『SS』泣く、ということ

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わたしには何も無かった。その後全てを手に入れることを知っていたとしても。
それでもわたしには何も無かったと言える、何故ならばわたしにはそれを表す術がないから。
表情、というものをわたしは表せない。必要がないから。
わたしはただ観測対象に接するのみ。その場を提供するために。
その為にわたしはここにいる。だが違う事も知っている。わたしがわたしと同期したから。
寝室の方に目を向ける、そこにいるわたしの知らないわたしの大切な人たちの為に。
わたしはただその時を待ち続ける。何も知らないままに。



わたしは目的の為にここにいる。それ以外には何も無いままに。
観測対象と接するのはわたしではない、彼女には全てが与えられた。人間と接する為に必要な全てが。
わたしには何も無い、それを当然のように受け入れた。
わたしに与えられたものは誰も居ない空虚な部屋と大量の書物。それだけがわたしの全て。
これからわたしに与えられるものを、わたしは知っている。
でも今ここにあるものが全てだということも、わたしは知っている。
ただわたしは本を読む。来るべき時まで。
その時をわたしは分かっている、だがそれをわたしは知らない。
彼女はきっとこの時も笑っているだろう、わたしには分かる。
だがわたしはそれを出来ない。本を読むわたしには何もないから。



観測対象が鍵と共に部室を訪れた。全ては決められたままに。
わたしは場を提供する者、それだけの存在。
しかしわたしは選ばれる、進化の可能性となる彼女に。
彼女は全てを持ちながら選ばれない。
わたしは何も無いのに選ばれる。
分かっているから受け入れる、知らないままに。
そしてわたしは全てを手に入れた。彼女が本来手に入れるべき全てを。
それをわたしは表す事が出来ない。ただ受け入れただけ。
それでもわたしは変わっていくのだろう、わたしがそうだったように。



彼との初めての会話。何度も聞いている彼の声なのに。
それをわたしは知りながら彼の顔を初めて正面から見つめている。
そしてわたしは自分が壊れていく事も。
今彼と初めて接触しながら、わたしは過去の彼との接触も未来の彼も知っている。
通じない会話、伝わらない語彙。
全てを知りながら、わたしは何も知らないままに彼には理解出来ない話をする。
……………この会話の中ですら生まれていくエラーに逆らう事も出来ずに。



わたしにとっての転機が訪れる、それは決められた事項。
全てを持っている彼女が全てを失う時。
その瞬間をわたしは知っている、わたしがそうしたのだから。
彼女もそれを知っていた? わたしが知る彼女は全て持っていたのだから。
理解していたのかもしれない、自らが消える事を。彼女が消え、わたしが選ばれる事を。
それでも彼女は自らの意思を貫くのだろう、わたしには無いものを持って。



彼女はやはり行動を起こした、それを知りながらわたしは何も出来ない。
何故ならばわたしは何も知らなかったから。何も知らず、全てを知りながらわたしは彼女の作った情報制御空間の中へ。
驚愕する彼。自信を持った目の彼女。その光景の中で何も持たないわたし。
彼を庇いながらその時を待つ。ただそれだけを。
彼女が全てを失う時を待ちながら、わたしは全てを手に入れるのだから。



消えていく彼女。選ばれたわたし。
全てを持っていた彼女は最後までわたしにない表情で消えてゆく。
「涼宮さんとお幸せにね」
それは彼に向けられた言葉。そして残るわたしへの忠告。
彼が選ぶべき未来とはそうであるべき。わたしは知りながら今もまだ壊れている。
全てを手に入れながら何も手にしていないわたしへ、彼女は尚も与えようとしているのだった。
そしてわたしはわたしの進むべき道へと踏み出していく。そこに何があるのか知りながら、わたしは何も知らないままに歩むしかないのだから。
わたしは眼鏡と彼女を失い、彼の信頼と未来を手に入れた。



何もないわたしの部屋。何も持たないわたしがそこにいる。
この先になにがあるのか知りながら、ただその時を待つ。
わたしも壊れていく、彼女のように全てを知りながら。
あなたはどうして全てを手に入れながら全てを失ったの?
わたしは未だ彼女の持っていたものを持てないのに。
本を広げる。わたしにとって唯一出来る事。
彼と、彼女と、わたしは全てを知りながら何も知ることは無いままに。



………………視界が………………不良…………………
ぼやけて…………何も…………見えない……………
わたしは…………どうしたの………?
瞳からあふれ出るものの正体を……………わたしは知らない………………
「朝倉…………涼子……………」
彼女の名を呼んだ。全てを持ちながらわたしに全てを与えてくれた彼女の名を。
彼女なら知っているのだろうか、このわたしの頬を伝わるものの名を。
答えを知る事も無いままに、私は本を閉じた。



わたしは………………知りたい………………