『SS』 月は確かにそこにある 37

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 目覚めた時に見たのは殺風景な天井だった。右側の蛍光灯が切れかけてるんじゃないか、妙にチカチカしてやがる。そんな事を冷静に思えるくらいには俺は落ち着いていた、はずだ。
 次に入ってきた情報は視覚ではなく聴覚だった。小さなしょりしょりという音に首を向けると、
「…………起きた?」
 ちょっと意外だった。ここで林檎の皮を向いているのは野郎だとばかり思っていたからな。俺の視線の先には小柄なショートカットの少女が器用に果物ナイフを動かしていた。
「ああ、すまんな長門
 起き上がって自分の腕を見れば見慣れたくもない管が刺さっている。当然その先は点滴のパックがあるのだが。
 軽く首など回してみるがどこも痛みなどは無く、傷なども見当たるはずもなかった。
「あなたは、」
 突然長門が口を開いた。林檎の皮は切れることもなく皿の上に盛られている。
「あなたは十二時間四十二分十秒の間、この世界から消失していた」
 そうか、思ったよりも短かったな。こっちは四日間程留守にしていたと思ったのだが、閉鎖空間ってのは時間もずれるものなのか? それとも無理に時間が歪まないように何らかの力が働いている可能性もある。
 何故か冷静にそう思えた。大体閉鎖空間に入ったままの古泉が俺達と同じ時間軸にいるのだから内部である程度時間が経っても修正されているのかもしれない。
「ここは例の病院か?」
 長門は小さく首肯した。ということは、
「あなたが消えたのは深夜。部活の時間ではない」
 だろうな。閉鎖空間にいたのならばそうなるだろう。だとすると何故病院に居るんだ?
「深夜に体調を崩したあなたが救急車によって搬送されたのがここ。軽い食中りに罹ったということになっている」
 また随分と間抜けだな、家族で俺だけ食中毒かよ。で、なっているということは、
「お前は知ってるんだな、長門
「そう。情報操作はわたし」
 まあそうだろう、家族にまで納得させるには長門の力しかないだろうからな。要は俺が消えていた事を隠せればいい。
「しかし、それ以外の詳細は不明。涼宮ハルヒの閉鎖空間はわたしにもスキャン出来なかった」
 林檎を置いた長門は正面から俺を見つめる。
「何があったの?」
 それは随分とストレートな物言いだった。今までの長門からすれば考えられないレベルだな、下手に回りくどく訊かれるより迫力があるぜ。それに長門の瞳は俺を吸い込もうとしているかのように真摯に見つめている。
 だが安心しろ長門、俺はお前にだけは嘘は言わない。全てを正直に言うつもりだ。
 俺は出来るだけ掻い摘んで長門に事情を説明した。古泉一姫が何をしたのかまでは言わなかったし、ハルヒと古泉の願いはぼかしたのだが長門は黙って聞いていてくれた。
 今の長門ならきっと分かってくれるだろう、あの時とは違いこいつも成長したのだから。そう、俺は確信している。





 俺の話を聞き終わった長門は、「そう」と言ったきり沈黙した。
 長い沈黙になる前に俺が口を開こうとすると、同じタイミングで長門が動いた。……何故頭を下げるんだ?
「謝罪する」
 しかもありえない事を言い出した。謝罪って何だよ、お前は何もしてないだろ。
「今回あなたが閉鎖空間に入った事を感知出来なかった。あなたを保護できなかったのはわたしのミス、それが第一点」
 ハルヒの閉鎖空間はお前にだって手が出せないんだろ、気にするもんじゃない。それに第一点ってなんだ? すると長門がまた黙り込んだ。いや? 今度は雰囲気が違う。そうだな、躊躇しているような感じなのだが何を躊躇してるっていうんだろう。
「なあ長門、第二点ってのは何だ?」
「それは、」
 長門は一旦言葉を区切ろうとしたが、俺の目を見て意を決したように再び話し始めた。
「それは、わたしがあなたを傷付けたから。あなたを守れなかった上に刺傷行為を行ったわたしには責任がある」
 初めて長門が俺にも分かる表情をした。それは落胆、といっていいだろう。肩を落とし、俯いた長門なんて見たくもなかったけどな。
 だが真面目な長門からすればショックだっただろう、俺をナイフで刺したなんて聞かせるべきではなかったのかもしれない。それでも俺は全てを長門に話すと約束したのだ、たとえ長門には胸の痛む話でも。
 それに、
「本当のお前は何があってもそんな事はしない、俺はそう信じてるからな」
 だから気にしなくていいんだ。そう言っても長門は顔を上げようとはしなかった。やれやれ、こいつも大概頑固だな。俺はベッドに横たわる。
長門、俺は今から奇妙な話をする。痛いのに嬉しいっていう間抜けな話だ」
 長門は身じろぎもしなかったが俺は話を続けた。
「俺は閉鎖空間の中で閉鎖空間に入るっていう体験をしたんだけど、その中で神人が長門、お前にそっくりだった。そいつに俺は刺されちまったんだが今にして思うと納得してる部分もあるんだ」
 長門、お前じゃないって思えるからだけどな。
ハルヒが俺を嫌うのは仕方ない状況だった。そしてハルヒが俺を排除する為に選んだのはただの神人じゃなくて長門、お前だったんだ」
 それはつまり、
ハルヒが最後に頼ったのは長門だったってことだろ? 何だかんだであいつはお前を信頼してるんだなって思ったのさ」
 勿論刺された瞬間はそんな事を思いもしなかった。けれど今思えば長門も朝比奈さんもハルヒを庇い、守ろうとしていたのだと思う。それは義務感や使命などではなく、ただ友達としての当たり前の行為であって俺には分かりにくい同性ならではの友情ではないのかと思えるのだ。ハルヒは恐らくSOS団としてではない女の子同士としての関係も望んでいたのだろうと。
 だからだろうな、朝倉に刺された時のような恐怖感を長門に対しては抱くことが出来なかった。むしろ今回の件では長門と朝比奈さんは犠牲者でしかない、それを気に負って長門が落ち込む必要なんかないんだ。
 全ては上手く言葉に出来ない俺達が悪かったのだから。
「…………論理に根拠が希薄。涼宮ハルヒの内心はわたしには理解出来ない」
 かもな。だけど俺には長門も何となくだが理解出来てきているような気もするんだ。その証拠に長門、お前の唇はほんのわずかだが上がってるんだぜ?
 そうやって少しづつ『人間』ってのを知ってくれればいい。ハルヒだって友達は大事なんだ、お前にだってそんな存在は必要なのだと思うから。
「それでもわたしの行った行為は償えるものではない」
 だから気にするな、ちょっとだけハルヒが極端なだけだったんだよ。それにまた困った事があればお前に助けを求める事になっちまう。
「それでおあいこだ」
 ベッドの横で座る長門の頭に手をおいた。柔らかめの髪をくしゃっと撫でる。そう、と呟いた長門の顔は見えなかったけど大人しく俺にされるまま頭を撫でられていた。
 そんな長門を見てふと思った。あの時、俺は俺以外にハルヒを覚えていなかった世界で蘇った朝倉にちゃんと話が出来ていたのだろうかと。
 しかし朝倉の場合はその前が最悪だったのもあるし、あの朝倉がいたからこそ今回の件で冷静に長門と対することが出来たのかもしれない。そういう意味では俺の経験は活かされているのかもしれない、朝倉が万が一にでも再度現れたらもう少し話してやろうと思うくらいには。
 今度長門にも聞いてみるか、お前も朝倉が居た方がいいだろ? 友達は多い方がいいだろうよ。
 大人しく頭を撫でられていた長門が、自分で剥いた林檎を齧る音が聞こえて。
 俺は帰ってきたんだな、と少しだけ笑った。