『SS』 たいせつなひと

 一日の授業が終わりを告げる鐘の音を聞き、わたしはクラスメイトと同じ様に立ち上がり担任に挨拶をする。そのまま楽しげに話す者、我先にと帰宅しようとする人々の流れに飲まれるようにカバンを持ったわたしも教室を後にした。
 独りで歩く旧校舎までの道のりは慣れていても面倒だな、なんて思ってみたりもする。通行中、わたしは立ち止まって話す人たちや急ぎ足で追い抜いてゆく人にどうしても頭を下げながら避ける事しか出来ず、結果としていつも部室までたどり着くのは遅くなってしまうのだった。
 きっとわたしの友達ならば颯爽とここまで歩いてくるんだろう、彼女ならば歩いてくれば相手が避けてくれるかもしれない。…………わたしには無理だけど。
 そんな気弱なわたしは今日も一人、部室の鍵を開ける。古ぼけた鍵はこの部屋の歴史であり、取り残された象徴のようでもあった。
 文芸部。
 それがわたしの所属する部活。読書が好きで、読書しか趣味を持てなかったわたしは高校に進学してから精一杯の勇気を振り絞って部活動に参加しようと思い選んだのがここだった。
 結果としてわたしは一人になった。若者の活字離れなどと言われているが、単に文芸という名称が古臭いのかもしれない。わたしが入部した時点で上級生は既に卒業を迎え、二年生の居なかった文芸部の部長兼部員にわたしは就任させられていた。たった一人の部活だけど。
 幸い、といっては語弊があるのだろう。けれど、わたしのような人と話すことが苦手なタイプには最良の環境だったのかもしれない。友人曰く、何も変わらないのは良くないそうなのだけど。
 でもここには本がある。わたしが読んだ事のない蔵書は心を浮き立てるに値するものだったし、ここに居ると自分も部活をしている気分にもなれた。一人きりの部活動はこうして始まった。






 かといってずっとわたしは一人では無かった。極稀にだが友達が顔を出してくれる。入学して即クラスの委員長に任命された彼女は忙しいだろうにわたしに気を使ってくれるのだ。
「ねえ長門さん、あなた本は読むだけなの?」
 部活を始めてしばらくの時間が経ち、新緑が窓の外で眩しくなってきた季節に彼女にそう訊かれた。
 当然わたしには文才などあるはずはない、だから小さく頷いた。
「ふーん、でもそんなに本を読んでるんだから少しは自分ならこう書くとかあるんじゃない? 試しに書いてみたらいいと思うな、ここは文芸部なんだし」
 そう、かな? 確かに本を読みながらこうだったらいいなと思ったりはするけど文章にするなんて考えた事もなかった。
「それに文芸部は確か年に一回は部誌を発行しなくちゃ駄目なはずよ。ほら、文化祭とか」
 …………そうなの? 知らなかった、初耳だった。しかし彼女の言う事には一理ある。むしろ部活動をしているならば成果を発表しなくてはならないのが当然だろう。
「でもやっぱりわたしには出来ないかも……」
 たとえ書けたとしても文芸誌なんて無理だ。自分の書いたものを人に見せるなんて恥かしくて出来る訳が無い。
「そんな事言ってもやらないと部そのものが無くなっちゃうわよ」
 それも困る。今ここにある蔵書を読みきれてもいない、その上わたしは自宅から既に何冊か部室に持ち込んでもいるのに。
「ね? だから一回やってみましょうよ。ほら、そこにワープロもあるみたいだし」
 目聡く彼女が見つけたのはわたしがここに来る前からあった年代物のワープロだった。恐らく文芸部が華やかなりし頃には大活躍していたに違いない。だが今は取り残された部室と同じ様に埃を被っているだけの代物だった。
 それを彼女は埃を払い、机の上に設置する。
「えーと、電源はっと」
 コンセントを接続して電源を入れると、
「あ、これまだ生きてるのね」
 まだ外は明るいけどディスプレイが明るくなるのが分かる。つい立ち上がって彼女の隣に寄って画面を覗き込んでしまった。
「うん、詳しい使い方は分からないけど文章の入力くらいは出来るわね? それじゃ長門さん、後はやってみてね」
 そう言うと彼女はわたしの為にパイプ椅子を用意してくれた。座っては見たものの、何も思い浮かばない。
「あ、明日から…………頑張ってみる」
「そう? まあそんなにすぐには出来ないか。頑張ってね、長門さん」
 彼女が電源を切った。暗くなったディスプレイを見つめ、わたしの顔が映っているのを見て顔が赤くなるのを感じた。
 それから数日の間、ワープロを前にして動けないわたしがいた。どうしたらいいんだろう、光るディスプレイを眺めているだけじゃ何も答えは出ないのに。
 
 
 

 そんな時だった。




 彼に出会ったのは。




 初めて行った市立図書館。ようやく見つけた読みたかった本。
 だけどわたしには本を借りるという単純な事さえ出来なくて。ただ戸惑いながら本を抱えるしか出来なくて。
 話しかけるだけなのに。それだけなのに。
 それさえも出来ない自分が情けなくて、でも恥かしくて。なんて弱いんだろう、わたしは。
 色々な感情が全部混在して、悔しくて情けなくて、自分が嫌になって。涙が出てきそうになったわたしに、
「ったく、見てられねえな」
 急に現れた彼は仕方無さそうにわたしに話しかけてきた。
「ほら、それ借りたいんだろ?」
 差し出された手。どうしよう。
「いいから任せとけ、北高だろ? 俺もそうだから心配すんな」
 それだけ言うと彼はわたしから本を受け取り、図書館のカウンターへと向かう。しばらくして、
「これ書いてくれってさ」
 受付用紙。慌てて記入する。
「待ってろ」
 わたしが書いた用紙を持って彼が再びカウンターへ。展開が早すぎて頭が付いていかない、ただ見ているしかなかった。
 そして、
「ほら、借りれたぞ。それとこれが貸し出しカードな、これからはこれ持ってけばいいから」
 彼が持ってきた本の上に置かれていたカード。わたしの名前が書いてある。
「まあ恥かしいのも分かるけど今度からはちゃんと一人でやるんだぞ? じゃあな」
 それだけ言うと彼は去ろうとする。あ、お、お礼を言わないと。
「あ、あの、ありが……」
 駄目だ、どうしても言葉が出てこない。すると彼は背中を向けたまま手を挙げた。ひらひらと振られる手。気にするな、と言われた気がした。
 お礼さえ言えないわたしなのに。もう小さくなった背中に向かって必死に頭を下げた。わたしに出来るのはそれだけだった。
 


 
 図書館の帰り道、初めて借りた本を大切に抱える。カバンに入れてもいいのに、そんな気分になれなかった。
 ポケットに手を入れて生徒手帳の感触を確かめる。生徒手帳が大事なのではない、大切なのはそこに入れたカード。



 彼が作ってくれた、わたしの貸し出しカード。 


 
「北高って言ってたな……」
 もしかしたら会えるかもしれない。名前も、学年も知らないけど。でも北高だって言っていた。
 家に帰り、カードを取り出して何度も眺める。借りてきた本よりも先に、本を読むよりも長く。
「会えるかな……」
 口に出してしまった言葉に頬が熱くなる。でも、もしかしたら。



 


 その後、彼が同級生だと、しかも彼女と同じクラスメイトだと知った。彼女は嬉しそうに話をしないかと言ってきたのだけど、わたしにはそんな勇気はなくて。
 近くにいるのに遠くに感じながら、季節だけはゆるやかに流れていった。
 その間で、わたしは文章を書くようになった。伝えられないのならば、せめて想いを言葉に出来ればいいと。わたしはキーボードを打ちながら自らの気持ちが少しでも表せたらと思う。だけど見せるのは恥かしいのに。









「ジャッ、ジャーン!」
 秋の色が窓の外に色付く頃、彼女が珍しくわたしよりも先に部室に居た。そして机の上には。
「どうしたの?」
 それはパソコンだった。旧式だけど間違いなくパソコンだ。
「あのね? 部誌を作ろうとしたらあのワープロだと印刷出来ないなって。ワープロのリボンなんて今見かけないじゃない、だからどこかに余ってるパソコンないかなって探してみたの」
 ジャンク品間際だから壊れても仕方ないけどね、などと言いながら彼女は笑う。だけど分かる、優等生の彼女がどれほど尽力してくれたのかを。パソコンだけではない、プリンターなど一式揃えてくれている。もしかしたら自分の印象を悪くしかねないのに、彼女はわたしの為にここまでしてくれたのだ。
 嬉しいけど申し訳がなさ過ぎる。返してくれと言おうとしたわたしに、彼女は優しく微笑んだ。
「いいのよ、全部何とかなったんだもん。本当にお礼を言いたいのならちゃんと使ってくれる方が嬉しいな、頑張って文芸誌作りましょう」
 嬉しかった。また、わたしは助けられた。
「……ありがとう」
 それだけしか言えなかったけど。彼女は笑ってくれた。



 わたしが書いた小説と、彼女が寄稿してくれたコラムで薄いながらも文芸部の部誌は完成した。本当は配る為に刷らないといけなかったけど、どうしても出来なくて結局彼女とわたしの分しか作らなかったのだけど。
 それでも楽しかった。嬉しかった。
 文化祭の間、文芸部室に人はあまり来なかったけど、読んでもらう為に置いた部誌を見ながら胸が躍ったのは間違いないのだから。








 こうしてまた季節は流れる。
 わたしは部室で一人読書をしている。文化祭以来パソコンを点けて文章を書くようになったけど、基本的には読むほうが好きだから。
 今読んでいるのは図書館で借りたもの。大切に持ち歩いている貸し出しカードで何度も借りている。
 まだ、彼とは話すことは出来ないけど。
 彼の作ってくれたカードは何よりも大切な宝物。わたしに新しい世界をくれたもの。
 そして、彼も。
 ほんの少しの会話にもならないやり取りだったけど。お礼の言葉さえも言えなかったけど。
 だけど彼は優しかった。何も言わずにわたしにカードを作ってくれて、お礼も言えないわたしに気にするなって言ってくれた。態度でそう言ってくれたのだ。
 とても、とてもそれが嬉しかった。わたしを見てくれた、それだけで嬉しかった。
 彼女とは違う、大切な人。それがわたしにとっての彼。








 もしも、万が一。
 彼と図書館に行けたのならば。 
 手を、繋ぐくらいでいい。
 でもきっとわたしはそんな事出来ないから。
 並んで、歩くくらいでいい。
 だけどわたしと歩くのは嫌かもしれない。わたしも恥かしがって出来ないかもしれない。
 それすら危ういから。
 大切な人は居れば、それだけで上出来なのだろう。
 彼女はそんなわたしに色々言ってくるのだけど。
 だけど、そのくらいでいいのだ。わたしには大切な人が居る、ただそれだけで。



 一人きりの文芸部室。
 膝の上にブランケットをかける。
 窓際に座り本を開く。
 静かにめくるページ。
 ゆっくりと流れる時間。
 ただ、そこにいるわたし。
 




 だけど、ほんの少しだけ。期待を込めて扉を見てしまうのは何故?
 開かないはずの扉がもしも開いたら。
 そこに居てほしいのは…………



 今日も開かない扉を見つめた後、わたしは本に視線を落とした。
 大切な人は、居るだけでいいのに。
 そう思っていたはずなのに。
 足音。
 回るノブ。
 そして。






「いてくれたか……」








ちょい補足

このSS実は歌ネタでもあります。