『SS』 どうしようもない俺に天使が降りてきた

「もう知るかっ! バカーッ!!」
 もの凄い勢いでドアがバタンッと閉められる。ふわりと白い羽根が宙に舞う。怒鳴り声を残して、ハルヒが部屋を飛び出した。
 アパートの鉄製階段に大きな足音が響きわたる。こんな時間に近所迷惑も甚だしいだろうな、なんて事を思うのはケンカも日常的だったからなのかもな。毎日のように大騒ぎをしている気もするが、お隣さんは寛容で在らせられるらしい。
 けれど、今夜はあいつも本気のようだ。走り去る直前に見た涙。あいつは怒鳴る事はあっても泣くような事なんてなかった。
「やっちまったか…………」
 飛び出す前に散々暴れて振り回した枕から羽毛が飛び散って部屋を舞っている。俺は顔面にぶつけられた枕がずり落ちていくのも構わずに羽毛が舞い踊る室内で茫然と座り込んでいた。
 玄関のドアにくっ付く様に動く羽根が、まるであいつについて行こうとしているようだった……




 きっかけは俺からすれば些細な事だった。飯も食い、風呂も入っていつものように寝るだけになった時間帯。俺は目覚まし時計の時間をセットする。それを見ていたあいつの目が細まった。
「ねえ、ちょっといい?」
「何だ、明日は早いから今晩はこのまま寝ようぜ」
「え〜? ちょっと寂しいな、ってそうじゃなくって!」
 じゃあ何だよ。少しだけ頬を膨らませた顔はかまって欲しいと訴えているようにしか見えないのだけど。
「それよ、それ!」
 ハルヒが指差したのは愛用の目覚まし時計だ。中学時代から使い込んでいる、最早年代物になりつつある代物である。 
「これがどうかしたか?」
「…………いつまで使う気なのかしら、それ?」
 はて、そう言われてもどう答えればいい? 確かに古びてきてはいるが壊れてもいないし、何より思い出深いというのもある。
「いい加減に処分しなさいって何回も言ってるはずなんだけど?」
「いや、だから壊れてもないのに捨てるのは勿体無いって言ってるだろうが。それにこいつは縁起物でもあるしな」
 すると、ハルヒの眉がピクリと動く。
「ふ〜ん、縁起物ねぇ……」
「ああ。前にも言っただろ、こいつは高校受験の前に寝坊しないようにって貰った物なんだよ。おかげで、なのかは分からんがそれ以降遅刻なんかはしてないはずだぞ?」
「そうね、あんたはいつも最後に来てたけど集合時間そのものには遅れた事は無かったわね」
「だろ? 俺には欠かせないんだよ、目覚ましってのは」
 俺が答えた瞬間にハルヒの眉が吊り上った。
「ええ。その佐々木……さんに貰った時計が、ね!」
 なっ?! 何を、と言おうとした俺の口が開いたままになったのは。
 瞳に涙を溜めて肩を震わせているハルヒの泣き顔を見てしまったからなんだ。
「あたしと一緒に暮らしてるのに、前の彼女から貰った時計を大事にするんだ……」
「ちょっと待て! 何か誤解してるぞ、ハルヒ! 大体俺と佐々木はそういう付き合いなんかじゃなくてだな、」
「うっさいっ! それでも他の女から貰ったものを大事にしてるあんたを見て、あたしが何とも思わないとでも思ってたの?!」
 ハルヒの叫びに俺は何も言い返すことなんか出来なかった。そうだ、ハルヒは一緒に生活を始めてから何度も時計を替えろと言っていた。その度に壊れてないだの思い出の品だと言ってたのは俺だ。ズルズルとしがみ付くように手放さなかった俺をハルヒはどう思っていたのだろう。
 なんてこった、俺は自覚の無いままにハルヒを傷つけてしまっていたんだ。そして、気付いた時にはもう遅かったんだ。
ハルヒ、聞いてく…」
「うるさいっ! バカ! アホ! 鈍感! スケベ! 女ったらし!!」
 ハルヒが振り回した枕がボフッという間抜けな音を立てて俺の顔を叩く。寝心地を優先した結果、結構な出費となってしまった羽毛枕。一緒に寝ても大丈夫なように大きめを二つ。といっても結局は一つの枕で寝ていたりするのだけど。
 その枕を両手に持ったハルヒが泣きながら振り回している。悉く俺の顔面にヒットした枕から間抜けな音と共に何処かが裂けたのか白い羽毛が舞い散っていった。
「ずっと言いたかったのに! 大事な思い出だって分かってるけど! でも! あたし以外の女から貰ったものなんか大事にするなっ!」
 言えなかったのは俺のせいなんだよな。俺の事を想ってくれているから我慢して、俺の事を想うが故に怒ったんだ。ハルヒはずっと俺の事だけを想ってくれている、それなのに俺は。
「もう知るかっ! バカーッ!!」
 こうしてハルヒは部屋を出て行った。部屋中を白い羽だらけにしてしまって。その手に目覚まし時計を握りしめて。
 こんな騒ぎでも構わずに動いている時計が怖いくらいだ。チクタクと秒針の動く音が耳に障る。
 まるでドラマで見た時限爆弾だ、カッチカッチと規則正しい音が嫌でも悪い方向に連想させる。そして、それを持ったハルヒは。
「くそっ!」
 惚けている場合じゃない、それどころの騒ぎじゃない。急がないと、ハルヒを追いかけないと駄目じゃねえか! 立ち上がった俺は靴を引っ掛けて部屋を飛び出した。
 階段をハルヒのようにけたたましく駆け下りる。行き先は…………多分あそこだ、近所に空き地はそこしかない。
 泣きながら走っているだろう、そんなハルヒを追いかける。
 必死に走りながら前を見れば、道路のそこら中に白い羽が落ちている。まだあいつのシャツにも白い羽は揺れているのだろうか。俺の髪やシャツで揺れているように。
 いいや、そうじゃない。
 きっとあいつの背中にも羽根があって、そこから白い羽が落ちているんだ。まるで俺を導くかのように。


『本当は探してほしい』


 分かってるよ、お前は本当は寂しがりやなんだ。私はここにいる、そう言いたいんだよな?
 だから待っててくれ、今すぐにそこに行く。お前を離さないように捕まえる。それでいいんだよな? ハルヒ





 
 走りながら思うのは自分の迂闊さばかりだ。高校で知り合って、お互いに何も言えないままで卒業を迎えそうになりながら、無けなしの勇気を振り絞った結果として俺は涼宮ハルヒと付き合うようになった。団長と平団員でも、親友同士でもない、恋人としての俺とハルヒの歴史はここから始まる。
 そこからは上手くやっていた。というよりも世間的にはバカップルと呼ばれる範疇だろうと俺でも思うくらいに二人で過ごす時間は楽しかった。当然のように同じ大学に進み、当たり前のように同棲して、今ではハルヒが居なかった時期の事を忘れかけているくらいだ。
 人前で抱きしめることも、朝起きた時にキスすることも、挨拶みたいに思っていた。昔の俺が見たら殴りかかってくるだろうな。
 それほどまでにハルヒを想っていたはずだ。それなのに些細な事にすら気付かなかった。自己中心的なだけの愛情だったと言えばいいのか? 俺はハルヒの気持ちに気付いてもやれなかったのだから。
 思わず足を止めてため息を吐く。あのハルヒの涙が頭から離れない。
「……よし」
 だからこそハルヒに会いたい。謝るしか出来ないとしてもハルヒに会いたい。こんな俺だからこそ傍に居てくれるハルヒを誰よりも大切に思っている。それだけは伝えなければならないんだ。
 走る体に力が籠る。踏み出す足が加速する。
 ただ、ハルヒに会いたい。それだけの為に俺は全力で走ったのだった。









 予想通り、そこに涼宮ハルヒはいた。空き地に一人佇んで。俺を待っていたのか、目覚まし時計をその手に持って。髪やシャツに白い羽を纏って。そう、背中に羽根が生えているかのように。
 走ってきて上がっている息を深呼吸で整える。その様子をハルヒは何も言わずに見つめていた。
 息を整えた俺はゆっくりとハルヒに近づいていく。すると、ハルヒは俺に向い深々と頭を下げてお辞儀をしてみせた。まるで他人と接するように。いきなり頭を下げられた俺は戸惑って固まってしまう。
 そして、顔を上げたハルヒを見て息を飲む。その瞳に宿った強い光。怒りでもない、悲しみでもない、ハルヒは俺にこう言っているんだ。
『愛を勘違いするんじゃないっ!』
 そうだ。慣れ過ぎて、当たり前過ぎて忘れかけていた想い。相手の事を思う当然の気持ち。与えられてばかりで甘え切っていたのを愛と勘違いしていた俺への罰。それが泣き顔のハルヒというのならば辛い。
「…………」
 それでも俺はハルヒに言わなければいけないんだ。俺自身のどうしようもなさを許してもらう為に。
ハルヒ、」
 だが、近づく俺を制したハルヒは大きく両手を空に上げた。手に持っていた目覚まし時計が宙に舞う。高く、高く目覚まし時計は飛んでいった。
「さよなら」
 ハルヒが小さく呟いた。まるで誰かを見送るように静かに微笑んで。不覚にも俺は目覚まし時計の行方よりもハルヒの寂しそうな微笑みに見蕩れてしまっていた。
「ごめんね、キョン
 微笑んだままのハルヒに言われて俺はなんと答えればいいのか分からなかった。何でお前が謝るんだよ、それは俺のセリフじゃねえか。
「どうしても我慢出来なかったの。思い出の中の佐々木さんはきっとキョンの事を想って時計をあげたんだって思ったら……」
 微笑んだハルヒの頬を涙が流れていく。落下した時計が音を立てて壊れたようだが、それどころではなかった。
「自分でも分からなかったわ、あたしってこんなに嫉妬深いんだなって。キョンと一緒に暮らしてるのに、あたしのキョンだって分かってるのに、キョンがあたしを大事にしてくれてるのも分かってるのに……」
 ……返す言葉が見つからない。ここまで俺を想ってくれているハルヒに俺は何をしてやれるのか。いや、それすらもおこがましい。ハルヒに甘えているだけだった俺に何も言う資格なんかないだろう。
「あんたのせいなんだからねっ!」
 急に眉を吊り上げたハルヒが叫んだ。
「あたしがこんなになったのは全部あんたのせいなんだから! こんなに好きになったのも、こんなにヤキモチ焼きになったのも、ワガママ言ったのに追いかけてくれたのがこんなに嬉しいのも! 全部キョンだからなの! あんたがいないあたしなんて考えられない、考えたくもない! そんな風にあたしを変えたのはあんたなんだから!」
 壊れてしまった目覚まし時計よりも、もっと傷付いたハルヒの心。何故気付かなかったんだ、俺自身に腹が立つ。 
「責任取りなさいよ、この大馬鹿キョンッ!」
 怒りながら俺の胸に飛び込んできたハルヒを抱きとめる。まだ残っていた白い羽がふわりと宙を舞った。
「バカ。鈍感。追いかけるなら早くしなさいよ、本当だったら死刑ものなんだからね…………」
 震える肩をそっと抱きしめる。ああ、まったくだ。何回死刑になったら許してもらえるんだか。いや、俺が俺を許せそうにもないけどな。
「ごめんな、ハルヒ。全くもって俺は鈍感でアホだ。気にしてなかったなんて言い訳にもならないし、そんな事で許されるとも思わない。だから何度でも謝らせてくれ、お前を泣かせてしまったどうしようもない俺だけどさ」
 ハルヒのシャツの背中にはまだ羽根が残っている。そうじゃない、これはハルヒの羽根だ。俺にとってハルヒとは羽根があってもおかしくはない。
 そう、俺の前に降りてきてくれた天使。それがハルヒなのだから。そしてこの天使は時々俺を試すのだ、誰かを愛する為にはもっと努力が必要なのだと。
 泣きながら、怒りながら、笑いながら、共に暮らしながら俺はハルヒの愛を受けている。俺も同様に愛していかないとダメなんだ。もっとハルヒと話して、もっとハルヒと触れ合って。お互いの事を想い合う、そんな二人になりたい。
「まったく、今回だけなんだからね……」
 そうだな、今回だけにしたいもんだ。けど、俺は鈍いからまたハルヒを泣かせてしまうかもしれない。だから、
「すまなかった」
「うん」
「俺は鈍過ぎるよな」
「うん」
「だからハルヒ、俺に遠慮しないでもっと言ってくれてもいいからな」
「うん」
「俺も怒るかもしれない。ケンカするかもしれない。けど、話し合わないのはもっとダメなんだろうな」
「……うん」
ハルヒ
「うん?」
「愛してる。俺にはお前だけだよ、心からそう思ってる」
「………………うん」
 顔を上げてくれよ、ハルヒ
「しょうがないわね、あんたにはあたしぐらいしかいないだろうし」
 ようやく見たハルヒの顔は満面の笑顔だった。そうさ、俺が見たいのはお前のその笑顔なんだ。
「愛してるわ、キョン。あたしもあんたしか見てないんだからね」
 そう言ってくれるのか、ハルヒ。心が満たされていくようだ、結局ハルヒの笑顔は俺にとって何物にも代え難い宝なのだろう。
 どうしようもない俺に優しさと温もり、それとほんの少しであって欲しい刺激。その全てが愛しいんだ。
 こんな俺なんかの為に泣き笑いしてくれる、そんな女は昔は神とか呼ばれていたが全然違う。こいつは、涼宮ハルヒは俺の前に舞い降りてきた天使なんだ。
 俺の日常を劇的に変えてしまい、俺自身をも変えてしまった天使。ハルヒのシャツに付いている羽根は本当にこいつのかもしれないな。
「帰ろう、俺達の家に」
「うん」
 けど、その前に。俺はハルヒの肩を抱いたまま、そっと顔を近づける。ハルヒも何をするのか分かったのか、目を閉じた。
 愛してる、その想いを込めて。
 俺はハルヒにキスをした。何度目かなど数えたこともないけど、やはりハルヒの唇は甘かった…………












「帰ったら掃除だな。ああ、俺がやるから気にすんな」
「当たり前でしょ、キョンが悪いんだから」
「ぐっ……けど、明日は早いんだよな。どうするかなあ、目覚ましは壊れたし」
「心配いらないわよ、あたしが絶対に起こしてあげるから」
「……お手柔らかに頼む」
「任せときなさいって。それより、あんたの用事が終わったら買い物に行くわよ」
「何を買うんだ?」
「当然目覚まし時計よ! やっぱり無いと困りそうだもん」
「そうか。大事にするよ」
「あったりまえじゃない、二人の時を刻んでくれるんだからね!」
 そうだ、これから先も二人で過ごすのだから。古いものは思い出と共に。新しいものは思い出になっていく。それは常にハルヒと共に。
「そうだな、これからもよろしく頼む」
「うん、あたしもその、よろしくね」
 少しだけ照れたハルヒが俺の腕にしがみ付いてくる。そんなハルヒを愛しく思いながら、俺は取り敢えず掃除が終わって寝るのは何時になるだろう、などとくだらないことを考えていた。
 


 横を見ればしがみ付いているハルヒ。そのシャツにはまだ白い羽が揺れている。
 そう、天使の羽根のように。
「早く帰ろう、キョン
 ああ、分かったよ。
 俺は天使の笑顔に笑顔で返したのだった。

 
  

ちょこっとあとがき

・どうでした?歌詞を盛り込むのが毎回悩みどころな歌ネタなんですけど上手くできてますかね。それにしてもキョンハルヒもなんかだだ甘いんですけど(笑)