『SS』 月は確かにそこにある 16

前回はこちら

 石の上にも三年とは言うものだが、この時間は三年にも匹敵したといっても過言ではない。いや、石の上だと黙って座っているだけだが俺の場合は目の前に余分な障害があったのだ、その分悟りが開けるのなら遣り甲斐もあろうというものだが。
 とにかくバニーに視線を向けないように心がけながら、というかもう見たくない。机に伏せないと精神の平穏は保てないのにも関わらず、脳裏にはいらん映像のみが焼きつきまくり、顔を上げれば現物にお目にかかれるという贅沢極まりない地獄である。
 こうして長門はいつも通りに本を閉じたはずなのだが(証拠として本を閉じる音と同時にチャイムが鳴った)俺の精神は炎天下のレースを終えたスリックタイヤも哀れみを催してくれるに違いないほど疲弊しきっていた。しかもようやく一息つこうとした矢先に、
「はい、着替えるわよ一姫さん!」
 と言ってハルヒが古泉のバニー服をずり下ろそうとしたもんだから全力で部室を飛び出す羽目になるのだった。散々男だと言っておきながら、やはり見るとまずいと体は反応するのである。正しい男子高校生としては当然なのだが、ドアの外で思い返せば理不尽なのだと憮然とする。いや、古泉の着替えなど見たくはないが肝心の古泉は朝比奈さんの着替えを堂々と目撃出来るのだよな。うむ、理不尽だ。
 とは言え何もすることも無く(こんな時こそ必要なのだろう、古泉というやつは)待つことしばし。
「お待たせ! じゃ、帰るわね」
 言いながら出てきたハルヒは俺を一顧だにすることなくすれ違う。分かっていて無視をしている、そう思った俺はハルヒを呼び止めようとした。が、それを遮る様に朝比奈さんと長門が同時に部屋を出てくる。そのままハルヒに合流されてしまえば何も話せなくなる訳で、こういう時の女性陣の連帯感というものは男には理解しがたいものがある。何よりこんな女子っぽい雰囲気には無縁そうだったSOS団の面子でやられている事が面食らう。
 最後に出てきた古泉は疲れきった顔で部室に鍵をかけていた。あの衣装から着替えている最中もハルヒのおもちゃにされていたことは想像に難くない。同情はするが自業自得だと言えなくも無い、NOと言える日本人であるべきだ。俺が同じ立場でハルヒにNOが突きつけられるかどうかはこの際さておいておくことにする。
 それにこいつには問い質しておきたい事もある。だから古泉に近づくのは当然だとしても、それを遠巻きに見られているのはおかしくないだろうか。何というか、まるで応援されているような。何を応援しているかなどは考えたくも無い。とにかく古泉に確認だけはしておこう。
「おい、古泉」
「あ、はい」
 なんでしょう、と答える古泉が俺の顔を見た途端に朱に染まるのは先程自分が晒していた痴態を思い返しての事であろうが、こちらとしては対応に困るので止めて貰いたい。別段意識しないようにしているのに脳内にはしっかりとバニー姿の古泉がインプットされているのだからな。
「お前、さっき着替えた時に朝比奈さんに聞くことは出来たんだろうな?」
 俺の内心の動揺などはどうでもいいんだ、まずは状況の改善を図ることを優先せねばならない。いくらハルヒがちょっかいをかけてこようとも、二人で着替えているのだから話す機会はなかったとは思えない。例えば制服をクローゼットに取りに行く瞬間にでも話しかければ十分なはずだ、朝比奈さんも未来についての質問に答えられないはずはないだろう。
 しかし古泉は曖昧に頷くと、
「ああ、その事なんですが……………………すいません、どうも話せる雰囲気になれなかったと言いますか、それどころではなかったというか」
 非常に歯切れ悪く答えているが、とても納得出来るものでは無い。何よりも朝比奈さんへ確認を取る事よりも重要な事柄など現状において存在する訳が無いだろう、どう考えても古泉がやる気が無かったとしか思えない。
 大体において俺がここに入ってくるまでにだって着替えたりしていたのだし、古泉自身が本気であれば上級生のクラスに行けば事足りるのだ。朝比奈さんも鶴屋さんだって俺とは違い、古泉に対して警戒感などは持っていないはずなのだからな。
 今更ながらこいつの取っている態度や行動に不信が募る。今回の件だってそうだ、簡単に話して後から時間を取ってもらえれば済むだけの話なのに躊躇しているのか、わざと訊いていないかのようである。まさかな、こいつだって女になったままでいいなんて思ってはいないはずだ。
 だとすると怠慢なのか? いや、古泉という人間を嫌でも良く知る俺としては信じられない。こいつは確かに胡散臭いところもあるし、その人間性全てを見せている訳でもないが、事において手を抜くような奴ではない。それは数々のSOS団主催の企画でもそうであったし、『機関』の役目とやらに関してもだ。その古泉が何もしないままで無為に時間を過ごしているだなんて思えない。何らかの意図があってこんな態度を取っていると思いたいんだ、そうじゃなきゃ納得出来る物じゃない。
 俺がその点を指摘しようとするとタイミング良くハルヒが、
「ほらそこ、イチャイチャしないで早く行くわよ!」
 などと妄言を吐くことで阻止された。これ以上はここで話すのは無理だと判断し、下校中にでも上手く機会を計るしかないと思うしかない。
 俺に何かを言われるかと恐れるように横目で伺う古泉の態度にどこかしら罪悪感のようなものを感じ(見た目だけなら俺が責めている様にしか見えない)、そんな訳は無いのもまた分かっているのでとにかく早いとこ帰らねばと玄関へと急ぐ。
 そんな帰り道は相変わらずの変形グループが形成されていた。通常の状態と違い長門ハルヒと朝比奈さんの間に入るような形で三人で歩く後ろを俺と古泉が続くといった構図である。これは長門が特段ハルヒ達と仲が良くなったというよりも、意図的に俺と古泉を隔離しようとしているということらしい。はっきり言ってそのような配慮は勘弁申し上げたいのだが。
 だが都合がいいとも言えるので俺は古泉に先程の話の続きを促す事にする。古泉は叱られた子犬のような目でおどおどしながら答えた。それはいいが、この喩えもいかがなものだろうか。しかし潤んだ瞳でぽつぽつと答える様はとてもじゃないが男らしさなど欠片も無く、朝比奈さんですら敵わないほどの庇護的なオーラを放っている。まるで性別と共に性格まで逆転したかのようだ。
 ある意味この俺の感想は的を得ていたのだったが、俺もまだそこまでは気付かなかった。それよりも古泉の言分としてはこうである。
「実を言うと朝比奈さんが今回は大変乗り気でして。まるで憂さ晴らしでもするかのように私の衣装を次々と決めていくんです。しかも涼宮さんがネットで衣装を探すのにも協力的で、おまけに私の体のサイズまできっちり測られたんですから」
 あの朝比奈さんがね………………気持ちは分からなくも無い、ハルヒのおもちゃが代わったんだからな。だがそこまで積極的というのも考えものだと思うが。古泉は疲れたように、
「本来ならばあなたの言うように朝比奈さんや長門さんと話す機会を設けなければならなかったのですが、ご覧の通りです。それに…」
 急に口を噤んだので、どうしたのかと訊いたのだが古泉に上手くはぐらかされてしまった。チラッと前方を見たところによると、どうやら女同士の話というものらしい。だがそこに違和感無く古泉が溶け込んでいるのが不思議だ、俺だけが阻害されているようにしか見えない。
 まあ部室内で話が出来ないと言うのは理解した。結局はハルヒを含め女性陣がどこかおかしいのだろう、古泉は女として認識されている訳だから女性同士の話しかしないというのもあるのかもしれないが。それにしても長門も入れていいのだが、あまりにも普通すぎる。属性というものを考慮しないでいたら単なる女子高生の仲良しサークルそのもので、俺だけが異質であるように思えてくるくらいだ。
 もしかしたらその辺りにヒントが隠されているのかもしれないが、あれだけ普通であることを嫌ったハルヒがそんな事を考えるだろうかというのも疑問として残る。結局として結論は出ないままに本日も解散となったのだった。
 長門のマンション前で長門を見送り、ハルヒと朝比奈さんが並んで帰るのまでを見送った後の事だ。
「あの、明日も、その、朝は迎えに行ってもよろしいでしょうか?」
 少しだけ遠慮がちにそう言った古泉は本当に子犬のようだ、いつの間にか上目遣いも板に付いている。覗き込まれるような視線に男だと分かっていながらも心臓に悪いものがある。何と言うか、これなら男はイチコロだろうな。俺が何とか理性を保てるのは答えを知っているからだ、そうじゃなければ朝比奈さんやハルヒのように女性ですら参ってしまうだろう。
 たちの悪いことに古泉は芝居でも計算でも無く天然でこの態度を取っている。古泉一樹ならばその表情から芝居かどうか分かる(というよりも古泉は芝居は下手だ)のだが、この女古泉はまったく無自覚に相手の庇護欲を刺激するかのような態度を取り続けているのだ。今までの古泉は仮面を被り続けていたので不気味だったが、今の古泉は仮面が無さ過ぎてまた不気味なのかもしれない、ギャップが大きすぎるんだよ。
 しかも俺の返事が遅い(実際はそうでもないと思う)のを気にしてか、段々と伏目がちになっていくのだから始末に終えない。こいつに尻尾があったら間違いなく垂れ下がっているだろう、というか本当に子犬みたいだな。そんな態度の女性を見て何も思わないほど俺も心の冷たい人間ではない、たとえ中身が男であっても見た目はまごう事無き美少女なのだからな。俺は内心の忸怩たる思いを押し殺して古泉に言ってやった。
「ったく、言われなくても来るんだろうが。やれやれだ、おかげで朝も目覚めが悪いぜ。とりあえずこっちは妹にたたき起こされなくて済んでるし、遅刻も心配なさそうだから、その点では感謝してやる。どうせあと一日だ、一々気にするな」
 返答としては我ながらどうかとも思うが、それでも皮肉の一つも言いたくはなる。朝っぱらからご近所の奥様方の話題提供に精を出すつもりも無いのだけどな。まあ来ても来なくても構いはしないが、それなら来た方がマシだろうというくらいの気持ちでそう言ったつもりだった。
 だが、やはり俺は古泉の事が良く分かっていなかったんだ。その内部でどのような変化が起こっていたのか、そして古泉の変化がどのような形で表されてしまうのかって事を。
「……………よかった………」
 それは衝撃を持って俺に襲い掛かってきた。反則なんてもんじゃない、凶器だ。柔らかくはにかんだその微笑みは見る者を悉く虜にするであろうほどの破壊力だったのだ。伏目だった瞳は喜びに輝き、わずかに開いた唇は安堵の吐息をそっと紡いでいる。ほんのりと赤く色づいた頬に吹き抜けた一陣の風が髪を靡かせて。
 陳腐な表現だとは思う、けれどこう例えるしかない。まるで春の息吹を感じて蕾を開く花のように。目の前の女は明らかに変化したとしか言えなかった。俺は自分で言うのも何だが恋愛経験などは皆無に近く、話で聞いていても眉唾ものだったのだが、確かに女という生き物は急激に変わるものなのだ。
 そこに居たのは最早古泉ではない、少なくとも俺の知る古泉という人物では。言いたくはないが見惚れてしまった、それほどまでに目の前にいる少女の微笑みは美しいものだったんだ。あの長門が浮かべた微笑みにも似た、同じくらいの衝撃で迫る優しい笑顔から俺は目を背けてしまったのだった。
「ま、まあ後一日だからな。どうにか誤魔化しきれるだろうよ」
 今の状態こそ誤魔化したいからとりあえず口に出してみたのだが。
「………そうですね」
 小さく呟いた古泉の顔に先程までの微笑みは無かった。どうしてそんなに寂しそうな顔になっちまうんだよ、変化の大きさに戸惑うしかない。
 それでも古泉はフッと笑顔を取り戻し、
「そうだ、お弁当は私が作りますから明日以降は期待しておいてくださいね。では、また明日」
 軽く手を振って去っていった。俺はといえば間抜けにも手など振り返してしまい、その行為に心から後悔をしたりもした。なんだこれは? 本当に名残を惜しんでるみたいじゃないか。
 なんだか分からないままに古泉は別人へと変貌を遂げてしまったかのようだ、俺は漠然とした不安を抱えたまま帰宅を余儀なくされた。



 帰宅後も妙に落ち着かない、古泉の態度もハルヒの言動も一つ一つが俺を苛立たせているようだ。しかもどこか共通するのは俺が知らない部分で通じ合っているように見えるからかもしれない。
 とにかく夕食を終え、俺は母親に明日の弁当の用意が不要であることを告げた。それを聞いたお袋の妙に理解したような笑顔と妹が分かっていたかのように、
「一姫ちゃんがお弁当作ってくれるんだー? いいなあ、あたしも作ってくれないかなあ」
 という無邪気な一言が俺を傷付けた。これも家族公認ってやつなのか? 何時の間に古泉の存在というものがここまで大きくなってるんだよ? 俺の知らないところで話は大きくなっていくばかりだ、このままでは俺だけが取り残されていくだけに過ぎない。
 かといって具体的にどうすればいいのかなど分かりはしない。まったくのノーヒントってやつなんだ。ただ悪戯に時間が過ぎていくのを膝を抱えてやり過ごしながら待つしかない。
 あと一日、そうすれば長門に相談できる。それだけが今の俺にとって唯一の心の拠り所となっていた。
 それなのに、俺の脳裏をあの古泉の笑顔が駆け抜けてゆく。あいつは、まるでこの先もずっと俺と付き合っていくかのように柔らかく微笑んだのだ。それに最後の言葉も。『明日以降』ってどういうことだ、明日が最後のはずじゃないのか? 明後日には二人で長門に話してこの馬鹿な世界とはおさらばだろ? なのに脳内の古泉は去り際に浮かべた微笑みのまま何も言う事は無かった。
 不安は尽きない、古泉の笑顔だけが頭の中を占めていく。本当にあいつは長門に話してくれるのだろうか………
 どこか霧の中を進むような不如意なる面持ちのままで俺は自室のベッドへと倒れ込んだ。もう何もしたくないと思って携帯の電源も切ってしまおうとした時だった。
 突然着信音が鳴り出し、俺はディスプレイを覗きこむ。そこに表示された番号に心当たりは無かった。普段ならば無視をする。何か用事があれば留守電を入れるだろうし、怪しい内容である可能性だって否定できない。だがいつもは無視するはずの着信を、俺は何故かその時応対するべく通話ボタンを押してしまった。今まで色々ありすぎたので惰性のように反応してしまったのかもしれない。
「もしもし? どちら様ですか?」
 これで怖い声で「あなたが登録したサイトから入金が」云々などと言われたら携帯電話を買い換えねばならないんだろうなあ。だがどこかにそういう事態にならないんじゃないかという確信のようなものがあった。そしてその予感は正しかったのである。
『もしもし、突然申し訳ございません。少々よろしいでしょうか?』 
 それは物腰の柔らかそうな女性の声だった。俺は少し安心して(これが手口ならば俺は騙されやすい)、
「一体何の用ですか? いや、あなたは誰ですか?」
 と訊いた。余裕があるように思えるだろうが、確かに余裕があったんだ。何故ならば電話の向こうの声の主に俺は心当たりがあったのだから。
『随分と落ち着いていますね。どうやら私の事をご存知なのは間違い無さそうですね、それならば話は簡潔に致します』
 少しだけ話をした俺は通話を切り、急いで着替えた。もう夜も遅くなってきたので妹にだけ見つからないように気を付けながら家を出る。
 自転車に乗る訳でも無く適当に家を離れて歩いていると、俺の真横に静かに近づいてくる車が一台。黒塗りのリムジンは何度か見覚えのあるデザインで、俺は電話の相手が顔見知りである事を確信した。ただし向こうは俺を知らないはずなのだが。
 俺が立ち止まると車も俺に寄り添うように止まる。そして後部座席のウィンドウが開き、妙齢の女性が顔を出した。いつもと雰囲気が違うのは衣装の違いだろう。
「お待たせいたしました、どうぞ」
 後部のドアが開き、俺は車に乗り込んだ。ドアを閉めると同時に静かに車は発進する、相変わらず振動もエンジン音も聞こえない。運転手の白髪頭を見てこちらも顔見知りなのを確認しながら俺は隣に座る女性に顔を向けた。
「警戒もせずに車に乗ってくるとは思いませんでした。本当にあなたは我々の存在を承知済みと考えてよいのでしょうね」
 微笑みを絶やさない彼女の顔を見て安堵する。どうやら『機関』のメンバーとやらに変化はないみたいだ。運転手がバックミラーで確認したのに合わせて俺も頭を下げた。
「改めまして、お久しぶりです。いえ、私は初めまして、なのですけれど」
 メイド服ではない『機関』の構成員、森 園生さんは優しい笑顔のままで俺に手を差し伸べたのだった。