『SS』 長門有希の焦燥

 放課後の廊下をわたしは一人歩く。予定されたはずの行為に混乱はない、同期した記憶がわたしの行動を促してゆく。目的地は一年五組の教室。彼を助け、朝倉涼子を消去する。全てが同期の上で理解出来ている。
 教室前に到着、朝倉涼子の情報操作の痕跡を確認。短時間での構成としては完成されている、流石に彼女は優秀。
 だが、詰めが甘い。わたしは情報構成の綻びを検索、その場所からの進入を試みる…………………予想よりもプロテクトが強固だったが構成を解除、進入を開始する。
 情報制御空間に亀裂が入り、わたしは侵入に成功した。そして『鍵』の救出を、
「あら? 遅かったわね、長門さん」
 そこには、起こり得ない光景が展開されていた。
 流れ出る鮮血。
 焦点が消えた瞳。
 口内からも溢れ出る血液。
 力無く下がる四肢。
 …………朝倉涼子の右腕が槍状に構成され、その槍に貫かれ、絶命している『鍵』……………彼がいた。
 思考停止、エラー増大。
 シュミレートではない、これは現実? 違う、わたしが同期して知る真実とは違う。
「…………嘘…………」
 思考に無い言葉が口を出た事にもわたしは驚愕した。目前の現状はそれほどまでにわたしを混乱させたのだから。
「ふふふ、これで涼宮ハルヒの情報フレアはどれほどのものになるかしら? 観測が楽しみよね」
 微笑みを浮かべている朝倉涼子の姿が揺れている。理解出来ない、何故彼女は笑っているの?
「さて、もうこんなものいらないわね」
 朝倉涼子が腕を振るい、彼、だったモノは鈍い音と共に地面へと叩きつけられた。
 血溜まりの中で、もう彼の表情は見えない。生命では無くなった肉の塊は、わたしの中に黒く大きな闇として迫ってきた。
「もう邪魔だから消しちゃうわ、どうせ空間もすぐ戻しちゃうし」
 消す? 彼の生命を奪いながら何を……………………、その時、朝倉涼子の手が彼の死体に、
「情報解除開始」
 わたしの身体の動きが止まってしまったのは驚愕のため? あの時、もう少し早く動けていたら、
「待って!」
 消えてゆく。彼だったモノが。彼が、光の粒となってゆく。それを止める事さえも出来なかった。わたしが生まれて初めて出した叫びは、虚空に消えた。
 駆け出した足は異常も無いのに重く、わたしの望む速度の数十分の一の出力さえも感じられない。それでもわたしは彼の元へ向かう。
「どうしたの長門さん? もうあなたに用はないはずよ?」
 朝倉涼子の声に気を取られている場合ではない、彼の再構成を、
「無駄よ、もう遅いわ」
 理解出来ない、まだ再構成は間に合う。
「分かってるでしょ? わたしの情報解除の方が早いって」
 下半身は既に無い、上半身も腕は消え、胸も、駄目、まだわたしの情報構成は終わっていないのに。
 消えて、彼の身体が、恐怖と苦痛に彩られた顔が、全てが失われてゆく。止められない、情報構成に制限? わたしの処理能力が著しく低下している? 追いつかない消滅に為す術も無いままに、彼が光と化してゆく。
「あ……あ………」
 わたしの腕の中で、光は破片となり宙へと散っていった。視覚から入る情報に思考が追いつかない、全ての情報を拒否していさえしている。これは幻覚? しかし皮膚から感じる感触は残酷なまでに現実である事を認識させていた。
 光の粒が全て空中へと消えてゆき、それをただ見ているしかなかったわたしの腕の中は既に元の色へと戻っている。
 ……………もう、何もない。彼も、彼がいたという証も。
「ふう、これから情報操作が面倒よね。とりあえず事故なんかでいいのかしら? あーあ、消すんじゃなかったかなあ………」
 興味がまったく無い様に話す朝倉涼子の声が聴覚から不快な感覚を引き出していく。自分の中から湧き出してくる、この重いエラーは何?
「まあ涼宮ハルヒが彼がいなくなった事さえ認識すればいいしね。それじゃ、後は細かい情報操作をしておきましょうか」
 話は終わったとばかりに朝倉涼子が情報制御空間の支配を解こうとした時、わたしの思考がスパークした。
 彼を殺しておきながら何を? 彼を消しておきながら何を?! その微笑みを……………
「…………パーソナルネーム朝倉涼子を敵性と判断」
「あら、どうしたの長門さん?」
 まだ笑っている。その姿を視界に捉える事すら拒否反応が出る。
ターミネーターモード」
 攻性情報を作成、一点に集中させて朝倉涼子接触と同時に開放する。
「うふふ、どうしたの? 私達が争う理由はもう無いわよ?」
 うるさい、その声はわたしの思考ルーチンを乱す。冷静に、ただ攻性情報の構築だけを。彼を消滅させた報いを。余計な思考がノイズとなって情報構成を妨げる。
「そんな目で見ないでくれないかな? いいえ、そんな目を出来るのね、あなた」
 その目の色をやめて。その微笑みをやめて。その声をやめて。わたしは、あなたを………………構成完了。
「…………朝倉涼子の情報解除を申請。行動を開始する」
 わたしは申請と共に朝倉涼子へ接近、その体内に攻性情報を、
「無駄だって言ったじゃない」
 朝倉涼子に触れる寸前でわたしの肉体が停止した。何故? 情報統合思念体からの反応は…………申請の却下だった。
「………………………情報解除の再申請」
 却下。もう一度。却下。もう一度!
「何してるの、長門さん?」
 意識が朝倉涼子から外れすぎていた、接近した顔が笑っている。わたしはその認識さえも持っていなかった?
情報統合思念体は今回の出来事によって方針を涼宮ハルヒの情報フレアの観測、及びそれに伴う進化の可能性の検証に転換したのよ」
 そんなはずはない、我々は涼宮ハルヒの観測については静観の立場であることで容認されている。
「だからもう『鍵』は失われたの。後は観測対象がどうするかだけよ」
 その『鍵』を壊したのはあなた。それなのに何故笑っているの?! わたしはその間も情報統合思念体に申請をし続け、却下され続けた。
「私は確かに過激で急進だったかもしれない。でも今は結果が出ているの、やったからにはそれを最後まで成し遂げるわ。情報統合思念体もそう考えた」
 …………確かだった。『鍵』は無くても進化の可能性は残っている、だからこそ観測は必要。情報統合思念体の意思はそう告げている。
「もう涼宮さんも彼がいないから勝手な行動はしないでしょうね、私がさせないけど」
 嬉しそうに語る朝倉涼子。視界にも聴覚にも捉えたくない、わたしは自分の情報解除さえも申請しようとした。
「駄目よ、勝手にいなくなっちゃ」
 申請は当然却下され、わたしはその場に立ち尽くすしかなかった。そのわたしの顎をつかみ、強引に顔を上げさせた朝倉涼子は、
「これから私が涼宮ハルヒの観測をするの。あなたはそのバックアップ、勝手な行動は慎みなさい」
 勝手に動いて彼を殺したあなたがそれを言うの? それなのにわたしは逆らえない。行動は制限され、情報統合思念体の意思は朝倉涼子の活動を優先させるよう命じている。
 わたしの顔に接近している朝倉涼子の顔はやはり笑顔のままで、
「余計な事は考えなくていいわ。元々あなたにはそんな事出来ないでしょうけどね、長門さん?」
 それはわたしの能力を過小評価しているということか? 違う、わたしには確かに彼女のような独断専行は出来ない。そう、今のわたしには。
 そして最早今のわたしには何も出来ない。未来が変わってしまった事すら自覚出来ないまま彼を失った今のわたしには。
「さて、空間も戻しましょうか。その後は情報操作に入るから処理はお願いね」
 空間は元の状態に戻り、教室は静謐を持って存在している。全ては何もなかったかのように、彼のいた席もそのままに。二度とそこに座らない人の姿がそこにいたように見えたのは、どんなエラーのせいだろうか……
 何故だろうか、彼の席から視線は離せないままにただ立ち尽くすしかない。自分でも制御出来ない程に視線は彼を追い続けていた。既に痕跡すらない彼の姿を。
「ふう、それじゃ帰りましょうか。これで明日が楽しみだわ」
 情報操作をしていた朝倉涼子が作業を終えて話しかけてくる。答える事は拒否出来ない、わたしはただ頷いた。彼女と会話する事は、わたしの全てが否定する。
「無口なままなのね、可哀想な長門さん」
 絶対にそんな事は考えていないだろう声を聴覚から遮断したくなる。何も反応を示そうともしないわたしを見た朝倉涼子は呆れたように息をつくと、
「じゃあね、明日からお願いよ? …………バックアップさん」
 そう言ってわたしの肩を叩き、教室から去っていった。残されたのは空虚なる室内と、空虚なるわたし。
 何かが狂っている、わたしの中の何かがそう告げている。だが、それが何かをわたしは理解出来ない。それを知る為に必要な、必要だった人物はもういない。
「……………嘘」
 その言葉だけを小さく繰り返し、わたしは彼の席を見つめ続けていた。
 


 こんな時、有機生命体は、人はどのような表情をしているのだろうか? わたしは何も変わる事のない顔のままだった。せめて…………どうしたいのだろう? その答えをくれる彼はいないのに。