『SS』 純粋な恋人達に祝福を〜彼女の場合〜

 『もしも』という言葉から始まる話がある。現在の時間の流れに逆らい、逆説的に考えられたであろう可能性を自らの経験・思考に基づいて構築する事により新たなる物語として完成させていくという想像力の産物。それはあくまでも空想であり、現実には到達し得なかった未来であるが故に『もしも』から続く話は存在しない。
 だけど人間とはそれを理解して尚、羨望と期待を込めて強くそれを願い、想い、望み、そして或いは後悔するのだろう。
 などと私が益体も無く無為な思考を重ねてしまうのは眼前に座っている彼、という存在に出逢えたからに他ならない。加えて厳密に言えば彼と共に過ごし、私の周囲に集まってきた奇妙な肩書きを持つ友人達のエキセントリックなエピソードに自身が遭遇する事により形成されていったものではあるのだが。
 彼は――――――キョンは、私の目の前にいながら今は私を見ていない。彼の視線を追えばそれは理解出来てしまう。今まさに彼は『もしも』という言葉で始まってしまう世界の空想に捕らわれているのだから。
 それは彼自身も気付いていないようだが、比較的日常的に行われているようであった。何気無い会話の中から突然始まる思考のループ。私が居ても居なくても恐らく彼は常にその事を考えているに相違無いのだろう。
 キョンは普段はどちらかと言えば表情を顔に出さないタイプではあるのだが、考えている最中は意外と顔に出ることが多い。もしかしたら私の様な人間観察を日常としているような人間だからこそ気付くのかもしれないけれど。そう、彼の心を占めているのは恐らく彼女の事。
 朝倉涼子
 彼の同級生にしてクラスメイト。
 私の知らない彼の時間を知る者。彼の前に突然現れ、彼の前から突然消えた女性。私が知っているのはそれだけでしかない。
 それなのに彼は、キョンはふとした瞬間に私の知らない表情で彼女を想うのだ。それは後悔なのか、懐古なのか、それとも……………恋慕と呼べるものなのか。私には分からない、分かろうともしないし、分かろうとも思わない。ただ目の前に居るはずの人が他の世界を想う事が哀しいだけで。
 彼女と何かあったのか、それを私は聞いてはいない。興味が無かったのではない、怖くて聞けなかったから。私の居ない所でキョンがどのように過ごし、彼女の前でどんな表情をしていたのか。それを思うだけで胸が締め付けられそうになる。
 何時からだろう、私がこんな気持ちを持つようになったのは。最初にキョンから彼女の話を聞いた時は突然消えた彼女に同情すら感じたはずなのに。
 だけど、それは間も無く訪れた。キョンは私との会話中でも、デートの時にふと辺りを見渡した時にも、ふいに表情が消えてしまう。そして思い出の世界へと旅立ってしまうのだ。
 私はその事に対して何も言えなかった。彼には彼の生活があり、その中で芽生えた感情についてまで私は口を挟める立場ではないと思うから。彼だって私のプライベートに土足で踏み込むような言動はしない、むしろ私という存在を尊重し慈しんでくれる。
 だからこそ、彼の心の中で息づく朝倉涼子という女性が今も尚彼を捉えて止まない事を私は憎むのだ。
 憎む? いや、羨ましいのかもしれない。ほんの僅かな、私と彼が過ごした時よりも遥かに短い時間を共にしただけの彼女が確実に彼に残した爪痕に。また彼は彼女の影を追っている。
 こんな時、私は思う。
 『もしも』
 『もしも』私がそこにいたのなら。彼の中に彼女の存在なんか無くしてみせるのに。『もしも』私がそこにいたのなら。私は朝倉さんと友人になれたのだろうか?
 ほら、今もまたキョンは『もしも』と思ってる。彼女の事を、無意識に無自覚に。気付いていないのかな、いつも君は脇腹に手を置こうとするんだ。
 それが彼女との思い出なの? それを見せられる私の想いは――――――


 



 バシャッ!





 気が付けば手に持ったコップの水を目の前の彼の顔目掛けて引っ掛けていた。驚いて目を見開く、そんな彼を見るのが腹ただしい。
「…………」
 前髪や顔から滴を垂らしながら中学時代の親友であり、現在は私の恋人であるキョンを見つめる。
 悔しい。私がいるのにそんな顔するなんて。悲しい。私がそこに居ない事に。全ての感情が内包され、複雑に絡み合う。
 それでも表面には出る事も無く、私は最高の笑顔を浮かべることが出来た。はずだが、自分でも分かる。口元を歪める事は出来ても目まで笑う事なんて出来そうもない。
「ねぇ、キョン
 あくまで口調は穏やかで、
「僕が何故キミの顔に水を掛けたか、なんて事は当然判っているだろう?」
 だけど声に含まれたのは絶対零度に勝るほどの冷たさで、
「もし『判らない』なんて言うのであれば、一度僕らの関係を見直し、場合によっては白紙に戻さなければならないのだけれど?」
 そんな事になれば君よりも先に私の方が壊れてしまうのだろうけど。それでもいい、私の方を見ていないキョンを見るほうが辛いから。
 だけど彼は優しいから。嘘などつかずに正直に謝ってくれる。
「………すまん」
 それは嬉しいのだけど。だからこそ私の気持ちも分かってくれているはずなのに。
「うん。流石は僕の恋人だね、キョン。僕が何に対して怒っているのか、何を言いたいのかということを言葉にせずとも、きちんと理解してくれている。なればこそだね、」
「ああ。お前が怒るのは当然であり、尚且つ俺はその怒りを甘んじて受け入れなければならないという事だ」
 私の言葉を受け継いだキョン。ちゃんと私の事を理解してくれている、喜びをもって頷いたけれど。そこまで私を理解しておきながら、
「それで? 考えていたのは矢張り彼女の事なのかい?」
 他の女のことを考えているんだね。彼の脇腹を凝視しても何も浮かび上がってくるものなんてないけど、彼は必ずそこに触れているのだから。
 私の嫌味にも素直に彼は頷いてくれる。分かっていたけど胸に小さく痛みが走る。
「ふぅん、もう一年になるんだろう? 朝倉さん、だったかな? 彼女がいなくなってから」
 彼女の名前を口にするだけで苦しくなる。
「ああ、大体そのくらいだな」
 だからそんな目をしないで。遠くを見つめ、彼女を思い出すような私の知らない彼の瞳。その瞳は私だけに向いていて欲しいのに。自然と口調が固くなる事を私は止める事が出来なかった。
「にも拘らず、未だキミの心の中に住み続けているわけだ。その朝倉さんは」
 キョンの顔が不審で曇る。言われた意味が分かってないのかもしれないな、彼はあくまで無自覚だから。
「それはどういう――――――」
「どういう意味だ、なんて無意味な事は聞かないでくれよ? キョン。これはね、単なる嫉妬なんだからさ」
 そう、これは私が朝倉涼子に嫉妬している。ただそれだけの事。
「嫉妬?」
 すると、本当に驚いたように鸚鵡返しで聞き返された。ちょっとだけ腹が立つ。私が嫉妬するなんて思わなかった? それとも安心してたのかな? いや、キョンはそんなに器用な男じゃない。本当に私が嫉妬するなんて思いも付かなかったのだろう。
 今までの私の言動にも問題があったのだと思いもするが、少しだけ悲しい。私は彼の事だけを想っているのに、彼を独占したいと考えてしまっているのに。
 自然と表情が固くなるのが分かった。私だって言いたい事はある。
「そう、嫉妬。キョン、いいかい? キミが朝倉さんの事をどう思っていたか、何て事は今更訊かないし今後も訊くつもりはないがね? 今キミの隣にいるのは他の誰でもなく、この僕なんだ」
 そうだよ、私はあなたの隣にいるのに。あなたは分かってくれていない、私の気持ちに。言葉は想いを乗せて加速する。
「なのに、そのキミの心の中には僕以外の女性が住んでいる。自分の恋人の中に、自分よりも早くキミの心に住み着いた彼女が羨ましくもあり、また、それ以上に悔しいんだ。だからこその、嫉妬だ」
 みっともない矮小な自らの心境を余すところ無く曝け出す。そこまでしないと伝わらない、そんな彼を好きになってしまったのだから。そして、そんな彼だからこそ私の全てを知ってもらいたいのだから。
 だけど、矢張り自分の心を見せるというのは疲れてしまう。それにキョンはこういった類の関係については鈍感そのものなのは承知していたから。私は小さく溜息をついた。
 そんな私を心配げに見てくれるキョン。反省、してくれたのだろうか? 
 そもそも今はデート中であり、普段滅多に会えることの無い私達にとっては大切な、貴重な時間だ。
 だから私は他の事など考える事も無く、如何にしてキョンと少しでも長く一緒にいられるか、という事だけを考えていたのに。
 彼はきっと思考の海を漂ってしまうに違いない。きっと私の事を考えていてくれたとしても、彼を取り巻く環境は私だけを想うことを許してくれないのかもしれない。
 なぜなら、今もまたキョンはあの目をしようとしているのだから。私の事を思いながら、他の女へと思考が揺らぐ。それが堪らなく悲しく、悔しい。そんな私の視線にようやく気付いた彼は、
「いや本当、重ね重ね、スマン」
 謝ってはくれるのだけど。
「………いや、まぁ、いいけどね」
 分かってはいるけれど溜息が出てしまう。つい愚痴も出てしまうだろう? ここまで想う人が鈍いだなんて。だけど。
「結局のところ何を考えていたのか、何てことはもう問わないよ。けれどキョン、これだけは覚えていてくれるかな? 確かに僕は男女における恋愛事に興味など無く、あまつさえ『恋愛感情は精神病の一種だ』なんて事も言っていたよ。だが、今の僕にとって心の寄る辺と言えるものはキミという存在なんだ」
 私にとって想う人はあなたしかいない、今もあなたの事しか考えられない。それは今までの私には無かった感情、あなたが私にくれたもの。
「僕がキミに抱いているこの感情が『恋愛感情』に該当するものかどうかということは未だはっきりとしていないからこの際置いておくとしても、それでも僕はこの先ずっとキミと共に歩んでいきたいんだ。この気持ちに嘘偽りなんか無い。けれど、もし――――――」
 そこから先は口に出すのも怖い。私は自分では理解しているのだ、これは『恋愛感情』そのものだって。そして私は嫉妬しているんだ、今や会えるはずもない彼女に。
 『もしも』なんていらない、私がそこにいなくたっていい。今現在、私はキョンの傍にいる。ただそれだけが私の全てを形成し、それだけをただ望むのだから。
 けれどキョンが『もしも』を考えたところで私にはそれを止める術などない。たとえ絶対にありえない事なのだとしても、人は記憶の中に過ぎ去った過去から無くなってしまった未来を夢見るものなのだから。それは私だってそうなのだ、『もしも』キョンと一緒の高校に通っていたら、いや、そうじゃない。
 そんな意味の無い事を考えたところで過去は決して還ってきてはくれない。だからこそ私は今彼と共に過ごせる事を幸福に思うのだ。
 そして、目の前の彼もそうであって欲しいと願うのは、いけない事なのだろうか? 彼の一挙手一投足に不安を感じてしまうほど、私は自分が脆弱な存在でしかないのに。
 ねえ、キョン? 怖いよ。あなたが想う過去が、あなたの中にいる彼女が、まるで私を避けているようで。ここにいる自分を否定されているようで。怖くて、悲しくて、寂しいよ。私を、私だけを見ていて欲しいなんて贅沢過ぎる我が儘なのだろうか、私の心が暗く深い海の底へと沈んでゆく。
「佐々木」
「えっ?」
 急に声をかけられて反射的に答える。その時のキョンは私をまっすぐに見つめていて。真剣な瞳に射抜かれて、その輝きに吸い込まれそうになる。矢張り私の愛する男はこの人なのだ、と何故か思ってしまった。
「謝って済む事ではないかもしれんが、本当にスマン。俺は考えても意味の無い、如何でもいいような事を考えていた挙句、お前を不安にさせちまった。だけどな、佐々木? お前が想っている事、それは俺だって同じだ。俺にとってお前はこの世で最愛の女性であり、この先ずっとお前と一緒に居たいと思っているんだ!」
 一気にまくし立てたキョンの顔が真っ赤になっている。可愛いな、ってそんな問題じゃない。
 今、何て言ったの? 私の事を、その、最愛って……… 
 ああ、ここは確か喫茶店の店内で。周りには沢山の人が居て、私達のやり取りを微笑ましく見つめている。
 そんな事はどうでもいいんだ、だってキョンが私の事を。好きだと、最愛だって言ってくれたのだから。
 目の前には熟れたトマトのような真っ赤なキョンの顔。だけど人の事は言えないな、きっと私の顔も熟した林檎のように赤く色付いているに違いない。この頬の火照りはどうしたら無くなるんだろう、でも心地良い。
 こんなにも恥かしい事を声を絞る事も無く言ってのけたキョンには悪いけど、ここは自業自得なのだと思ってもらいたい。私以外の女性の事を考えて、私を不安にさせたのだから。
 だけど、全部許してあげよう。だって彼は優しいから。きっと過ぎ去った過去であっても誰かを思い、救おうとしてしまうのだから。そんな彼を私は心から愛しているのだから。
 それにこんな衆人環視の場所で最高の告白をしてもらったんだ、罰なんて言わないけど十分反省はしたんじゃないかな? それに、私も少しだけ恥かしいし。
 だから心の中で彼の口癖を呟いた。やれやれ、ってね。





 ◆ ◆ ◆

 それ以降の事はもう語るまでもないだろう、というか語るつもりもないけどね。
 思い出しただけで顔から火が出そうになるのに、喜びで唇の両端が上がるのを止められないのだからさ。
 けれど、敢えて言うのならば私達の絆が今までよりも一層強くなった、といえるのだろう。
 勿論それは私にとっては至高の喜びであり、キョンにとっても同様であると思いたい。いや、きっと同じだ。
 まだお互いに下の名前で呼び合う事に慣れていないのだけれど、それでも私達が幸福であることには変わりはない。
 まあ、望むべくはこの幸福が永遠に続けばいい、そのくらいかな。

 

後書きに替えて

どうも俺が佐々木さんを書くと変に乙女回路全開ですね(苦笑)
でもいい作品をオマージュすると楽しいです。こんないい話を書かれた龍道さんに感謝です。