『SS』 今の君に言えること

 年も明け、新たなる気持ちになってと行きたい所だが環境そのものが新しくなった新年を迎える。
 俺はあまりにも早く流れすぎた冬休みを振り返ることも無く着慣れた制服に袖を通す。階段を下りて食卓に向かうと驚いた妹の顔があった。
「あー! キョンくんが早起きしてるー!」
 失礼な、俺だって早く起きる時はある。いや、最近はずっと早起きだろ。
「どうしたの、キョンくん? どこか悪いの?」
 それもどうかと思うが。単純に眠りが浅いだけだ、あの日からずっと。だが、今の妹――俺の知っている妹とは違うのかもしれない――に言える訳もないので、
「年も明けたから気分も変わったんだよ。そんな事よりこぼさず食べなさい」
 トーストのカスをぽろぽろと散らかす妹を注意しながら、俺もトーストを口にする。当たり前の朝食に違和感というか、どことなく慣れない感じを覚えてしまうのも、いつかは忘れていくのだろうか。
 朝食を終え、玄関で靴を履き替えた俺は自転車を引っ張り出す。
「さて、行くか」
 俺の良く知る、俺の知らない学校へ。通い慣れた道、見覚えのある生徒。その全てが俺の知らない北校だ。
 そして、当たり前のように新学期が始まる…………本当の意味で俺の新しい生活が始まるのだった。




 教室に入ると久しぶりに見る顔が多い。意識するつもりも無いのだが、こいつらも俺の知る連中ではないのだと思うとやはり気が重くなってくる。
「やあ、キョン。明けましておめでとう」
 時期外れなようで年末以来会っていないのだから正解でもある挨拶をしてきた国木田さえも、俺と一緒に中学時代を過ごした国木田ではないのだ。そう思うと割り切ったつもりでもやり切れない。
「どうしたの? 珍しく早く来たかと思ったら調子悪いみたいだけど」
「ああ、いや何でもない。確かに慣れない事はするもんじゃないな」
 ……これから否応無く慣れなきゃいけないんだけどな。国木田には悪いが挨拶もそこそこに少し伏せるために自分の席に着いた俺だったのだが、
「あら、おはよう。今日は随分と早いのね」
 ああ、そうか。俺の後ろはあいつじゃなくて、お前なんだよな。これにも慣れないといけないのか、俺は後ろを振り返る。
「まあな、心機一転といきたかったんだがイマイチってとこだ」
「でも、いい心がけじゃない。何事も継続しなければ結果は出ないわよ」
 朝倉涼子は出来の悪い子にお説教をするような口調で俺に話しかけてきた。まあ顔は笑顔なのだから、からかうつもりでもあるのだろう。
「継続出来る自信はないな」
 早起きもそうだが、後ろの席がお前だって事実にも慣れるまでもうしばらくかかりそうだ。それでも選んだのは俺自身なのだとしても。
「継続は力なり、よ。もう少し頑張ってみればいいじゃない」
 いかにも優等生然とした、というか委員長らしい物言いの朝倉に「へいへい」と適当に相槌を打った俺なのだったが、
「そんなことより、折角早起きしてるなら気を使ってもいいんじゃないかな?」
 などと朝倉に言われてしまうのだ。一体何のことかと思えば、朝倉のヤツはニヤニヤしやがって、
「ほら、一緒に登校するとかね? 長門さんと」
 なんて事を言い出しやがった。
「ちょっと待て、何でそうなる? 大体長門はお前と一緒に登校してるだろ。流石に早すぎるぞ」
「あら、今日のキョンくんくらいの時間なら長門さんは待っててくれるわよ。そうだ、長門さんにお弁当の作り方を教えたら時間も丁度いいかもね」
 おいおい、あの長門がそんな…………いや、まて、可能性が無いとも言えないのか? 今の長門だったら少し頬を赤らめておずおずと鞄から弁当箱なんて取り出したりして…………
「ふふふ、何を考えてるのかしら?」
「い、いや! 何も考えてないって! そんな本人がいないところで話を進めても困るだろ、長門にも都合があるはずだし」
「だったら今日にでも帰ってから話してみるわね」
「勘弁してくれ」
 決して長門に弁当を作ってもらうのが嫌なのではない。朝倉に誘導されるような形が不本意なだけだ。まず長門がそんなことをしてくれるかどうかというのもあるのだが。
「些か不本意だけど、長門さんなら必ずお弁当を作るわね。そうなったらキョンくんは責任を持って全部食べること。ただし、あの子が料理をするなんて滅多に無いから出来については私には責任を負えないけど」
 怖いワードを交えるな、長門にも失礼だろ。まあ長門の食生活については朝倉以上に把握している人間もいないとしてもだ。それに、勝手に話を進めないでくれ。俺が早起きをして長門を迎えに行くことが決定しつつあるじゃないか。
 結局のところ朝倉と長門について会話するだけで朝のホームルームまでの時間は過ぎてしまった。早起きの結果として良かったのかどうかは明日俺が同じ時刻に教室に入れるかによるのだろう。
 だが、何だかんだで違和感を感じていたクラスにも馴染んでいっているのかもしれない。朝倉がいて、あいつがいないクラスの風景に。




 新学期初日なので授業らしい授業などあるわけではない。長ったらしい校長の談話に欠伸を噛み殺す始業式と、ドタバタ続きだったのを後半でどうにか形だけ繕った宿題の提出が終われば午前中で学校は終わりだ。
 まだ寒いせいか長袖ジャージ姿の岡部が「明日からがスタートだからな、気を抜くんじゃないぞ」などと言っているのをほとんど誰も聞いていない中でホームルームが終了した。高校生にとって短縮授業は自由時間を与えられたに等しい。この後をどうするか騒がしい教室内で、俺は早々に鞄を手にすると教室を後にしようとしていた。
 すると、背後からまたも揶揄するように話しかけてくる奴がいる。
「ねえ、どうせ行くんでしょ?」
 どうせ分かってるだろうが。ニヤニヤ笑う朝倉に俺はため息と共に答えた。
「新学期から部活は活動してるんだろ?」
「運動部はね。文化部は別に義務的にやってる訳じゃないわよ?」
 それでもあいつは、長門有希は文芸部室に居るのだろう。当たり前のように、窓際の席に佇んで。
「ふ〜ん、よく分かってるじゃない。それでキョンくんは急いで鞄を持ってる訳ね」
 ああそうだよ、だからとっとと行かせろよ。「はいはい」と手を振る朝倉を見ようともせずに俺は席を立ったのだが、
「あ、長門さんに会ったらビックリするわよ。期待しててね」
 などと言われてしまい、思わず足を止めてしまった。
「おい、長門が何をしたんだ?」
「それは行ってみてからのお楽しみよ。ほら、長門さん待ってるから! ついでに今日の晩御飯を何にするか訊いておいてくれると助かるな。なんだったらキョンくんの好きなものでもいいけど」
 それは一体どういう意味だ? 問い詰めたかったのだが、朝倉はあっさり違うクラスメイトと談笑している。しかも相手が女なので話に割り込みにくい。この野郎、ここまで考えてやがったな。
 これ以上時間を無駄にしても仕方が無い。俺は最後に朝倉を睨みつけて(無視しやがった)教室を後にした。


 通い慣れた文芸部室への道を一人歩く。この先にあるのは文芸部室であって、それ以上でもそれ以下でもない。
 ドアの前に立ち、見上げてみても文芸部室のプレートには紙が貼られておらず、そこに見慣れた筆跡もない…………ここはSOS団じゃないんだ。
 深呼吸をしてドアをノックする。返事はない。が、俺は構わずドアノブに手を伸ばした。静かに廻せば鍵は既に開いている。当たり前だ、ここは文芸部室で、文芸部員が必ず居るのだから。
「入るぞ、長門
 俺は無口な彼女の返事を待たずにドアを開けた―――――




 ――――あの時、エンターキーを押せなかった俺を後悔するつもりはない。光陽園に居るあいつらとも少しづつだが話せるようになった。古泉なんかとは忌憚なく話せるだけマシかもしれない。朝比奈さんと鶴屋さんの誤解もどうにか解けたのは朝倉と長門のおかげだ。
 そして、俺がここに残るという意思を固めさせたのもまた長門が、あの長門有希がここにいたからだ。宇宙人でも何でもない普通の女子高生、それをお前が望むのならば俺はそれに従おう。そう、思ったんだ。



 だが、ドアを開けた俺は驚愕の光景を目の当たりにする。思わず鞄を取り落としてしまうほどに。
「な…………?」
 どうしてだ、何でお前が此処に居る? お前は…………もういないんだ…………
 窓際の席に座り、静かに本のページをめくる。その姿は何度も見てきたはずなのに、俺の背筋を悪寒が走る。有り得ない、有り得てはいけない。

 眼鏡をかけていない長門有希が此処にいるなんてことは。

 顔から血の気が引くのが分かり、思わず後ずさる。踵がドアに当たり、ガタッと音を立てた。
 その音でやっと気付いたのか、長門が本から顔を上げて、
「あ…………」
 気付かなかった事を恥じるように頬を染めて俯いた…………そうか、お前はあの長門じゃないんだな。ホッとしたような、寂しいような、虚しさに近い想いが俺の胸に去来する。
「あの…………どうぞ……」
 動かない俺をどう思ったのか、長門は立ち上がるとパイプ椅子を用意してくれた。そのまま定位置である自分の席に着くと本も広げずに俺の方を見つめている。
 このまま突っ立っていても仕方が無い、俺も長門が用意してくれた椅子に座る。微妙に位置をずらして長門の正面に。すると長門は困ったように、
「え、ええと……」
 俯いたまま顔を上げなくなってしまった。いや、俺が長門の顔を凝視しすぎているのだ。何故凝視しているかと言えば、長門が眼鏡をかけていないからだとしか言いようがない。
 ほんのりとピンクに染まった頬の色さえなければ、見間違う程に似ている。俺の知る、俺が頼った長門有希に。いいや、彼女も長門有希ではあるのだが。
 だが、眼鏡をかけていない長門有希はあの世界に消えたのだ。俺は新しい世界での一歩を踏み出したはずなのに。
「あ……」
 ダメだ、そんな目で見ないでくれ。長門はそんな顔をして俺を見たりはしないんだ、あいつはいつも冷静で…………
「すまん、今日は帰るわ。邪魔したな、長門
 俺は立ち上がると長門の返事も聞かずに部室を後にしていた。これ以上此処に居ると、また無口な少女を問い詰めそうな気がした。それが未練なのか、後悔なのか、俺には分らないままだった……





「どういうつもり?!」
 翌日の朝、教室に入った俺に朝倉が向けた第一声がこれだった。
「……すまん」
 俺は朝倉にも頭を下げるしかない。理由は自分勝手なもので、しかも朝倉にも長門にも関係は無いのだから。
 朝倉は俺を一瞬だけ睨みつけると、諦めたように溜息を吐いた。
「理由は聞かないわ。だけど、長門さんにはちゃんと説明してあげて。お願いだから、あんなに落ち込んだあの子の姿を見せないでほしいの」
 泣いてたわ、あの子。朝倉は話を打ち切る時にそう言った。
 俺は、その日の授業内容も昼食の味も判らないままに放課後を待つしかなかった。



 
 重い足取りで、それでも迷うこともなく旧校舎へと歩く。
 文芸部室の前で少しだけ腰が引けそうになったが、俺は思い切ってドアを開けた。そこには、長門が立っていた。本も何も持たず、眼鏡もかけていない長門が。
 その佇まいに既視感を感じ、俺は眩暈がしそうになる。違う、これはあの長門じゃない。それなのに何故お前が此処に居るんだ?!
「あ、あの……」
 しかい、俺の意識を戻してくれたのもまた長門だった。小さく消えそうなか細い声。長門有希が出しそうもない、その声に俺は現状を知らされたのだ。
「あ、ああ、長門。その、昨日はすまなかった…………ちょっと調子が悪くてな」
「……そう」
 そこから二人で立ち尽くす。沈黙が重く、原因が自分にあるのが分かっているのに声が出ない。
 やがて、口を開いたのは長門の側からだった。
「……どう、かな?」
 何を、とは言えないだろう。眼鏡が無い長門は少しだけはにかみながら俺に一歩だけ近づいた。俺は、何も言えない。近づけばそれだけ長門の顔がはっきりと分かる。
「眼鏡、無い方がいいかなって」
 ああ、そうだとも。俺には眼鏡属性なんてない。だから眼鏡は、
「いや、おかしいだろ」
 口をついたのは思いもしていない言葉だった。長門の顔が驚きで硬直する。
「眼鏡くらいで印象なんか変わりもしないし、無理したってしょうがないじゃないか」
 違う、そんな事を言いたいんじゃない。俺はただ眼鏡がないお前が此処に居るのが怖いんだ、まるで置いてきた世界に引きずられるようで。
「どうせ朝倉辺りに入れ知恵だろ? お前が何も言わないから、」
「違うっ!」
 自棄になったように話す俺の言葉を長門の叫びが遮った。
「朝倉さんは関係無い。これはわたしの、わたしが自分から…………」
 何だと?! 長門が、自分の意思で眼鏡をやめようとしたっていうのか! それは、
「悪い、そういうつもりは……!」
 驚いて言葉が出なくなる。目前の長門は顔を赤くして瞳には涙が溢れている。眼鏡をかけていない長門の瞳に、今の長門だからこそ浮かぶ涙。 
「わ、わたし……少しでも変わりたくて…………こんな自分じゃ駄目なんじゃないかって…………おも……って……」
 溢れた涙が頬を伝う。拭う事も忘れたように泣き続ける長門
「ごめ……なさ…………」
 違う、違うんだよ長門。お前を泣かせるつもりなんか無かったんだ。足りなかった言葉が繊細な長門を傷付けてしまい、伝えきれない想いが俺の体を動かしている。
「すまない……」
 俺は長門を抱きしめていた。小柄な彼女を包み込むように。長門は大人しく俺の胸に抱かれてくれた。
「本当は、怖かったんだ」
「え?」
「お前は知らないだろうけど、俺は眼鏡をかけていないお前を知ってるんだ。そして、それは俺にとって…………かけがえのない思い出なんだよ」
 俺は忘れない、長門有希が俺にしてくれた数々の助けを。頼れるSOS団の団員、宇宙人の長門有希を。
「だけど、俺は此処に居る。長門、お前が此処に居てくれるからだ」
「……そう、なの?」
 それでも俺は選んだのだ。人間である、普通の女の子である長門有希が居る世界を。
「だから俺は、お前と共に新しい思い出を作っていきたい。それは眼鏡をかけてるお前じゃないとダメなんだ」
 新しい世界の証明、それが眼鏡をかけたお前なんだよ長門
「……え?」
「分からなくていいんだ。ただ、俺は眼鏡をかけたお前の方が好きなんだ。それだけ、知っていてくれればいい」
 自然と出た言葉に自分で納得する。そうだ、俺は長門有希が好きなんだ。その長門が望んだ世界、そこで長門有希と共に歩みたいと思ったから、俺は今此処に居る。
 抱きしめていた長門がおずおずと俺の体に手を回し、キュッと掴んだ。
「わたしも……あなたが好き。ずっと、ずっと好きだった」
 長門が顔を上げる。黒曜石の瞳に涙の海を湛えて。
「言えなかった言葉を言いたくて、自分が変わりたくて、眼鏡を外したら何か変わるかもしれないって思ったから。わたしは……間違ってた?」
「いいや。お前にそこまでさせた俺が鈍いのがいけないのさ。長門、お前はお前のままでいいんだ。そのままの長門有希が俺は好きなんだ」
「そう…………」  
 長門がそっと俺から離れた。温もりが消えていくようで寂しさすら感じてしまう。
 けれど、長門は俺を正面から見つめてこう言ったんだ。
「本当はコンタクトレンズを着けるのも怖かった。眼鏡の方がいいと言ってくれて…………ホッとしちゃった」
 その時の長門の微笑みは、俺の脳内フォルダにだけ留めておくに相応しい程に可憐で美しかった事だけは明記しておこう。但し、誰にも見せるつもりなどないけどな。
「ああ。泣き虫の長門だとコンタクトがすぐずれちまうからな」
「…………いじわる」
 やっと笑えた。心から二人で。夕陽が差し込む文芸部室で、俺と長門はただ二人で笑っていたんだ…………






 日曜日の朝。俺は奇跡的なまでに自主的な起床を果たし、普段から考えられない程の長時間を洗面所で鏡を前に過ごした。
 無けなしの小遣いを叩いた一張羅のジャケットに袖を通し、学校指定じゃない方の革靴を履いて玄関を飛び出す。時間は余裕あるはずなのに足が前へと押し出されているかのようだ。
 俺は気付けば走り出していた……



 待ち合わせた駅前。まだ30分も前なのに、彼女は静かにそこに立っている。
 純白のワンピースで、文庫本をその手に開いて。傍らに置いてあるバスケットには、きっと彼女が頑張って作ってくれた手作り弁当が入っている。
 そんな彼女を遠目で見つけただけで微笑んでくる。足を止め、呼吸を整えて。ゆっくりと君の前へ。
「よう、待ったか?」
 すると彼女は静かに小さく首を振って。そんな事は無いのも分かっているから、俺はやっぱり謝った。
「ごめんな、長門
 長門有希は静かに微笑んで。眼鏡のレンズが陽光にキラリと光った。
「いい。あなたを待つ時間も、わたしには幸福な時だから」
「そう言ってくれて嬉しいよ。俺も長門に会う時間を大切に思ってるさ」
 そんな言葉で頬を染めてくれる彼女がとても可愛くて。
「行こうか、なが……有希」
 俺は手を差し出した。これでも精一杯の勇気を出したつもりだぜ? いきなり下の名前を呼んでしまうなんてさ。突然過ぎて驚かせたのは悪かったと思うけれど、それでも彼女は、
「…………はい」
 そっと俺の手を握ってくれる。素直に喜びが伝わってくるようで。
「有希」
「……なに?」
「似合ってるな、その眼鏡。やっぱりお前は眼鏡がある方が可愛いよ」
 俺に眼鏡属性が付いたとすれば、それは長門有希限定だな。
「…………そう」
 照れて俯く彼女の手を引っ張って。

 今から始まるんだ、俺と長門の新しい日々が。非日常ではない、普通の日々が。
 そして、普通の文芸少女である長門有希には眼鏡がよく似合う。たったそれだけの事なんだ。
 だから行こうぜ、長門。お前が望んだ、この普通の毎日に。



 俺と長門は手を繋いで歩く。眼鏡が良く似合う大人しく優しい彼女と、俺は共に歩くと決めたのだから…………