『SS』 私の、彼女


「ねえ、ちょっといい?」
 若王子いちごに声をかけられて驚いた澪は書きかけのノートから顔を上げた。放課後のホームルームも終わって家路に着く者や部活に向かう生徒で賑やかな時間帯。澪は音楽室に向う前に書きかけの詩を纏めていた最中のことである。ちなみに言えば他のメンバーは既に音楽室に向かっていた。
 そんな中でいきなり声をかけられたのだ。クラスメイトだから話をしたことはあるが、一体何の用だろう?
「どうしたんだ、軽音部に用事でもあるのか?」
 まさかファンクラブ云々など言い出さないだろうな? もしそうなら走って逃げたい。ちょっとだけ不安だった澪の顔を見たいちごがフンっとつまらなそうに鼻で笑う。
 何だよ。と澪もムッとする。話しかけておきながら、どうも人を見下しているような気がする。そんなに話していないのに何でだよ。
「そっちはどうでもいいの。秋山さんにちょっと訊きたい事があるだけだから」
 いちいち引っかかる言い方をするな。どうしても構えてしまう澪にいちごが切り出したのは意外すぎる一言だった。
「あのさ、秋山さんと田井中さんって付き合ってるの?」
 はあ? 頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。何を言い出したのだ、こいつ? 
 しかし、いちごは何でもないように話を続けている。
「付き合ってるならそれでもいいし、付き合ってないならはっきり言って欲しいんだけど」
 本当に舐めているのだろうか。いちごの口調が勘に触った澪の語気もつい荒くなりがちになる。
「あのな、付き合うとかどういう意味だよ? そんなもん有り得る訳ないだろ。くだらないこと言ってんじゃない」
 まったく、付き合っていられない。澪はノートを片付けて部活に向かおうとした。早くエリザベスに触れないと気分の悪いのが治りそうもない、と思っていたのに、いちごは澪の前に立ちふさがる。
 そして、あの見下すような目で、
「ふ〜ん、本当に付き合ったりしてないんだ?」
「しつこいな、何で私が律とその、付き合ったりしなきゃいけないんだよ? 大体私と律だぞ、女同士じゃないか。それで何を言ってんだよ」
 何故かイライラする。付き合うって何だ? 何で私に訊くんだよ。それに、律だぞ。あいつは…………私の…………
「そんな言い方しか出来ないのね」
 澪の思考は呆れたような、いや、バカにしたようないちごの声で遮られた。まただ、あの見下ろすような瞳。
「まあいいわ。秋山さんが田井中さんと付き合ってないって言ったんだし」
 ようやく澪の前からずれるように動いたいちごはそのまま踵を返して背中を向けた。
「それじゃ、彼女は私が貰っていくから。あ、部活がんばって」
 ひらひらと手を振っていちごは鞄を取ると教室を後にした。何人かのクラスメイトがその様子を見ていたが、幸いなことに会話まで聞かれてはいなかったようだ。
 澪は何故か呆然といちごを見送っていた。が、我に返ると途端にムカムカしてくる。
『何なんだよ、あいつ!』
 普段は丁寧に扱うベースのケースと鞄を乱暴にひっ掴み、澪は奮然と歩き出したのだった。教室を出るときに後ろが何か騒がしいようだったが知るかっ。
 いつも以上に足音を立てて音楽室に向かい、若干乱暴にドアを開けてみれば、
「よお、遅かったな」
 呑気に手を振っている律が笑っていた。唯はケーキを頬張っているし、ムギは紅茶のお代わりを梓のカップに注いでいる。さわ子先生は…………言うまでもないな。
 そんなことよりも律だ。何で笑ってるんだ、こいつ。
「…………」
 無言で律の隣に座る。まるで分かっていたかのように紬がカップを用意して紅茶を注いだ。だが、澪は礼も言わずに無言でカップを口にする。
「どうした、澪? 何かあったのか?」
 下から覗き込む様に律の顔が近付いてくる。頭の中でいちごが覗き込んできたように見えて。
『田井中さんと付き合ってないんだ?』
 何でそんな事言われなきゃいけないんだよ、私と律はそんなんじゃなくて、
「みお?」
 律の声に我に返る。目の前に律の顔。って、近い、近すぎるっ!
「なんでもないっ!」
「みぎゃーっ!!」
 思わず律の額にチョップをかました澪は慌ててそっぽを向いてしまった。
 なんだよ〜、とブツブツ律が呟いているが、誰のせいだと思ってるんだ。いや、律は悪くないのだけど。しかも、澪と律のやり取りもいつもの事なので誰も何も言おうともしない。
 結局、澪も珍しく練習しようとも言わずに時間だけが過ぎて行き、お茶するだけの部活が終わってしまう。梓だけが多少不満そうだったのだが、澪は気付いていなかった。
「………………なんだよ」 
 部活が終わり、他の皆と別れて帰る道中でも澪は一言も口をきかなかった。律の呟きや不審そうな目すら見ていない。正直なところ、それどころではなかったからだ。
 頭の中から、あのいちごの顔が離れてくれない。呆れたような、見放すような、蔑むようなあの瞳。そして、付き合うだの付き合わないだのという意味不明な言葉。
『何だよ、律と付き合う? 貰っていくだって?!』
 ふざけるな、簡単に貰っていくだとか。律は物じゃないんだぞ! 憤る澪だったが、彼女は肝心なものを見逃していた。

 不満そうに唇を尖らせている律の顔を。

 その事に、律が家に帰る時に何も言わなかった時点で気付くべきだった。気付かないというのは澪が悪かったのだから。






 そして、澪はそれを後悔する。律の事を考えていたはずなのに。律の為に怒ったはずなのに。それでも澪は後悔することになるのだった。
 …………それも翌日の朝から。