『SS』 たとえば彼女か……… 35

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「…………うん」
 ゆっくりと、名残惜しさを隠そうともせずにキョン子の唇は俺から離れた。俺も追う事はしない。少しだけ開いた距離。見つめ合うには十分でも、もどかしさを感じてしまうほどに俺はキョン子を求めているのか。
 見つめ合う時間すら貴重だ、この一瞬を胸の奥に刻み付けておかなければ。
 何故ならば互いに分かっている。この瞬間さえも離れがたくなっている自分達を。だから、
「もう、行かなきゃ」
 そのキョン子の言葉を受け止めなければならない。未練なんていくらでも残していい、離れがたい想いが次に繋がると信じておくしか出来ないのだから。
 頭では分かっている、理解しているはずだ。それでも、腰に回した腕に力が入り、少しでも近づこうとキョン子を引き寄せてしまう。けれど、
「ダメ、これ以上は」
 キョン子がそっと押し返す。分かってる。でも、
「うん、あたしだってそうだよ。けど、これ以上一緒に居たら離れられなくなっちゃう。この世界の事も、あたしがいる世界の事も、何もかも放り投げてキョンに溺れちゃう。分かってても、止められない。それも分かってるから…………」
 今は、ここまでなんだ。これ以上踏み込めば、取り返しの付かなくなるギリギリに俺達は踏み止まっているのだろう。キョン子は一人の女の子であるが、もう一人の俺でもある。だからこそ理解しているのだ。自分の理性が制御出来るラインはここまでなのだと。
「あたしは、あたしの世界が好きよ。佐々木も、橘も、藤原さんも。そりゃ大変だけど、それでもあたしはあの世界を選んだ。それはキョンも同じよね?」
「ああ。ハルヒも、長門も、朝比奈さんも、古泉だっている。そんな世界を俺は選んじまったからな」
 だからここまでなんだ。ここから先は、まだ踏み込む訳にはいかない。
「けど、諦める気もないけどね」
「当たり前だ。ここまできてやめられるか」
 だよね、とキョン子が笑う。そうだ、今はまだ無理だとしても必ず何か手段はあるはずだ。今までだってそうだった、これからもそうだと思うしかない。
 ここまで非日常に巻き込まれ、自分からも飛び込んだんだ。高々好きな女が異世界人でした、くらいで諦めてたまるか。
「そうだよね、好きになった相手が異世界で性別の変わった自分くらい何だって話なんだよ」
 そう言われると物凄い事なのだが。それでも仕方が無い、惚れた方が悪いんだ。
「だったら、あたしが悪いのかな?」
「いや、俺の負けなんだろ」
 要するにお互い様なだけなのだ。好きになるってそんなもんだろ? 痘痕も笑窪というか。
「多分違う」
 そうだな。小難しい理屈などどうでもいい、俺は今の世界もキョン子の世界も守りながら一緒に居たいんだ。その為なら何だって出来る。
 そう、今はキョン子と離れる事になっても。会えない時間を待ちながら、出来る事を探し続ける。俺達は、それが出来るんだ。
「あたしは、あたしの世界を楽しむ! 佐々木達に朝倉も居るんだ、きっと面白くなるんだよ!」
 ああ、そうしてくれ。俺は………………どうなるんだ? ハルヒ長門も、他の連中とも付き合い方が変わるのだろうか。
「多分、いや、絶対に大丈夫だよ。キョンキョンのままで、みんなはみんなのままだからさ」
 その自信だけはどこから来るのか教えてもらいたいもんだぜ。もしも俺が女だとしても、そこまで言い切れる気がしない。
 すると、キョン子ハルヒばりの笑顔で言ったんだ。
「だって、みんなキョンの事が好きなんだもん! そのままのキョンが大好きなんだ、だから何も無理に変える必要なんかないよ。だけど、どんだけアタックされてもキョンにはあたしだけなんだからねっ?!」
 ってな。その笑顔を見てしまって、どう答えたらいいかなんて決まってるだろ?
「ああ、俺にはお前だけだよ。そこだけは変えるつもりもないからな」
 よろしい! とキョン子が頷く。その態度の大仰さに、二人でまた笑った。こうして笑える事がどれほど凄い事なのか、俺達は知っている。
「あたしは、みんなに笑って欲しいと思ってる。それは、こっちの世界ではハルヒが、あたしの世界では佐々木がそう望んでるから」
 そうさ、ハルヒが、あの涼宮ハルヒが誰かの顔が曇る事を望むはずがない。キョン子の世界の佐々木だってそうだろう。
「…………お前だって、そう思ってるよね?」
 キョン子が俺の背後へ向かって声をかける。そこには、
「――――――――――――」
 あいつが立っていた。黒い長髪を靡かせて。白皙の顔に、大きく黒い瞳を輝かせて。
 周防九曜は、感情の全てを瞳の輝きに閉じ込めた無表情で立ち尽くす。俺達を見守るように。
「あたしがキョンに会えたのは、九曜のおかげだよ。だけど、その為に九曜が大変な思いをしていたのに気付けなかった事は悔しい。あたしは九曜に普通の女の子みたいに過ごして欲しいって思ってたはずなのに、ずっと九曜を頼りすぎていた。今のままじゃまた九曜を頼るだけで終っちゃう、そんなのは嫌だから」
 俺が長門に対して思う事を、キョン子は同性故により強く思うのだろう。九曜への声が小さく震えているのを聞き逃す俺ではない。
「――――――あなた達は――――」
 唐突に九曜が口を開いた。初対面の時と同じ平坦な声で。
「――――――『鍵』―――――」
「違うよ、九曜」
 九曜の言葉を遮ったのはキョン子だった。もしキョン子が先に話さなければ、俺が九曜の言葉を止めていたと思う。
「あたしは自分を鍵だなんて思ったことはない。お前とずっと一緒に居たいと思ってるけど、役目だなんて思って欲しくもないんだ」
 俺は長門に対して似たような事を言ったのを思い出す。役割とか、使命なんてどうでもいいんだ。ただ、あいつが俺達と過ごす日々を楽しいと思っていてくれるのならば、そこに意味を見出してくれるなら俺達は、
「だって、あたし達は友達だろ?」
 その一言で十分なんじゃないか? 特に同性の場合は。
「ちょっと頼ってばかりで申し訳無いんだけど、あたしも九曜の為なら何でも力になってあげたいと思ってる。だから、『鍵』なんてどうでもいいんだ。九曜があたしをキョンに会わせてくれた、それだけで嬉しい」
 キョン子が九曜に向けて手を差し延べる。
「帰ろう、あたし達の世界へ。今はまだ無理だとしても、あたしも頑張るから。きっとキョンとまた会える、そう信じてるから。朝倉も今度は居るからね、また厄介事も増えちゃいそうだけど」
 優しい笑顔は、自信の表れなのだろう。素直デレというよりも、慈愛に満ちたという表現の方が似合ってる。
「――――――了解」
 九曜がキョン子の手を握る。ここで、お別れという事だ。一旦、という注釈だけは付けさせて頂くが。
「あ、それと」
 何だ? 
「九曜、キョンの事よろしくね」
 え? 俺にではなく九曜なのか。
「だって、九曜は九曜だもん。こっちの世界でも、あたしの世界でも九曜なんだから」
 そういえば九曜だけがこの世界とキョン子の世界を行き来しているのだったな。
「――――――任せて――――――」
 力強く頷く九曜。どうやら俺は宇宙人勢力全てから保護される立場へとなったらしい。というか、九曜と長門が俺を守ろうとして間に挟まれた俺が潰れている構図が浮かんでしまったのだが、そのような事態が訪れない事だけは祈る。
「でも、抜け駆け禁止だからね? あたしの、キョンなんだから!」
「――――――それは――――どうかな――――――?」
「もう、九曜ー!」
 手を繋いだままのキョン子と九曜は一頻り騒ぐ。おいおい、何かもう少しだけしんみりとしてくれてもいいんじゃないか? さっきまでの雰囲気すらぶち壊す女子高生同士の明るさに呆れていると、
キョン!」
 いきなり名前を呼ばれた。キョン子が笑顔で立っている。
「またね!」
 それは、俺の網膜と脳内に焼きついて離そうともしない、最高の笑顔だった。
「ああ、またな!」
 俺も笑っている。あいつも最高だと思ってくれるといい、そう思いながら。
「――――――」
 九曜が小さく呪文のような言葉を呟くと、笑顔のキョン子が一瞬で消えた。余韻も残らなかったのは九曜なりの優しさだったのかもしれない。
 もし数秒遅ければ、俺はキョン子を抱きしめてしまったかもしれないからな。何も無い空間を見つめてしまうのは許してくれ。





「無事に帰れたのか?」
「――――――そう」
 手を繋いだままの体勢の九曜に尋ねると静かに頷いた。そうか、それなら安心だ。
「…………そうか」
「―――――そう」
 キョン子が帰り、夜の公園には俺と周防九曜の二人だけになった。






 これが最後なのだ。その前に、彼女と話さないとな。
 俺はベンチに座る。隣を指すと静かに九曜も座った。
 この騒々しくも楽しかった一日は、静かで優しい沈黙で終幕を迎えようとしていたのだった。