泉の態度に腹が立ってくる、本当に古泉はどうしちまったんだ?
 それを聞いた古泉は小さく分かりました、と呟いた。その姿は弱弱しく、俺が苛めたみたいで居心地が悪い。罰の悪さを隠すように、頼んだぞと言って教室へと戻ることにする。
 付き合っているはずなのに置いてきぼりにするのも都合が悪いのかもしれないが、放課後まではこいつと居ようとも思えない。なので、
「弁当、美味かったぞ」
 それだけを言い残して俺はその場を去ったのだった。だから俺はその後の古泉を見てはいない。ただ、
「良かった…………美味しかったんだ…………」
 そう、言ったような気がした。何となくだが、気のせいであって欲しいと思った。そう言った古泉が笑っていたのではないかと思うと余計にそう感じたんだ。