『SS』 長門有希の複雑 3

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「だから悪かったってば。理由わけは涼子からちゃんと聞いた。あたしの早合点だったことは認めるから」
「そうかい」
 なら、もうちょっと悪びれて言えっての。何、ムスっとした表情で俺の目も見ないで言ってやがる。
 心の中だけで呟く俺の憮然とした表情がまったく崩れないものだから、ハルヒと俺は何度も何度も同じやり取りを繰り返している。
 俺とハルヒは今、肩を並べて部室へと向かっているわけだが、実のところ教室から出たわけじゃなくて、保健室、、、から出てきた。
 つまり、ハルヒのドロップキックは俺の意識を放課後まで飛ばしてしまったってことさ。
 ちなみに有希に対する理不尽な思いは消え失せている。何と言っても、気絶した俺をずっと看病してくれていたのは有希だからだ。その八面六臂の活躍ぶりは意識が無かった俺でもよく分かるくらい素晴らしかったらしく、目が覚めた時に清々しさと暖かさを思う存分感じることができたことが何よりの証拠だろう。
 ありがとうよ有希。
 ハルヒに聞こえないよう、そっと右肩の恋人に伝えてやると「いい」と言って有希は俺の頬にそっと寄り添ってきた。
 そんな有希のぬくもりが俺の憤りも吹き飛ばしてしまうのさ。
 そもそもハルヒは六時間目の途中で朝倉から(情報操作云々は力いっぱいぼかした上で)真相を聞かされたものだから授業が終わるまでこっちに来ることができなかったしな。
「なら今後は、せめて少しは理由わけを聞くようにしろよな」
「分かったわよ」
 ようやく俺が同じ問答ループから抜け出す言葉を口にして、これでハルヒの謝罪を受け入れたことになるってやつだ。
 ハルヒも不承不承に首肯している。
 そんな俺たちは、すでに部室の前に来ていて軽くノック。
「はぁい。どうぞぉ」
 中からのエンジェルボイスを確認して中に入る。ちなみに『至極の』という枕詞を付けなかった理由は至って単純だ。
 なぜなら俺にとってはもう、『至極のエンジェルボイス』とは有希の声に他ならないからであり、と言うか、そうしないと今度は有希に保険室送りにされてしまうんでな。いや、保健室ならまだいいが病院になる可能性がある以上、そんな怖い真似はできん。
 で、中に入るといつものメンバープラス朝倉がいて、
「って、何で!?」
「ああ、涼宮さんに彼女を連れてきといて、って言伝されていたのよ」
 素っ頓狂な声をあげて固まった俺に、にこやかな笑顔で返す朝倉。
 そう、いつもは俺の席に、本日、転校してきた若葉さんがそこにちょこんと座っていたのである。
「ありがと涼子!」
 言って、ハルヒは満面の笑顔で駆け出して、若葉さんを立ち上がらせて、その両肩を後ろから包み込むように掴み、団長席の前へと引っ張ってきた。
 もちろん部室には全員揃っている。
「紹介するわ! クラスに本日やってきた即戦力の謎の転校生! 名前は若葉ちゃんよ!」
 うわ。『謎の転校生』のポジションは古泉から若葉さんに移ったというわけか。
 しかしまあ、古泉だってこれで転校してきてから一年以上、経つわけだし、いつまでも転校生の雰囲気を出しているのは相当周りと打ち解けられていないイタイ子って意味になるか。ついでに今の古泉のポジションはSOS団副団長だ。新たな『謎の転校生』が出てきたとしてもさほど問題はないだろう。
「それはそれは頼もしいですね。僕たちも歓迎いたします」
 こういうときに相槌をうつ祝辞の言葉は古泉の役割だ。素晴らしいタイミングだったぞ。
「えっと、涼宮さん。どう言ったところが『謎の転校生』なんですかぁ? あたしにはごく普通の可愛らしい女の子にしか見えないんですけどぉ」
「いい質問ね。みくるちゃん」
 得意満面に瞳を伏せるハルヒは満足げな声を漏らしている。そりゃまあ、若葉さんは文字通り『謎の転校生』だ。誰も素性を知らない異世界人な訳だからな。
「この子にはね、とんでもない頭脳と人並み外れた身体能力があるのよ! 頭脳についてはあたしとキョンと涼子はもちろん、他にクラスの連中が知っているし、身体能力については5組と6組全員が知っているわ! そんな力、普通の人間が持っているわけないじゃない! しかも転校してきた時期が不自然! 二つまでは偶然だけど三つも奇妙なことがあれば、高確率で謎の転校生なこと間違いなし!」
 本当に全部当て嵌まるだけに、しかも、『転校した時期』を除けばハルヒが言った若葉さんの能力については氷山の一角でしかなく、その本質はさらにとんでもない御方なのであるわけだから今回ばかりは反論のしようがない。とって付けたような嘘じゃすぐバレる。
 って、若葉さんをSOS団に入れるつもりか!?
「何驚いてんのよ? 当たり前でしょ。我がSOS団は普遍的じゃない人材を求めているのよ。ピッタリじゃない」
 なんとも呆れかえった表情で言ってくるハルヒ
 まあ確かに、この場にいるのは俺以外は普遍的な高校生とは言い難い。神様モドキに、宇宙人が三人、未来人に超能力者もいる。加えて異世界人を連れ込んだんだ。
 ん? てことはハルヒの望む存在が揃ったてことか?
「いい? キョン! 言っとくけど、あんたも含めてここには普通の高校生はいないの!」
 待てい! 俺は何の能力もない超普遍的な一男子高校生だ! いったい俺のどこが普通じゃないというのだ!?
「あら自覚ないの? じゃあ聞くけど、ドジっ娘、無口キャラ、イケメン、ツッコミなんてメンバーが素で全部揃うと思ってんの? 劇団でもなければ、こんなメンバーが揃うわけないじゃない!」
 いや、そんな声高らかに、あんまり誇れないことを威張られても。って、俺が普通じゃないってのはツッコミ役って意味か!? 言っておくがツッコミ役ってのは、メンバーの中で一番の常識人が担当するって絶対的な法則があるんだぞ!
「それ、どういう意味? まるであたしや有希、みくるちゃんに古泉くんが非常識な人間って聞こえるんだけど」
 う゛……
 ハルヒの険悪な眼差しにガンつけられれば怯むしかできない。
 というか、何か話が脇道に逸れ始めているぞ。確か若葉さんを紹介している最中じゃなかったか?
「ええっと……涼宮さん、ちょっといいかな?」
 おっと、なんだか困った声が割ってきたな。というか、どこか疲れているようでもあるぞ。
 声の主は若葉さんか。
「それはそう。あなたと涼宮ハルヒの掛け合いは内容が本筋から外れてきていた。よって、このまま放置すれば団活終了まで継続していた可能性があったと思われる。それを制止させるため、涼宮ハルヒに対して何の憂いもない彼女に一役買ってもらった。これは長門有希朝比奈みくる古泉一樹の総意」
 いったい、いつの間に目配せしていたのやら……
「その……SOS団だっけ? 何するところか知らないけど考える時間をもらえないかな? ちょっと即断できないから」
「何で? 言っとくけど、我が団以外で若葉ちゃんの能力が活かされるクラブなんてこの学校に存在しないわよ」
 まあ確かにある意味その通りなのであるが、おそらく若葉さんが『考える』と言ったのは方便だ。はっきり言ってしまえば、入るつもりが無いのである。もちろん、こんな胡散臭い団体に入ることを躊躇うって意味じゃないぜ。
 仕方ないだろ。今、若葉さんは記憶喪失中なんだ。記憶が戻れば、それは別れを意味するわけで、いつ戻るかは知らんが、ずっと戻らないかもしれない反面、すぐにでも戻るかもしれない可能性がある。てことは、この世界にいる期間が不確定って意味になるんだ。クラブ活動はできんさ。学校に来ていることにしたって、あくまで、失われた記憶の中に俺が居るからに他ならない。
「まあ、そうかもしれないけど、私にも都合ってものがあるからね。安易に分かりましたって言えないのよ」
「どんな都合? まさか門限とか?」
 ハルヒがなおも食い下がる。
「門限、ねぇ。どうなの?」
 ん? どうして俺に視線を向けるんだ?
「私とキョンくんが帰る場所が同じだからじゃない。で、門限ってあるの?」
 まさかだろ。小学生じゃあるまいし、よっぽど遅くならない限り、というか学校の部活時間くらいで遅い時間の内に入らんさ。
「そうなんだ。あれ? でもキョンくんってこのSOS団とやらに入っているんだよね? てことは帰るのは団活ってのが終わってからになるんだ」
「まあそうだな」
「ううん……他人の私だけがキョンくんの家に居るってのも、どこか気まずさにも似た居心地の悪さを感じるわね……団活が終わるまで私もここに居た方がいいような……」
 なるほどね。言われてみれば確かにそうだ。隣に視線を移せば、有希も俺の右肩で1ミクロンではあるがコクコク頷いている。
「ねえキョン……」
 ん? どうしたんだハルヒ? そんなお岩さんが皿を数えるような声を出して、
「ちょっと聞きたいんだけど、若葉ちゃんってキョンの家に住んでるの……?」
 ああそうだ。他に行くとこないしな。
 あれ? どうしたんだ、この微妙な空気は。何か張り詰めているようじゃないか。俺、何かおかしいこと言ったか?
「フーン……他人ノ若葉チャンガキョンノ家ニネェ……」
 ど、どうしたんだハルヒ? 瞳にハイライトが無くなっているし、笑っているのに目がちっとも笑ってないぞ? と、とっても怖いんだが?
「陳謝する。わたしも気付かなかった」
 は? 有希が焦ったような声を上げるってどういう意味だ?
「あなたと彼女の今の一連の言動は涼宮ハルヒに誤解を与えるには充分。わたしは彼女のことを知っていたから不思議に思わなかったが、事情を知らない第三者が聞けば間違いなく、あなたと彼女が同棲状況にあると誤解する」
 あ……!
「さぁて……キョぉンん……きっちり説明してもらいましょうかぁ……? 何で転校生の若葉ちゃんがあんたの家にいるのかを……」
 ようやく自分の過ちに気がついた俺は、ハルヒの背後から立ち上っている、なんとも濁っていて、それでいて灼熱の炎を連想させるどす黒いオーラが見えている。
 同時に古泉の携帯がこの場に似つかわしくない軽い着信音を立てた。
「失礼」
 すまん古泉。これは間違いなく閉鎖空間だよな。
 心の中で謝罪の言葉を並べつつ、俺はこの状況を脱するべく、隣にいる若葉さんへと視線を移せば、そこには誰もいなかった。
 って、はい!? いったいどこに消えたんだ若葉さんは!? ついさっきまでここに居たはずだろ!?
 胸の内で絶叫する俺に、ハルヒはただただ文字通り人を殺せそうな笑顔で迫ってくるだけであった。


 さて、俺が答えに窮して十分ほど経っただろうか。
 それにしても若葉さんはどこへ行ったんですか? まあ気がつかなかった俺と有希もあれだが、あなたが誤解を招くことを言ってくださいやがりましたので、俺と二人できちんと説明しないとハルヒ大魔神がいつまで経っても、嵐の前の静けさ笑顔を浮かべた仁王様の表情のままなのですよ。
 などと心の中で若葉さんに責任転嫁し続ける俺の気分は一ダースのアナコンダに取り囲まれたヒキガエルなのさ。さっきから嫌な汗が全然止まらん。
 いや、別に俺と若葉さんの間には何もない。それは断言してもいい。だって証人もいるんだから。常に俺の右肩に。
 と、話すことができればどれだけ楽になれるだろうか。その楽になれるってのが気持ちなのか命なのかがイマイチ判別がつかんが。
 嫌な沈黙が続く。ハルヒは当然、俺の答えを待っているのだろうが、いつまでも待ってくれるわけがない。
 ものの数秒もすればネクタイをねじり上げ、詰問から拷問に変わることだろう。
 しかし何と言えばいいのか。いやマジで困ったぞ。
 が、その沈黙を破ったのはハルヒではなかった。
 ぎぃっと如何にも痛んでますって感じの音を立てて、部室の扉が開く。
「ただいま。って、あれ? どうしたの? 何かピリピリした雰囲気になってるけど」
 うぉい! 空気を読め、空気を! あんたのおかげでこうなったんだろうが!
 というツッコミはこの人がタメか年下でないとできないので、口に出さずに心の中で絶叫する俺。
 続いて、
「あの……涼宮さん。事情はだいたい把握できておりますが、とりあえず彼をお借りしてよろしいでしょうか?」
 という声は、お? これは古泉か? そうかそうか。お前は俺をこの場から助けてくれるのか!
 ありがとう。お前は今日から俺の親友だ。心友と書いてもいいぞ。
「何? 事情が解ってるなら後にしてくれない? あたしは直接、キョンの口から話が聞きたいの。その後ならいくらでも古泉くんに引き渡すわ。煮るなり焼くなり好きにしてちょうだい、って条件付きでね」
 ええっと、ハルヒが古泉にキツく当たる姿というのは初めて見たのですが……
「ええ原因は分かっています。ですから、しばらくは彼女に事情をお聞きください。おそらく彼と同じ回答をお持ちかと思いますので」
「む……」
 珍しく引かない古泉に、不機嫌なアヒル顔を見せるハルヒ。ちなみに古泉が目で促したのは当然、若葉さんだ。もっとも彼女はきょとんとしたままである。
 しかし、どうやら古泉の意思が固いことを悟ったのだろうか。
「解ったわよ。じゃ、しばらくキョンを連れ出すことを認めてあげる。ただし!」
 ここでハルヒはビシッと古泉を指差した。
 もし、俺に言うのであれば、あの勝気満面な100万ワット笑顔なのだろうけど、今回は三割減の700000ワットくらいに明るさが失せている、それでもどこか悪巧み風笑顔を浮かべて、
「古泉くんからもキョンを尋問するように! 包み隠さず拷問ありでもいいわよ!」
 と声を張り上げた。
 ところで、どうして俺は100万は略したのに、700000はアラビア数字できっちり表記してしまったのだろうか。
 自分でもよく解らない。
「承知しました。では」
「お、おう」
 ハルヒに比べれば古泉はまだ話になる。
 少しだけ苦みをオブラートしたさわやかスマイルを浮かべる古泉に続いて俺は部室を出ることにしたのである。
 ……若葉さんがうまく説明してくれるといいんだが……
 どこかそんなことを考えながら古泉の背中を見つめて付いていった。
 ところで、どこまで行くのだろうか。
「コーヒーでもいかがですか? 奢りますよ」
「そ、そうか」
 どうにも俺は釈然としない面持ちで、座った場所はいつぞや古泉が「僕は超能力者です」と告白してくれた食堂外の丸太机だ。
 その机に二人で座っている。
 男同士というシチュエーションが何か嫌だ。
「では、早速ですが本題に入ります」
 コーヒーを入れたカップを俺の手元にそっと置き、古泉も木の椅子に腰かけた。
 その表情には先ほどまで浮かんでいた笑顔は消えている。
「僕の携帯に連絡が入り、部室を出て戻ってくるまで、おそらく十分ほどだったと思うのですが?」
 ああそうだ。おかげで俺は助かったわけだが、それにしてもえらく早かったな。そんなに近かったのか?
「いえ、まったく近くありません。まあ近いか遠いかと言われれば難しい判断になってしまいますが、僕が閉鎖空間を感知したのはここから五キロほど離れた場所です。ですが……」
 なんだか古泉が言い淀んでいる。
 確かに五キロと言えば難しい距離だ。だが、十分で帰ってきているところを見ると車で往復したとしても早すぎる。 
「その……僕が校門の外へ出るときに、若葉さんが追いかけてきたのです」
 なるほど。あの人もいつの間にか消えていたが、古泉と一緒にいたのか。
「ええ……そして……」
 重々しく呟き古泉が語り始める。
 その内容とは以下だ。


 …… …… ……
 …… ……
 ……


 僕は学校の外で、少し焦燥感に駆られながら新川さんのタクシーを待っている。
 閉鎖空間――
 最近の発生原因は実に解りやすいですね。しかし、それだけ涼宮さんも普通の少女になっていっているということなのでしょうか。
 今は多少、不機嫌だろうと発生することはないのですが、彼の異性関係に対してのことになると必ず発生します。
 でも、それは普通の女性であれば抱いても仕方がない反応ですしね。
 やれやれ、それでもまあ、前よりははるかにマシでしょうか。出動回数も激減しましたから、このあたりは彼に心から感謝しなければいけません。おそらく機関に所属するすべてのスタッフがそう思っていることでしょう。
 本来はお中元、お歳暮、金一封、感謝状とほぼすべての謝礼を用意すべきなのでしょうが、たぶん、彼は受け取らないでしょうし。
 ううん……何と言って僕らの感謝を伝えればいいのか……
 などと考えながら僕が待っていると、
「ねえ」
 などと背後から声をかけられました。
 相手は確か、今日、涼宮さんが部室に連れてきた転校生の……
「どうされたんです? いったい僕に何か?」
「あなた、今、別世界の発生を感知したんでしょ。道案内してくれない?」
 は?
「もう一回説明すればいい?」
「い、いや……特には……というより、あなたも閉鎖空間の発生を感知されたのですか!?」
 当然、僕は驚きつつも問いかけます。
 なぜなら、アレは僕たち機関の者でないと感知できないはずのものなのですから。
 ……長門さんあたりのTFEIであれば感知できるかもしれませんが、おそらく発生場所までは特定できないでしょうし、朝比奈さんは『時空震』という認識かもしれません。じゃあ、この人は一体……?
「閉鎖空間? ふうん。そういう言葉なんだ。何か違う気もしたけどまあいいわ。ところで、あなた、それがどこにあるのかは分かっているのよね?」
「あ、はい……」
「なら行くわよ。あなたはその場所を浮かべて。私はあなたを介してそこへ行く。ううん、行かなきゃなんない」
 言って、彼女が僕の手首を握ったと思った途端、


 次に気がついたときは、僕の周りは暗闇に覆われたモノクロの街中に立っていました。


「これは……」
 茫然と呟く、僕の眼前にはすでに一体の《神人》が浮腫み上がってきています。
 って、僕一人!? 一番乗りですか!?
 そんな馬鹿な……この場所は学校からゆうに五キロは離れているはず……
 訳が解らず呻吟する僕の目に飛び込んできたのはさらに信じられない光景でした。
 ふと、近くを見渡せば、すでに若葉さんの姿はなく、もしかしてはぐれてしまったのだろうか、などと考えたのですが、もちろん現実は違います。
「なっ!」
 僕の網膜がとらえたのは一目散に《神人》へと、文字通り飛びかかっている、、、、、、、、若葉さんでした。
 ええ、マジで飛んで、、、、です。
 そして、彼女が《神人》の拳をあっさりかわして懐に飛び込み、右手をかざしたと思った瞬間――
 ――!!
 周りの風景をも震わす大轟音!
 その衝撃に、《神人》が内部から爆発を起こしたかのような錯覚を受けて上半身が砕け散りました!
 直後、ゆったりと、しかし大地に激震を起こしながら倒れ伏す、半身だけとなった《神人》。
 それを、空中に漂ったまま見つめる若葉さん。
 彼女の瞳はどこか愕然としていました。遠目からでもはっきりと解ります。彼女は今、理解不能の力を放った右手を興味深げに見ています。
「何で、ここにきてアレを退治しようと思ったのかは分かんないけど――」
 ここには僕と彼女しかいませんし、この世界は静寂が支配しています。ましてや《神人》が消滅した今、僕たち以外に音を出せる存在はいません。
「なるほど。これで私が魔法使いと言ったキョンくんの言葉は正しかったってわけね」
 言いながら、僕の傍へと戻ってきた若葉さんはなんとも意味ありげな笑みを浮かべていたのです。それが何を意味するのかは僕には知りようもありませんが。
「大丈夫ですか……?」
 なんて間抜けなことを聞いているのでしょうか僕は。
「ん? あなたには私が怪我したように見えた?」
「いえまったく」
「なら大丈夫に決まってるじゃない」
 ですよね。
「それにしても――」
 彼女が再び振り返り、今はもう消えてしまった《神人》が倒れた場所を眺めています。後ろ向きですからその表情はうかがい知ることはできません。
 声からすれば、何かを邂逅しているような――
 どうされたのでしょうか?
「変ね……私、これと似たような場所に来たような気がしてるんだけど、こことは何か違う……その時はもっと深刻だったような……」
 僕には彼女の言っている意味がさっぱり解りませんでした。
 そんな彼女に何と言葉をかけていいのかも分からず。
 空が割れ、雑踏のひしめき合う騒音が耳に戻ってくるまで、僕はただ、彼女の背中を眺めながら立ち尽くす以外、何もできずにいました。
 帰りは新川さんが現場に到着し、タクシーで帰ったのですが、車内において、僕は何も言葉を発することができず、若葉さんはただ、何か窓に向かってブツブツ言っているだけでした。
 何も分からない新川さんも黙っているしかできず、沈黙の中、粛々と帰途についたのみです。 


 ……
 …… ……
 …… …… ……


 マジか……?
「えらくマジです」
「だって、お前、お前らは集団でかからなきゃならんくらいなんだろ? あの青い奴は」
「はい。もちろん」
 それをたった一人で、それも一撃だってか?
「僕も信じられませんでしたよ。ところで、あなたが驚愕すべき事実は《神人》の件だけなのですか?」
 古泉が苦笑を浮かべているが……あ、そうか。
「まあ、な。一応、俺はあの人がテレポテーションという魔法という名の超能力を使えることを知っている。だからテレポートで行ってきたことは予想の範疇だった」
 記憶喪失中のあの人が、なぜ使えたのかが疑問ではあるが、それはとりあえずおいておこう。
「ということは、あなたは彼女を知っている、と?」
「あくまで少しだけだ。知り合ったきっかけったってたまたま出会っただけでそれ以上でもそれ以下でもない。滅多に顔を合わせることはないし、実のところ、会ったのは今回でまだ三回目でな。一回目と二回目にしたってもう、ずいぶん前の話なんだぜ。そういうわけだからマジで顔見知りの域は出ていないぞ。とと、そうだな。それでもこれはお前に話しておく。あの人は今、記憶喪失中なんだ」
「何ですって?」
「だから記憶喪失中なんだよ。あの人の本名は俺も知らない。教えてもらったことがないからな。ただ、名前がないと不便だから便宜上、俺が『若葉』さんと付けただけだ」
「解りました。どうりであなたが答えに窮したはずです」
 だろ? ハルヒがこんなこと信じると思うか? つうか、それ以前にこんなこと教えるわけにもいかんだろ?
「その通りです。ですが僕も信じられませんよ。ただ、あなたは僕たちのことを信じてくれましたので、僕もあなたの言葉を信じます」
 そりゃ、ありがたいこって。
「それと、二つ解ったことがありますね。若葉さんの失ってしまった記憶の中に、あなたと、そして閉鎖空間がある」
 まあな。しかし、それはどういうことなんだろうな?
「そこまでは僕も……でも、彼女は言っていました。『閉鎖空間に覚えはあるけど、自分の知っているものとは何かが違う』と」
 どう違うんだろうな。ひょっとして、そこに記憶を呼び戻す可能性があるのかもしれんが……
「さて――それは僕にもなんとも。ところで、やけにあなたは彼女に肩入れしますね。先ほど、たまたま出会っただけ、と仰られたと思うのですが」
「ん? ああ変な勘ぐりするなよ。たまたま出会っただけだが、プライベートなことなんで詳細は省くけど、そんときにえらく世話になってな。その恩返しをしたいだけだ。別段、やましいことはないぜ。説明しにくいだけだ」
「では、そういうことにしておきましょう」
 信じろ。というか、俺を信じてくれるんじゃなかったのか?
「もちろん信じています。ですが『どんな風にお世話になった』のかを教えてくださらないと全面的には信用できませんよ」
 じゃあ俺が、なんとも胡散臭い喋り方をした挙句、あまり結論を出さないお前を、全面的に信用していなくても文句はないな?
「これは一本取られてしまいましたね」
 古泉が後ろ頭を掻きながら苦笑を浮かべている。
 が、即座に笑顔を抹消させて、
「では、単刀直入にお聞きします。いったい彼女は何者なのですか?」
 古泉の表情には、どこか怯えているような色さえ携えている。もちろん『何者なのですか?』という意味は分かるさ。
 というわけで、俺は瞳を伏せ、肩を竦ませながら、どこか自嘲の笑みを浮かべて、
「お察しの通り、『最後の一人』だ」
 以前、古泉が俺に言ってきたことをそのまま返してやる。
異世界人……」
「そういうこった」
 古泉の怯えの混ざった愕然とした表情は崩れない。
「涼宮さんはこのことを?」
「あの人が教えていないなら知らないだろうな。もっともあの人も自分のことを分かっていないから変なことは言わんと思うが。ところで、お前にしては珍しいな。危険をそのまま放置してくるなんて」
「あ……!」
 俺の苦笑にようやく、古泉は気づいたようだ。
 よっぽど焦っていたのかもしれないが、若葉さんに何も言わずに、俺を連れ出したんだ。
 とすれば今、この時でさえ、文芸部室では若葉さんがハルヒに自分のことを話している可能性がある。
「僕としたことが――!」
 慌てて、古泉は踵を返して、今度は俺が一緒にいたことを忘れてしまっていたのだろうか。振り向きもせず走り去ってしまった。
 まあもっとも。
 俺が落ち着いているってことは当然、対策を打ってきたってことなんだがな。
 そうさ。古泉に連れ出されてからこの時まで、俺の右肩がだんまりを決め込んでいるってことはそういうことなんだよ。
 何? 説明しろだって?
 分かった分かった。言ってやるよ。
 有希を若葉さんの肩に置いてきたんだ。
 どういうわけか、若葉さんには有希が見えている。そして、あの部室にいる連中で有希が見えているのは後は長門と朝倉だけだ。もちろん、あの二人は有希のことをハルヒに告げたりはしないし、有希がハルヒに隠したいことであれば、喋ることもない。もっとも海産物……じゃなかった、わかめ先輩、なんて言ってると命の危険が迫って来そうなんで、そろそろ真面目に、喜緑さんだとなんとも言えないところだが。んで、若葉さんには記憶がない訳だから、今の有希の体長をなんとも思わなかったんだ。
 つーことで、有希が若葉さんを制止しているんだ。余計なことは言っていないさ。
 やれやれ、と嘆息の溜息をつきながら、俺はのんびりと古泉の後を追うことにした。
 さて、古泉が先に行ってしまったんで俺は一人、部室へと戻ることになってしまったわけで、どことなく空虚な寂しさを感じていることに苦笑を浮かべつつ、ドアを開けてみれば、
「ちょっとキョン! あんたどこ行ってたのよ! 古泉くんはもうとっくに戻ってきているわ!」
 というハルヒの気遣い咆哮だったりする。
 どうやらさっきの不機嫌モードは収まったようだ。ホッとしたぞ。
 などと考える俺の右肩に有希が戻ってくる。
「お帰り」
「おお、ただいま」
 というセリフだけは口にして、
 うまくいったみたいだな、って言葉は視線に込めて有希にアイコンタクトを送る。もちろん、有希は理解してくれているさ。
「なぁに、呑気なこと言ってるのよ! そもそもキョン! あんた若葉ちゃんに関して重大なことを隠してたわね!」
 はい!? まさか若葉さんの正体がバレたのか!?
 と、思わず口走りそうになった俺なのだが、その前にハルヒが続けてくれたんで助かった。
「聞けば若葉ちゃん、記憶喪失って言うじゃない! どうして最初に言わなかったのよ? どうりで団に入るのを躊躇ったはずよ! 記憶が無い間にやってることなんて元に戻ったら、それを忘れちゃうかもしれないわけだし!」
 ふぅ……何だ。そんなことか。
「ちょっと何よ、今の『そんなことか』って顔は?」
 いや、そういう意味じゃない。単に俺はすでに知っていたことだから、他にも何かあったんじゃないか、って危惧しただけだ。
「ふうん。まあいいけど。で、何であんたの家に居るのかも確認したから。何でも若葉ちゃんが気付いたのはあんたの部屋だったらしいわね。それとあんたが若葉ちゃんの失くした記憶の中に居る。それで回復促進のためにあんたと一緒に居ることにしたって話」
 ああそうだ。ただ、その俺がここに居る俺なのかそっくりさんなのかまでは俺にも分からん。知っている若葉さんが記憶を失くしているだけにな。
「そうよね。確かに若葉ちゃんの知っているキョンってのが本人なのかそっくりさんなのかは話は別だわ。それに若葉ちゃん曰く、あんたが家に前に倒れていたあの子を見過ごすことができなくて自室に運んだって言ってたし」
 ……感謝するぞ有希。まさかここまで話を作ってくれていたとは思わなかった。
「だろ? さっき俺が答えに窮したのは、普段、お前が俺を信用しないことが多いから何と言えば納得してもらえるか分からなかったからだ。他意はないぜ」
「む……」
 これは事実だけにハルヒも何も言い返せない。
「というより、涼宮ハルヒは別の理由で怒りの感情を霧散させた」
 は?
「彼女は言った。わたしの口添えではなく自分の意思ではっきりと、失くした記憶の中にあなたと、そして涼宮ハルヒがいる、と」
 何だって!? 若葉さんの失くした記憶の中にハルヒもいる!?
「そう。だから涼宮ハルヒの精神ベクトルがマイナスからプラスに転じたと思われる」
 ……今度はお前の精神ベクトルがマイナスに向いているような声だな? 言っておくが、若葉さんの記憶に居る『俺』は俺じゃないぞ? だいたい俺たちなら若葉さんは俺とお前以外、この世界では誰とも会っていない。
「ところでキョン。どうやら若葉ちゃんの記憶の中にあんただけじゃなくて、あたしも居るみたいなのよ。これってどういうことだと思う?」
 有希に教えてもらった後なのだが、今度はハルヒが、どこかそわそわした雰囲気で繰り返してきて、肩越しへと視線を送る。
 なぜ、そわそわしているのかは問い詰めん方がいいだろう。聞いたところでまともな答えが返ってくるとは思えん。
 そこには――って、あれ? どうして古泉が熱心に若葉さんに語りかけているんだ?
「ああ、どういう訳か、戻ってきた古泉くんにあんたたちがいなかった間にあった話をしたら、最初は少し驚いた表情を見せたんだけど、すぐに、そうね、いつもと違ってまったく固さのない満面の笑顔になって若葉ちゃんに話しかけ始めたのよ。というか、何か口説いてるっぽかった。古泉くんってロリ萌えなのかな?」
 あっけらかんと事情説明してくれるハルヒなのだが、確かに俺の目にも古泉は若葉さんを口説いているように見えないこともない。
 もし本当に口説いているとしたらいいのか? 森園生さんに知られたらただじゃすまんぜ。
 って、あれ? 何で俺は古泉の想い人が森さんって知っているんだ? どこで聞いたのだろうか。
 そういや以前、SOS団で合宿という名の泊まりがけ旅行で酒をたらふく呑んで記憶が無い夜があるんだが、その日に聞いたのだろうか。あの後、まだ大きかった頃の有希にえらく酔っ払った状態で呼び出されて……
「ま、好みなんて人それぞれよ。で、キョンはどう思う? あたしとあんたが若葉ちゃんの失くした記憶の中に居る理由を」
 記憶の糸を手繰ろうとしていた俺なのだが、その糸はあっさりハルヒに断ち切られて、なんとなく俺も思い出さない方がいいような気がしたんで、話に乗ることにした。
「さあな。正直言って見当つかん。お前に会った記憶が無いってなら、そっくりさんである可能性は高いと思うがな」
「あんたもね」
 などと神妙に話し合いを進める俺とハルヒの眼前では、長門や朝比奈さん、朝倉さえも少し困っているような表情を浮かべているのだが、古泉が一心不乱に、周りが見えていないかのように、熱心に若葉さんに語る姿があるからである。