SS「暑中お見舞い申し上げられませんっ!」
青が眩しい晴れた空の下を一人歩く。アスファルトではない石畳の感触はでこぼこしているのに温かさすら感じる。長い歴史が積み重なって出来た石の優しさをサンダル越しに感じながら、紬は嬉しそうに街を歩いていた。
昔ながらの石造りと雰囲気を壊さない近代的建物が混在している景色は日本ではまず見る事が出来ない、中心を流れる川の美しさにも外国に来ていると実感するここはスイスのチューリヒ。
紬は両親と共に夏休みの避暑地としてスイスへとやって来ていたのだった。既に滞在は三日を越え、予定では一週間程の滞在で八月の後半に帰国する。多忙な両親が久々に取れた長期休暇を娘と過ごす為に海外旅行に費やしたのは親バカなのかもしれないし、寧ろ両親の方が紬に構ってもらいたいのかもしれない。
もちろん紬だってこれだけの時間を両親と過ごせるのは久しぶりでもあるし、蒸し暑い日本よりも過ごし易い海外は楽しい。
ほんのちょっとだけ寂しいのは、ここでは自分だけだということ。
一緒に笑ってくれる、仲間たちがいないこと。さすがにみんなを連れて海外旅行なんて言えないから。
だから紬は絵ハガキを買った。安易だけど一番分かり易い、旅行の想い出。沢山の景色から選んだ数枚のハガキに其々メッセージを添えて。
『暑中見舞い………残暑見舞いになるのかしら?』
きっと日本は夏真っ盛りだから暑中見舞いでいいような気がする。ペンを走らせながらぼんやりと考えて、くだらないなと一人で微笑む。
こんな時に浮かんできてくれる笑顔の彼女たち。みんなに感謝の気持ちを込めて。
当然お土産だって買って帰るけど、今ここにいるんだって言いたくて。
一枚ずつ心を込めて、紬はメッセージを書き終えるとペンを置いた。どんな顔をして見てくれるだろう? そう思うだけで嬉しくなる。
りっちゃん、澪ちゃん、梓ちゃん、さわ子先生。けいおん部のみんなは今何をしているのかしら。
そして、唯ちゃんは………
ほんのりと頬が熱くなる。唯の事を考えるだけで胸の奥から温かいものが溢れてくる。どうしようもないくらいに笑顔になってしまう。
歩きながら紬は思い出している。
あの日のこと。
あの時の想いを。
そして、少しだけ踏み出せた勇気が自分を変えてくれた。それは、好きな人ができたから。
大好きなひとに好きだと伝え、応えてもらえたのだから。
「喜んでくれるかしら?」
出発前、羨ましがるみんなと違い一人だけ「おみやげ待ってるね!」と言って笑わせてくれた。
けど、その後メールで『でも、寂しいな……』って書いてくれてキュンってさせられた。飛行機の中で泣きそうになるくらいに。
そんな大好きな、大好きな唯ちゃんに書いた手紙をしっかりと手に持って。
けれど、ハガキを出すまでが大変だったのだ。それを思い出すと思わず頬が赤くなってしまうのだけど。
……………紬は書き終えたハガキを見てため息を吐いた。唯に書いたハガキがどうしても気に入らない。
絵ハガキの邪魔にならないように、だけど想いの全てを込めて。なんて出来るものでもないけれど。書きたい事が多すぎて写真を埋め尽くしてしまうに決まっているけれども。
だから選びに選んだ言葉だけで思いのたけを伝えたいのだけど、何をどうしたって言葉だけでは物足りない。
悩みながらハガキを見る。みんなと同じようにメッセージが書かれたハガキ。つまりはみんなと一緒で、それでもいいのだけどそれだけじゃ嫌で。
結局は好きなひとなのだから特別にしたいと思うのは当たり前なのだと思うから。このままじゃきっと私が不満なだけなんだけど。
『どうしよう………』
プレゼントに添えて? というのは大袈裟過ぎる。かと言って二枚も三枚も送っても仕方無い。便箋に手紙を書くのもいいけど、それじゃ絵ハガキを買った意味がない。
「ふぅ……」
全て書き終えているのに何をしてるんだろ? 我ながら呆れてしまう。けど、唯ちゃんの為なんだから仕方無いよね。と、一人で納得して頷く紬。
かといってこのまま時間だけを消費してもしょうがない。エアメールというものは数時間遅れて出しても日本に着くのが一日以上遅れてしまう事があるのは経験から知っているのだ、急がないと今日の便に間に合わない。
ということで時間は無いのに考えだけがまとまらない。傍から見ればバカバカしいかもしれないけど、紬にとっては最重要事項なのだ。
「う〜ん…………困ったなぁ…………」
机から離れて思い切り背伸びする。
と、ふとある考えが頭に浮かんだ。
浮かんだのだが、
「うわぁ………」
想像するだけで顔が真っ赤になってしまった。何考えてるんだろ、私。でも。
ちらりと机の上に置いてあるハガキを見る。何の変哲もない絵ハガキ。でも。
「…………」
紬は意を決したように机―――ではなく、クローゼットから小さなポーチを取り出した。普段はあまりしないのだが、一応化粧品は持ってきている。その中から一本の口紅を取った。
普段はしないような少し色の濃いピンクの口紅。これは海外では幼く見えてしまう日本人として歳相応に見られるようにと思い濃いめのメイク道具を用意してきた中の一つだ。
ディナーで出かけるまでは必要ないだろうとしまっておいたそれを手にとった紬は鏡を前に、丁寧に唇を彩った。ちょっとだけ雰囲気の違ったように見える唇に気恥しさも覚えるが、今からやることに比べたらなんでもない。
「よしっ!」
謎の気合いを入れてからハガキを手に取る。唯に向けて書いた絵ハガキにはアルプスの山が印刷されている。
ちょっとだけ躊躇したけど勢いに任せて。
「んっ」
静かに目を閉じて、紬はハガキにキスをする。紙の感触が唇に伝わり、唇の熱が紙を温かくしていく。
しっかりと形を付けて、はっきりと想いを込めて。
時間にすればほんの数秒、押し付けた唇を離すとハガキには唇の形がはっきりと残っていた。
『うわ、すご……』
改めて見るともの凄く恥ずかしい。キスマークの破壊力がここまでだとは思わなかった。
白い雪が積もる緑の山に青空。そこに浮かび上がるようなピンクのキスマーク。これは何と言うか…………違和感を感じるというか卑猥ですらあるというか。自分で思いついたのだけれどこれはひどい。
けど、これくらいしか想いを伝えられない。これでも伝えきれないのにこれ以上どうしろと。
「…………うんっ」
後悔なんかしていない。決めたからにはこれでいい。それに時間もあまりない。
それだけ結論づけて、紬はハガキを持って部屋を出る。
恥ずかしかったのもさっきまで。今は想いを伝えたい。自然と走り出したくなるけど、さすがにここでははしゃぎ過ぎみたいで。
歩きながら、景色を楽しみながら、みんなの笑顔と唯の笑顔を思い浮かべながら。
それも楽しくて、つい微笑んでしまう紬なのであった。