『SS』 足りない


長門分が足りない」
 そう言ったのは何を隠そう長門有希本人である。言われたのは何を隠しているのか本名不明の俺である。場所はいつもの文芸部室、時間は放課後ではあるがハルヒは掃除当番、朝比奈さんは進学の為の補習、古泉は進学クラス故の小テスト中である。つまりは俺と長門が二人きりというシチュエーションでありながらも、意外とこんな機会は多いので何も思わずにまったりとしていた時であった。
「あのさ、長門? お前の言う長門分ってのは一体何だ? それは俺にも分かるようなもので不足すると何らかの弊害が出るものなのか説明してもらえるとありがたいのだが」
 説明してもらったところで理解出来るような類のものだとも思えないのだが、この普段無口な宇宙人が自分から話題の口火を切ることも珍しい事ではあるし、何よりジョークの一種だとすればどこまでネタを引っ張れるのか見てみたくもあるじゃないか。
 俺の質問に数ミリ単位の頷きで答えた小柄なショートカットは以下宇宙人らしい電波に満ちた妄言を吐いてくれたのであった。何の混じり気も無い長門の言葉を聞いていただこう、俺は記憶した事を後悔しているのだが。
長門分とはその名の通り長門有希の存在そのもの。この存在がある一定期間以上認識出来ない場合、長門分が不足する。長門分は宇宙空間全体に影響を与える重要成分であり、それが不足するとこの世界の安定が妨げられる可能性がある。既に若干の影響は確認されている、急速な対処が必要と判断し、わたしは処理を実行する事となった」
 ご理解頂けたであろうか? どうやら長門有希とは世界を左右する存在であり、長門が不足すると世界が危ういらしい。それを回避するために長門長門分を補給するとの事だ。はっきり言っていいか? アホか。
 もしかしたら長門史上最大の冗談なのかもしれないが、せっかくのユーモアも無表情で言われてしまえば台無しだ。俺は馬鹿馬鹿しさのあまり長門にデコピンの一発でもかましてやろうとも思ったのだが、それでは長門が可哀想である。
 いや? 逆にこれは長門が成長した証なのかもしれないぞ。結構ジョークが好きそうだし、ここは話に乗ってみるのも一興かもしれない。
 と、いう事で俺はTFEIジョークにジョークで返す事にしてみた。長門とこんな軽口の言い合いなんてのも面白いかもしれないぞ。
「そうかあ、長門分ってのが重要な事はよく分かったぞ。それならハルヒ分や朝比奈分なんてのもあったりするのかい? 古泉分はあっても存在を消し去りたいとこだけどな」
ハルヒ分及びあなたが呼称した朝比奈分、正式名称みくる分は確かに存在するが基本的には希薄であって良い。たまに膨張する事はあるが修正の範囲内、あなたは何も気にしなくていい。古泉分は…………………もういらない」
 いやに即答で返したばかりか幾分不穏な発言だったような気もするが、それでも長門の設定が意外と細かいところまで出来ていた事に驚く。それとも流石は長門だと言うべきなのだろうか? まあこいつが俺の出した質問など想定内にしていても納得はするが。まあ長門分が一番重要だなんて可愛いとこがあるじゃないか、つい笑ってしまう。
 さて、どうしたものだろう? もう少しはこの不思議な遊びに付き合ってやってもいいような気もするが。なので話を続けてみることにする。
「まあハルヒや朝比奈さんには悪いが、ここはお前の言葉を信じてやるよ。それで長門分が不足した場合はどうやって補充すればいいんだ? 空気中に長門でも散布するのか? それとも長門でも注射するか?」
 少々悪ふざけも過ぎるようだが元々の話題が悪ふざけなのだからこのくらいはいいだろう。俺は笑いながら軽い気持ちでこう言った。
 そしてそのセリフに対する長門の反応は俺の予想の斜め上を背面飛びで軽々とクリアしていって金メダルを強奪していったのであった。
「では、長門分の補充に入る」
 そう言ったかと思うと長門は無表情に立ち上がり、そのまま俺に近づいてきた。まさか例のナノマシンよろしく噛み付かれるのかと恐れて席を立とうとした俺の両肩が大して力も入れて無さそうな長門の手で抑えられるとびくともしない。
「な、長門?」
「動かないで」
 いや、顔が近い! だがこの宇宙人は俺を座らせたままで静かに座り込んだ。何処にかと問われれば即ち俺の太ももの上に。つまりは座っている俺の上に長門が俺を挟むようにというか包むように座っているという事であって、というか何だ?! 一体どうしたってんだ、このシチュエーション!
 しかも両肩に置かれていたはずの長門の腕は俺を首へと回っており、完全に抱きしめられたような形になっている。このまま俺の手を長門の腰に回せば抱き合っているようにしか見えない、いや、手を回さないと長門が落ちそうになるのでつい咄嗟にそのような体勢になってしまった。最早言い訳のしようが無いほどの密着度だ、どう見ても抱き合っているとしか思えない。
「あ、あの〜、長門さん?」
「なに?」
 なに? じゃないだろ、どうしてこうなるんだよ? いきなり同級生の女子と抱き合っているなんてありえないと思わないか? それとも宇宙人には羞恥心という概念が存在しないのであろうか。長門の行動が突拍子も無かったものだから俺も流されるように長門を抱いてしまっているが、どう考えてもおかしい。だが、あの長門が自主的に積極性を持って行動する事など滅多に無いものだからつい付き合ってしまっただけだ。
「もう長門分とやらの補充は終わったのか? 他の連中が来る前に離れておくべきだから、もう降りてくれよ」
 とりあえず俺は十分堪能したと思う、長門の体は華奢に見えて柔らかく温かかった。これ以上は変に意識が集中してしまって頭に血が昇りそうだ。
 思春期の男子としては理性が強いと自覚しているつもりの俺だがそれでも限界というものは確かに存在する。だからこそ今なら爽やかに笑って長門の成長というか甘えん坊だなあ、と頭の一つも撫でてやれる自信があったのだが。
「足りない」
 表情が変わることも無い甘えん坊宇宙人は短い言葉だけで動く事は無かった。いや、小さく動いてはいるのだがその動きはやめろ。腰を落ち着けたいのか? だったら早く降りてくれ、俺の上でもぞもぞと動くんじゃありません!
 長門が小さく腰を動かす毎に太ももの温かさがダイレクトに伝わってきて非常にまずい。実は先程から長門を降ろして離れようとしているのだが俺の腕は長門の腰に回ったままで、立ち上がろうにも立ち上がれなくなっている。こいつ、一体何をしやがった? 内心は大いに焦っているのにも関わらず、まるで長門を受け入れようとしているかのごとく動かない体に自分の意思以外の意図を感じて俺は危機を覚える。
長門分は直接体内に注入した方がいい」
 は? 何を、と言う間も無く俺の視界は長門の顔に覆われた。黒く大きな瞳の美しさに吸い込まれそうになりながら、と、その瞳が閉じられたかと思えば俺の唇に温かくやわらかいものが押し付けられたって、これは長門が。
 軽く触れた唇の感触に戸惑う間も無く何度も何度も啄ばまれるようにキスをされてしまった。何だ、何なんだ、長門は何故キスをする?! しかも何度も! あまりの出来事に感想など持てるはずも無く呆然とする俺を長門は目を開けて真正面から見つめている。
 いかん、これは長門が何らかの能力を駆使しているとしか思えない。そうじゃなければ目の前にある長門の瞳が潤んでいるように見えるはずがないじゃないか、しかもそれが可愛すぎるなんて俺が思う訳が無い。間違いだろ、長門は頼れる俺達の仲間だ。だから乾いた喉をどうにか震わせて、この甘ったるい空気を振り払おうとした。
「だ、誰か来たらどうするんだよ…………」
「問題無い、この部屋に到達するまでの空間を歪めている。第三者が部室に到達するまで数時間は必要、その間は歩いた人間には時間の経過は感知出来ない」
 完璧だ、つまりは部室には誰もまだ来る事はない。そして長門はそれを求めている。つまり、
「もっと長門分を。あなたに…………」
 そう言った長門からはいい匂いがしていて。さっきからそうだったっけ、と思いながらも鼻腔から強制的に入り込むその香りに脳髄が痺れたような感覚を覚えて。
 触れ合う唇が少しだけ開き、俺の口内に生温かく滑る長門の舌の感触と唾液の味を甘いもんなんだ、と思う間も無く頭の中が白く霞がかかってゆき。
 長門を抱きしめる腕に力が籠もり、それに反応した長門の小さな吐息を聞いてしまった瞬間から。





 俺の記憶は途絶えた。




 
「……………補充完了」
 唇を離しながら長門が呟く。離れ際に繋がった唾液の糸が垂れて長門の唇から顎に流れていく様子が官能的過ぎた。だが、流石にもうどうしようとも思わない。体力と精力を極限まで削られると何も出来る訳などないだろう、流れる汗が冷えていくのが気持ちいいもんだと思いながら寝転がったまま動けない。
「なあ、俺は補充と言うより放出といった感じなんだが」
 俺の腕を枕にして寝ている長門に冗談のつもりで言ってみる。些か下品に過ぎるのだが今更何を、という感じでもあるしな、お互いに裸だし。
 だが俺の下ネタなジョークを黙って聞いていた長門は少しだけ頭を上げて俺に密着すると、小さな頭を俺の胸の上に置いた。柔らかな髪が胸をこすってくすぐったいが甘えている姿が可愛いので好きにさせておく。
「放出分は補充出来ているはず」
 それが拗ねたように聞こえてしまうのはさっきまでの長門を見てるからなんだろうけどな。いや、まさか長門があんなにも、
「忘れて」
 脇をつねられた。大して痛くはなかったけど長門のプライドを甚く傷付けそうだったので自重する事にする。
「あなたは、」
 なんだ?
長門分が補充できた?」
 小首を傾げる長門の様子が可愛らしく、思わず長門の頭に手を置いてしまう。柔らかな髪を少しだけ乱暴に撫で回すとくすぐったそうに、気持ち良さそうに目を閉じていた。
「十分補充できたよ、ありがとうな長門
 何を持って補充なのか、どこが十分なのかは自分でもよく分からないのだが、とりあえず満足したのは事実だ。というよりも俺にとっては得をしたようにしか思えない。何よりも寄り添った長門の体温が心地良く、ゆっくりと撫で付ける髪から香る長門のいい匂いが愛おしく感じる。
 なるほど、長門分とは確かに世界の全てだったな。俺は今や長門抜きでは生きていけそうな気がしないよ、笑ってそう言うと、
「そう」
 無口な宇宙人は俺の胸に顔を埋めて表情を見られないようにしてから小さく呟いた。だけどな? 伏せた顔は見えないけど、真っ赤になった耳たぶがどんな気持ちなのかを伝えてくれているって事を気付いてくれないもんかね。
 そんな指摘をすればきっと無表情なままでそんな機能は認識出来ない、なんて言いそうだったから。俺は黙って長門の頭を撫でただけさ、それで伝えられたと思っている。
 その後、ハルヒが掃除について文句を言いながら入室した時には長門は窓際で読書を続け、俺は机に伏せて惰眠を貪っていたという事は明言しておこう。ついでに寝ていた俺の後頭部にハルヒ長門の読みかけの本を取り上げて角で殴ったことも。







 それから数日後、長門のマンションに呼び出された俺が、
キョン分が足りない」
 と言われてそのまま一晩過ごしたのはまた別の話である。