『SS』 月は確かにそこにある 27

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「ん…………」
 目覚めた時には窓の外が暗くなっていた。そんなに寝るつもりは無かったのだが、疲れてたんだろうな。などと韜晦しても仕方ない、体を伸ばしてみればあちこち痛むのが分かる。
 顔でも洗うか、などと思いながら動くのが億劫だったりもする。そんなに時間をかけてる訳にもいかないんだけどな。面倒臭いから携帯を持って見慣れた番号をメモリから呼び出してみる。溜息を一つ。ああ、かけてくることはあってもこっちからかけるなんて憂鬱だ。
 時計を確認する気にもならないが間違いなくどんな時間でも電話に出ないということはないだろう、そういう奴だ。俺は呼び出し音が鳴っている間にも何を話せばいいのか迷っていた。
『はい、どうされましたか?』
 もしもし、じゃないのかよ。などとは言えないな、あいつはいつも待っているんだろう。そうして少しづつ、自分というものを削っていく。待ち続けるだけなんて気が狂いそうになりながら。それは一度経験していたはずなんだ、あの万能だと信じていたあいつでさえ変わろうとしたのを俺は見ていたはずなのに。
 俺は用件も言わずに場所だけを指定した。内容を言わずに呼び出すのはお互い様だ、あいつも黙って来るだろう。俺は短い電話を終わらせると何も言わずに家を出た。これでもしかしたらしばらくは外出禁止を言い渡されるかもしれないな。この世界の俺には詫びを入れるしかないだろうが、それはそれとしておくしかない。
 自転車を漕ぎながら思い出す。いつからあいつは変わっていった? あいつは何故受け入れられたんだ? それは指摘されたから気付いたのかもしれないが、俺は気付いてやれなかった事を後悔している。長門も、朝比奈さんも、ハルヒだってそうだ。俺は自分が何でも見てきた、知っていると勘違いしていただけなのかもしれない。
 なあ、仮面もいいけど少しは俺達を頼ってくれても良かったんじゃないか? こう見えても、かなり不本意ながらも、俺はお前が微笑みの中で何を考えてるのか分かっちまうようになったんだぜ。長門が表情が無いように見えて様々な感情を内包していたように、お前だって自分なりの思いってもんがあってもおかしくは無かったんだからな。
 自転車を留めて歩き出す。川沿いの並木道は少し肌寒さを覚えるほどだった。しばらくも歩かない内に外灯の下で立っている女が一人。
「懐かしいですね、桜でも咲いていれば最高のシチュエーションなのかもしれませんけど」
 局地的な情報改変は地球に悪いらしいぞ、もうあんな季節ハズレの花見なんて懲り懲りだ。あの映画の記憶は封印して二度と出てこないようにしなきゃならないんだぜ。
「なかなか楽しかったのではなかったですか? 次回作も構想は練られているようですし」
 お前は主演だったから何とでも言えるだろうよ。それにその時は力づくでも止めて見せるさ、朝比奈さんの痴態など見せるわけにもいかないからな。
「まあ彼女がまた映画を撮るかどうかはその時次第ということなのでしょうがね。それで一体どうされたのですか? 思い出話に花を咲かせるにはまだ我々は若いと思うのですけど」
 そうだな、何年か後で酒でも酌み交わしながら話す類の話などするつもりもない。重要なのは何時だって今だけなのさ。
「お前に訊きたい事があるんだ、古泉」
 古泉一姫は輝く笑顔でそこに立っている、それだけで絵になるんだからしょうがないな。男の時だったら腹も立つのだろうけどな、まあ見た目は重要ってこったろう。
 しかもその笑顔は今まで見たことのない輝きに満ちている。恐らくこれこそが古泉の本来の顔なのだ、そう言われたら納得するしかないだろう。たとえそれすらも作られたものだとしても。
 近づくにつれて罪悪感も増していくような気分だ、かといって罪悪感に苛まれる余裕は無い。俺は古泉の前に立ち、ついて来るように促した。立ったままでも構いはしないが歩いていた方がマシな気分だったからだ。古泉は黙って俺の後ろをついてくる。ように見せかけていつの間にか隣を歩いていた。腕を絡めたがっているように見えるのも気のせいなんかじゃないのだろう。
 何も言わずに少しだけ腕の隙間を開けると少し驚いた顔をしたが嬉しそうに腕を組んできた。当たってる、というか当ててるだろ。内心では羞恥心とか腹正しさとか様々な感情が渦巻いているが今回ばかりは我慢だ、こっちも話し始める踏ん切りがつかない。黙ったまま腕を組んで夜の川沿いを歩く、何だこのデート風景は。
 しばらく歩いて見たのだが、話すきっかけが掴めない。単に柔らかい感触が腕に残るだけの状況にそろそろ業を煮やしかけた時、話しかけてきたのは古泉の方だった。少しだけ遠慮がちに(これもらしくない)小さな声で。まるで全てを分かっているかのように。
「………見つかったんですね?」
 それで通じるとばかりに腕に力が入る。確かにそうだ、俺もそれを伝える為にここにいる。
「ああ、長門には分かってもらえなかった。だけど帰る手段は見つかった。俺はそれをお前に伝える事が一つ、それと訊きたい事があるってのも間違い無い。但し、」
「私にとってはあまり気分が良い話ではない、そういう事ですか」
 古泉一樹にとってなのか、古泉一姫にとってなのか、それは分かりはしないがな。あくまでも今のお前にはいい話じゃないような気はしているよ。
「そう、ですか……」
 腕にかかった力が緩む。そのタイミングで俺は古泉に話しかけた。
「なあ古泉、お前本当に古泉一樹なのか?」
 単刀直入に訊いた。それが一番解りやすかったからだ、そして反応は早かった。驚愕の表情と共に腕が離れる。
「え………? それはどういう、」
「お前が本当に古泉一樹なら喜緑さんを知らないはずが無い、ただそれだけの話だ。それはお前自身が一番良く分かってるんじゃないのか?」
 俺の言葉を聞いた時の古泉の顔は絶望というものを切り取って形にしたかのようだった。もうそこには仮面の存在など欠片も無い、ただ怯えた少女が震えそうな体を自分で抱きしめていた。
 罪悪感のようなものが一気に押し寄せる。しかし言わなければ何も出来ないのも確かなんだ、顔色が青ざめた古泉に俺は尚も話し続ける。
「その喜緑さんが今回は俺達を元の世界に帰してくれる鍵だ、何故かは俺よりもお前の方が理解出来るだろうよ。それと森さんと新川さんだ、あの二人も恐らくそうだろう」
 そうだ、今回の鍵の共通点は唯一つ。それは古泉一樹、お前に係わった人物達なんだ。だからこそ訊きたい。何故お前なのか。いや、お前が何を望んだのかを。
 しかし古泉の様子は変わることは無かった。自らを抱きしめ、震えて涙ぐむ。その姿もまるであの世界の眼鏡をかけた少女を連想させちまう、古泉一姫はただの少女なのかもしれないと。
「私は………どうなってしまうんでしょう…………?」
 上目遣いが反則なのは別に古泉だからといっても変わらない。おまけに抱きしめた腕に挟まれて強調されているのは朝比奈さんにも劣らない胸だったりするのだから長門よりもタチが悪くないか? 思わず目を逸らしてしまったのも頷けると思う、こんな時に不謹慎なんて言われても知らん。
 いかん、調子が狂ってくる。それで無くとも頭で分かっていても女の涙というのは見たくないんだ、それが古泉だとしても変わらないのも仕方ないのかもしれない。しかもこの必要以上の蟲惑的な態度は何だ? 事情を知らなければ十人中十人はこいつの言う事を聞きそうな、それほど可憐で儚げな雰囲気を醸し出している女が古泉一樹と同一人物だなんて思える訳も無いのも頷けるだろうって言い訳染みてるよな、さすがに。
「落ち着け古泉、それはお前自身の意思じゃない。恐らくハルヒの能力でお前の記憶も操作されつつあるんだ! しっかりしろ、もうすぐ戻れるんだ! 俺達の世界に!」
 古泉の肩を持って励ますように俺は必死に説得する。男なら胸倉の一つも掴んでやってぶん殴りたいところだ。それでも俺は焦っていたのだろう、乱暴な態度なのは。しかし古泉一姫は泣きながら大きく首を振った。
「違う! 違うんですっ! 私は………」
 その激しい否定に思わず俺は手を離した。髪の乱れを直そうともせずに涙を流す古泉を呆然と見ることしか出来ない。
 そして古泉は気が付いたかのように髪を整えると微笑んだ。涙を隠そうともせずに泣いたままで。
「分かっています。私は古泉一樹であって古泉一姫ではないんです」
 その笑顔は仮面だった。古泉一樹が常に身に纏っている、自らを曝け出さない為の創られた仮面。
「でも気付きましたか? いつしか私は私、としか言えなくなっていたことを」
 そうだった。この世界に来た時はまだこいつは自分のことを僕と呼んでいたはずだ。それがいつの間にか私という様になり、それに俺までもが馴染んでしまっていた。だがそれも、
「それだってハルヒのせいだ、あいつの力にお前が飲まれかけているだけなんだ。この世界のハルヒの願いにお前はハルヒの心情が読めるだけに感応した。あいつの精神分析が出来るのが裏目に出たんだ、だからこそお前自身を取り戻さなきゃならないんだ。分かるだろ、古泉!」
 古泉の答えは微笑みだけだった。但しそれは皮肉とも諦めとも取れるような哀しい笑顔で。
「そう、涼宮さんの想いが私を変えたのかもしれません。ですが、何故涼宮さんはそれを望んだのですか? 彼女の願いは何だったのか、あなたは気付いていないとでも?」
 それは……………俺には答えられない。まさか、という思いが強いのもある。もしもハルヒの精神が今の古泉のような立場を望んでいたのだとしたら、それはまるで………
「そして私が、いや、古泉一樹が何故涼宮さんの願いに従うように変わっていったのか。いいえ、涼宮さんの願いに付け入ってまでも私になろうとしたのかをあなたは理解していないでしょうね」
 付け入る? 付け入るだと?! やはり古泉はハルヒの力を利用したというのか! しかし何故だ、『機関』を見ればハルヒの力によって何らかの恩恵を受けているようには思うが、それとは別で古泉が野望のようなものを持っていたというのか?
「野望なんてとんでもないですよ。私が望んだのはささやかな、そう、貴方などから見ればささやかで馬鹿馬鹿しい願いなのかもしれません。ですが、それは私の中で確かに芽吹き、今ここに私はいる」
 その言葉は古泉一樹のものなのか、古泉一姫の想いなのだろうか。ただ解るのは悲しみと覚悟を持った古泉一姫の笑顔は崩れる事が無いのだろうという事実だけだった。
「何が目的なんだ? もしもハルヒが望んだものが俺の想像通りなら、いや万が一の話ではあるが。それならハルヒ自身が、俺達の世界のハルヒが言わなきゃならない事だと俺は思う。そして俺はそれを聞くためにも帰らなければならないんだ」
「貴方がそれを言うとは思いませんでしたね、もしもその言葉をもっと早く聞けたのならばこの世界も存在しなかったかもしれないですよ」
 嫌味も皮肉も受けるしかないだろう、俺自身が未だに信じられない。あの涼宮ハルヒの願いが、あいつがこんなに女の子だなんてな。おかしな話ではあるんだが、俺はどこかにそういうハルヒを見たくなかったという思いがあったのかもしれない。
 そしてそれは古泉から見た俺も同じだったのかもしれない。何度かけしかけられたくせに俺は頑なに拒否していたからな。
 俺は何を見ていたんだ? ハルヒの事を解っていたつもりで何も理解していなかったというのか。皮肉な言葉に何も言えない俺を見て古泉は笑う。仮面のような作り笑いから仮面ではない柔らかな笑みを浮かべた古泉一姫は涙を拭い、毅然とした態度で俺の顔を覗き込んだ。あまりの近さにこっちの顔が赤くなるのが分かる。
「でも、今は私は私の意志でここにいる。私の想いは私だけのものなんです。涼宮ハルヒではない、古泉一樹でもない、古泉一姫の想いとして」
 近すぎると押しのけようとした手が、真剣な瞳の中に浮かぶ光に吸い込まれる。




「私は、あなたが、好きなんです」  



 
 スッと瞳の光が消える。目を閉じたのだ、と気付く間も無く古泉の顔が視界を全て遮るように重なり。何を、と言えないままに。
 柔らかく温かい感触が俺の唇を塞いだ。それが古泉の唇だと理解するのを俺の頭は拒否していたのだと思う。
 だけど古泉の閉じた瞳の端に浮かんでいた涙の滴を見てしまったのだ。
 俺は、古泉一姫に、キス、されていた。