『SS』 月は確かにそこにある 24

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 いくら男と言えども高校生が夜出歩くのは結構大変なんだぞ、と一人愚痴りながら外に出てしばらくも歩かない内に真横に車が近づいてきた。家の真正面に止めないところが今の俺と『機関』の距離感なのかもしれない、などと油断しないように気をつけながら足を止めると後部座席のウィンドウが開く。
「どうぞ、呼び出して申し訳ありません」
 まったく思っていることと反対なのだろう、義務的に言葉をかけてきたスーツ姿の森さんに促されるまま車に乗り込む。運転席には新川さん、どうやら『機関』の俺担当はこの二人で間違いなさそうだな。いや、『機関』というものに対して信用をしていない以上、俺にとってこの二人が味方であるという保障はどこにもない。
 相変わらず周囲から音を遮断されているかのごとく静かな車内で目的地も不明のままに車は走る。振動も無いので本当に走っているのかすら怪しくなってくるが、何度かカーブを曲がったのは分かる。
 どこに行くのか、とこちらが聞く前に森さんが静かに口を開いた。
「今から多少乱暴な運転になりますけど我慢してください。多分すぐ終わりますから」
 言うが早いか、さっきまでの静寂が嘘だったかのように車が急発進する。
「うおおおおっ?!」
 俺の叫んだ声と同時に乱暴に車が旋回するのが分かった。バランスを崩した俺を森さんが当たり前のように支える。俺より華奢な体なのに体勢を変えることもなく俺を抱きしめるようにして支えた森さんは運転席に向かい、
「どう? 撒けそう?」
 と叫んだ。運転席の新川さんが、こちらは渋く冷静な声で、
「余裕だな、あちらも本気ではない。様子見といったところなのだろう」
 ハンドルから手は離れていないがアクションしているようには思えないほどスムーズだ、ただし車は物凄い勢いで走っていてかなりのGが掛かっている。俺は何も出来ずに情けない話だが森さんにしがみつくような形で動けないでいた。少しだけ見える窓の外の風景がありえないスピードで流れていく、一体何キロ出てるんだ?! いつの間にか始まったカーチェイスは一体いつまで続くというのだろうか。
 森さんに庇われるように抱えられたまま、どれほどの時間が経ったのだろう。ふいに全身に圧し掛かっていた圧力が無くなると、
「どうやら無事に撒いたようだ。すまない、君には負担をかけたようだね」
 新川さんの声に我に返った俺は慌てて森さんから離れた。何とも恥かしいというか情けないとしか言い様がないのだが、当の森さんは何事も無かったかのように、
「一般人が乗っているのに乱暴な手段も取れないでしょう、あなたも多少は覚悟しておいてください」
 冷静にそう言うと、改めて俺に向き直った。
「あれは我々の仲間なのですが、どうも私達も監視対象に組み込まれつつあるようなのです。まあ仕方ないとも言えるのですが」
 言葉に刺があるものの、冷静なままなのは『機関』で訓練されているという結果なのだろうか。
「どういうことですか? 仲間って事は『機関』の連中ってことですよね、一体何があったんですか?」
 『機関』の仲間だと? 内部で何かあったのか、それは俺にとってどのような結果をもたらすのか、まだ何も分かっていないんだぞ。
「大した問題ではありません。単に古泉の様子がおかしくなり、それに我々が関連していると思われたから監視されているというだけの事です。これは内部の話なのであなたには直接関係はありません」
 またも突き放すように語る森さんなのだが俺は実際に巻き込まれてるじゃないか、それに古泉の様子がおかしいっていうのもどういうことだ?
「その原因があなたにあると思ったから呼び出したのです。質問はこちらが行います、あなたは古泉に何をしたんですか?」
「よせ、彼はまだ何も知らない可能性もある。性急に事を進めようとするんじゃない」
 詰め寄ろうとする森さんを運転席から新川さんが止める。正直助かった、ビビッて動けなくなっちまってるんだ。あの迫力で笑顔も無いんだぞ、思わず漏らすとこだって。全身が震えて止まらない。俺はあくまで一般人だ、目の前に死の予感があるのに平気な顔は出来ねえよ。
 だが、俺の恐怖を解きほぐそうとするかのような新川さんの優しく低い声が何とか正気を保たせる。
「重ねてすまないね、森も焦っているんだよ。勿論私もだ、古泉が何故こうなったのかという原因が不明のままなのは確かなのだからね」
 否定しようとする森さんを目で制した新川さん(どうやら年の功ってだけではなさそうだ)は俺が落ち着くのを待ってから改めて質問してきた。
「まずは状況の説明からだね。君の言うとおり古泉一姫は我々の知る彼女とは別人である可能性が高い事は判明した。いや、もしかしたら今の古泉が本当の古泉なのかもしれないが」
 どういうことだ? 古泉は古泉のままのはず…………だなんて今更言うつもりはない。間違いなく古泉は俺の知る古泉一樹ではなく、どうやら新川さんたちの知る古泉一姫でも無い人物となっているらしいのだから。だが新川さんは今の古泉が本当の古泉かもしれないとも言っている、それは何故だ?
「知っての通り、古泉一姫は『機関』の訓練した超能力者であり、その目的は我々に能力を与えた涼宮ハルヒの監視及び平穏を与えて世界が崩壊しないようにする事である。君もそう認識しているはずだ」
 新川さんの説明に頷くしかない、古泉自身がそう言っていたし実際に『機関』とは膨大な費用や時間をかけてハルヒのご機嫌取りをしているとも言える。ただの女子高生の我が侭が世界を動かしていると言っても過言ではないのだ。しかもそれを是としているこいつらを俺は呆れて見ていた節すらある、古泉の説明とは常に胡乱なものであって真に迫るように仕向けていないという面もあったからな。
 つまりは俺は何となくしか『機関』というものを知らず、古泉もそれを良しとしていた。距離感の問題だろう、これ以上の接近は俺はともかく長門や朝比奈さんの組織とのバランスが崩れる。改めてハルヒという女を中心に曖昧であやふやなバランスの上に俺達は立っているのだと思わされた。だが、その振り子のバランスは今や微妙に動いている。どちらかと言えばいい方向では無いと思っているが、それは俺だけなのか? 新川さんの説明は続く。
「その中でも古泉は特に選ばれて涼宮ハルヒの側近として派遣された。それは何も年齢だけの問題ではない、客観的に見て古泉一姫は選ばれるべくして選ばれたのだと思ってもらって構わない。彼女にはそれだけの能力があり、その期待に応えてきたと言っていいのだろう」
 要はエリートだってことか、ハルヒ関連についての。確かにハルヒイエスマンぶりについては俺が何度苦言を呈しても糠に釘だった、ハルヒにとってはさぞいい人材だろうさ。現に今の古泉は謎の転校生なんて肩書きは遠い過去のものとなって立派な副団長様だもんな。新川さんが何を言いたいのか分からないが、俺としては今更といった話だ。しかし、新川さんの次の言葉に俺は戦慄せざるを得なかったのである。
「だが、それが裏目に出た。『機関』はそう睨んでいる」
 何だと? 裏目とはどういうことだ、新川さんの言葉に森さんも真剣に頷いている。古泉がどうしたって言うんだ? あいつがハルヒの傍にいたことが何の影響があったっていうんだよ?
「逆です、古泉が涼宮ハルヒの傍に居すぎたことが原因なのだと『機関』は考えているのです」
 森さんの説明にもまだ俺の脳みそはついていけてない。古泉がハルヒと一緒に行動している、それがSOS団の正しい姿の一つだ。今は女になっているが男でも女でも古泉は古泉だ、俺達の仲間であってそれは変わりようが無い。それのどこがおかしくなった原因だと言うんだ、俺は森さんに詰め寄る。さっきまでの恐怖はどこかへ置いてきたかのようだ、いくら『機関』の仲間とは言えハルヒのことを疑うような発言は許せない。
 しかし森さんはどこまでも冷静に、
「古泉の能力が高すぎたのです。即ち、涼宮ハルヒの精神状態との感応能力の高さが古泉を古泉らしからぬ状態に導いたと言えるのかもしれません」
 そう言われると思い当たる節がある。何となく涼宮さんの精神状態が分かる、古泉は確かにそう言っていた。それはつまりハルヒ自身の気持ちを古泉も共感出来るということであり、突き詰めればハルヒそのものになるという可能性もある。森さんや新川さんはそう言いたいのか?
「そう、古泉はその感応能力の高さ故に涼宮ハルヒの心理そのものをトレースしようとしているのではないか。それが『機関』の出した結論です」
 同性故に距離が近すぎたのも原因だろう、新川さんはそう継ぎ足した。古泉が女だったから、古泉一樹ではなく古泉一姫だったからハルヒの心情に引きずられてああなっちまったって言うのかよ。
 二人は俺の問いかけに無言で頷いた。その真剣な表情から冗談ではないことだけは理解出来る。だがなあ、俺には言いたいことが多すぎてどこから話せばいいのか分からなくなってきたぞ。
「あのですね、古泉は元々男なんです。それも俺のいた世界では当然の事実であって、古泉が女になっているこの世界こそが俺にはイレギュラーそのものなんです。それなのに古泉が何の抵抗も無くハルヒの言いなりになってるなんて考えられません、あいつもハルヒを神様だなんて言ってたけど心底そう思ってるなんてありえないですよ」
 古泉が女なのはあくまでこの世界だからこそだ、俺と一緒にこの世界に来た古泉一樹の意思はどこにいったんだ? それを踏まえずに話は進めるわけにはいかない。それにもっと重要な点がある。
「それに今の古泉の行動がハルヒの意思の表れというなら目的は何なんですか? あいつがやってることと言えば俺にちょっかいをかけてハルヒの機嫌を損ねてるようにしか見えません」
 そうだ、最大の疑問点は古泉の態度を見たハルヒの顔なんだ。古泉が俺に好意を向けている? というものおかしな話なのに、それを他の二人と共に応援するだと? あんなに沈んだ顔でそう言われてハルヒが望んだ世界なんて納得出来るわけないだろう。何よりも、この話は前提そのものが間違っている。俺はその点を気付いてしまった。
「そこについては古泉や我々よりも貴方の方が心当たりはあると思っていたのですがね」
 森さんの口が皮肉に歪む。何が言いたいんだ、俺が文句の一つもぶつけようとした時だった。
「とにかくこれ以上古泉一姫を涼宮ハルヒに接近させる訳にはいかない。これが『機関』の総意だ、翌週には古泉の転校手続きを取る予定になっている」
 新川さんの一言で俺は驚愕の視線を向けるしかなかった。古泉を転校させるだと? 何だ『機関』の総意って!
「どういうことだ、古泉が何かしたって訳じゃないだろう! 何であいつが転校なんだ、そんなのハルヒが承知するはずがない!」
「分かってると思うが古泉は『機関』の一員だ、涼宮ハルヒが何を望むかではない。あくまで『機関』としてこれ以上の古泉一姫の北校での活動は危険と判断しているのだよ」
「古泉自身も疲労の度合いが増しています。精神的に閉鎖空間での活動以上の負担がかかっているのは明白なのです、本人の意思に関わらず北校からの撤退は已む無しと判断せざるを得ません」
 くそっ! 俺が言いたいのはそういう事じゃないんだ、古泉はSOS団に、ハルヒにとっても無くてはならない奴だってことを俺は良く分かってるんだよ! 誰が欠けてもそれはSOS団じゃない、ハルヒが望むものじゃないんだ。そして俺もあいつも言ったんだ、何があっても守ると。
 俺達のSOS団を、ハルヒが、俺が望むSOS団という絆そのものを。
 それを『機関』なんて連中の好き勝手にさせるか、俺は抵抗するぞ、何があってもだ。
「………貴方の存在そのものをここで消せば全ては上手くいくかもしれませんけどね?」
 森さんの脅しにも興奮した俺には通用しなかった。そんな事をすれば本当にハルヒが黙っていない、あいつは誰が欠けてもそれを許しはしないんだ。
「よせ、我々が彼を呼び出したのは脅迫の為ではない。むしろ逆だ、私は彼に頼みたいからこそ連れ出したのだよ。『機関』の追求をかわしてまでね」
 新川さんがそう言うと森さんも、そうですね、と落ち着いて応えた。だが皮肉な微笑みが消えることはない、優しく微笑むメイドさんしか知らなかった彼女のこれが本当の姿なのかもしれない。
 とりあえず新川さんの声は俺を冷静にさせるのにも充分な効果だった。俺は改めて座席に座りなおし、新川さんの言葉を待つ。
「古泉の転校は揺ぎ無い事実だ。それは『機関』の決定であり、何者も覆す事はままならない。だが、手段が無いわけではない。それは古泉自身が元の状態に、『機関』の一員としての役割を果たすに値すると思われる状態に戻ることだ。その為に君の協力が必要なのだよ」
 新川さんの説明に森さんが補足する。
「期間は月曜日まで。月曜日に転校手続きを取れば火曜以降は古泉は北校から存在しなくなります。それまでに何も出来なければ古泉一姫は転校し、新たな『機関』のメンバーが涼宮ハルヒの監視に現れるでしょう。それは我々とは直接関係のない人物です、我々も連帯責任で役目から外されるでしょうからね」
 皮肉の原因はそこにもあるのだろう、森さんの言い方には一々刺がある。だがそれも、
「古泉が北校に、涼宮ハルヒや貴方の傍に居たいというのは確かなのです。私としてはたとえ不本意であろうが協力は惜しみませんのでご要望があれば言ってください」
 古泉を仲間だと思えばこそなのだろう。俺も森さんが本当に『機関』の言いなりだなんて思いたくは無い。それは新川さんも同様だ、この二人は仲間からすら監視されているのを振り切って俺に頼んできてくれたのだから。
 俺は黙って頷いた。古泉を転校させない、いや、俺達の古泉を取り返してこの世界から脱出する。そうすればこちらの古泉も元に戻るはずだからだ。
 新川さんが頷き返し、
「どうやら古泉の見る目は確かなようだな、何も分からないままこの世界に来たという君に全てを委ねるのは酷だと思うがよろしく頼む」
 そのまま差し出された手を握った。これでもう後戻り出来ないんだ、残り二日で何とかしなければならないという枷を俺は背負った事になる。
「もう時間ね、これ以上は弁明出来そうもないわ。家まで送りますから後はお願いします」
 森さんがそう言うと新川さんは車をスタートさせた。帰り道は誰もが無言だった、それぞれ考えることはあったのだろうが、誰も口をききたくなかっただけなのかもしれない。
 車は何も振動を伝える事無くスムーズに止まり、俺は家へと着いたのだと分かった。後部座席が開き、出てみると家の明かりが見える。
「目前まではお送り出来ませんけれど。ご心配なく、貴方への監視は行われておりませんから」
 森さんの言葉に安心する訳じゃないが、監視されてるなんて分かったら精神的に参りそうだ。少なくとも『機関』ではまだ俺は対象外なのは救いなのかもしれないな。
 兎にも角にもようやく一息つけると俺が帰ろうとすると、森さんが手を差し出した。意図が分かった俺は森さんの手を握る。
「古泉を、頼みます」
 その一言で森さんの気持ちが伝わってきたような気がした。俺は新川さんの時と同じように黙って頷いた。それだけで充分だと思ったからだ。
 ドアが閉じ、車は静かに発進する。俺はそれを見送ると踵を返し家へと急いだ。流石に帰宅が遅い日が続いているので印象も悪いし最悪外出禁止など食らったら面倒にしかならないからな。
 しかし、俺の頭の中を占めているのはそんなことではなかった。そう、前提の話だ。
 古泉が変わったのがハルヒの心の変化なのだとしたら。その変化の表れが古泉一姫の態度なのだとすれば。あの古泉は、ハルヒの心なのだと言うのならば。
 ハルヒは、俺に対してああいう風に接したかった? それはハルヒが俺を……………
 くだらない、自意識過剰にも程がある。あいつは恋愛を精神病だと言い切った女だぞ。
 それなのに、俺は何を考えてるんだ。余計な思考を払うように思い切り頭を振り、俺は重い脚を引きずるように帰宅した。
 残り二日、その間に古泉を元に戻して自分たちの世界へと帰る。それは俺が想像していた以上に大きく高い壁となって立ち塞がっているかのようだった。