『SS』 なんか、ズルイ 後編

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「本当に大丈夫?」
 何度も言われて何度も頷く。唯の親切はある意味とても鬱陶しいまでなのだが、梓はそれを受け流している。慣れているからでもあるし、心ここに在らずと言ってもいいのかもしれない。
 何よりもここは梓の家の前なのだ、そろそろ帰って頂きたいな。という振りをする。心の中とは逆だとしても。いや、本当は顔も見れないくらい一緒にいるのが恥ずかしい。自分が何を考えているのか、変なとこだけ鋭い唯先輩なら気付くかもしれない。
「ほら、早く帰らないと今度は憂が心配しちゃいますよ」
 唯の弱点である憂の名前を出せば、流石の唯もそれ以上留まる訳にもいかなかった。
「う、うん…………何かあったら電話ちょうだいね」
 ギュッと両手を握られる。こんな時だけ年上で、先輩なんだ。唯の優しさが梓には痛みにすら感じられる。
 何度も手を振りながら帰る唯を見送った梓は大きくため息を吐いた。喜んでいいはずなのに疲れてる。見送ったのに離れられない。
 帰っていく背中を見て、胸の奥にある何かがキュッと痛い。
『なんで……?』
 自分の気持ちが、心が解らない。梓は肩を落として玄関のドアをくぐるしかなかった。




 自室に戻った梓は髪を解くことも制服を着替えることもせず、ベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。枕に顔を埋めてグルグル回る頭の中を少しでも整理しようと考える。
 どうしてこうなっちゃったんだろ、何でこんな事考えてんだろ。答えがまったく浮かばないままに思考だけが彷徨って同じところを回り続ける。
『唯せんぱい……』
 想うだけで胸が痛くなる。脳裏に浮かぶのは笑顔しかないのに、何故だかとても寂しかった。それは何故なのだろう。
『ああ、そうだ』
 きっかけは何だったんだろ。梓は思い返してみる。
 何時だっただろう、放課後の部活で。
 律先輩と澪先輩がいつもと違ってて。それが当たり前に見えてて。
 二人の視線がお互いを追ってて。自然と寄り添っていて。
 私は、それが羨ましくて。ああなりたい、と思って。
『何でだろ?』
 あの二人の距離が近くなった。そう思った理由が解らない。勘違いなのかもしれない、けれど梓には確信に近いものがあった。
 律先輩と澪先輩には何かあったんだ。距離を近づけるだけの何かが。それを梓は知りたいのだ、自分の為に。
『…………明日、訊いてみよう』
 もしかしたら誤解かもしれないけど、笑われるかもしれないけど、それでも。
 知りたいのだ、二人が近づいた理由を。それが梓の求めているものなのだと。
「よしっ!」
 一度決めたからには行動するしかない。梓は起き上がるとようやく制服を着替える。皺になってなくて良かった、アイロンまでかけてる時間が惜しい。ご飯を食べて、お風呂に入って、今晩は早めの就寝を心がけよう。


 全ては明日、そう決めたのだから。





 梓が決心をした翌日がやってきた。朝から変に気合が入っている梓を見て憂と順が妙な顔をしていたが、二人とも余計な声はかけなかった。思い込むと一途というか、無鉄砲な面があるのは一年近い付き合いで十分承知済みだ。親友としては余計な事を言わずに後でフォローすればいい、順と憂は顔を見合わせただけでそこまで話を終えていた。
 そんな周囲の気遣いにも気付かない程入れ込んでいて、当然授業なども上の空だったので何度も注意を受けたりしていた梓だったのだが、いざ音楽室の前までやってくると足がすくんで動けなかった。
 あれだけ決心していたはずなのに、どう訊いたらいいのか分からない。何を訊いたらいいんだろ、変な顔されるんじゃないか、そう思ったら怖くて何も出来なくなる。それに、訊いてみるって澪先輩と律先輩のどっちに訊いたらいいんだろ。まともに答えてくれるんだろうか。
『ええいっ!』
 それでも、躊躇していてもしょうがないのだ。思い切って音楽室の扉を開く。そこには、
「ああ、梓か。もう大丈夫なのか?」
 澪が一人で机に向かっていた。何かノートに書いている、多分作詞をしているのだろう。
「あ? え、えと……」
 いきなり訊きたかった本人が、それも一人で居ることに驚いた梓は何も言えなくなっていた。それを他のメンバーが居ない事への疑問だと思った澪は、
「律と唯なら補講だよ、あいつら抜き打ちテストで引っかかりやがってさ」
 呆れて溜息を吐いている。
「ムギはそれに付き添い。つか、お目付け役みたいだな。和も一緒だ。私は先生に言われて先に来てるってことだよ、全員一緒だと補講にならないからってさ」 
 つまりは、さわ子先生も教室なのか。しかし抜き打ちテストで補講って。今までの緊張感を返してほしい、梓も思わず溜息を吐いた。
「まあそういうことだから。たまには一人で作詞の時間を作らないとな」
 そう言いながらも、途中は見られたくないのかノートを隠そうとする澪を見て、梓は「見ませんよ」と笑う。

 だが、おかしな事に気が付いた。

『あれ? 作詞なら帰ってからでもいいんじゃ……』
 一人の時間なら家に帰ればいくらでも出来るはずだ。それなのに、時間が無い…………そうか、帰ってからも一人の時間が少ないんだ。それって、
「梓?」
 澪に呼びかけられて我に返る。そして先程まで持っていた気持ちが戻ってくる。
 梓は意を決して澪に訊いてみることにした。幸いなことに二人きり、しばらくは誰も来ないはずだ。
「澪先輩、お話があるんですけど」
「ん? 何だ?」
 音楽関係の話だろうと気軽に応じた澪だったが、梓の真剣な顔つきを見て眉を顰める。
「……えっと、どう言ったらいいんだろ」
 梓も戸惑っている。いざとなると何も言えなくなったのだ。律先輩と何かあったんですか? なんて訊きづらい。けど、疑問はそれしかない。
「どうした、何でも言ってくれていいんだぞ? ここ何日か様子がおかしいから皆心配してるからな」
 澪は本当に心配だった。梓の様子がおかしいのは事実だったし、その原因になりそうなものに心当たりもない。もしも部活以外、例えばクラスでの悩み事などだったら一緒に考えてあげよう。そこまで澪は考えていた。だが、
「…………澪先輩と律先輩、何かおかしくないですか?」
 この質問だけは想定外だった。いきなりの展開に澪の表情が固まる。
「………………何が?」
 澪はどうにかそれだけを口にした。その様子を叱責と捉えたのか、梓は俯いてしまう。
 違う、そうじゃない。
「あ、あの……少し前からお二人の様子が違うような気がして、その、距離が近いというか、雰囲気が温かいというか…………勘違い、かもしれないんですけど」
 ボソボソと言い訳のように言っている梓の言葉が耳に突き刺さるようだ。まさか、気付かれるなんて。それも、よりによって真面目な梓に。
「あ、あの、澪先輩?」
 何も返事が無かったのを不審に思った梓が顔を上げた。
『!』
 そこには、青ざめた顔をした澪がいた。それだけで梓は自分の予想が正しかったことを知り、同時に澪を追い詰めてしまったのにも気が付いた。
「す、すみませんっ! そんな、責めたりするつもりはないんです! ただ、話を…………澪先輩と律先輩のことを聞きたかっただけなんです」
「…………え?」
 絶望で目眩すら起こしていた澪は意外な梓の言葉に驚く。と同時に、梓の方が泣きそうな顔をしていることに戸惑った。
「私……澪先輩と律先輩を見て羨ましかったんです。いいなあって、私もああいう風になりたいって、そう思ったんです。でも、それが何でだか分かんなくって、訊いていいのかも分からないんですけど……」
 ああ、そうなのか。澪は全てが理解出来た。梓の言いたい事も、自身が理解出来ていないだろう気持ちの正体も。
 だって、それは私だったから。澪が今まで戸惑って、悩んで、躊躇って、それでも諦め切れなかった想いそのものなのだから。
 だとすれば、伝えなければいけないのだろう。梓だけが気付いた二人の関係も、そこまでにどれだけ互いがすれ違っていたのかも。
「分かった、ちゃんと言うよ。私と律は…………その…………付き合っている。友達としてじゃなくて所謂、恋人として付き合ってるんだ」
 やっぱり。分かっていたとはいえ澪の言葉は衝撃だった。女の子同士なのに、恋人。それは許されるものなのだろうか? 自分の知識などではとてもじゃないが理解出来そうもない。漫画やアニメなどではなく、実際に同性で付き合うなんて今まで考えたことも無かった。
 けれど、どこかに納得している自分がいる。律先輩と澪先輩ならば、それもいいんじゃないかって思う。でも。
「どうして、ですか?」
 やはり梓には解らない。幼馴染なのに、同級生なのに、クラスメイトなのに。それでも好きで、恋人にならなければいけない理由が。友達じゃない関係を求める意味が。
 回答は優しい微笑みだった。それこそ同性の梓でさえ見惚れてしまうような。
「私はね? ずっと律が好きだったんだ。勿論おかしいんだって分かってるつもりだ。けど、好きでいることだけは止められなかった」
 呆れたように苦笑いしながら。けれど、梓にはそれがとても嬉しそうに見えた。
「ついこの間、私は律に告白したんだ。偶然だったんだけど、それがきっかけで想いを告げる事が出来た。律は…………応えてくれたんだ」
 なんと言って応えたのか、そこまでは聞かなくてもいいことなのだろう。澪が告白し、律がそれに応えてくれた。その事実だけで十分なのだから。
「…………嬉しかった。それだけしか思えなかった。今だって夢じゃないかって怖くなるよ。けど、夢なんじゃないって分かったら泣きたくなってくる。そのくらい律が好きだったから」
 真っ直ぐな瞳を梓は正面から見る事が出来なかった。おかしい、女の子同士なのに、なんて事は全く思えなかった。ただ、羨ましくて眩しかった。

 自分は、こんなにも相手の事を想えるのだろうか。 

「だからさ、梓が何で私達の変化に気付いたのか分かった気がする」
「えっ?」
「…………好きなんだろ?」
 誰が、とは言われなかった。けど。
 梓の心の中に居たのはたった一人だったから。誰からも愛されて、みんなの事が大好きだという、あの明るい笑顔だけしか浮かばなかったから。
「あ、あの…………私……は……」
 熱が上がる。顔が熱い。何か言わなければいけないはずなのに何も言葉が出て来ない。
「いいよ、それを聞くのは私じゃないし」
 澪はそう言って梓の肩を叩いた。
「わ、私は…………」
「うん、いつか気付いてくれるといいな。あいつ、鈍いけどさ。まあ、律の鈍さも大概だったけど」
 澪はそう言って笑う。
「そう……ですね」
 気を使ってもらってしまった。それが分かるから梓も笑うしかない。けれど。
 それは澪先輩が手に入れたからだ。好きな人と、好きだと言える自分を。まだ何も手にしていない梓には、澪の笑顔が眩しすぎた。
「そろそろ補講も終わるだろ。みんなが来るまでに顔洗った方がいいぞ」
「えっ?」
「そんな赤い顔してたら私が何かしたんじゃないかって疑われちゃいそうだ、主にムギに」
 ほら、と見せられたコンパクトミラーには真っ赤になって涙目の梓が映っている。まるで泣かされたみたいに。
「あ、え、あの、そのっ! 私、顔洗ってきますっ!」
 行ってこい、という澪の言葉を背中に聞きながら音楽室を飛び出す。奇跡的に誰にも遭わないで洗面所に入った梓は何も考えられないままで顔を洗った。何度も冷水を顔に当てて、ようやく火照った頬と頭の中が落ち着いてくる。
 梓が顔を上げると、そこには鏡に映る自分がいる。顔色も悪い、眼も真っ赤の酷い顔。こんなみっともない顔、誰にも見せられない。
『なんで、こうなっちゃうんだろ……』
 情けなくて、悲しくて、また涙が溢れそうになるのを慌てて拭う。拭いながら思うのだ、どうしてこうなったのかを。そして、答えはもう出ているのだと。
『好き、なんだ』
 唯先輩のことが。どうしようもないくらい、どうにかなってしまいそうなくらい、好きで好きでたまらないのだ。鏡の中の梓は真剣な瞳で梓を見つめている。
 自覚してしまえば何てこともなかった。おかしいかもしれないけど、間違っているのかもしれないけど、好きになってしまったから仕方が無いのだと思う。
『唯……せんぱい…………』
 いつからなんて分からない。どうしてなのかも分からない。ただ、そこに唯がいて、それだけで嬉しくなってる自分がいて。ワガママだけど、おっちょこちょいだけど、でも、好きなんだ。
 気付いてしまえば、感情は止められなくなっていた。唯のことを想うだけで胸が痛くなる。好きだという気持ちが抑えられなくて壊れそうになる。
『ダメっ!』
 梓は出しっぱなしにしていた水に頭を突っ込んだ。冷静にならなければ、咄嗟の行動が既に冷静ではないとしても。
 頭から水を浴びて脳が覚めていく感覚。その中で梓は思う。
 きっと、彼女に告白をすれば『うん、私もあずにゃんのことがだ〜いすきだよ!』と答えてくれるだろう。
 けれど、その後に必ずこう言うのだ。『それに、澪ちゃんも、りっちゃんも、ムギちゃんも、和ちゃんも、憂もだ〜いすき!』と。
 彼女の心は広すぎて。誰もが愛しているから、誰もを愛してしまう。
 そんな彼女だから好きになったのに、そんな彼女だから好きだと言えない。誰かと一緒の好きなんていらない、私だけを好きになって欲しいなんて言えない。
 言えば彼女を傷つけてしまう。愛されている彼女を独占するなんて、私には出来ない。
『どうして…………』
 せめて同じ年ならば。同じ学年、同じクラスだったら良かったのに。そうすれば、もう少しだけ違う接し方も出来たかもしれないのに。
 けれど梓はあくまで後輩で。どれだけ想っても、あの人は私よりも先にここを出て行く。それを想像するだけで絶望してしまいそうなのに。
『…………ずるい、ですよぅ…………』
 あんなに子供っぽいのに、時たま見せる大人の顔が。普段は頼りないのに居るだけで安心してしまうその笑顔が。どれだけ嫌がっても抱きしめてくるその温もりが。
 全てが愛しくて、それが梓を苦しめる。好きなのに。どうしようもないくらい好きなのに。
『なんで……一緒にいられないんですかぁ…………』
 ふいに脳裏に澪の笑顔が浮かぶ。全てを手に入れた、優しい微笑み。
 だって、澪先輩は律先輩とずっと一緒だったじゃないですか。幼馴染で、一緒の学校で、一緒のクラスで。だけど、ずっと好きだと言えなくて。
 けど、まだ言えた。好きだって言えたじゃないですか。幼馴染だから、同じ学年で同じクラスだったから。勇気を振り絞って言えたんじゃないですか。
 私には言えない。初めて会ったのも高校に入ってから。私を可愛がってくれるのも後輩だから。そんな私が好きだなんて言えないじゃないですか。
「うっ……うぅ…………」
 流水を被りながら、梓はまた涙を流していた。

 くぐもった泣き声は、水音で聞こえなかった。









 梓が音楽室のドアを開けると同時に、
「あーっ! あずにゃん、大丈夫なの?!」
 飛びついた唯に頬擦りされる。が、すぐに飛び退き、
あずにゃん? 髪が濡れてるよ!」
 慌てて自分のバッグからタオルを取り出し、梓の頭に被せる。
「ちょ、唯先輩?!」
「ほら、動かないで! ちゃんと乾かさないと風邪ひいちゃうから!」
 忙しなく唯がタオルを動かす間、梓は何もせずにされるがままだった。少しでも、接していたかった。
「も〜、顔洗うだけだって聞いてたのに〜」
 梓の髪までセットした唯が頬を膨らませているのを、紬がまあまあと宥める。
「それで? 調子はどうなんだ、梓?」
 流石に部長の責任からか、律が普段より幾分か真面目な顔つきで尋ねてくる。梓は数秒沈黙したが、
「はいっ! もう大丈夫ですから、遅くなった分練習しましょう!」
 と、大声で答えたので律の方が目を丸くしてしまった。
「あ、ああ。梓がいいんなら練習するけど……」
「ええ〜? あずにゃん、今日はお休みした方がいいよ。私が送っていくからさ〜」
 唯にサボる気などないのは声で分かる。が、
「いや、梓がやりたいって言ってるんだから練習しようぜ。なあ、律?」
「ん? あ、うん」
 澪の言葉に律が頷き、梓もギターを取り出したので唯も渋々ながら用意を始めた。
 きっとフォローしてくれたのだろう、事情を唯一知っている澪の優しさは嬉しい。けど。


 練習が始まると、唯も全力で演奏している。この集中力も梓は尊敬しているのだ。けど。


 梓の想いは秘めたままで。
 それなのに輝く笑顔の唯先輩が。
 想いを遂げた澪先輩が。
 それに応えてあげた律先輩が。
 みんなが眩しくて、羨ましくて。
 だから梓は小さく呟いた。


「なんか、ズルイです……」





 小さな声は、ギターの音にかき消されて本人の耳にも届かなかった…………