『SS』 ちいさながと:おかあさん

「ギャフンと言わせたいと思うじゃない?」
 いきなり何を言い出したんだ? というか、顔が近い。朝倉が机の上に手を置いて迫ってくるのを、俺は眉を顰めて避けた。お前、それ以上近づいたら有希にぶっ飛ばされるぞ。
「だって、毎回毎回いい様にやられてるんだもん、悔しいじゃないの」
 しかし朝倉はお構い無しに話を進めている。内容が不明なままで話さないでくれ、まず誰をギャフンと言わせたいんだよ。
「喜緑さんに決まってるじゃない!」
 それを聞いた俺達の反応はこうだ。まず俺は溜息と共に項垂れた。有希は呆れたように朝倉を見つめ、長門は無表情ながら朝倉から目を逸らした。
「ちょ、ちょっと? 反応が悪すぎないかしら?」
 当たり前だろう、せっかくの休日を長門のマンションでゆっくりと過ごそうと俺と有希が長門宅にお邪魔している中で、いきなり闖入してきて言い出したのがそれか。見ろ、有希はせっかく長門に新刊を再構成してもらって読むのを楽しみにしてたんだぞ。
「それって、帰ってからでも読めるじゃないの。そんな事より私の言ってる事の方が重要よ!」
 あ、それ禁句だと思うぞ。有希にとって読書とは絶対且つ最大の楽しみだ、朝倉に言われた瞬間から拗ねて本を広げてしまったじゃないか。
「もう! いいから私の話を聞いてよ、有希ちゃ〜ん!」
 構われたがりの朝倉が有希の関心を引こうと話しかけているのだが、ヘソを曲げた有希がなかなか顔を上げてくれない。しばらくイチャイチャとしたやり取りが続いたのだけど埒が明かないだろうが。
「なあ有希、少しは朝倉に付き合ってやれよ。どうせ大した事言ってないんだから」
 有希の頭を撫でてやると、渋々ながら本を降ろしてくれた。有希に言ってしまった手前、俺が話を進めるしかないのだろうなあ。
「で? 喜緑さんがどうしたんだよ」
「だから、あの人をギャフンと言わせたいの!」
 それはさっき聞いた。その上で俺の返答は一つしかない。
うん、それ無理
「それ、私のセリフ!」
 朝倉のツッコミが入ったところで、長門がお茶を淹れてくれた。有希以上にマイペースだな、お前。






「しかしなぁ、あの喜緑さんだぞ? 俺達にどうにかなる代物じゃないだろ」
 お茶を飲みながらのまったりとした会話であるが、話題が危険性の高いものなのでどうしても周囲を警戒してしまう。壁に耳あり、と言うが、あの人にとって壁など無いに等しいからな。
 そんな危険人物の話題を出すなんて、どうかしてるぜ! などと浸透度の低いネタを挟みたくなる気持ちも分かってもらえると思うのだが。
「でも、毎日毎回酷い目に遭ってる私の気持ちも分かってもらえると思うの! ねえ、有希ちゃん?」
 有希は長門特製サイズの湯飲みを傾けながら、
「気持ちは理解出来る。喜緑江美里の言動にはわたしも迷惑する事が多い」
 うんうん、と頷く朝倉。
「けど、あなたの場合は自業自得のパターンが多すぎる」
 きっぱりと言い切った。まあ確かにな。あらら、とコケる朝倉、お前すっかりギャグキャラになったな。
「そ、そうは言ってもキョンくんだって有希ちゃんだって、喜緑さんには酷い目に遭わされてるじゃない」
 言うな、思い出すだけで沈み込んでしまうから。あの人の気紛れは常に方向性が読めないから流石の有希が翻弄されまくり、結果として膝を抱えて蹲る有希を慰めるだけで精一杯の俺が泣きたくもなってくるのだから。
 しかも喜緑さんが一番タチが悪いのは、あの人から悪意をまったく感じないという点だ。純粋に人をからかう事に全力を傾けている喜緑さんが本気でSOS団に絡んだら、ハルヒはきっと退屈することもなくなるだろう。そして、古泉が死にそうになるに違いない。まあ、今のところ被害者は俺達と精々生徒会長くらいなのでマシな方だと思うしかないだろうな。
「いいか、朝倉。人間、諦めが肝心な場合もある。喜緑さんに関わるというのは、即ち諦めろと同義語なんだぞ」
 自分で言ってて情けないというか、何というか。有希も頷くしかないのだろうな。
「そ、そうは言うけど…………やっぱり一回はギャフンと言わせてやりたいわよ。私はやられっぱなしは嫌だもん、それにやらないで後悔するよりは、やってから後悔した方がいいわ」
 後悔しかしないから止めておけ、と一応は言ってみる。だが、朝倉は何故か一人やる気満々なのである。
「一度は痛い目を見たほうがいいのよ、いくら年上設定だからって私や有希ちゃんに厳しいと思わない?」
 すると、今までほぼ黙って傍観していた有希が口を開いた。
朝倉涼子の言にも一理ある」
 おいおい、お前までかよ。ようやく賛成意見が聞けた朝倉の目が輝く中で、
喜緑江美里の言動には一貫性が無く、その意見に左右された結果としてわたしの思考に支障があった事は否めない」
 つまりは喜緑さんのせいで酷い目に遭ったと。俺と有希が付き合いだしてからも結構色々あったのだが、それ以前から喜緑さんとはあのままの人だったのかもしれない。大きく頷く朝倉を見ても、どうやら喜緑さんは喜緑さんでいらっしゃったようだな。
「だからこそ一度おしおきするべきなのよ、ギャフンと言わせてやらなきゃ気が済まないわ!」
「分かった。わたしも協力する」
大丈夫か? 朝倉と有希のタッグなど、宇宙を探しても勝てそうな相手がいないような気もするのだが。但し、相手が喜緑さんで無ければ、という条件付で。それほどまでに実力差を感じてしまうのだ、あのお方に関してだけは。
と、ここで今まで湯呑みを傾ける作業に終始していた長門がようやく口を開いた。
「何故?」
「へ?」
喜緑江美里は我々の事情を把握した上で、わたしには有利な言動しかしていない。特に朝倉涼子、あなたが現存出来る機会を与えてくれたのは喜緑江美里。わたしにはメモリ上でしかあなた達の会話を記録していないので発言の真意が理解出来ない」
そこまで言い切ると再びお茶のお替りに手をつけた。
「それは長門さんが何故か喜緑さんに贔屓されてるから仕方ないけど……」
本当にそうだよな。サイズはともかく、見た目は同じ長門有希なのに有希は毎回泣きそうになって、長門は滅茶苦茶可愛がられている。基準はどこにあるのだろう。
「それと、朝倉涼子に先程の会話から一言言いたかった」
「なに?」
「ギャフン、は死語」






などという事があっての現在。長門の忠告もどこへやら、有希と朝倉は悪巧みの真っ最中である。長門は言うことは言ったとばかりに読書に入ってしまい、俺としては聞きたくも無いが有希がいるので傍で寝転がって会話を聞いているという体たらくだ。
「たとえばスキャンダルなんてどうかしら? 例の生徒会長だっけ? 恋愛沙汰になれば喜緑さんだって処置に困るでしょ」
「それは推奨出来ない。むしろ、これをチャンスとばかりに行動するパターン。なし崩しに既成事実を作り上げるのは彼女が最も得意とするところ」
「だよねぇ……」
 まあ、空振りに終るよな。伊達にあの人はお前たちのお姉さんではないのだ。むしろ、スキャンダルをでっち上げる才能なら向こうの方が数倍はあると思うぞ。
 朝倉が谷口とお付き合いしているくらいの情報操作は朝飯前だろうな、と思いながらも、それを伝えたら朝倉がまず谷口を情報解除してしまいそうなので黙っておこう。しかし、本当に隙が無いな、あの人。
 その後もしばらく朝倉と有希の話し合いというか、悪巧みが続いたのであるが、結果は甚だ芳しくないものになったのは致し方が無いだろう。
「なあ、もういいだろ? 朝倉も喜緑さんのおかげでここに居るんだし、有希だって今まで世話になってんだから多少の暴走は許してやれよ。それにどうやったって勝てる気もしないぞ、それが喜緑さんってもんだろ」
「え〜、でも……」
 でも、も杓子もあるもんかい。俺も少しはフォローするから、あの人にだけは手を出すなよ。君子危うきに近づかず、だぜ。
 いい加減に話を切り上げて、長門の相手でもしてやれよ。すっかり読書の人となった長門は、有希や朝倉の会話に無関心を貫いてしまっている。俺だってもう飽きた。有希も相手してくれないし、はっきり言って邪魔だ、朝倉。
「ちょ、キョンくん酷い! 有希ちゃんや私に協力してくれる気は無いわけ?」
 だから相手が悪いんだって。これがハルヒくらいまでなら俺も長門も話を聞くことも吝かじゃないが、喜緑さんなんて自分に跳ね返ってくるだけじゃないか。
「まったく、せっかくの日曜日にこれだもんな」
 呆れ半分、退屈半分で溜息を吐くと、
「今日は何日?」
 いきなり有希に訊かれたので携帯を見て確認する。こんな事しなくても有希なら分かりそうなものなのだけど、どうやら俺達に分からせる為のものらしい。
「8日だ。それがどうした?」
「5月8日、ではない、5月二週目の日曜であることが重要」
 どういう事か分からない。が、朝倉には分かったようだ。
「え? でも、私達には何も関係無いじゃない。まあ、キョンくんが忘れてるのはちょっとどうかなって思うけど」
 何をだ? どうやら俺にも関係のある日付のようなのだが、心当たりが全く無い。
「それについては後ほどあなたには相談する。現状はこの日を利用して喜緑江美里に精神的ダメージを与えることが優先」
 有希の言葉に朝倉が「どうするの?」と興味を示して、有希が朝倉の肩に飛び移り耳打ちする。初めの内は眉を顰めるように有希の話を聞いていた朝倉の瞳が見る間に輝くのを見て、俺は逆に嫌な予感がしたものだ。
「なるほどね、そういう解釈もアリって言えばアリなのかも」
喜緑江美里に反論の余地は無い」
「そうよね! さっすが有希ちゃん、あったまいいー!」
「では、早速実行に移すべき。必要なものは、」
「買ってくるわ!」
 言うなり朝倉が飛び出して行ってしまった。一体有希は何を言ったんだ? しかも長門まで無言のまま朝倉の後を追うように部屋を出て行ってしまったのである。
「なあ、長門は何で出て行ったんだ?」
「不明。彼女にも何らかの事情があるとは思うけど」
 そうか、ところで主不在で残された俺達は何をすればいいんだ?
「…………イチャイチャする?」
 賛成。





 と、いうことでイチャイチャしていると朝倉が帰ってきた。その手一杯に抱えたモノを見て、
「なんだ、それ?」
 と言ったものの、今日という日付の意味を俺も思い出していた。確かに忘れていたのはまずかったかもな。しかし、それと喜緑さんに何の関係があるというのだ?
「それはこの後のお楽しみよ。じゃ、お願いね」
 お願い? 朝倉は俺の携帯を指差している。
「俺が喜緑さんを呼び出すのか? なんで自分でやらないんだよ」
「私がかけたら警戒するじゃない、だからキョンくんにお願い」
 やれやれ、結局巻き込まれちまうのか。だが、俺が呼んだところで素直に出てくるような人でもないと思うぞ。
「わたしが呼ぶから大丈夫」
「そういうこと。有希ちゃんじゃ携帯が使えないからね」
 はいはい、もう何言っても無駄なようだな。携帯を開き、アドレスから喜緑さんを呼び出すとワンコールで喜緑さんが出るのだった。
『何か御用ですか?』
 と言われても、俺には用が無いんだけど。すると横から有希が声をかける。
「わたし。喜緑江美里、あなたに用がある」
『あら、小さい方の長門さんですか。どうしましたか、何か不都合でも?』
長門有希の部屋に居る。二人であなたに相談したい」
『そうですか。あなた方二人というならば行かざるを得ませんね』
 何も疑いを持つこと無く、あっさりと喜緑さんは了承した。これも長門が居るからなのだとしたら、本当に贔屓だよな。
「さて、それじゃ私は準備するから」
 朝倉が荷物を抱えて部屋の奥へと消え、長門が帰ってこないままで俺達は喜緑さんが来るのを待っている。どうせ同じマンションだからすぐに来るだろうと思ったら、本当にすぐにチャイムが鳴った。
「出て」と有希に言われたので玄関まで出向いてドアを開けると、私服姿の喜緑さんが立っている。
「こんにちは、あなたもご一緒なのですね。てっきり長門さん同士であなたの取り合いになったから仲裁に入れという事かと思ったのですけど」
 だったら俺の携帯から電話はかからないと思いますけどね。それに、俺には有希だけですから。肩の上に乗ってる有希が不機嫌になることをいきなり言わないでください。
「まあ、せっかく来たのでお茶でも用意してください」
 そう言うと俺たちよりも先に廊下を歩いてリビングに入ってしまうのが喜緑さんなのだ。こんな人に朝倉は何をしでかすつもりなのだろうか。
 有希も何も言わず、俺の不安だけが増大しながら喜緑さんの後ろを歩く。そして、喜緑さんがリビングに足を踏み入れたと同時に、
「ありがとう、お母さん!」
 と言った朝倉が飛び出してくるといった次第なのだ。その両手にはカーネーションの花束、つい先程買ってきたものだ。
「え?」
 おお、あの喜緑さんの顔が不審げになっている。しかし、満面の笑みの朝倉は、
「いつもありがとう、お母さん。これは私から感謝の気持ちです」
 などと言いながら半分強引にカーネーションを喜緑さんに持たせてしまった。
「あ、あのですね? 感謝されるのは構いませんけど、お母さんというのは一体……」
 流石の喜緑さんも戸惑っている。俺も実は同様だ、何故朝倉のヤツは喜緑さんにお母さんなどと言い出したのだ? それに対して回答したのは何と有希である。
朝倉涼子の再構成に関し、その全てを考案、実行したのはあなた。よって、朝倉涼子を今次元に存在させたのはあなたという事になる。即ちそれは、あなたが現在の朝倉涼子の生みの親、という事になる」
「え、ええと、それはそうとも言えますけど……」
 物は言い様とはよく言ったもんだ。ほぼ完全な屁理屈なのだが、有希が言うと整合性があるように聞こえるもんな。
「だからね? 今日は母の日っていうものらしいから、私は喜緑さんに感謝の気持ちを込めて用意したの。ありがとう、お・か・あ・さ・ん!」
 嘘付け、さっき慌てて買ってきたんじゃねえか。しかし、嬉しそうな朝倉を前に喜緑さんも上手く言葉が出ないようだ。確かに有希の言うとおり、朝倉が今あるのは喜緑さんのおかげだし、生みの親と言われればそうなるのだろう。但し、だからといって高校生がお母さんと言われて嬉しいかと言われれば、それはまた別の話なのだ。
「あの、私も一応高校生ですし、設定的には一年しか上ではないのにお母さんと言われましても」
「そんな事関係無いわよ、喜緑さんが私を再構成させてくれたのには変わりないもの。だから、お母さんありがとう」
 ここぞとばかりに連呼してやがるな。なまじっか事実なだけに上手く反論も出来ず、花束を抱えて戸惑うしかない喜緑さん。何とも珍しい光景だった、朝倉が喜緑さんをからかっている。
 やがて喜緑さんは溜息を吐いて、こう言った。
「分かりました、私の負けです。感謝されるのは嬉しいですけど、正直お母さんは勘弁してください」
 やった! とばかりにハイタッチする有希と朝倉。本当に嬉しそうだな、お前ら。
 だけど、これは家族が居る俺だから思うのだろうけど。
 そんな嬉しそうな有希たちを見て苦笑している喜緑さんの姿は、まさに母親と言えそうなものだったとしか言えなかったのだけどな。
「さて、ここまでしてくれたのですから、私への感謝の気持ちとして夕飯くらいはご馳走してくれるんでしょうね。期待していますよ」
 などと、最後に上手く切り返して朝倉を慌てさせたところまで含めて喜緑さんなんだけどな。






 こうして最後に喜緑さんらしく終るかと思ったら、
「…………これを」
 どこからか帰ってきた長門が一輪のカーネーションを有希に差し出し、
「わたしが今ここにあるのはオリジナルであるあなたのおかげ。ありがとう、お母さん」
 などと純粋な黒曜石の瞳で言われてしまったものだから、有希と長門以外の三人が大笑いしたのはいい思い出になるのではないだろうか。
 少しだけ照れて頬を染めた有希が、「そう」と俯く姿もなかなか貴重だったしな。
「次回はあなたに。お父さん」
 うん、それは止めてほしいかもな。頼むぞ、長門















 なあ、有希? 帰りにカーネーションでも買って帰ろうぜ。
「了解。あなたをこの世界に誕生させてくれたお義母様へ感謝する」
 ああ、こうして有希に会えたんだからな。いつもは言えないセリフだけど、今日くらいは素直に言ってもいいんじゃないかと思う。



 ありがとう、お袋。ってな。