『SS』 楽しく楽しく優しくね

わたし以外誰も居ない文芸部室。少しだけ差し込む隙間風。室温を上げようとしている電気ストーブ。静かにめくれるページの音。
その全てが予定されていない調和を生み出し、そして時間という流れが滞留することもなく流れてゆく。
わたしは何時からかそれを心地良いと感じるようになった。いや、感じるという心を持つことが出来た。それはわたしという個体の成長と呼べるのだろうか?
静かにページを繰りながら、思考の深海に佇む。その時間すらも愛おしく。ただ聞こえるのは紙が奏でる知性のハーモニー。

そしてその調和を壊さぬように、優しくドアを叩く音。

このようなノックをする者は一人しかいない。周囲への気遣いというものを意識しつづける彼しか。わたしは無言で返答とした、この部屋では全ての人たちがそれで認識してくれる。
そして彼も。
「おや、長門さんお一人ですか」
そう言った彼は部屋の奥にある棚の前へ。少し思案顔で今日行うボードゲームを吟味している模様。わたしはページをめくり、視界の端には彼を捉えたまま。
しばしの熟慮の末、彼は将棋盤と駒を持ち自分の指定席に着く。わたしの横、長机に将棋盤を置いて。
気付いているだろうか? わたしの本棚もあなたの棚の隣であることを。それをわたしは好ましく思っていることを。
「騒がしくしてしまい申し訳ありません」
そう言って謝る彼は柔らかい笑顔で。それが彼の仮面なのか、わたしには判断出来ない。それを冷静に判断するには、わたしはここに慣れすぎたから。


そして再び訪れる調和。音が重なる静かなる時間。


空気の流れる音。ストーブの稼動音。紙のめくれる音。そして彼が駒を置く音。
その全てが少しづつ自己主張をしながら少しづつ互いを認めているかのごとく重なっていく音。それはわたし達のように。そしてそれを奏でているのはあなたとわたし。二人が奏でている静かな音楽。
音の羅列がわたしの耳朶を優しく打つ。心地良いリズムで。
あなたにも聞こえるだろうか? この優しく美しい旋律が。そしてわたしの鼓動もまた静かにリズムを刻んでいるという事を、彼にも知ってもらいたい。それは少しだけ速く、そして軽やかに。
「……………遅いですね、みなさん」
彼が出した声もまた静かに音となって溶けてゆく。ただ内容は少しだけ寂しい、二人で居る事が彼には苦痛だったのだろうか? 心の奥に新しい音が響く。それは軋むような哀しい不協和音。
心が、痛むという事。それはわたしが知らなかった音。彼の言葉で奏でられた暗い音楽。


わたしは………………あなたと…………………二人で……………


「それもいいかもしれませんね」
え? 言葉が出てこないまま、いや、それが普通のわたしに彼の言葉が優しく届く。 
「僕はですね? 長門さんと二人でいると妙に落ち着くようでして」
その笑顔は温かい音色と共に。
「笑い話のようですがあなたの前では僕も仮面を外しているのかもしれませんね」
それは柔らかく優しい音色。先ほどまでの不協和音が掻き消えていくように。
「まあ長門さんからすればお見通しかもしれませんが、他の方々にはくれぐれも内緒でお願いしますね?」
わたしにも分からなかった、とは言わない。何故ならば今流れる音は心地良いから。
彼と共有する秘密。それは甘美なまでのシンフォニー。
静かなまでの室内で、響き渡るようにわたしの鼓動が耳の中を、脳内を駆け巡る。それすらも安らぎを生み出す清らかな音階となって。
「………………わかった…………」
わたしが告げた小さな告白は二人の秘密の共有の証。その囁きは彼の耳のどのような音となって届いたのだろうか?
「ありがとうございます」
彼の優しい微笑みは、わたしの中の音楽に温もりを与えてくれる。その温もりこそがわたしが求めていたものだったのだろう。今のわたしはそれが理解できる、知識ではなく心として。





「どうですか? 皆さんが来るまで一局お付き合いいただければ」
綺麗に並べられた盤面を見やる。その先には彼の笑顔。
そう、それは二人が奏でる静かなる音楽。
ただ駒が置かれる音だけが聞こえる室内で、わたしはこの音が永遠に鳴っていればいいと静かに思うのだった………