『SS』 キスしてほしい 後編

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 信じられない。律が感じたのはまさにそれだった。キスに興味があったのは確かだし、それなりに夢見がちだったことも間違いではなかったのだが、どこか冷めていたというか、所詮は唇を合わせるだけだろうという気でしかなかった。だからこそ冗談のように澪にキスを迫ったり出来たのだが。
 それがどうだ。唇が触れた途端に痺れるような感覚に襲われたのだ。甘いとか言われていたけど、味としては唇の味だとしか言えなくても。あ、でも澪はリップを塗ってた。だからリップの味なのかと言われたら全然違うような。とにかく背筋まで貫くような、まさに電撃でも受けたみたいに頭がクラクラする。
「ん……」
 律は混乱しているが、澪だって同じようなモノだった。憧れて、望み続けたとはいえキスは初めてなのだから。澪は律よりもキスという行為に夢を持っていたからなのかもしれないが、律の唇が触れた瞬間から頭の中が真っ白になっていく。泣きたいくらいの喜びはもう、ダメだ。
「んうっ?!」
 澪がいきなり唇を押し付けてきた。軽く触れ合うだけでも眩暈がしそうだった律の唇が澪のそれで完全に塞がれる。
「う……ん……っ…………」
 驚いて澪を離そうにも、いつの間にかしっかりと腕を回して抱きしめられている。それどころか身長差そのままに覆いかぶされるような体勢になっていた。どうして、と思う暇などなかった。キスで頭が真っ白で、主導権を取られたなんて気付きもしなかった。
「んーんっ!」
 抗議の声は塞がれているので当然出すことなど出来ない。抵抗したくても力が入らない。唇から何かが吸い取られているかのようだ、澪の唇を感じれば感じる程に何も出来なくなっていく。それに…………抵抗なんか最初からする気もないくせに。
 気付いていた。抱きしめている澪の腕が小さく震えていることを。目を閉じたままだが、澪の顔もすぐに想像出来てしまう。きっと澪は林檎みたいに顔を真っ赤にして、もしかしたら泣いてるかもしれない。
 あの恥ずかしがり屋の澪が、精一杯の勇気を振り絞ってキスをしている。そうさせているのは他でもない、律だ。律だから、と言った澪の言葉に嘘はない。律にだけ、律の為にだけ澪は恥ずかしさを忘れたかのように迫るのだ。
 それが可愛い、と律は思う。臆病なくせに大胆で、クールに見えて泣き虫だったり、しっかり者みたいなドジっ子なんだ。おまけに甘えん坊だし。
「…………ん」
 まあ、いいか。好きだって言ったんだし。好きだって言ってもらったんだし。きっと澪は必死なんだろう、だけどもう少しだけ抱きしめてる力を弛めてくれないかなー。律はそう思いながら自らの力を抜いていた。今はただ、この唇の感触を味わおうと。



 果たして澪の心臓は爆発しないのがおかしいと思うくらいに高鳴っていた。いや、鼓動が激しすぎてどうにかなりそうだ。
 それでも、離したくない。律の唇を、律の体を、全身で感じたいのだ。恥ずかしいけど、おかしいのかもしれないけど、好きだと言われた瞬間から全てがどうでもよくなった。もっと、もっと律に触れたい。
「んーんっ!」
 抗議にならない声が上がったけど、澪は無視した。本当に嫌だなんて思わない。澪は確信している、律が抵抗しないことを。それは好きだから、とかではなく澪の甘えなのだが、律が澪に甘えられて断らないのは気持ちを確かめる前からずっとそうなのだったし、それを信じ込んでいるのもまた甘えなのだけど。
 好き、好き、律、好きなんだ。頭の中は律のことだけを考えている。唇から伝わってくるのは律の味。抱きしめた身体から伝わる律の熱。
 全てが愛しい。全てが澪を惹き付け、虜にして、そして狂わせる。一度意識したら、後は歯止めなど効かなかった。律の一挙手一投足を目で追っている自分がいる。世話焼きだとかで誤魔化せているのは高校に入って、唯と和がいたからだ。でも、全然違う。幼馴染みだけど、ずっと一緒だったけど、あの二人と自分は違う。いつからそうなったのかなんて覚えていないけど、気付けば澪は律が好きになっていたのだから。
 無意識で追っていた視線が、自覚することで熱を帯びる。しかし、自覚と同時にそれが罪なのだということも判ってしまった。女の子なのに、同じ女の子を、しかも幼馴染みを好きになってしまうなんて。自分の気持ちがタブーなのだと知ったとき、思春期を迎えていた澪の心は千々に乱れ傷付いた。それでも、それを面にも出せない。だって、律に知られたら。嫌われるかもしれない、避けられるかもしれない。そんなことになってしまえば、生きている意味さえない。澪は本当にそう思っている。
 だからこそ澪は努めて自分の気持ちを出さないようにした。幼馴染みで、親友で。そのポジションを守るために。律の傍にいるために。そして近づいていく距離と反比例するように澪の心では律との距離が開いていく。私と律は違う、私の『好き』と律の『好き』は違うのだと思い知らされる。そう、思っていた。
「…………ん」
 けれど、今は違う。澪の気持ちは確かに律に届いていた。律はそれに応えてくれた。嬉しい。嬉しい。嬉しすぎて。
 律の唇から想いが伝わるようだ、そんなことを思ったりしながら、自分の想いを全て込めて澪はキスをしているのだ。緊張していた身体から抜けていく力。律が任せてくれているのだ、と気付き感謝と感動と共に。今はただ、この唇の感触に溺れたいのだった。

 
 


 しかし、甘い時間は唐突に終わりを告げる。というのも、
「ぶはあぁ〜っ!!」
 律は澪を押しのけるように唇を離すと大きく息を吸った。流石にこのままでは呼吸困難に陥ってしまう、キスしていたときとは違う意味で顔を赤くしている律は真剣にそう思った。だが、澪は名残惜しそうに、
「もう終わり?」
 なんて言っている。頬は赤いが、それは興奮状態であるからであって律のように呼吸が出来なかったというわけではなさそうだ。
「あ、あのなあ……」
 まだ整わない呼吸で呆れて言うしかない。キスはいいけど、それが原因で死んじゃうだろ。しかし、呆れているのは澪の方だった。にじり寄って律の鼻先に指を当てる。
「息してなかったのかよ」
「わ、わ、わるいかよ……」
 あんなことしておいて息なんか出来るか、その、口が塞がってるのに。言い訳は口の中でもごもごと言っているけど、やっているのは指先をもじもじと合わせて弄っているだけだったりする。
 そんな律を前に、澪は驚きと共に興奮している。思い切り照れてる、あの律が。キスしたから? 私と。やばい、律が可愛い。つい抱きしめてしまいたくなるけど、その前に。
「鼻で呼吸出来るだろ? ずっと息止めてなんかいられないぞ」
「あ」
 言われるまで気付かなかった。考えてみれば単純すぎて腹が立ってくる。それよりもキスに夢中になりすぎてたなんて言えない。っていうか、何でそんなに冷静なんだよ。結局、律のもごもごと口の中だけでの文句は続く。
 苦笑している澪だって冷静だった訳では無い。単に想像しまくっていただけで。いつだって律とキスしている自分を妄想してはシュミレーションしていたなんて言えるはずもないけれど、少なくともずっとキスしたかったから息をどうやって続けるかくらいは練習してたっていいじゃないか。
「分かったか?」
「あ〜……う、うん」
 どうしよう、律が可愛すぎる。こんなに素直に頷いてくれるなんて。澪は律の頬に手を伸ばす。これなら、もっと。
「律……」
「な、なに?」
「もう一回、しよ?」
 嫌だ、なんて言えないよな。何かのスイッチが入っちゃったのは目を見れば分かる。ようやく息が整ったと思ったのに、と律はため息を一つ。それを拒絶の意思だと勘違いした澪はまたも涙目で、
「ダメなの……か?」
 などと小首を傾げている。あー、もう、何で一々可愛いかなあ、こいつ。積極的に迫ってきたかと思えば、今度はお預けを喰らった子犬の様に健気に大人しくなっちゃって。律の前でだけ、澪は表情も態度もくるくると変わっていく。
 それが面白く、それが愛しい。そんなとこを含めて好きになったんだ、いや、ずっと好きだったんだ。今にも泣きそうになっている澪をぎゅっと抱きしめる。
「律?」
「バーカ、ダメなわけないじゃんか」
 顎に指を当て、そっと持ち上げると澪は何も言わずに目を閉じた。
「まったく、現金なやっちゃなあ」
 律が笑うと目を瞑ったままの澪の頬が膨れる。その姿も可愛いのだけど、あまり待たせると怒りそうだ。律は自分も目を閉じて、そっと澪の唇に唇を重ねた。軽いキスで唇が離れる。
「あ……」
 思わず澪が漏らした声に律の唇がニヤリと上がる。恥ずかしさで真っ赤な澪に律が意地悪そうに笑いかけた。
「あれ〜? どうしたのかな、澪ちゃ〜ん?」
「う、う…………いじわる…………」
 本当にコロコロと表情が変わるな。泣きそうになりながら恥ずかしがっている澪の頭を撫でてやる。
「どうしたい?」
「………………もう一回」
「はいよ」
 キスする。
「もう一回」
「ん」
 キス。
「もう、いっぱい、して」
「りょーかいっ」
 何回でも、澪にキスしたい。何度でも、律とキスしたい。だから、キスをする。したいから、してほしいから、キスを。
 いつしか何も言わなくなり、ただ二人はキスを交わしていた。この時間が永遠であればいいのに、そう思いながら。





「あー、ヒリヒリするー」
 腫れぼったい唇をさすりながら律は火照った体を冷やそうとジュースを一気に飲み干した。うげ、なまぬるい。当たり前だ、澪が持ってきてからどれくらいの時間が経ったのだか。
 それでも、喉を潤す液体がゆっくりと全身の熱を下げていく気がする。ほっと一息吐くと何だか落ち着いたみたいだ。大きく背伸びして体を解すと律は勢い良く立ち上がった。
「そんじゃ、まあ帰るわ」
 一体何をしにきたのだろう。ずっとキスしかしてなかった。いや、キスするために来たんだけど、本当にキスしかしないままで窓の外はすっかり暗くなっている。これ以上は流石に家が近いからって帰らないわけにはいかないだろう、明日も学校だし。というか、明日どんな顔して澪に会えばいいんだ? 今更ながら恥ずかしくなってきて、すぐにでもこの場を離れたくなる。
 立ち上がったのは顔を見られたくないというのもある。そんな律が部屋を出ようとすると、当たり前のように服の裾を掴まれた。
「…………帰るの?」
「あー、いや、もう遅いし。ほら、帰ってからやることもあるだろ? 明日も学校あるんだからさ」
 そんなことは分かっている。律に言われなくても。それでも澪は離せない、律を。明日会えても、今が居ないなんて耐えられない。頭では分かっていても、理性が止めようとも、一度溢れだした想いだけは止められない。
 こんなにワガママだったのか、私は。恥ずかしくて律の顔も見れなくて、情けなくて弱いけど、それでもこの手を離せない。
「…………やだ」
 それだけしか言えなかった。そんな澪の気持ちが律には分かってしまう。長い付き合いは何も言わなくたって相手に気持ちが伝わってしまうものだから。澪の想いだけは気付かなかったのかもしれないけど、それは無自覚に律が受け入れていたからなのだろう。当たり前じゃないか、こんなに好きなんだから。
 だから律は笑って澪の頭に手をやる。
「こーら、ワガママ言うんじゃありません」
 ぐりぐりと頭を撫でる。長い黒髪をくしゃっとしてやると、無言で手を払われた。
「なんだよう……」
 ようやく顔を上げた澪はすでに涙でくしゃくしゃになっていた。本当に泣き虫だけは変わらない。そして、泣き止ませるのも律の役目なのだ。
「明日も会えるだろ? というか、迎えに来てくれないと起きれないんだけど」
「そうじゃなくて……」
「澪の言いたいことは分かるけど、ちょっとだけ早すぎるかなーって。私たちは付き合いだしたばかりなんだしさ」
「付き合う? 誰が?」
「私と澪だろ! 友達じゃなくて、ええと、その、恋人? としてというか……」
 言ってて照れくさいから勘弁してくれないだろうか。しかも言われた澪は何があったのかとキョトンとしてるし。律だけが自分の発言に顔を真っ赤にしている。なんかアホみたいじゃんか。
 しかし、澪の心境はそれどころではない。恋人? 私と律が? どうしよう、付き合うって。付き合ってるんだ、恋人なんだ、私が律を好きで、律も私を好きだって言ってくれて。
「り、りつ〜……」
「あー、泣くな! 嬉しいのもわかるけど反応遅すぎだろ! 大体キスまでしておいて付き合ってないのか、私ら」
 澪はブンブンと首を振る。やっと叶えられた夢が消えてしまわないように。って、頭がクラクラする。でも、これだけは言わなければ。
「そんなことないっ!」
「だろ? だからそんなに焦るなって」
 焦っているのだろうか、ずっと一緒に居たいだけなのに。でも、律が言っているのも確かで、私が焦っているだけなのかもしれないし。
「とりあえず帰るだけだから。また明日な」
 まだ頭は混乱しているけど、律は帰ろうとしている。見送らなきゃ、と立ち上がろうとした澪は、
「あ、あれ?」
 立てない。足に力が入らない。完全に腰が抜けてしまっていた。どうやっても立てそうもない澪を見て律がまた笑う。
「やっぱ緊張してたんじゃん」
「うるさいっ!」
 怒鳴っても立てないのだからカッコ悪いだけだ。それでも、いつもの二人とも言えるかもしれない。律がからかって、澪が真っ赤になって。あんなことがあっても普通に話せているのが不思議でもあり、嬉しくもある。
「帰るぞ〜」
「ま、待って!」
「なんだよ?」
「送ってくから待てって言ってるんだ!」
「送ってくって……」
 立てないじゃん。なにやら必死に立ち上がろうとしているようだが根が張っているかのように尻餅をついたままで上半身だけを揺らしている。本人は真剣なつもりなのだろうけど、んーんー言いながら上半身だけ揺らす姿は間抜けだし面白いしなんか和む。
「近いんだからいいよ」
「やだ」
 呆れた律の言葉に即答した澪だが、立てそうもない。なんでだよ、一分でも一秒だって律と離れたくないのに。自分の意思と裏腹に、動かない身体が嫌になる。ほんと、何やってんだろ。
「こらこら、もう泣くな」
 律は澪の傍らにしゃがみこむと、
「よっ、と」 
 腕をとって肩を貸すような形で持ち上げた。少々バランスが崩れたが澪も大人しく立たされる。
「な、なに、」
「しょうがないだろ、待ってたらいつ帰れるんだよ」
 そう言われてしまえば反論の余地などない。黙って律にもたれかかる。あ、なんかあったかい。つい力が入らない事を忘れて律に寄りかかってしまう澪なのだった。
 律からすれば元々背が高い澪が寄りかかってくるのでバランスが悪い、というか重い。でも、安心しきったような澪の顔を見てしまえば何も言えないし、まあいいかと思ってしまうのだから本当は出会った頃から律は澪に弱かったのかもしれない。
「ったく、しっかり歩けよ」
「分かってるって」
 何で見送られる側が見送る相手を背負って帰らなきゃならないんだ? 今更ながらツッコミを入れつつ、そんなに遠くない距離を二人で歩く。離れがたいから、一緒にいたいから、二人寄り添って夜道を歩いている。偶然とはいえ密着している身体が、温かい。
 …………このまま二人でどこかに行きたいな。そう思ったのは律だけではない。ぎゅっと握られた澪の手がそう言っている、それだけは確かだったけれど。
 




「それじゃ、また明日」
「ああ」
 という会話を交わしてから何分経っているだか。どことなくぎこちないまま立ち尽くす律の家の玄関前。帰ってきて、澪を離して、そこからずっとこうだ。
 分かっている、離れたくないのは。今までとは違う、あっさり帰るなんて出来ない。澪はそう思っているからここまで来たのだから。といっても律に肩を借りて引きずられるようにだが。
 律だって澪の気持ちは分かる。だからといって玄関先に立ちん坊ではお互いにまずい。っていうか、澪がここまでワガママだとは。
 …………仕方無い、心の中でやれやれとため息を吐く。
「みーおー」
 何、と答えられる前にキスをした。驚いて目を見開く澪の顔が見える。あ、そういえば目を閉じてなかったな。なんてことを思いながら。
 ほんの一瞬だけなのですぐに唇は離れたが、効果は劇的だったようだ。何があったのか分からなかった澪の顔が見る間に赤くなっていく。
「お、お、お前なあ!」
「しーっ! 玄関先だぞ、大声だすなよ」
 誰のせいだよ、と言いたかったが確かに大声はまずい。それに、
「何で笑ってるんだよ?」
「べっつに〜?」
 律の笑顔を見てしまえば怒るに怒れない。それにまあ、キスは嬉しかったし。
「これで安心して帰れるだろ?」
「…………バカ」
 でも、安心したのは本当だった。どこかにあった不安、それはこれが夢なんじゃないかという漠然としたものだったとしても。澪の不安はいつも律が原因で、それを取り除いてくれるのもまた律なのだ。
「ちゃんと迎えに来てくれよ? 明日は起きられるか分んないからさ」
 冗談めかしているけれど、これは律の本音だった。あんなことしておいて寝られるかどうかすら心配なのだけど、寝てしまったら今度は起きられる気がしない。
 それに対して澪ははっきりとこう答えた。
「分かってるよ、絶対に迎えにくるからな」
 そしてくるっと踵を返し、
「…………大体寝られる訳ないじゃないか」
 律の返事を待たずに走って帰ってしまった。残された律は呆然と見送ってしまったのだが、
「…………あははは、そりゃそうか」
 自分も寝られる自信なんかないのに、あの澪が冷静に寝るなんてありえないじゃないか。きっと帰り次第ベッドに飛び込んで悶えているに違いない。
「ま、それは私もだけどな」
 澪の態度を見ているから冷静になってるだけだ、ドアを開けて家に入ってしまえばどんな行動を取るか自分でも分かりはしない。
「………………どうしよ」
 ちょっと家に入るのを躊躇したい。というか、家族の顔をまともに見れないぞ。とは言え、これ以上ここにいたらそれこそ煩いことになってしまう。特に弟などに見つかれば。
「よしっ!」
 頬を叩き気合いを入れて、律は玄関のドアノブに手をかける。そのまま一気にドアを開けると「ただいまっ!」という声だけを残して部屋へと飛び込んで行ってしまった。
 


 その後、ベッドの上でのたうち回りながら悶えていたら弟に五月蝿いと言われてしまうのだが、それはそれで仕方の無い事なのだ。





 目覚ましが鳴ったのかどうかは分からないが、玄関のチャイムには気付いてしまった。律は慌てて飛び起きると寝間着姿のまま洗面所に駆けつける。急いで顔を洗って、髪は適当に撫でつける。どうせカチューシャで誤魔化せるんだ、寝癖は目を瞑っておけ。
 制服の袖に腕を通しながら朝食代わりの牛乳を喉に流し込む。弟が何か五月蝿いけど知ったことか。ってか、澪が待ってるんだぞ! 玄関先までの短い距離すらダッシュしてしまった。勢い込んできた律を見た澪は呆れて笑ってしまう。
「大丈夫だぞ、まだ遅刻とか関係ないし」
 いや、そうじゃないし。そういえば今何時だ? とか思って携帯を開くと遅刻どころか朝食をゆっくり食べても学校には間に合う時間だった。
「なんだよ〜……」
 思わず膝から崩れ落ちそうになる。いつもの流れだったら澪が眉毛を上げて律を引っ張って登校するのだが、今日は面白そうに笑っている。
「早く言えよな〜、焦っちゃったじゃんか」
「自業自得だろ、いつもちゃんと起きないからだ」
 そりゃそうだけどさ。この点については何を言っても澪に勝てる訳がないので律は口の中だけで反論する。起きたら澪が迎えに来ている、というのが当たり前過ぎて時間なんかどうでもいいんだよ。
「だったら何でこんなに早く迎えに来るんだよ?」
「言ったろ、寝られる訳ないって」
 よく見ると澪の目が少し赤い。本当に寝てないんだ。ちょっとだけキュンとする。
「で、早めに学校に行って音楽室で寝ようかなって」
「へ?」
「あそこなら静かだし、何となく落ち着くっていうか。ちょっと部屋だと落ち着かないんだよ」
 まあ、あんなことしたからなあ。澪の言いたいことが律にも何となくだが理解出来る。もしも自分の部屋でキスしていたら居たたまれないというか、恥ずかしくて部屋に居られないかもしれない。
「だからってこんなに早くに起こすなよな」
「お前のせいだろ! それに律だって起きれたじゃないか」
「それは私だって寝てたようなそうでもないような…………」
「だろ? だから、みんなが来るまで寝ておこうぜ」
 あー、そうなのか? 二度寝しても、と思うが律に反論出来る要素がない。原因は律にあるのだし、澪は寝てないのだし、迎えに来てくれてるのを帰れなんて言えない。それに、
「…………ちょっとでも早く一緒に居たかったんだ。それに、ふ、二人っきりでいられるから…………」
 なんて頬を染めた澪に言われてしまえば何も文句など言えないじゃないか。まったく、なんでこんなに萌えキャラなんだよ、こいつは。
 玄関で照れてしまっている澪をニヤニヤと見つめた律だったが、ふと悪戯心が湧いてきた。
「み〜お〜」
「な、なに?」
「いってきます、のキスは?」
「はい?!」
 勿論冗談なのだけど、これでまた照れる澪を見るのが楽しい。いいじゃないか、だって恋人になっちゃったんだし。調子に乗って唇を突き出したりなんかして。
「…………よし」
 え? と驚く間も無く澪の顔が近付いてきて。待って、の「ま」のとこで唇が温かく柔らかい澪の唇で塞がれる。それも一瞬の事ですぐ離れはしたのだが、受けた衝撃は大きかった。
「なっ?! え? ちょ、おまっ!」
 ここを何処だと思ってんだ、部屋でならともかく玄関なんだぞ! もしも誰かに見つかったらどうするんだよ?! 血の気が一気に引いて真っ青になった顔の律を見た澪がクスクスと笑う。
 見られたくらいで何だってんだ、もうこの想いは止められないんだぞ。間違ってるのかもしれないけど、不安になったりするんだけど、もうどうしようもないんだぞ。律が好きで、大好きで、好きだって言ってもらえて、恋人になれたんだぞ。
 だから、キスくらい見られても平気だ。と思う。
「ほら、早く行くぞ」
 だけど、顔は見られたくない。多分真っ赤な顔してにやけてるから。澪は律の反応を見ないままで表に飛び出した。
「あ、おい澪!」
 ショックで呆然としていた律は澪がドアを開けた音で我に返ったのだが、何か言う前に澪はもう目の前にはいない。
「…………ったく」
 驚くくらいに大胆なくせに、呆れるくらいに恥ずかしがり屋。逃げるくらいならキスするなっつーの。
 でも、そんな澪を怒る気にもならない。そんな澪だから大好きなのだ。
「待てよ、迎えに来ておいて先に行くなって」
 靴を引っかけながら澪の後を追う。すぐに追いついた律は澪の手を握りしめた。
「……なんだよ?」
「なんでもねーよ」
 ぎゅっと握り返される手。そこから十分伝わる気持ち。
「早く行こうぜ、澪」
「私のセリフだろ!」
 笑いながら、手を繋いで学校まで。幼い頃と同じように、あの頃よりも繋がった心で。
「ずっと一緒だからな、律」
「分かってるって!」
 笑っていられたらいい。二人だったら、律と一緒だったら。
 手を繋いだまま二人は走り出していた。今までと同じだけど、少しだけ違う。そんな気持ちが逸るのを止められない。





 律と澪は、笑って学校までの道程を走っていく。
 二人の手は固く握られたままで。気持ちも、繋がっているから。
 だから笑って。笑って走っているのだ。このまま二人で、何処までも行けそうな気持ちのままで。

























「ところでさー、澪?」
「なんだよ?」
「音楽室に行ったら寝るつもりか?」
「え? それはそうだけど」
「二人っきりなのに?」
「!!」
「……寝かさないぞ!」
「…………バカ」



ちょこっと言い訳

あー、そういえば百合ものって初めて書いた(笑)