『SS』 キスしてほしい 前編


 きっかけがなんだったのかは分らない。ただ、なんとなくだと思う。
 その日はなんでだか分からないけど珍しく宿題になんか手をつけてみようなんて思ったりして、ついついラジオなんか聴きながら机に向ったりしていたけれど。
「ん〜……」
 結局真っ白なままのノートを眺めている。上唇と鼻の間にシャーペンを挟んで椅子にもたれて、それでもなんとなく寝る気にはなれない。
 そんな深夜の自室で律はなんとなく天井などを眺めている。さっきふと浮かんだのはなんだったのか、と考えながら。
「…………キスしてみてーなー」
 何故そんな事を考えたのか自分でも解らない。ラジオから流れている曲は西暦がまだ1900年代だった頃のヒットナンバーで、それがきっかけなのかと言われてもどうなのだか。それでも一度浮かんでしまった思いというものは忘れるには生々しいもので、白いノートに英語で綴りなど書いてみたりしてしまう。
 キス。Kiss。口づけ。接吻。なんでもいいし、意味はない。
 自分の唇に指を当ててみても感触が違うのは当たり前だし、かといって何もしないのもつまらない。
 大体、いい年した女子高生がキスしたいって思うのはおかしくもない。もっと進んでてもいいんだろうけど、そこまで考えるのはちょっと違うな、みたいな。
 結局のところはキスしたい。なんとなくだけど、どうしても。と、ここで気付いてしまう。
「誰とだよ?」
 残念なくらいに相手がいないことに今更ながら気付いてしまった。少なくとも律に彼氏はいない、欲しいかと言われればノーとは言わないけど。だからって今すぐ彼氏が欲しいかと言われたらノーと答えてしまうのだが。
 とりあえず試しに鏡に向かってキスしてみた。まあキスする前の自分の顔が妙に間抜けに見えたのと、鏡が冷たい事だけはよく分かっただけだった。それ以上に虚しい、というかイタイ。そんなことしてる自分がイタイ子に見えて、律は不貞腐れてベッドに転がった。
「となると、誰だ?」
 と、ここで諦めないのが田井中 律なのだろうか。ベッドに寝転んだまま、とにかく頭の中で思い浮ぶ名前を適当に上げてみる。
 まず唯は無理だな。見つめ合うだけで笑いそうだ。というか、なんとなくだけど憂ちゃんの目が怖い、気がする。お姉ちゃん大好きすぎるからなあ、あの子。
 ムギは…………別の意味で怖い。本気で怖い。冗談で済まされない何かがありそうじゃん? っていうか押し倒されるかもしれないじゃんっ!
 梓はなあ、今度は唯がうるさいだろうし。それに間違いなく怒られる。もしくは呆れられる。最悪引かれる。よって却下。
 和…………いや、無理だろ。
 さわちゃんにお願いだからって頼む。アホか、何よりもさわちゃんはまず彼氏を探さないと。
「う〜ん…………」
 友人には恵まれているのだろうが、キスというには違いすぎる。まず同性である事が大問題なのだとしてもだ。キスするってだけで結構悩むものなのだ。
 もぞもぞと布団を被る。電気も消して、寝る体勢だけは整えた。いや、無意識の内にベッドに倒れれば寝るようになっているだけなのだけども。自分に正直なだけなのだ、キスだってそう、だろ?
「まあ、いっか」
 諦めたわけではなく、相手を想像していたら結論が出てしまったというか。それなら明日でいいや、という気分になってしまったのだ。
「ふぁ〜あ…………」
 大きな欠伸をしてから、目を閉じる。いくらもかからない時間で律のベッドからは寝息が聴こえてきた。寝付きが早いのは自慢なのだ。
 机の上には真っ白なノート。宿題はまったく終わってないままで。



 

「と、いうことでキスしようぜ」
「嫌だ」
 澪は呆れて律を見ていた。放課後の部活もどちらかといえばうわの空だったが、そんなことを考えてたのか。
 練習が終わってからいきなり家に来ると言われたので何事かと思っていた澪は、それでも律のためにジュースもクッキーも用意して部屋に戻ったらこの発言だ。
「お前なあ……」
 思わずこめかみを抑えてため息を吐く。どうして毎回頭が痛くなるような事しか言わないんだ、こいつは。
「え〜? いいじゃんか〜」
 片や律はといえば、気楽に笑っている。昨夜から引っ張っていた問題をようやく話せているのだ、満足していて当然だろう。だが、そこまでの流れをまったく説明しないままに言われてしまった澪としては返す言葉も無かった。
「なんでキスしたいんだよ?」
「ん〜、なんとなく?」
 なんとなくでキスされてたまるか。しかし律はあっけらかんと笑っている。その顔を見てしまうと、少しだけ寂しくなるのは何故だろう? まるで何も分かっていない、そんな想いが澪の中にあることを。
 実を言えば澪だってキスはしたい。相手が律ならば。でも、そういうのは言ってはいけないことなのだ。心の奥にしまい込んで、何があろうと表には出してはいけない想い。そう決めていたはずなのに。何故こいつは軽々とそれを乗り越えてきてしまうんだ。
 今だってそうだ、どうして笑っていられるのか澪には理解出来ない。こんなにも高ぶる気持ちを抑えるだけで精一杯の澪には律が何故キスしたいのかなど考える余地すら無かった。
「よっと」
 当たり前のように澪の隣に座った律は、下から覗き込むように澪を見上げる。
「なあ〜、み〜お〜」
 甘えるような態度は二人に取ってはいつもの風景。どれだけ煩わしくても五月蝿くても、律の我が儘には敵わない。そうして澪はため息を吐きながら律の言う事を聞いてしまうのだから。
 それでも、こんなお願いは聞く訳にはいかないだろう。倫理的だとか、常識的なんて言いたくはないけど、これ以上は自分自身を抑えきれる自信もない。だから澪は律の近づいてくる顔を無理矢理に押しのけた。
「やめんか!」
「なんだよ、キスくらいいいじゃんか〜」
 そのキスくらいが大問題なんだよ! そう言いたい気持ちをぐっと堪える。普段は余計なところで鋭いくせに、こういうところだけは嫌になるくらい鈍い。澪の秘めた想いなど、すぐに気付きそうなものなのに。
「大体もう少し雰囲気とか作れよ! その、キスするんだったら……」
「え? 雰囲気ってなんだよ」
「だからその、ムードっていうか……キスしちゃいそうだなって感じになるっていうか、抱きしめられて甘く囁かれちゃうとか」
「そういう雰囲気だったらキスさせてくれんの?」
「それとこれとは話は別だっ!」
「なんだよ〜」と不貞腐れる律をまともに見れない。澪は自分の言ったことの大胆さに戸惑っていた。それこそ雰囲気さえ良ければキスしてもいいみたいだったじゃないか。
 いや、そうじゃない。キスして欲しい。キスされたい、キスしたい。自分から言うなんて出来るはずもないけど、流されているのかもしれないけど、律とだったら。律じゃなければ嫌だ。律と、キスしたい。
 だけど、それは言える事ではない。女の子同士だからとか、タブーだから、じゃなくて。恥ずかしくて、それでも律が好きだって言えない自分が情けなくて。常識なんて言葉に逃げようとしているのが分かるのが辛くて。
「バカなこと…………いうなよぉ……」
 やっぱりまともに律の顔が見れない。膝を抱え、見られないようにしながら澪は涙が溢れてくるのを自覚していた。





 え? あれ? なんで?! 律は目の前の状況が理解出来ないでいた。何で澪が泣いているんだ? さっきまでのやり取りだって、キスなんて話題だけど無理矢理に迫ったりしたわけでもない。それなのに、膝を抱えて顔を見られないようにしていても律には澪が泣いているくらいは分かる。
 小さく震えている肩、啜り泣きの声。どうしよう、こんなつもりは無かったのに。ほんのちょっとだけキスしたいな、って思っただけなのに。
 泣いている澪に何か言いたいのに声をかけることが出来ないのも何故なのだろう。何で泣くんだ、って言うだけじゃないのか? それなのに、澪がとても小さく見えて。そうしてしまったのは自分なのだと分かって声はかけられなかった。
 どうしよう、どうしてだろう。戸惑いながら、律は動けない。笑って肩なんか叩けない雰囲気を澪が纏っている限り。そうだ、キスしようなんて言ってしまったから。
 何でキスしたいって思ったんだろう。何で澪とキスしようなんて言っちゃったんだろう。そのせいで澪が泣いている。これならば他に方法があったんじゃないのか。
「澪……」
 なんて言えばいい、どうしたら澪の涙を止められる? あれは冗談だったんだよって笑えばいいのか? そう思いながら声が出て来ない。
 何故ならば律自身が混乱していた。冗談という言葉がどうやっても、何をしても喉の奥から出てきてくれない。頭で思っていても体が拒否している、としか言いようがないのだ。だから律は泣いている澪を前にしても何も出来ないままなのだった。
「ええっと……」
 笑いながら肩でも抱いて、冗談だから泣くなよって言えないのはどこか引っかかっているから。何が、と言われてもすぐには答えられない何かが胸の奥に沈み込んで溜まっているから、喉から声が出て来ない。溜まったものの正体なんて律自身が分かっていないのだとしても、身体は正直なのかもしれない。
 だとすれば何故? 澪を泣かせてしまったのは、それを冗談と言えないのは何故なのだろう。喉から出たがっているのは冗談、なんて言葉ではなくて。もっと大事で、純粋な。形として出たがっているそれに何という名をつければいいんだろう。
「律のばかぁ……」
 膝を抱えたまま顔を上げない澪の、涙混じりの声を聞いた瞬間、律の頭の中に一つの言葉が浮かんだ。そうか、そういうことなのか。
「澪っ!」
 律はいきなり澪を抱きしめた。驚いた澪が流石に顔を上げる。その顔は泣いていたのと抱きしめられたのとで真っ赤になっていた。
「な、な、なあっ?!」
「好きだっ!!」
 急激すぎる告白は澪の耳に入り込み、頭の中身を空っぽにしてしまう。え、なに、りつがわたしをすきだって。
 まだ何を言われたのか把握できない、そんな澪が呆然としている中でも律の告白は止まることが無かった。
「ええっと、キスしたいって言うのはなんとなくだったんだけど、相手が誰でもいいって訳じゃなかったんだ。色々考えて消去法で澪しかいないっていうか、」
 やっぱりそうなのか。小さな頃からワガママを聞いていたのは秘めたる想いがあったからだけど、律にとってはただ都合がいいだけなのか。そう思うと寂しくて、哀しくて、情けなくてまた泣きそうになる。けれど、澪は泣くことは無かった。何故ならば律は突然とんでもない事を言い出したからだ。
「あー、もう泣くなっ! そうじゃなくって、澪しかいないって言うのはつまり、その、澪じゃなきゃダメなんだよっ! キスしたいのだって、澪以外となんて嫌だよ! それに気付いたら…………」
 怒鳴るような勢いだったのが、急速に声が小さくなる。お説教を受けるような形で思わず俯いていた――――恥ずかしさのあまり顔なんか上げられなかったのだが――――澪がどうしたのかと顔を上げた時、信じられないモノを見た。
「好きなんだって…………気付いちゃうじゃんか……」
 律が、あの律が。頬どころか顔中を真っ赤にしている。小さな声だけど、はっきりと好きだって言ってくれている。これは夢か? それとも妄想しすぎてたから頭がおかしくなってしまったのかもしれない。と、一瞬で考えた澪は自分で自分の頬を思いっきり抓っていた。あれ、やっぱり痛くない。
「って、澪?! 涙出まくってるから! めちゃくちゃ痛そうだからっ!」
 真剣に告白したつもりだった律が見たのは頬を抓りすぎて顔の形が変わってしまっている澪の姿だった。慌てて手を払いのける。痕が残りそうな程に真っ赤になった澪の頬に自分の手を当てた。熱いのは、抓っていたから? それとも、
「ほ、本当に?」
 涙を瞳いっぱいに溜めた澪も同じ気持ちだったからなのか。
「私のこと……好き…………なの?」
「ああ。好きだよ、澪」
 律の口から今度は素直に言葉が出てきた。その言葉はストン、と心の中に落ちていく。まるで始めからそこにあったかのように。ああ、結局簡単な事だったんだ。そう思ったら笑いたくなっていた。実際に律は笑ってしまったが。
 それに引き替え、
「あ〜……う〜…………わ、わたしぃ……」
 澪は涙が溢れて止まらない。こんなに嬉しいなんて、想像なんかとは全然違う。何度も夢見ていたはずの律の声も、表情も、想像を遥かに越えていた。好き、と言ってくれたのだ。今まで抑えていた想いが胸の奥の奥から弾けるように溢れてきて、言葉になんか出来ない。ただ、涙だけが言葉の代わりに雄弁に流れていて、頬に当てている律の手も濡らしている。
 そんな澪が可愛い、律は素直にそう思う。恥ずかしがり屋のくせに大胆だったり、冷静なふりして泣き虫だったり。今だって、嬉しくて泣いているんだと思えば、泣かせたのが自分なんだと思ったら、律の胸が熱くなる。抱きしめずにはいられなくなる。
「可愛いなあ、お前」
 抱きしめて頭を撫でる。大人しく抱きしめられてるくせに、
「なんだその言い草は……律のせいでこうなっちゃったんだろ…………」
 小声で不満を告げる澪が可愛すぎるのだ。そして澪は不満と同じくらい小さな声だけど、律にも分かるくらいにはっきりと、
「わ、私も、律のことが好き。ずっと好き……だった」
「過去形?」
「い、今だって好きだよ! でも、本当にこうなるなんて……」
 信じられない、と言った方が正しいのかもしれない。抱きしめられているのに、好きだと言ってもらえたのに、未だ夢の中にいるような感覚。幸福すぎると感覚がおかしくなるのだと澪は思った。だって、こんなにふわふわと温かい。
「ほらほら、もう泣くなよ」
 律の声がいつもより優しい。呆れたようで、面白そうで、だけど心配してくれているようで。頭を撫でてくれる手が優しい。励ますようで、慰めるようで、慈しむようで。やっと自覚出来た、好きだと言われた喜びに澪はまた泣きそうになる。
「……ヒック……好き……グスッ……大好き…………」
 泣きながら、愚図りながら、譫言のように、睦言のように、好きだと繰り返す。もう、隠さなくていい。もう、抑えなくていい。そう思ったら涙と声が止まらない。胸の中で同じ言葉を繰り返しながら泣き続ける澪を律は優しく抱きしめたまま、泣きやむまで頭を撫でていた…………

 



「大丈夫か?」
「…………うん」
 澪はようやく泣きやんだ。律はその間、ずっと澪の頭を撫でていた。お互いにそれをおかしいとも思っていない。いつだって澪が泣いている時に泣きやむまで付き合うのは律の役目だった。泣かせた事も多かったから、という理由でもあるけど。
 涙が止まり、手の動きも止まると、不思議な沈黙が訪れる。まだ律は澪を抱きしめていたが、離れる気にはなれなかった。自然と互いの目を見つめるような体勢になっている。まだうっすらと涙が浮いている澪の瞳は、泣いてたせいで赤いけど綺麗だなと律は思った。
 そうだ、澪は綺麗なんだ。瞳に魅かれるように、律の唇は言葉を紡ぐ。
「なあ、澪」
「なに?」
「キス、しようか」
 さっきと同じ台詞。だけどさっきとは違う言葉。二人が少しだけ踏み出して、たどり着いた上で、やっと告げた想いの言葉。
 二人の距離も近くなっている。心理的にではなく物理的な意味で。律は澪の肩を抱いたままで、澪は律の腕にもたれている。頬が触れ合いそうなほどに近い距離だから、囁くような声で。耳孔をくすぐるような息づかいに肩が震える。それだけではない、望んでいたものを手に入れた快感が澪の肩を小刻みに震わせるのだ。
「ん……」
 抱きしめられて、甘く囁かれて。これだったら、律にだったら、どんなことをされても…………いい。
「いいよ…………キスしても」
 澪の方が背は高いのだが、今は律に肩を抱かれてもたれかかっている。自然と下から律の顔を見上げるような格好で、澪は甘えるように囁いた。
「律とだったら、いいよ。私もキスしたい、キスして…………ほしい」
 先程の涙が残る潤んだ瞳で、自らの言葉に羞恥する赤らめた頬で、か細く震える弱々しい声で。澪は最大限の勇気を振り絞って律に懇願するのだ。
 やばい、可愛い。律の胸の鼓動が一気に高まり、全身が熱くなる。実をいえばさっきから澪を抱きしめていて体が火照っているのだ。
 幼い頃からそうだった。澪にワガママを言うのは律だが、結局最後は泣いた澪が甘えてきて、律はそれを受け入れてしまう。どれだけ成長しても、澪が律の身長を越えて体つきが大人っぽくなっても、その関係は変わらない。それが、お互いの想いを確かめた後ならば尚更だった。リミッターを外したかのような澪の甘え方は、律でなくとも目眩を起こしそうなほどの色気を持って迫ってくる。
「ほんとに、しちゃうぞ?」
「うん」
 一瞬の間さえもおかない返答。そのまま澪は目を閉じる。桜色の唇を少しだけ突き出して。待っている、律を。
 そうか、キスする時って目を閉じるんだよな。それにしても、澪の顔は綺麗だ。律は知らず澪を見つめる。長い睫毛、整った鼻筋、そして期待に震えている少しだけ開いた唇。これは男じゃなくてもグッとくるかも。
「…………はやく」
「あ、うん」
 そんな顔して言うなよな。誘う言葉にドキッとする。思わず生唾を飲み込んだ。
「い、いくぞ」
 そういえば目を閉じなくちゃ。律も目を閉じて―――――うわ、心臓の音が凄い。澪も、こうなのか? 
 ゆっくりと唇が近づく。目を閉じているから何も見えず、鼓動の音だけが響いている気がして。このまま唇が的を外して、なんて間抜けな事を考えてしまった律だったが、そんな事は無かった。
 澪の唇から洩れる吐息が、律の唇を導くように。
 唇が重なる瞬間、律は想いの全てを込めた。
「好きだ、澪」
「私も。律が好き」
 目を閉じたままの澪が、それだけはきっぱりと言い切って。
 


 二人の唇は静かに重なった。