『SS』 たとえば彼女か……… 32

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ハルヒが、ただ泣きじゃくっている。堰を切ったように、今まで溜めていたものを吐き出すように。その姿は、まるで迷子で親が見つからない子供のような危うさと悲しさを思い起こさせる。
 それは、俺の知らないハルヒだった。だが、俺の良く知るハルヒでもある。あいつは、小学生の時に覚えた喪失感を埋めようとして中学時代を過ごしてきた。誰にも分かってもらえない、その絶望感と諦めを抱えたまま。そして高校に進み、俺と出会ってしまい、SOS団を作って笑顔を取り戻した。そのはずだった。
 しかしそれは、ハルヒの全てではなかったのかもしれない。あいつの笑顔に隠されていた不安や恐怖、それは想像を絶するものだったのだろう。今が楽しければ楽しいほど、失った時の喪失感は大きい。それをハルヒは幼い頃に味わってしまったのだから。満員の野球場、ただそこに居るだけの自分。それがハルヒの始まりであり、俺が巻き込まれてしまった非日常の入口だろう事をハルヒ自身は知らないのだとしても。
そして今、ハルヒは泣いている。失う事を恐れ、笑顔で守り続けた殻をキョン子に破られて。
古泉は言っていた、ハルヒは不安と恐怖しか感じていないと。そんな自分に戸惑っていると。今なら分かる、ハルヒキョン子に対して怒りを覚えていた訳じゃなかった事を。俺が、キョン子の傍に居た事で自分の居場所を失くすかもしれないと思ったんだ。それは、ハルヒが俺の事を…………
「ねえ、あたしね? 朝比奈さんに会ったんだ」
突然キョン子が話し始めた。俺はキョン子が何を言いたいのか分からず、ハルヒは聞いているのか分からないくらい泣き続けている。
「…………ずるいって言われちゃった。あたしだけが分かってて、キョンに告白したんだって。ハルヒの気持ちも分かってるのに、それでもあたしだけが先に言っちゃったんだって」
寂しく微笑んだキョン子は、
「その通りだなって思う。最初に見たときから、あたしはハルヒの想いを分かっちゃった。だけど、それでも素直になれないのがずるいって思ったんだ。だから、あたしは自分の気持ちをキョンにぶつけちゃった」
泣いているハルヒの手をそっと握る。
「でも、キョンは優しいから応えてくれた。それは凄く嬉しい。だけど、それだけじゃ駄目なんだ。これじゃ本当にあたしはずるくなっちゃう、そんなの卑怯だもん」
だから、とキョン子は言った。
「本当のハルヒの言葉を聞かせて? あたしと一緒なら、同じ想いなら、あたしにもキョンにも聞かせて欲しいんだ。そうじゃなきゃ対等じゃない、あたしもキョンの想いに応えられない。抜け駆けしただけで掴んでいいものじゃないんだって、あたしは思うから」
「…………いいの?」
「うん」
座り込んで泣いていたハルヒを立たせる。キョン子にすがりつくように力無く立ち上がったハルヒは、ゆっくりと俺の方を向いた。その瞳が涙で揺れている。
「あ、あたしね? あたしは…………キョンの事が好き。大好き。本当に、本当に好きなの…………」
涙が頬を伝い、声を震わせながら。
「ずっと一人だった。あたしは特別なんじゃないって分かってから、特別になりたくて、でも誰も分かってくれなくて。だけど、あの時、中学生の時に会ったあいつだけが分かってくれて……」
何を言っているのか自分でも分かっていないのかもしれない。けれど俺には分かる、それは俺なのだから。ハルヒはジョン=スミスを忘れなかった。そして、
「居ないってわかってたけど北校に行って、やっぱりつまんない連中ばかりでどうしようもなくて、諦めようとした時に…………あんたに、キョンに会ったの。やっと見つけてくれた、あたしの事を分かってくれる人に」
思い出す、入学時に変えていた髪型を指摘した事が俺とハルヒを繋げたきっかけだった。何の気無しに言った一言が、俺とハルヒの運命を変えてしまったのだ。
「そこから、キョンと出会えたから、あたしはSOS団も作れた、みんなにも会えた。毎日が楽しくて、みんなと会えることが嬉しくて、本当に…………本当に嬉しくて……」
そう言いながらハルヒは何故か俯く。キョン子が黙ってハルヒの肩を抱く。促されるように、ポツリとハルヒが声を絞り出す。
「でも…………怖かった。こんなに楽しくていいのかなって、ずっと思ってた。もしかしたら夢なんじゃないかって、あたしが一人ぼっちになるのが嫌だから、夢の中にいるんじゃないかって思うくらい幸せ。それもキョン、あんたが居てくれるから。キョンが居ないと、何もかもが無くなってしまいそうなの」
ハルヒ……」
「ずっと、あんたの事ばっか考えてる。あたしが楽しいことを思う時、隣には必ずあんたが居てくれる。哀しい時、寂しい時…………キョン、あんたが居てくれるんだって。嬉しいけど、怖い。どんどん惹かれていく自分が、あんたが居なくなったら何も出来なくなりそうな自分が怖いの……」
 肩を震わせ、しゃくり上げながら。一つ一つの言葉を選ぶようにハルヒは話す。俺も、キョン子も何も言わずにハルヒの独白を聞いている。
「だから、決めたの。あたしは絶対に好きにならないって。恋愛は精神病だから、罹っちゃいけないんだって。そうじゃないと、あたしがあたしじゃ無くなっちゃう。何もかも、キョンに頼っちゃう。そんな自分が嫌なのに、甘えちゃうのが分かるのも嫌。こんな事ばかり考えてしまう時点でダメなんだって分かってるけど、それでもあたしはSOS団の団長で、あんたは平団員で、それが一番いいんだって思おうとしてた」
 突然ハルヒが顔を上げた。顔中が真っ赤で、涙を流しながら。
「なのに、それなのに! ダメなの! みくるちゃんがあんたと話してるだけでイライラする! 有希があんたを頼ってる、信頼してる姿を見てたら寂しくなる! それに…………彼女がいるんだって…………思ったらぁ……」
 両手で顔を覆って、また泣き出した。元々感情の起伏が激しいハルヒだが、今は自分でもコントロール出来ない何かに突き動かされているかのように泣くしかないのだろう。そんなハルヒを見るのが辛い、俺はハルヒには笑って欲しかった。それを押し付けていたのかもしれない、と今だからこそ思うのだけれど。
「どうしよう、どうしたらいいんだろ…………あたし、こんなのあたしじゃないのに…………」
 両手で顔を隠し、頭を振って嫌がるように。自分自身を信じられないといった風に身をよじる。痛々しいまでに自分を責める姿は、今までのハルヒを否定するかのようで胸が締め付けられる。
 なあ、お前は涼宮ハルヒなんだぜ? そんなに両手で顔を覆って、肩を震わせて泣くような奴じゃないだろ。何でだよ、どうしてこんなにもハルヒが小さく見えるんだ。その姿を見てしまうと、何も言えなくなる。どうしようもなくハルヒを抱き締めてやりたくなる。
「分かってるの、どうしようも無いんだって。でも、素直になんかなれなかった…………ずっと振り回して、迷惑かけて、それでも一緒に居てくれるだけでも嬉しかったのに。みんながキョンの事を好きなんだって分かってるのに、あたしが、あたしだけがキョンを好きだなんて言えなかったの」
「そう、だね。あたしもキョンがみんなに好かれてるのは良く分かったよ。でも、」
「だって! みくるちゃんも有希も、あたしは大好きだもん! なのに、キョンと話してるだけで嫌だって思っちゃうの! だって、あたしがキョンを……キョンが好きなのに、他の子と話してるのが嫌なの。だけど有希やみくるちゃんがキョンを頼る気持ちも分かるの、だってキョンは優しいし……」
 キョン子ハルヒの肩を優しく叩く。分かってる、と言っているかのように。
「ごめんね、嫌な事話させちゃった。でも、ありがとう…………やっぱり思ったとおりだったね」
キョン子の意外な一言に、ハルヒが顔を上げる。真っ赤になった頬と、真っ赤になった目、それが弱々しくキョン子を見つめている。
ハルヒ、お前も優しすぎるよ。周りのみんなを大切に思うから、本当の事を言わないなんてさ。甘えたいのに、それすら素直に言えないなんて不器用にも程があるわ」
人の事言えないけど、と言ってキョン子は笑った。それは、ハルヒとは違う意味で太陽のような笑顔だった。暖かい、陽だまりのような優しい笑顔。
「ねえ、ハルヒ。一つ勝負しようか?」
「え……?」
いきなり何を言い出したんだ? キョン子の笑顔に俺も惹き付けられそうになっていたが、急な一言で我に返る。眉を顰め、戸惑うハルヒキョン子はとんでもない事を言い出した。
「あたしはもう、帰らなくちゃいけないんだ。次に会えるのがいつになるのか、まだ分からない。だけど、ずっとキョンの事が好きで居続ける自信があるわ。だから勝負よ! 今度あたしがキョンに会うまでに、あたしよりもハルヒの方をキョンが好きになってたらお前の勝ち、そうじゃなければあたしの勝ちね!」
「そ、それって…………」
ちょ、ちょっと待て! 何を言ってんだ、お前?!
「当然、敵は多いわよ? 長門も、朝比奈さんも、鶴屋さんだって居るしね。あ、他多数でもあるか。でも、ちょっとだけハルヒが有利かもしれないけど。ねえ、キョン?」
そこで俺に振るか? ま、まあ確かにさっきのハルヒは寂しげで、儚そうで、付いていてやらないといけないような気がしたが。だからといって、勝ち負けの問題じゃないだろ。
「あのなあ、」
「でも、あたしは負けないわ! だって、あたしが一番キョンを好きなんだもん!」
堂々と、胸を張って。素直デレの権化と化したポニーテールの少女は、輝く笑顔で高らかに言い放ったのだった。呆れるというか、照れるというか、今日一日で何回こいつに告白されてしまったのだろう。二の句も告げられない俺だったが、この宣言は泣いていたハルヒに劇的な効果をもたらしてしまう。
涙が収まった。顔は赤いままだが、意味合いが違う。そしてハルヒは、
「そんなことないもんっ! あたしの方がキョンを好き、一番好きなんだからねっ!」
キョン子を指差して宣戦布告を受けてしまったのだ。かかった、とばかりにニヤリと笑うキョン子。こいつ、本当に何を考えてるんだ?
ハルヒが涙を拭う。頬は赤いままだが、瞳には確かに力強い光が戻っていた。
「あたしは、キョンが好き。認めるわ、認めたからには揺るがない、何があってもね! だから、絶対にあんたなんかに負けないんだから!」
それはハルヒなりの、素直すぎる告白だった。泣きながらなどではない、
キョン!」
ハルヒが俺を見つめる。あの、涼宮ハルヒの瞳で。俺を捕らえて離さない、100万ワットの輝く笑顔で。
「覚悟しておきなさい! 絶対に、あたしの事を好きだって言わせてみせるんだから! 有希にだって、みくるちゃんにだって負けない! あたしが一番キョンを好きなんだもん!」
自信に満ちた、その笑顔に俺は今の非日常を選んでしまったのだ。チクショウ、その笑顔は反則だぜ。そんな顔を見せられたら、何も言えなくなっちまうじゃないか。
それにキョン子、本当に何を考えてるんだよ? ハルヒを焚きつけてどうするんだ、コンチクショウ。
「それじゃ、改めて勝負よ! どっちがキョンを好きなのか、はっきりさせてあげるわ!」
「それはこっちのセリフよ! あたしは勝負に負けるなんて思ってないからね! 特に、キョンの事だったら負ける訳にはいかないわ!」
だから、そういうのは俺の意思を確認してからやってくれ! 勝手に話を進めるんじゃねえよ、それに答えは半分以上出ているんだ。ハルヒの気持ちは嬉しいが、今の俺は…………
その時、キョン子の視線が俺を捉えていた。『何も言わないで』瞳がそう告げている。全てをアイコンタクトで理解出来てしまう自分が悲しくなるぜ。だが、キョン子の真意が分からなくとも、俺はキョン子を信じている。だから、後で話してくれるんだよな? お前の気持ちを、ハルヒを追い込み、立ち直らせたその訳を。




キョン子ハルヒが正面から相対している。
けれど、先程とは違う。
睨み合いながら、笑っている。輝くような二つの笑顔。知らなければ、とても仲がいいとしか見えないくらい、楽しそうに笑っている。
やれやれだ、女ってのは皆こうなのかね? とてもじゃないが理解出来ない、太刀打ちなんかもっての外だ。
笑顔で睨み合う二人の少女を前にして、俺は呆れて溜息を吐くしかなかったのだ。悔しい事に、見惚れてしまいながら。