『SS』 月は確かにそこにある 1

 それはハルヒの願いだったのかと言えば疑問符を打たざるを得ない。かと言って長門の世界改変とも考えたくは無い。では何故か? その答えを知っている者はいないだろう。たとえ長門の親玉であろうとも。
 しかし俺は確かにその事件の渦中にいた。そしてそれが何をもたらしたのか、それはこの後に続く話なのだろう。
「どうしました?」
 目の前のにやけた面に鼻を鳴らして返事する。仕方なしに肩をすくめる姿も一々様にはなっているがな? 今回はそんなお前が全ての原因だったなどと言ったらこいつはどんな顔をするのだろうか。
 最初に言っておくが古泉には『その時』の記憶がない、そうだ。これはハルヒも朝比奈さんも同様ではあるのだが。それを話した長門自身ですらこの間の記憶は曖昧だと言う。つまりは全てを知るのは俺だけであり、そして長門にすら全容を話す事は憚られる内容でもあるのだ。
「さて、あなたにしては随分と長考なのですけれども、これは僕の腕も上がったというべきなのですかね」
 ちなみに今回は俺と古泉は囲碁をやっていて慣れないルールではあるものの、それでも俺の方が有利なのは否めない。こいつが持ち出してきたくせにおかしな話なのだと思うのだが、まあいつもどおりと言えなくはない。
 適当に見えるかもしれないが、それでも十分考慮して置いた石を見て、古泉が長考に入る。
 さて、すまし顔で考え込んでいるこいつが何をしてきたか、そして俺がどうしたのかを思い出してみよう。それは不思議というか、何とも言えない話である。
 そう、俺が古泉一樹という人間を認識しなおしたというか、俺達の関係も変わっていったような。そんな話だ。





 その奇妙な出来事は何の前フリも無く唐突に訪れた。かと言って予兆があったから何か対策が取れていたかといえば今までもそんな事はなかったし、今後も恐らくないのであろう。
 兎に角俺に出来る事は起こり得るべくして起こった事態に対してしかるべき行動を取るだけの事であり、結果として良ければそれで納得するしかないのであった。だがこの時点では俺のやっていた事と言えば毎朝恒例の登坂作業である。どうすればこの坂がまっ平らになるのか長門に聞いて絶望して以来、北高に入学してしまった後悔と共にここを登る事を義務付けられた哀れな北高生の一人として俺は遅刻というペナルティーを喰らわないように重い足を前へと動かすのであった。
 幸いな事に未だ遅刻という事態には陥っていないものの、毎朝余裕があるとは言い難い時刻に登校している俺なのであるが、その日は偶然にも時間の心配など何もせずに登校していたのである。ただ早めに歩いたからといって坂道がなだらかになる訳でもない事に対しては不満を言えばキリがない。とはいえ、谷口の奴が来たら教室の中で国木田と一緒に爽やかに挨拶でもしてやろうかなどとくだらない事を思いながら歩いていると、
「おや、今日は早いんですね」
 と、背後から声をかけられた。誰だ? と振り返ってみると。
 えらい美人がそこにいた。
 肩まで伸ばした柔らかめの髪に理知的な瞳。落ち着いた物腰に爽やかな笑顔。何よりもモデルのような高い身長なのにも関わらずある一部はSOS団マスコット様に負けず劣らずの迫力という反則技なのである、いやジロジロとは見てないぞ?
 ………………こんな美人がうちの学校にいたのだろうか? 少なくとも俺の知り合いには存在しない。もしもこれだけの美人がいたのならば谷口のアホが話題にしないはずはないのだが、もしかしたら上級生なのかもしれない。
 いや、可能性としてはまた宇宙人のお仲間や『機関』の一員、はたまたハルヒのとんでも能力による異世界人の可能性も捨てられない。嫌なものだ、素直に目の前の状況を受け入れられない自分がそこにいる。いや、素直に言えばこんな美人に声をかけられる可能性は皆無なのだが。
 すると目の前の少女は(年上に見えなくも無いのだが)いきなり顔を近づけてきた。いや、近すぎる! 顔もそうなんだが、当たってる! どこが、とは訊くな、朝比奈さんばりだと先程思った部分がなんだよ! しかし彼女は何事も無いかのように俺の耳元で、
「後ほど説明させていただきます。まずは普通に登校してください、あなた以外の方には放課後に会えますので」
 そう囁いた。放課後? いや、それよりもこの口調には覚えがある。だが俺の知るあいつは間違いなく…………
「では後ほど」
 俺が疑問を口に出す前に美少女は颯爽と坂道を登っていったのだった。呆然とする俺の横を生徒達が通り過ぎるのを見てここが往来であることを思い出し、俺も慌てて坂を登る。
 しかし俺には先程の見覚えの無い少女の話が頭から離れることは無かった。どうやら俺の事をよく知っている上に放課後というキーワードからSOS団の事すら承知済みらしい。となるとこれは厄介事が始まった合図のようなものなのかもしれない、と思いついたところで俺はいつもの口癖と共に大きな溜息をついたのであった。
 やれやれ、一度でいいから何が起こるのか先に教えてもらいたいもんだぜ。



 教室に入ると国木田が笑いながら、
「どうしたんだい? 今日は随分早起きだけど」
 と訊いてきたので、お前はいつから来てるんだよと答えておく。
「僕はキョンが来る五分前くらいかな、今カバンを置いたばかりってとこだよ」
 そうかい、俺もたまには早起きが出来るんだよ。そう言いながら珍しく谷口の居ない二人だけの会話を楽しんでいると、
「…………………奇跡だわ」
 などとカバンを持ったままの女に言われてしまう訳である。おう、お前はいつもこのくらいに来てたんだな。涼宮ハルヒはそれを無視すると見せ付けるように足音を立てて自分の席まで歩き、
「ふんっ!」
 と乱暴にカバンを置いたかと思うと、そのまま窓の外に顔を向けてしまったのである。国木田が苦笑しながら、
「どうやらキョンより遅かったことが悔しかったみたいだね」
 そういうものか? まあハルヒならありえなくはない話だが。というか初めてではないだろうか? そう思うと多少は気分もよくなるものである。
 珍しく早い登校で国木田と話をゆっくり出来たのは中学校以来である。ついでに宿題も写させてもらい、始業の鐘ギリギリでやってきた谷口が国木田に土下座をしてノートを写させてもらおうとしているのを尻目に余裕を持って自分の席に着いたのだった。
「…………いい気になるんじゃないわよ」
 本当に悔しかったのかハルヒが窓の外を見ながら話しかけてくる。ガキみたいな事を言うなよなと笑いたくもなるが、ここでそんな事を言えば機嫌を損ねるだけなので、
「ああ、我ながら奇跡的だと思うね。どうせならもう少し惰眠を貪るべきだったぜ」
 と言うと、
「そうじゃなくて! あんたがそうやって早く来れるなら毎日ちゃんとしなさいよって言ってんのよ! 遅刻ギリギリに来たって気持ちが焦るし走るから疲れるしでいいことなんかないんだから」
 などとムキになって反論してくるから堪え切れず笑みがこぼれてしまった。
「なによ?」
「なんでもない、悪いな心配かけて」
「なっ?! べ、別にあんただけを心配してるとかそんなんじゃないわよ!」
 分かってるよ、ウチの団長さんは何だかんだ言っても心配性なくらいには俺たちのことを見ているってことぐらいはさ。と言っても、ハルヒの正論に対しても朝の布団に未練がましく捕まってしまう誘惑に耐えられそうにはないので結局今日一日だけの優等生に終わりそうなのだがな。
 まあたかが俺がハルヒよりも早く登校したくらいで機嫌をそこまで悪くするなどとは思っていないけどな。こんな事で一々閉鎖空間だなんて古泉もやってられないだろう。ん? 閉鎖空間? 何となく朝見かけた女性の顔が浮かんでしまったのだが、どういうことだ?
 そういえばハルヒは彼女の事を知っているのだろうか? 俺がハルヒにそれを確かめようと後ろを振り返ろうとした時に始業のチャイムが鳴ってしまい、結局訊けないままにホームルームが始まってしまった。まあ休み時間にでも誰かに訊くか、そう思っていたはずなのだが俺はその女性の事をすっかりと失念してしまったのであった。


 こうして午前の授業は瞬く間に過ぎていき、昼休みを告げるチャイムが鳴ったと気付けばハルヒは既に食堂へと飛び出していた後だった。
 俺も弁当を持って国木田達の席に行こうとするとクラスの外からざわめきが聞こえる。何があったのかと思っていたら国木田が珍しく戸惑ったように、
キョン、お客さんなんだけど…………」
 とドアの方向を指すので見るとあの朝に出会った美少女である。相変わらず爽やかに微笑んで、おまけに手など振っている。なんと俺達と同学年のようだ、しかしクラスが違うとは言えここまで見覚えがない女に訪問されるような事があるのだろうか。
 すると俺以上に驚愕の表情を晒している谷口がワナワナと肩を震わせながらも小声で、
「おいキョン、お前彼女とどういう知り合いなんだよ?」
 と話しかけてきた。
「どうもこうも、ほぼ初対面だ。というか彼女は一体誰なんだ?」
「なあっ?! お前知らないのかよ?」
 谷口も国木田も半分呆れたように俺を見る。そう言われても俺は彼女なんか知らないし、初対面なのに用事があるなどと考えられるはずもない。
「いいか、よく聞け。彼女は俺が調べた校内美少女ランキングでも数少ないSSランクで、俺達の学年では朝倉涼子が居ない今トップと言っても過言じゃない。おまけに成績も優秀、特進クラスの九組でも最上位らしいしな」
 何? 彼女は九組なのか? おかしい、九組ならあいつがいるから俺も何度か顔を出しているがあんな子は居なかった。
「そんな完璧美少女の古泉一姫さんが一体お前に何の用があるっていうんだよ? まさか涼宮関係のアレなのか? くそっ、それなら涼宮本人でいいじゃねえか!」
 ………………何だと? 谷口の馬鹿が何を言っているのか、咄嗟に俺は判断出来なかった。今彼女の事を、
「そういえば古泉さんもSOS団だっけ? 涼宮さんの部活にいるんだったね。それでもここに来るなんて珍しいなあ」
 国木田まで当たり前のように話しているが、古泉だと?! あの女が古泉だっていうのか? 見れば彼女の笑い方は確かに俺の良く知るヤツに酷似しているといえなくもない。
 はあ、どうやら朝の予感は悪い方向で的中しちまったのかもしれないな。
 俺はまだ何か言いたそうな谷口を無視して国木田に目線で詫び、弁当箱を持ってドアの向こうで待つ古泉と名乗る女性の元に寄って行ったのであった………………