『SS』 私は、あなたが、大嫌い 中編・2

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 文化祭が終わると待ち構えていたかのように気温が下がってゆく。季節は冬の足音を伝えていた。吐く息が仄かに白く煙り、クローゼットの奥にしまっていたコートもようやく出番を迎えたけど既に新しいものを買いたいなどと思ってる。マフラーに顔を埋めるようにしながら登る坂道、周囲の人たちもあまり違いが無いみたいだ。そして隣を歩く彼女も。
「急に冷えてきたわね」
 マフラーに半分近く隠れた顔が小さく動いたので頷いたのだろう。吐息で眼鏡が曇るのを気にしながらも彼女は私に合わせて坂を登る。
 こうして二人で登校するようになって、それでも会話は少ないままで。このまま三年間彼女は過ごすのだろう、私以外の人とはほとんど話す事のないままに。
 それでいい、彼女は目立つ事も無く地味なままで私の影に隠れていればいいの。コートとマフラーに埋もれている今のように。



 
 クラスに入るとまだ少ないクラスメイト達がザワザワと騒いでいる。私が席に着くと話しかけられた。
「ねえ、今度の席替えで隣になれたらいいね」
 そうだ、今日は席替えがある。数日前から気にしていた、気にしないはずが無かった。だって今回の席替えを逃せば年が明けるまで彼と私の距離は離れたままなのだから。
 友達の話に適度に応えながら次々に入ってくるクラスメイトの中から彼の姿を探す。まだ来る筈が無いと分かっていながらも目線がドアに向いてしまうのだから仕方ない。あくまでもさりげなく、でも目を離さないように。
 そして予鈴が鳴る数分前。
「うぃーっす」
 今日は珍しく谷口くんと二人で連れ添ってきた彼が国木田くんに挨拶をしていた。
「どうしたの、谷口元気無いみたいだけど」
「んー、ちょっと喉の調子がな」
「風邪か? こんな時期に勘弁しろよ、期末も近いんだからな」
「どうせ気にする成績じゃないだろうが」
「お前に言われたくはないな」
 何気無い会話だけど、確かに谷口くんは少々疲れているようだ。もしも風邪ならば彼の言うとおり気をつけて欲しい、万が一彼にうつったらどうするのだ。そんな事になって彼が休んだりしようものなら許さない。
 早く離れろと念を込めて谷口くんを睨むが彼は気にしていないようだ。友達も大事だろうけど自分も大切にして欲しい、私に心配させないで。
「お、今日は席替えか」
 谷口くんの言葉に私の方が動きを止めてしまう。その後の彼の言葉を聞き逃さないようにと聴覚が集中する。
「そうだね、キョンはどこがいいとか希望はあるの?」
「いや、特にはないな」
 当たり前だけど私の名前なんか出ることはないか、でも少しは期待してしまった。
「けど、やっぱりあそこがいいぞ。窓際だし後ろの席だしで俺的にはベストだ」
 そこはいつの間にか彼の定位置となっている席だった。窓際後ろから二番目の席。何度席替えしても彼はそこに居て、私はそこに近づけなかった。精々彼が午後の授業をサボって机に伏せてる姿を眺めるくらいで。
 そうだな、彼の隣か後ろがいい。隣の席といっても列は離れてるから後ろの席の方がいいかも。前の席だと振り返らなきゃいけないし、一々そんな事してたら彼が嫌がりそうだし。それなら彼の背中を眺めてる方がいい。
 勝手な妄想に浸っていたら彼は席に着いていた。予鈴が鳴り、クラスのざわめきが一時的にだけど収まる。そして担任の岡部先生が入室してきて、ホームルームが始まる。
 妙な緊張感がクラスを包む、その中の一人に私がいる。今度こそ、少しでも彼との距離を。そして。





 運命が私を選んでくれた。





「よお、朝倉。お前がここなんて珍しいな、前の席じゃなくて良かったのか?」
 彼の声がこんなにも近い。彼の顔が目の前にある。これは夢じゃない、私は窓際最後尾の席に着いていて彼はその前の席に座っているのだから。
 どうしよう、嬉しい。嬉しい。嬉しいんだ、嬉しすぎてどうにかなりそうなの。
 おかしいの、あんなに望んでいたのに何も話す事が出てこない。当たり障りの無い挨拶して、よろしくねって笑ったけど。
「勉強するのはどの席でも一緒でしょ? 私は別に目も悪くないからここでいいわ。それにキョンくんが居眠りしないように見張れるからね」
真面目な委員長の私が彼から目を話すことの出来ない私を覆い隠すように言い訳を組み立てる。彼は苦笑しながら、
「お手柔らかに頼む」
なんて言いながら。凄く自然に会話が出来る、近づいた距離。ほんの微かに見えてきた希望。このまま話せる機会を増やしていけば、彼との距離は一つになれるかもしれない。
期待と興奮をひたすらに自分の中に隠しながら私は記念すべきホームルームを彼の背中を見つめながら過ごすのだった。
良かった、私の視力が悪くなくて。もしも彼女のように眼鏡などかけていたら席がここであることを拒まれていたかもしれない。私は、彼女よりも優れているのだから。だから彼の傍にいられるの、ここが私の居るべき場所。
幸福は授業中も、その後も続く。昼休みは友達の席に行ったけど、それも時間の問題だろう。私の席に座る国木田くんを見ながら自分がそこにいる想像を巡らせる。まだ早いかもしれないけど、いつかはそこに私が居る。後は距離に併せて話しかけるだけなのだ。
最高の一日が終わり、彼が帰るのを見送りながらクラス委員の仕事を終えた私は一人家路を急ぐ。
今の私は気分がいい。ついでだから彼女に何か夕食でも持って行ってやろう。そして小さく部屋に座って本を読むしかない彼女の眼鏡を見て自分の視力に感謝するのだ、私は今幸せなのだと。
吐く息が白い。もうすぐ、二学期も終わる季節は冬の一日だった。





彼の背中に心の中で語りかけながら一日を過ごす。朝になって学校に行けば彼が来るのを自分の席で待つ。目の前に座るのだ、彼の席を見つめていても誰も何も思わない。少しだけ心配になって入口のドアに視線を向けてもクラス全体を見ているようにしか見えないのだから私が彼だけを待っているなんて気付かれもしない。
そして彼が来れば私に必ず挨拶をしてくれる。後ろの席だから? 違う、私だから。授業中も彼の背中しか見ていない。だけど板書は急いで写しておかないと。たまに困った顔した彼が後ろを向いてくれるのだから。その時は真面目な委員長として、仕方なくノートを見せてあげないといけないから。
「すまん、すぐ写すから待っててくれ」
 必死にノートを書き写す彼の姿が可愛いなって思う。彼の役に立てたんだなってだけで嬉しい、真面目にやってる訳じゃなくて彼の為だけに書いてるようなものだけど。それでも少しづつ彼と話せるようになってきた、残念だけど勉強は私の方が出来るみたいだし。だけどきっかけにはなれたのだから真面目に勉強していて良かったのかも。
 彼は授業中たまに寝てる事もあるけど総じて真面目に授業は聞いている方だと思う。なのに成績には反映されてはいないようだ、集中力とやる気の問題なのかもしれない。現に彼は頭が悪いなどとは思えないほど人の話を聞くのが巧い。それは国木田くんのような秀才タイプと谷口くんのような調子のいいタイプを同時に相手しているところから見ても分かるし、国木田くん曰く中学時代から変わった子と仲良くなれたという点からしても彼は頭が回るタイプのようなのだ。ただ変わった子というのが気になるけど。
 もう少し話せるようになったら私が勉強を教えてあげる。出来れば一緒の大学にまで行きたいし、その先だってあるのだから。大丈夫、彼はやり方さえ覚えればすぐに成績も上がるはず。だから私と一緒に。二人きりで。
 優しい気持ちで彼を見ながら幸福を噛み締める。確実に近づく距離、あと一歩を踏み出す勇気が欲しいとは思うのだけど。でも今だったら時間はまだある。やっとこうして話せるようになったのだから。
「板書を写すだけじゃ何も身に付かないわよ」
 意地悪なようだけど本当の事だからね、あなたなら出来る事を私は知っているんだから。すると彼は眉を顰め、
「俺はこれで精一杯ってとこだよ。どうにも性に合わなくてな、学業には縁がないらしい」
 やれやれと肩をすくめる。そんな事はない、むしろ彼に勉強への意欲を刺激するような要素が無いだけなのだと思う。
 …………私と一緒なら彼もやる気を出してくれるかな? でも訊くのも怖い。
 ペンを走らせる音だけが聞こえて。私は彼しか見てなくて。訊きたい事は沢山あるし言いたい事も沢山あるのに結局何も言えなくて。けど時間はまだあるはずなので。
 私はささやかな幸福だけを頼りにさらなる幸福を目指すしかない。即ち彼との距離を無くしていく事、二人の距離が一つになること。
 気温は下がり、窓の外は結露で見えなくなるほどだけど、私の心は暖かかった。彼が目の前に居てくれる、それだけで体温が上がるのを自覚しているから。










 だけど。
 私の幸福は脆くも危ういもので。
 それは私に知らされることも無く唐突に。
 世界は壊れてゆく。
 十二月十八日。
 この日、私の世界は死んだ。