『SS』 たとえば彼女か……… 31

前回はこちら

 周囲の目線を否応無く釘付けにする女、涼宮ハルヒが仁王立ちしている正面に立てる奴などそうはいない。少なくとも通常の俺ならば遠慮する、というか回れ右をして改札に入るだろう。
 しかし、今回ハルヒに相対しているのは俺ではない。正しくは俺、なのだろうが自身が否定したくなりつつある俺だ。キョン子もまた、ハルヒを睨むように腕を組んで立ち塞がっている。二人の間には火花が飛び交っているように見え、周囲の通行者が顔色を青ざめて避けていく。あまりの迫力に、俺は背中に九曜を乗せたまま傍観者と化していた。
「…………」
 無言のハルヒが踵を返す。そのまま振り返ることも無く歩き出した。その後ろをキョン子も黙ってついていく。早足で歩く二人を見て、俺も慌てて後を追った。
競歩の様に歩く二人の女性に、情けないくらい全力で追いすがる俺なのだったが、歩きながら思い出されるのは先程のキョン子の言葉だ。
手を出すな、確かにキョン子はそう言った。そして、自分達を見ていてくれと。その言葉の真意は、俺にはまだ分からない。ただ、キョン子の覚悟だけが伝わってくる。ハルヒを追う背中からも、硬い意思が伺えるほどに。
けれど、俺はもう一人の背中に目を奪われていた。
怒りを込めて轟然と歩くハルヒを見て通行人が避けていく。まるで波が割れていくモーゼの十戒のように。
それなのに、何故だろう。ハルヒが、あの涼宮ハルヒが。
…………泣きそうに見えるなんて。逃げるように走っていると思えるなんて。もしもキョン子の言葉が無ければ、俺はキョン子ではなく、ハルヒを呼び止めていたかもしれない。



だが、ハルヒキョン子も何も言わないまま街中を抜けていった。俺も九曜もそれを追うしかなかったのだ。



さっきと違って通いなれた道だ、ハルヒが急ぎ足であろうとも行き先は分かる。迷いも無く歩くハルヒキョン子の行き先は、ある意味狙っていたのかと思えるような場所だった。
川沿いの公園。俺とSOS団、それに周防九曜キョン子にも、お馴染みになりすぎた場所だ。そしてこの場所は、俺とキョン子にとってのスタート地点であり、同時にゴールでもある。ここは、九曜が空間の入口を作る場所なのだから。もしハルヒが無意識にここを選んだのだとすれば、やはりこの空間そのものが何かを引き付ける様になっているのかもしれない。
その公園の中央、件の諸々が詰まったベンチの前でハルヒはようやく足を止めた。キョン子も距離を同じくして止まり、俺と九曜はそれを見守る位置で立ち止まる。
そこからは駅前の再現だった。ハルヒが睨み、キョン子が受ける。二人の距離は一触即発の近さで、何者も入り込ませない空気を纏っている。しかし、凄いのはキョン子だ。怒りモードのハルヒ相手に正面から向き合うだけでも、俺には出来そうも無い。が、ここで気が付く。
キョン子も、怒っている。下手をすればハルヒ以上に。それに気付いたのはキョン子がもう一人の俺であるからかもしれない。だが怒る原因までは不明だ、キョン子は何故そこまでハルヒに敵対するのだ?
怒りのオーラを身に纏った二人が対峙して、無言のまま長い時間だけが経過したような感覚だった。実際は数分くらいのものだったのかもしれないが、高まる緊張感に身体が硬直する。森さんよりも、長門よりも、喜緑さんすらも敵わない迫力を、この二人は放出しているのだった。
そして、動いたのはやはりハルヒの方からだった。何も言わず、いきなりキョン子の頬を平手で張ったのだ。
乾いた音が静かな公園に響く。
しかも俺がそれを驚くよりも早く、打たれたキョン子ハルヒを睨んでビンタを張り返したのだ。
「…………っ!」
ハルヒが即座に反応してキョン子を張る。が、一瞬の間も空けずにキョン子の平手がハルヒの頬を打っていた。
「……のっ!」
ハルヒの容赦無いビンタがキョン子を打つ。しかし、キョン子は怯むどころか、ハルヒが打ち終える前にその頬を張り返していったのだ。
繰り返されるビンタの応酬。互いの頬を張る乾いた音だけが宵闇を切り裂いていく。
神と呼ばれる少女と、異世界から来た少女が選んだのは、まさかの単純な肉体言語のやり取りだった。歯を食いしばり、怯んだら負けとばかりに睨み合い、互いの頬を張り合っている。
…………これを止めるなっていうのか? 出来る訳ないだろ! 俺は二人の間に割って入ろうと踏み出したのだが。
「――――――いけない――――」
背後から首に回された腕に動きを止められてしまう。離せ、九曜! あいつら滅茶苦茶だ、二人とも頬が真っ赤になっているんだぞ!
「痛ぅっ!」
今まで堪えていたキョン子の顔が大きく揺れ、唇から一筋の赤い血が流れる。口の中を切ったのか?! それを見たハルヒが勝利を確信したのか、笑みを浮かべる。
だが、キョン子は口の中にあった血を唾でも吐くように吐き出すと、油断していたハルヒの頬をフルスイングで張ったのだ。今度は驚愕で目を見開いたハルヒの顔が左右に大きく揺れる。



もう限界だ、止めさせろ九曜! 俺は背中の九曜を払いのけようとしたが、首に回された腕が解ける事も無かった。
「――――――駄目――――――それは―――彼女達が――――――望んで――――――いない――――――」
うるさい! 望むも望まないもあるかっ! キョン子なんか血まで流しているんだぞ! あのハルヒ相手に正面から張り合うなんて無謀過ぎるんだ! 背中に張り付いた九曜を降ろそうとして、手を伸ばす。
「――――――そう――――――かしら?」
何だと? 九曜の言葉に自信のようなものを感じ、俺は動きを止めて再びキョン子達に目を向けた。そこで、俺は驚愕の光景を目の当たりにする。
ハルヒが、流血させた側であるはずのハルヒが一歩後ろに引いたのだ。まるで化け物を見たような驚きに目を見開き、怯えるように下がったのだ。
「そんな……馬鹿な…………」
俺も信じられない、あのハルヒがたじろぐなんて。あいつは正面から敵と認識したものと向き合えば、徹底的に叩き潰す勢いで攻める奴だ。今までだってそうだった、そしてハルヒに敵う奴などいないと思っていたのに。
キョン子が距離を詰めようと前に出る。ハルヒが下がる。一歩、また一歩とキョン子が歩を進め、ハルヒは後ずさっていった。キョン子の瞳が燃えるように輝き、ハルヒがそれに押されている。
有り得ない。ハルヒは運動神経もさることながら、腕力も下手な男ならば太刀打ち出来ないレベルだ。現に俺だって力比べをして負けそうになったりもしている。そのハルヒがどう見ても全力でビンタしていたのだ。普通ならば吹っ飛ばされてもおかしくない、その場で倒れても仕方ないだろう。
それなのに、キョン子は怯むどころか間髪を入れずに反撃していた。とても俺と同一の存在とは思えない。
そして今、キョン子ハルヒを押している。何も力の無い普通の女子高生が、神と呼ばれる力を持つ女を下がらせている。その力の源は一体何なんだ?
「…………何よ、何なのよ?!」
下がり続けていたハルヒが踏み止まり、拳を震わせて叫ぶ。信じられないものを見たかのように、泣きそうな程に声を震わせて。
「あんた誰なのよ! 一体何がしたい訳?!」
「そういうお前こそ何がしたいんだ、ハルヒ
冷静に、冷たさすら感じさせるキョン子の口調は俺が聞いたことのないものだった。
「あたしはただ、好きな人と一緒に居たい、デートしたいと思っただけだ。それの何が悪いっていうんだよ」
「悪いわよ! キョンが…………デートなんて百年早いわ!」
「ふざけるな、キョンはお前の所有物じゃない。少なくとも、お前に言われる筋合いもない」
「あるわ! キョンはSOS団の団員なんだから、団長であるあたしの許可無しで、」
ハルヒが言い切る前にキョン子の平手がハルヒの頬を打った。信じられないものを見るように、ハルヒが自分の頬を押さえる。
「なにすんのよっ!」
ハルヒが反撃の拳を上げようとしたが、それは叶わなかった。
「……逃げるのか?」
キョン子の言葉に、ハルヒは動きを止めてしまったのだから。
「そうやって、SOS団を理由にして逃げるのね? あたしからも、キョンからも、そして自分からも」
ハルヒは一瞬だけ、視線をキョン子から外した。悔しそうに唇を噛んで。だが、すぐにキョン子を睨みつける。
「何言ってんのか、さっぱり分かんないわ! そんな言い方であたしのSOS団の団員を誑かそうなんていい度胸してるじゃない! それに、逃げるだなんてあたしの辞書には無いわよ!」
「誑かす? 誰を?」
「そこにいる間抜け面よ! ちょっといい顔されたからって、すぐデートだなんて調子に乗って、」
キョン子の平手がハルヒの頬を打つ。
「…………え?」
「あたしの事はどうでもいい。だけど、キョンの事を悪く言うのだけは許さない」
この時、俺は知った。人は怒りが強くなりすぎると冷酷なまでに静かになるのだと。
キョンは精一杯、あたしの事を考えてくれた。困る事があっても、あたしの我がままだって分かってても、それでもデートしてくれた。そんなキョンの優しさを、ハルヒ、お前が一番良く知ってるはずじゃない」
キョン子の声も震えている。怒りのあまりなのかと思ったが、その瞳は涙で潤んでいた。
「あたしの好きな人を、悪く言うな! それで自分を誤魔化して逃げてるんじゃないっ!」
その迫力に、ハルヒは叩かれたのにも関わらず何も言う事が出来なかった。拳を握り、肩を震わせ、しかし弱々しい声で、それでも反論しようとする。
「何よ…………あたしには分かんない、何でそんなに好きなんて言えるの? 恋愛なんて、」
「精神病って言いたいんでしょ? それでも、あたしはキョンが好き。病気だなんて誤魔化さない、あたしはあたしだからキョンを好きになったんだ」
「あ……」
 ハルヒの言葉が小さく、か細くなっていく。俯いたハルヒが絶対の自信を持って言い切っていたはずの恋愛理論は、キョン子の真っ直ぐな言葉に太刀打ち出来なかった。
キョンは優しいし、鈍感だし、男だから許してくれるかもしれない。だけど、あたしは違う。女だから、人を好きになったから、お前の言う事を鵜呑みになんかしない。本当の自分を誤魔化したりなんかしないんだ」
それに、ハルヒの気持ちも分かるから。そう言ったキョン子に、ハルヒが顔を上げる。泣きそうな、すがるような顔は、涼宮ハルヒらしくなく、だがハルヒそのもののような気がした。
「あたしは、キョンと会いたくても会えない。仕方ないんだけど、ずっと一緒には居られない」
キョン子の声が震えている。ハルヒが何も言わず見詰めている。理由は分からなくても感じたのかもしれない、キョン子がここに居るべき存在ではないことに。
「それでも、気持ちは抑えられなかった。こんなにも誰かの事を想ったのは初めてだったから…………好きって事がこんなに凄いなんて思ってもみなかった」
その思いを愛しむように、キョン子は胸に両の手を当てる。それを見るハルヒは何を思っているのだろうか。
「精神病だって言うなら構いはしないわ。だけど、それを押し付けるのは許さない。ましてや、ずっと一緒に居られるのに自分の気持ちを誤魔化すような奴には、キョンは渡さない」
 決意を込めたキョン子の瞳に、ハルヒが怯む。叩き潰すように反論をする、そうしてきたはずのハルヒは子供のように泣きそうな顔で、小さな声を出すしかなかった。
「あ、あたしは…………」
「怖いの?」
 ハルヒの肩が震えたのが俺の目からでも分かる。しかし、キョン子の言った「怖い」という意味は何だ? 
「そんなわけっ! ……ない、じゃない…………」
 それは図星を指されたも同然だった。叫んだかと思えば段々と語尾が小さくなっていく。あのハルヒが、小さく、弱々しく、反論にもならない言葉を繰り返すしかないなんて。
 キョン子はそれを分かっていたかのように、滔々とハルヒに話しかける。
「怖いよ、独りなのは。誰も分かってくれない、そう思ったら誰にも話なんか出来ないもん。そうだったんだろ、ハルヒ?」
「ち、違うっ! あたしは、あたしだけの……」
「でも、分かってほしかったんだ。ここにあたしがいるんだって」
「それは……!」
 キョン子は中学時代のハルヒを知らないはずだ。それに向こうの世界ではSOS団との関わりも薄いと聞いている、それなのに何故キョン子ハルヒの事が分かっているんだ? まるで、自分の事のように。
「でも、お前は見つけたんだ。自分を分かってくれる人を、大事に思ってくれる人を」
 それは哀しく、寂しい視線だった。キョン子は目に涙を溜めて俺を見つめる。その視線を追ったハルヒが、俺の方に顔を向けた。助けを求めるような、許しを請うような、ハルヒらしくない表情に胸が締め付けられる。おい、お前がそんな顔してるんじゃねえよ。お前は涼宮ハルヒなんだ、泣きそうな顔なんて似合わないんだよ。
 なあキョン子、お前は一体何を考えている? ハルヒを追い詰めてどうしようってんだ。だが、俺の言葉はキョン子の視線によって塞がれたままだった。何も言わず、ただ二人を見ているしかないのか。背中に乗っている九曜が慰めてくれているのか、顎を頭の上に乗っけてきた。でも、降りてくれ。
 そんな俺から再びハルヒへ視線を戻したキョン子は、
「だから、怖くなったんだ。惹かれていく自分が、変わってしまうかもしれないってことに」
 ハルヒの全てを見通すように、そう言ったんだ。そしてハルヒの言葉を待つこともなく、
「それに、もっと怖かったのは…………」
「ダメ、言わないで!」
「好きだって言って、フラれちゃうこと。彼が、キョンが離れていくのが怖いから、だから恋愛なんていらなかった。傍に居てくれるだけでいいと思ったんだ、そして誰にも近づけたくなかった。SOS団も、恋愛は精神病も言い訳。ただ、キョンに傍にいて欲しかっただけなんだろ」
「う……あ…………」
 決定的とも言えるセリフを告げられたハルヒの顔が青ざめる。よろめきながら、うわ言のようにハルヒキョン子に歯向かおうとする。
「ち、違うの……あたしは、そんなつもりで……」
「最初は違ってた。でも、今のお前が違うって言い切れるの?」
「違う、違うの……あたし……」
 ハルヒが膝から崩れ落ちる。跪いたハルヒを見下ろしたキョン子。ここまで言うとは思わなかった。
 けれど、何故だろう。何故、キョン子が泣きそうな顔をしてハルヒを見下ろしているのだろう。
「あたしも、そうだった。踏み出すことが怖くて、何もしなくてもいいやって思ってて」
 それはキョン子の世界での話なのだろう。俺とは違う時を過ごしてきた、もう一人の俺である女の子の偽り無い想い。
「だけどここで、キョンに会って。会えない時間もずっと想ってて。会えたら凄く嬉しいけど、ここにあたしの居場所は本当は無くて。でも、だから、あたしは自分に嘘をつかないことにした。素直に自分の気持ちをぶつけたんだ」
 キョン子がしゃがみ込んでハルヒと目線を合わせる。泣き出しそうなハルヒを抱きしめるように、肩を抱いた。ハルヒは何も抵抗もせずに身体を預け、キョン子の言葉を聞いている。
キョンは優しいから、あたしの想いに応えてくれた。でも、それはまだ充分じゃない。だって、あたしは全部分かって自分の気持ちに素直になったけど、そうじゃないのにずっとキョンが気にかけている、心配している子がいるのを知ってるから」 
「……え?」
ハルヒが顔を上げる。そこには泣きそうな笑顔のキョン子がいた。
「ねえ、ハルヒ? あたしは、お前の本当の気持ちが聞きたいんだ。キョンの事をどう思っているのか、ハルヒの気持ちを聞かせて欲しい…………お願い」
何となく、本当に何となくだが、キョン子が俺に口を出すなといった理由が分かった気がする。そして、九曜が何故俺を止めたのかも。この二人は、俺やハルヒよりもずっと強い。その強さは、ハルヒの心の奥に閉じ込められていた何かをこじ開けて解き放つほどに。
「あ、あたし……あたしは…………あたしはぁ…………」
ハルヒの瞳が見る間に潤み、大粒の涙が頬を伝う。そのまま顔を両手で覆い、しゃくりあげるような嗚咽だけを出しながら。




涼宮ハルヒは、幼子のように身体を震わせて泣いていた。