『SS』 たとえば彼女か……… 16

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そんな東スポ映画大賞主演女優賞ばりの演技を披露した朝比奈さんが、現実世界にお戻りになられるまでにしばしの時間が経過したものの、ひとまず落ち着いてコーヒーが飲めるようになっている現状である。どうでもいいが、俺の頭の上でコーヒーを溢したら承知しないからな、九曜。
先程までのドタバタで逆に落ち着いてしまったのだろうか、朝比奈さんもキョン子も別段話もしないままでお茶を飲んでいる。沈黙の方が不気味だなんて言えないとしても、雰囲気が違うのだ。二人ともどこか分かりあったような。いや? 朝比奈さんの様子が違うのか。
「ふぅ。さて、あたしはもう行きますね」
紅茶を飲み干し、カップを置いた朝比奈さんは天使の微笑みでそう言った。え? 行くってどういうことだ? 腑に落ちていない俺をよそに朝比奈さんはもう立ち上がっている。
「あ、朝比奈さん? あの、俺が言うのもおかしいんですけど、いいんですか?」
本当におかしな話なのだが、不安でしょうがない。いくら朝比奈さんとはいえ、こんなにあっさりと引き下がるとは思わなかったのだ。まあ、確かに俺がキョン子と付き合ってると宣言したのも朝比奈さんならば大丈夫だろう、という甘えのような計算もあったのだが。
しかし、この地上に未来から舞い降りた天使は見る者全てを魅了するような微笑みで、
「ええ。最初はキョンくんが、何か事件に巻き込まれたのかと思って心配してたんですけど。でも大丈夫みたいだし。それに、」
視線を向けられたキョン子が反射的に見つめ返す。
「デートのお邪魔をするのも悪いし、ね?」
そのウィンクは反則だろう。女であるキョン子ですら頬を染める程の破壊力は、隣にいた俺にまで波及してしまうのだった。
朝比奈さんは、そんなキョン子を見て笑いながら伝票を手に取った。いいですよ、と俺は止めようとしたのだが、
「ここはあたしが払っておきますから。こう見えても先輩なんですからね?」
たまには先輩らしい事をしなくっちゃ、と笑顔で言われてしまえば何も言えなくなるのだ。俺は黙って手を引いた。
「あ、あのっ!」
伝票を持ってレジに向かおうとする朝比奈さんを何故かキョン子が呼び止めた。
「どうしたんですか?」
「え、ええと、その……」
言いよどむキョン子。それを見た朝比奈さんが俺に視線を向ける。何となくだが朝比奈さんの言いたい事が分かったような気がして、俺は席を外した。キョン子の隣に朝比奈さんが座る。居場所のない俺は傍らに佇むしかなかったのだが。
「どうしたの?」
「…………朝比奈さんはいいんですか?」
「えっ?」
「本当にそれでいいんですか? 諦めてしまって……」
「…………あたしの居場所は、ここじゃないですから」
「でも!」
「それに、あたしは感謝しています。この時代に来れた事を。キョンくんや涼宮さん、長門さんに古泉くんに鶴屋さん、みんなに会えた事を。それだけでも十分だと思うし、それに涼宮さんたちの気持ちも分かっちゃいますから。それはキョン子ちゃんもでしょ?」
「それは……」
「だから、あなたを応援してあげる事は出来ないんです。あたしの立場も、気持ちもね? だけど、デートを止めるのも止めてあげます。だって、」
「だって?」
「やっぱり羨ましいですもん。あなたも、あたしと同じ様にここに居られる人じゃないのに。だけど素直になれた、それだけでも凄いって思うんです」
「…………」
「涼宮さん達にも内緒ね? でも、それだけだから。後は、キョン子ちゃん次第だからね?」
そっと俯いたキョン子を抱きしめた朝比奈さんは静かに立ち上がり、俺にも話しかけてきた。真剣な眼差しで。
キョンくん、キョン子ちゃんを大事にしてあげてね」
俺は頷く。それは俺自身が強く思うからだ。
「だけど…………」
一瞬だけ戸惑う素振りを見せた朝比奈さんだったが、俺の目を見てハッキリと言った。
「何が大切なのかだけは見誤らないで下さい。そして…………涼宮さんの、長門さんの、二人の事をちゃんと見てあげて」
それだけ言うと、朝比奈さんはレジまで走っていき、支払いを終えて去っていった。最後の言葉を告げた時の朝比奈さんの泣きそうな顔だけが嫌に印象に残り、思わず追いかけようとしたのだが、キョン子が俯いたままなので何も出来なかった。
キョン子を大事に思うなら。朝比奈さんの言葉ではないが、俺は隣に座りなおす。何も言わなくても、キョン子の思いが伝わるようだった。
「ちょっとだけ、いいかな?」
俯いて表情の見えなかったキョン子が、そのまま俺の胸に顔を埋める。俺は何も答えずにキョン子の好きにさせてやる。ただ、腕を回してキョン子を抱きしめた。
「…………朝比奈さんって、未来に帰っちゃうんだよね」
ああ。
「藤原さんも、だよね」
そうだな。
「だから、本当の気持ちが言えないのかな……」
そう、かもしれない。けれど俺には何も言えないんだ、俺なんかには朝比奈さんの気持ちなど理解出来ないだろう。遥か未来からたった一人でこの時代にやってきて、思い出を抱いたまま帰らねばならないなんて、俺だったら耐えられそうも無い。たとえまた会えるとしても、だ。
それでも笑っている、禁則事項に縛られていても健気に働く朝比奈さんを、俺は尊敬すらしているんだ。
「いつか、居なくなっちゃうんだ……」
キョン子の肩が、小さく震えている。しかし俺には何も出来ない、ただその肩を抱きしめる事しか。短く洩れる嗚咽を、あえて聞かないようにするしか。
「悔しいよ…………」
それは俺も同じだ。どんなに言おうとも未来は変わらない、朝比奈さんも藤原も帰らなければならないのだから。
「―――――」
九曜? いつの間にか俺の頭から離れていた九曜がキョン子を後ろから抱きしめた。
「―――――泣かないで―――――」
その声にキョン子が顔を上げる。九曜は表情も無く、声も平坦なままで、
「―――生命が―――――有限である以上―――――終焉は―――――必須である―――――私には―――――理解は出来ない―――――」
淡々と、だが力強く、
「しかし―――――たとえあなたが―――――終焉を迎えようとも―――――私は―――――忘れない―――――」
黒く、深遠な瞳に無限の光を湛えて、
「―――――彼らの―――――存在も―――――私は―――――忘れない――――常に――――――私は―――――あなたと共に―――――ある―――――」
そう、言ったんだ。分かるか? 周防九曜は、ただキョン子の為だけにそう言ったんだよ。
「九曜……」
呆然と九曜を見つめていたキョン子の瞳にも光が宿る。何度も首を振り、その度にポニーテールが揺れる。
「うん、ありがと。そうだね、絶対に忘れない。あたしも、藤原さんや九曜の事をずっと忘れないから」
勢い良く立ち上がったキョン子は、ちょっと行ってくると言って洗面室に駆けていった。九曜がその後ろを静かに追っていく。
俺はその二人の後姿を見てため息をついた。やれやれだ、結局九曜には敵わないのか? 嫉妬というか、羨望というか、複雑な気分だ。
もしも、あいつなら何と言っただろうか? ふと、そう思った。一口だけ残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み込む。やけに苦かった。
「お待たせ。ゴメンね、心配させて」
戻って来たキョン子は、いつもの笑顔だった。結いなおしたのだろう、ポニーテールが眩しいくらいだ。
「行こうよ、時間は限られてるんだから」
俺の腕にしがみ付いたキョン子に引っ張られて俺は店を後にした。店員には申し訳無いが、多分二度と来ないので勘弁してもらいたい。
そんな事よりも、彼女の笑顔を曇らせないように。俺はしがみ付いているキョン子の手を取って指を絡ませる。しっかりと手を繋ぎ、腕にしがみ付かせて。
「―――――私も―――――」
ああ、もう気にされなければ構わねえよ。背中にくっ付いた九曜に苦笑いしながらも、隣のキョン子が笑っているならそれでいい。
俺達は、今この時を全力で楽しまなければならないのだから。それが未来へと繋がっていると信じるしかないのだから。





しかし、俺達は浮かれすぎていた。事態は朝比奈さんの忠告よりも深刻に進んでいたのだ。
大通りを避け、若干狭い路地を歩いていた俺達の前に突然車が立ちふさがった。咄嗟にキョン子を庇う! 危ねえな、一体何だ?! 文句を言おうとした時に気付いた、俺はこの車を知っている!
「そろそろ、よろしいですかな? もうお時間のようですので」
それは黒塗りのリムジンだった。見覚えがありすぎるそいつの窓から顔を出した新川さんの表情を見て、俺は血の気が引いていくのを自覚した…………