『SS』 なんか、ズルイ 中編

前回はここです


 梓が妙な違和感を感じるようになってから数日が過ぎた。だが、違和感があるからといって日常に変化があった訳ではない。
 朝起きる時間も一緒だし、学校に行くのも変わらない。教室で憂や順とおしゃべりして、授業を受けて、お昼を食べて。全てがいつもどおりだ。
 ただ違うのは一点だけ。放課後、音楽室に向かうのも同じで中に入れば、
「あ〜、あずにゃんおはよ〜」
 そう言いながら唯先輩に抱きつかれるのも一緒なのだけど。いや、これは毎日にしてほしくないなあ。と思いながらも一度は素直に抱きしめられてしまっている。そのまま唯を引きずってテーブルへ。
「こんにちは、梓ちゃん」
「こんにちは、ムギ先輩」
 挨拶はいいのだけど、もうお茶の用意をしてるのはどうなんだろ。その疑問ももっと前に言うべきだったけど、すっかり馴染んで座ってしまう。唯も隣りに座って既に視線はテーブルの上のケーキに向いているけど。あ、隣りに唯先輩がいてくれるのも馴染んだものだ。
 でも、違う。違うのは私達じゃなくて。そう思う梓がチラリと横目で見れば、そこには仲睦まじく話す二人がいる。律と澪の間に流れている空気はやはり変わらず、梓の心に変な靄を作らせる。思い込みならまだ許せる。気のせいだったらそれでいい。
 けれど、あの二人に感じるものは確かにあるのだ。話している内容も、近づけている顔の距離も変わらないのに。雰囲気だけが、そこにある空気だけがどことなく暖かい。
『何で?』
 そう感じているのは梓だけなのだろうか。唯先輩は鈍そうだし、ムギ先輩は…………解ってても黙ってそうだし。それも怖いけど。
 それに唯先輩は鈍いから。そうだ、唯先輩は鈍いから気付いてない。


 あの人は愛され慣れ過ぎてて、そこにある愛に気付かない。多分。


「……梓ちゃん?」
「はひゃ?!」
 紬の声に裏返った叫びで返事をしてしまった梓に全員の注目が集まる。声をかけた紬が驚いてティーポットを持ったまま固まってしまっているのを見て、梓の方が恥ずかしさのあまり顔が赤くなる。
「あ、あの、すみませ……」
『あ、あれ? 私、何考えてんだろ』
 確か律先輩と澪先輩を見てていいなあって思って、唯先輩が鈍いからって。だから私は、
あずにゃん?」
「ひゃあいっ?!」
 思い切り飛び上がる。何故か唯も併せて飛び上がっていた。付き合いがいいというか、リアクションが梓よりも大きいくらいだ。
「なんだ? また何かやったのか、唯?」
「え〜! ひどいよ、りっちゃ〜ん!」
 律の言葉に頬を膨らませた唯だが、すぐに梓に向き直り、
あずにゃん、大丈夫?」
 心配そうに眉を寄せる。
「梓、保健室行こうか? ついて行ってやるから」
 数日前と同じようにハラハラしながら澪が話しかけてくる。あまり心配させてはいけない、と梓が応えようとした時だった。
「ん〜?」
『ええっ?!』
 目の前に唯の顔がある。おでこをくっつけてきた、と気付いたのは額に温もりを感じたから。って、近い、顔が近いって! 鼻先が少しだけ当たる。息が、当たる。あ、さっきまでケーキを食べてたから甘い。吐息が。
 意識すればするほどに、梓は今の状況が大変なのだと分かる。やばい、鼓動が速くなっていく。どんどん心臓の音が大きくなっていく気がしてくる。ドキドキがバクバクになって張り裂けそうになるくらいに。
 顔が、顔が赤くなっていく。頭に血が昇り過ぎてクラクラする。こんなの、おかしい。何でこんなに緊張してるの? ただ唯先輩がおでこをくっつけてるだけなのに。
 だけど、そこに先輩の唇がある。心配そうに少し開いたそこから甘い吐息。まるで、花が蝶を誘うように? 甘い香りが鼻先を通っていって。
『あ……』 
 すぐ傍に。触れ合えるとこに。鼻先はついている、もう少し唇を突き出せば…………
「う〜ん、熱はないみたい」
『え?』
 唯の顔が離れていく。まるで逃げていくように。少しだけ突き出した唇が空しくて。
『どうして………………』
 あんなことしようとしたんだろう。どうして唯先輩の顔が離れていっちゃったんだろう。どうして、
「よしっ! 今日はもう帰るか!」
 律がいきなり宣言してしまったので梓の思考も中断されてしまった。いや、それよりも、
「もう帰っちゃうんですか? 私なら大丈夫ですから練習しましょうよ!」
 だが、あの澪ですら、
「いや、梓も疲れてるんだと思う。ちゃんと体調管理も部活の内だぞ」
 と言い出したのだ。いや、心配性の澪は何度も梓を心配しているのではあるが。それでも部活よりも優先されてしまうのは困る、けど。
 あの、そのと反論する暇も無く、梓がオタオタとしている間に澪と律は片付けを終えてしまい、紬もティーセットを食器棚に入れると、
「ごめんね、お待たせ」
 むしろ申し訳無さそうに謝られてしまう。これでもう何も言えなくなってしまった。いきなりの展開に梓は焦ってしまう。それに、何よりも、
「ほら、早く帰ろう! 私が送っていってあげるから。それとも家に来る? 憂のご飯食べたら元気出るからね」
 誰よりも早くギターを片付けた唯が袖を引っ張っているのだ。眉を寄せて、心配そうに。その顔を見てしまうと何も言えなくなる――――そんな顔させたくないのに。
「こら、唯! 梓が疲れてるだろうって帰るのに家に連れてってどうすんだよ」
「あ、そっか。でもちゃんと送っていくからね!」
 妙に張り切っている唯にグイグイ引っ張られる。いや、その前に私も片付けないと…………
『それに、唯先輩の家にも行きたい……』
 でも、家に行ってどうするんだろ。憂が作るご飯を食べて、唯先輩とお話して。そして帰る。唯先輩と別れて。離れてしまう。唯先輩と。
『やだ』
 想像してゾッとした。きっと家に居るときは幸福に違いない。だからこそ、別れる瞬間に訪れる寂寥感に耐えられなくなりそう。唯先輩と別れるなんて。



 ずっと、一緒にいたいのに。



『……あれ?』
あずにゃん?」
 何で唯先輩が驚いてるんだろ。澪先輩も、律先輩も、ムギ先輩まで。それに、
『何で私、泣いてるの?』
 気付いたら涙が頬を伝っていた。だって、唯先輩とお別れするって思ったら。こんなに一緒に居たいのに。
『やだ…………なんで…………』
 分かってるのに。そういう意味じゃないのに。家に呼んでくれたのに。でも涙が止まらない。だって、その後一人になっちゃうから。一緒にいたいから。
 恥ずかしい、みんなの前なのに。だけどダメだ、一度想像してしまったら離れてくれない。嫌だ、唯先輩と一緒じゃなきゃやだ。
「あ〜ずにゃん」
 唯は梓を抱きしめていた。そのまま優しく頭を撫でる。梓が何故泣いているのかなんて解らないけど、抱きしめてあげる事は出来る。だって、あずにゃんが寂しいそうだったから。
「大丈夫、大丈夫だよ、あずにゃん。私がいるからね?」
 誰かの救いを求めている、迷子の子供を慰めるように。それはとても優しい声。優しい温かさ。だけど、
『……違うのに』
 この人はきっと誰にでも同じ事をする。してしまう。だって、みんなが大好きだから。みんなに優しいから。
 そうじゃない、そんなんじゃない。私が欲しいのは…………唯先輩の特別、なのに。だけど言えるはずもないから、
「子供扱い……ぐすっ……しないでください…………」
 精一杯強がるしかないのだ。梓は涙を拭いたいのだけど、唯に抱きしめられてるからそれも出来ない。だからって訳じゃないけど。抱きしめられてるのが嬉しいからって訳でもないけど。


 梓は唯の胸に抱かれて涙を流していた。誰も何も言わない中で、ただ涙だけが溢れていた。


「…………帰ろっか」
 ようやく涙が収まったのを見計らったようなタイミングで唯が声をかける。梓は黙って頷いた。きっと、顔はぐちゃぐちゃだけど帰らなきゃ。
「はい、梓ちゃん」
 え? と顔を上げると紬が笑顔でハンカチを差し出していた。
「あ、ありがとう……ございます……」
 何も考えられずにハンカチを受け取り涙を拭う。ハンカチからいい香りがする、ムギ先輩らしいなと思った。あ、自分でもハンカチくらい持ってるから遠慮すればよかった。と思ったのは涙を拭いた後の事だ。
 申し訳無いから洗って返すという梓の申し出はあっさりと断られ、紬はポケットにハンカチをしまう。恐縮する梓にいいのよ、と笑う紬。しかも、
「んじゃ、帰るぞー」
 律と澪がさりげなく梓の荷物を持って音楽室を出て行った。紬も軽やかな足取りで後に続く。
「あ…………」
 先輩たちの優しさが嬉しい。何も訊いてこない事がありがたい。それに、
「帰ろう、あずにゃん
 繋いでくれてる唯先輩の手が温かい。何よりも嬉しくて、でも素直に喜べなくて。だって、泣いたのは唯先輩のせいなのに。そんなことは言えないから、
「……はい」
 梓は頷いた。ぎゅっと唯の手を握り返して。しっかりと、離れたりしないように。





 いつもより早い下校風景。少しだけ明るい帰り道に、
「たまにはいいかもな。どっかに寄ってく?」
「こら、何の為に帰るんだよ! って、さっきお前が唯に言ったんじゃないか」
「あ、そうだった。ごめんな、梓」
「ったく、もう少し考えて言えよな」
 律に頭を下げられても梓の方が恐縮してしまう。自分のせいで部活が切り上げられたのだから、本当はどこかに寄り道してもいいくらいだ。
 けれど、心配してくれる先輩たちには言えない。
「梓ちゃん、何か欲しいものはない? ちょっとコンビニで買ってくるけど」
 紬の申し出も丁寧に断る。この人の場合は棚ごと買い占めてしまいそうだ。それよりも、
「大丈夫? おんぶしようか?」
 さっきからずっとこうなのだ。手を繋いだままで唯はずっと梓に話しかけている。なんか、本当に調子が悪いのかもと思い込まされそうだ。心配しすぎて逆に調子を崩されてる気がする。
 それでも繋いだ手が温かいから。やっぱり甘えているのかもしれない。だから梓は手を離さずに大丈夫です、と答えるのだ。
「そう? 何かあったらすぐ言ってね」
 何度も言ってくれる唯の優しさに甘えたい。そう思いながら。




「本当にいいのか? 私たちも一緒に送ってくぞ?」
 澪が心配気に言うのを、梓は大丈夫ですからと断った。律と紬もまだ何か言いたそうだったが、澪が断られたので仕方無い。だが、一人だけ断られてもついていきそうな人がいる。
「それじゃ後は任せたぞ、唯」
 両腕にギターケースを抱え、しかも梓の手を握って離そうとしない唯に律は呆れたように声をかける。
「任せてよ、ちゃんと家まで無事に送り届けるからね!」
「いや、そんなに大袈裟なことじゃないだろ」
 澪のツッコミも、使命感に燃えている唯には届いているかどうか。隣にいる梓でさえも引いてしまいそうなくらいに張り切っている。
「それじゃあな、ちゃんと休めよ」
「無理するなよ、梓」
「梓ちゃん、唯ちゃん、また明日ね」
 それぞれの帰宅を唯と梓は手を振って見送った。
『あ……』
 その時、梓は気付いた。澪先輩と律先輩、二人の距離が近い。いつも一緒だったけど、今はより自然に寄り添うように。帰り道だから、二人になったからなのか、当たり前のように。
『やっぱりあの二人…………』
 前と違う。決定的に違う、何かが。それは今の私が求めているもののような気がする。なんとなくだけど、梓はそう思った。
あずにゃん?」
 唯の声にハッと我に返った。よく見ると唯の手をしっかりと握りしめている。
「あ、す、すみません……」
「ううん、いいよ。それよりも帰ろ?」
「はい」
 手を繋いでるのに。あの二人よりも寄り添ってるのに。梓は何故か遠いな、と思った。あの二人よりも近いのに、あの二人よりも離れてる。あんな風に自然に寄り添えたら、二人の距離が近づければ。
『いいなあ……』
 こんなに手が温かいのに、心まで温かくなれない。それが寂しくて、哀しくて、悔しくて。歩きながらそんなことを考えてるなんて、唯先輩には絶対に知られたくない。
 心配なのか、いつもと同じなのか、明るく話しかけてくる唯に応えながらも梓の心は静かに沈んでいったのだった……