『SS』 私は、あなたが、大嫌い 中編

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 季節の色は鮮やかなまでに色付く。輝く陽光は熱気と共に私たちに夏の到来を知らしめていた。
「ふう……」
 夏服になった制服だけど暑さをしのげる訳ではない、ハンカチで汗を拭きながら坂を登る。この高校に通う中で唯一と言っていい面倒な事が登校時である。遅刻などは心配しない時間帯でまだ涼しい内にと早めの登校を心掛けているものの、気休めのようなものでじんわりと脇にかく汗が気持ち悪い。
 そんな私が前方を歩く彼女を見つけたのは偶然。別に行き帰りまで一緒にいるわけじゃないから知らなかったけど彼女もこんなに早くから登校していたのか。
長門さん」
 声をかけると驚いた顔で振り向いてきた。誰とも話す事も無く一人で毎日歩いているのだろう。驚いた顔が私だと分かり、安心感で崩れる。が、やはりまた恥かしそうに、
「お、おはよう……」
 消え入りそうな小さな声で囁くように朝の挨拶をしてくるのだった。彼女はクラスでどうしているのだろう? もう衣替えも終わり、夏服になるほど時間は過ぎていったのに。
「いつもこんなに早い時間に登校するの?」
 小さな肯定。一体何をしているって本を読んでいるのだろう、それしか出来ない子なのだから。誰とも話すでもなく活字の世界にしか存在出来ない夢の中の住人、それが彼女なのだから。
「だったら朝は一緒に登校しない? 私もクラスの用事で早く出ること多いし。それに一緒のマンションなんだもん、ちょっと待ち合わせればいいだけだしね」
「そんな……悪いよ…………」
 遠慮しているくせに一人で歩く背中が寂しそうだったのは何故? 誰とも触れ合おうとしないのに誰かを待っているのは誰? 自らが作った檻から誰かの助けを求め続ける少女に救いの手を差し伸べるのは私。誰よりも優しく、あなたを見ている私はあなたにとって救いの女神。だから。
「別にそんなに難しい事じゃないわよ、何だったら朝御飯を作りにいってあげようか?」
 ほんの一押しで崩れ落ちる堅固で脆い檻。輝く瞳に込められた期待感。私がいなければ彼女は何も出来ない、それは分かっている。ほんの少しの情けで心を開いたようになる幼稚な思考に彼女の未熟さを感じてしまうのに。
「じゃあ明日からはそうしましょう、今日はここから一緒ね」
 彼女の隣に立つと静かに頷いてゆっくりと歩き出す。ほとんど弾まない会話、一方的に私が話して彼女は相槌を打つだけだから。
 それでも彼女は嬉しいのだろう。会話に飢えていたかのように私の話に耳を傾ける、そんなに我慢していたのだろうか。何を? 自分を出す事を。それが分かるからこそ貪欲に私の話を聞こうとする、自分の世界に光を求めるように。
 分かりやす過ぎる単純で幼稚な思考。私の事を親友とでも名付けたいのだろうか、一方的に寵愛を受けているだけのくせに。私なしでは何も出来ないくせに。
「それじゃ今晩はご飯持ってくわ。その時にでも明日からどうするか話しましょうね」
 下駄箱の前で彼女と別れる。帰りは私はクラス委員の仕事もあるし彼女は部活だから別になる。まあ彼女のやっている部活動に何か意味があるのかと言われれば何も意味がないと答えてしまうのだが。あんな一人ぼっちで本を読むだけの行為に私は何ら意義も主張も感じない。
 それでも淡々と時間を無為に過ごす彼女の気持ちなど私は理解したくもないので触れないようにしているのだ。きっと彼女はただ一人部室で本を広げているのだろう、寂しく何もない部屋で一人。光景を想像するだけで寒気が走る、そんな状況は私なら御免だ。
 彼女はそんな私の思惑など無関係に小さく頷くと靴を履きかえて教室に向かった。私も自分のクラスに行かないと。少しでも話が出来る相手と話したい、会話とはキャッチボール出来なければつまらない。
 そんな彼女が別れ際に、
「あ、ありがとう…………いつもごめんなさい」
 そう言って微笑んだ。それは見惚れてしまうほどに柔らかく温かい、蕾が花開くような美しい笑顔だった。彼女の精一杯の喜びの表現、私が男ならきっと抱きしめたくなるほどに。
「いいのよ、私も好きでやってるんだから」
 軽く手を振って彼女と別れ、一人教室に向かって廊下を歩く。あの長門有希にあのような顔をさせたという事実に私は満足していた。あの顔は私しか見たことがない、そうさせた私が凄いのだ。彼女の心を開かせた私に私は満足している。
 …………顔を洗おう。汗が気持ち悪い。あんな子と作った笑顔で話していたのに、あの子は作られていない笑顔で私に礼など言ってのけた。
 キモチワルイ。
 早く顔を洗ってさっぱりしよう、教室に行けば友達がいる。他愛も無い話をすれば少しは心も晴れるだろう。
 そしてしばらく待てば……………彼が来る。遅刻はしないと思うけど、多分ギリギリに。
 まだ彼と私の席は遠くて、話す機会も少ないけど。それでも彼の顔は見れる、クラスの話なら出来る。それだけでも私は嬉しくなる、ここにいていいんだって気分になれる。
 だから早く教室に行こう、さっきまでの気分を忘れる為に。夏が近づき、流れる汗に気持ちが不快にならないように。









 夏休みに入った。何をしていいのか分からない。宿題は早々に片付けた、残すのが嫌いだったから。
友達と遊んだ、そんな相手に困ることは無かったから。でも彼と接する機会は無かった。友人との他愛も無いやり取りが空しくなる。もう少し、あと少し彼との距離が近ければ私の夏休みはもっと違ったものになっていたはずなのに。
灼熱の太陽が私の事を馬鹿にしているかのように輝いている。沢山の友人に囲まれているのに孤独を感じている私と同じ様にただ天に独りで。でも見上げて直視することも出来ない、ただ太陽は眩しかった。
長門有希は夏休みに入っても一人だった。ほとんど家から出ることもなく、ただ図書館と家を往復するだけの毎日。単に目的地が学校から図書館に変わっただけで何も変わらない、変えようともしない。何も求めず、何も追わず、ただそこにいることのみに執着しているような毎日。
私は何度か彼女を誘いショッピングや食事、夏祭りなどにも出かけた。友人との約束を断ってまでも彼女に合わせてやったのだ。
彼女は何も言わず、反対もせずに大人しく私の後に従った。自分というものを持たない操り人形のように。なのに、まるで私がどうしても彼女と過ごしたがっているように思うのは何故? 彼女から目を離すことを恐れるように共に無意味な時を過ごす。きっと彼女からすれば刺激のある出来事も私から見れば平凡だとしか思えなくても。
八月、早く夏休みが終わればいいのにと私は思う。一日でもこんな日常から抜け出したい。
彼に、キョンくんに、会いたい。永遠とも言える夏休み。
 一日が長すぎる、もう何度も同じ日付を繰り返しているみたいで不愉快だった。







 夏休みが終わると同時に秋の足音も聞こえてくる。木々は冬支度を前に色付き始め、夕暮れの影は自分自身より大きく見えるように長く伸びている。
 二学期を迎え、私たちの制服は再び冬服になる。半袖の季節が短かったと思うのかどうかは人それぞれだけど、私には長すぎるくらいだった。彼と会えない夏休みがそう思わせたのかもしれないけど。
 クラスの中では夏休みを境に変わった人たちもいる。その関係も。仲良さげに話す男女を見て何も思わないほど私は朴念仁ではなかったし、素直に羨ましいとすら思う。
 だけど、私と彼の距離はまだ遠く。数度行われた席替えでも近づかない。楽しげに友人と話す彼を横目で追いながら自分の友人の話に適度に相槌を打つ。話の内容などどうでもいいものだったし、最後に笑えばどうにでも誤魔化せる。そんな事より彼の姿を見ていた方がいい。
 いつの間にか視界の中に彼が居ないと不安を覚えるようになっていた。私の中で彼の存在が大きく、深くなってゆく。
 今、彼が居なくなったら。
 怖い、こわい、コワイ。
 そんな、想像にすら恐怖を感じてしまうくらいに私は彼が必要なの? でも目が離せない。
 早く、気付いて欲しい。私がココにいることに。あなたを見つめているコトに。その笑顔をわたしにだけ向けてもらいたいのに。
 だけど私は何も言えない。矜持? 臆病? その全てであり、それが全てではない。ただのクラスメイト。お節介な委員長。彼と私の関係はそれだけだ。それに満足出来ないくせに自分からは何も出来ない臆病者、それが私だ。
 ふと、眼鏡をかけた無口な少女と自分の境遇が重なり必死に否定する。あんな風に私はなりたくない、だけど彼女と私にどれだけ違いがあるのだろう。ただ彼を見ることしか出来ない私と何もせずに本の世界に逃げ込む彼女と。
「おい、朝倉」
「どうしたの?」
 ふいに彼に話しかけられただけで早打つ心臓、動揺を隠したままで真面目な委員長として振舞う私。
「いや、文化祭をどうするかって話なんだが」
「あら、キョンくんがそんな事に興味持つなんて珍しいわね。てっきり多数決で決めればいいって思ってたんだけど」
「俺はそんなもんだ、正直なとこは。だけどうるさい奴がいるんで早めに釘を刺しておこうかと思ってな」
 面倒臭そうに向けた視線の先には騒いでいる生徒が居る。あれは確か、
「ああ、谷口くんね」
「そうだ、放っておくと暴走しかねん」
 メイド喫茶とか普通に言いそうだよな、なんて言いながら笑いかけられた。そうね、と言いながら私も相槌を打つ。
 それだけなのに張り裂けそうなくらいに鼓動が止まらない。この音が聞こえてしまったら私は死んでしまうかもしれない、恥かしさのあまりに。けれど彼は気付かないだろう、私はそのくらい自制しているから。
 でも、少しだけ。
 もしも私がメイド服なんか着たら彼はどう思うだろうか? 谷口くんの提案が通ってしまったら。呆れるだろうか、それとも…………似合うって言ってくれるのかな?
 私はメイドで彼に傅くのだ、そして彼の命ずるままに吾が身を差し出す。彼の手が私の全身を這い、私は羞恥と歓喜に甘い声を上げる。そして私は、
「朝倉?」
 なんでしょう、ご主人様? と言いそうになって慌てて口を噤む。不審そうな彼の顔に自分が赤面するのが分かった。何を想像してたの、私。
「あ、私ちょっと席外すから!」
 変だと思われちゃうかもと分かっていてもその場から逃げ出すしかなかった。廊下を駆け足で階段の下に駆け込む、ここなら誰も居ないから。
 火照った頬を押さえて呼吸を整える。絶対に変だと思われた、そう考えたら泣きそうになる。だけど、彼の傍に居たいという衝動のような欲望は想像だけでは終わりたくない。
キョンくんが……望むなら…………」
 メイドにだってなる、あなただけのメイドに。なんてコトを考えてしまい、また顔が赤くなるのが分かった。
 だけど彼と私の距離はまだ遠く。私の望みは叶えられるはずも無く。
 ただ頬を赤らめて瞳を潤ませるコトしか出来ない弱虫の私は眼鏡をかけた無口な少女となんら変わることもないままに秋口の緩やかな日差しの廊下に一人佇んでいた。
 校庭の銀杏の葉は黄色く色付き、風に舞った。まだ、陽だまりは暖かい。










 文化祭の出来事などほとんど覚えていない。だって彼が居なかったから。
 結局メイド喫茶などという事は出来なかった私たちのクラスはそれでも軽食喫茶など企画したのだが、元々積極的に関わりたがらない彼はあっさりと裏方になると委員長としてクラスの中心にいる私と接する機会が少なくなってしまった。代わりに国木田くんと話す事が多かったのだが彼の中学時代の話が聞けたのは嬉しかったかも。
「まあキョンは変な女の子が好きだからね」
 その一言だけは引っかかったけど。そうか、私は変じゃないから好みではないのだろうか。それは嫌だ、彼が変わり者が好きだというのなら幾らでも私は変わってみせるのに。
 でも私自身が変われる自信がないのも確かだ、真面目だなんて言うつもりもないけど変わってるとは言われたくないし。
「朝倉さんはキョンの事が気になるの?」
 国木田くん、それは訊くべきことじゃないわ? 無言で笑みを浮かべるだけの私を見て肩をすくめた国木田くんにはイラッとしたけど。
 気になる、なんてレベルでは語れない。私は知っている、自分の気持ちに。だけどそれを誰にも見せる事さえ出来ずにただそこで笑っているだけ。
 国木田くんがそれ以上追及もしてこなかったので私も必要以上に何も言わず、文化祭の準備は滞りなく進んでいった。
 当日も彼は裏方で私は教室からほとんど動けなくて、すれ違うばかりの二人に会話も無いままに。
 距離は縮まらない、こんなに傍にいるのに。
 ようやく訪れた休憩時間も彼は作業中で誘うことすら出来なかった。効率を考えたとはいえ、自分でも腹が立つ。なんで一緒に居られるようにしなかったんだろう、彼と二人で回りたかった。多分、誘う勇気など無かったくせに。
 他の友人や男子生徒の誘いは断わる、彼以外の誰かと過ごすなど御免だ。当たり障りの無い言葉でかわしながら足は自然と旧校舎に向かっていた。
 階段を昇り、端の部屋。そこには古ぼけた表札で『文芸部』と書いてある。
 何故かここに来てしまった。文化祭の喧騒をよそに、ここだけは静寂すら感じさせる。ノックもせずにノブに手をかけて扉を開いた。
「あ…………」
 窓際で本を読んでいた少女が少しだけ慌てて本を閉じる。まるで誰も来ない事を知っているかのように。
「随分と静かね」
 呆れながら部室を見渡す。何一つ用意されていない飾りのない殺風景な部屋。彼女の部屋と同じだ、そこに生きている事を感じさせない。ただ一つ違っていたのは私の行く手を遮るように長机が置かれ、そこには数冊の冊子が置かれていたというだけである。これが彼女の行った文化祭の活動なのだろう。
 一冊手にとってみる。中身は短い小説のようなものだった。彼女が書いたのだろうか、一人しか居ない部室で一人で黙々とパソコンだけを見つめて。
「あ、朝倉さんはどうして……?」
「ちょっと休憩がてらに見に来たんだけど、どうやら暇みたいね」
 私は彼と過ごすことも出来ずに忙しかったのに。のうのうと読書三昧だったのか、こいつは。しかし彼女は恥かしげに、
「え、えと……何人かは見てもらったんだけど…………」
 俯いてしまった。きっと見に来た人は彼女の様子を見て話しかけられずに去ってしまったのだろう、何のために居るのだ彼女は。
 それでも彼女は眼鏡の奥の瞳を輝かせ、
「でも、嬉しいな。朝倉さんが来てくれて」
 曇りの無い笑顔でそう言うのだ。その笑顔を見せたらこの部室の前には行列が出来るだろうに。だがそんな事になれば私はきっと彼女と話すことは無くなるだろう、私にだけ話しかけてればいいのだ。
 彼女に陽が当たるなんて許せない、私の影で怯えていればいいのだから。
「一冊貰っていくわね」
 部誌を手に取ると彼女は嬉しそうに頷いた。何度も感謝の言葉を告げる彼女に別れを告げて部屋を出る。この後も彼女はずっと一人なのだろう、それでいい。そのままでいい。
 旧校舎からクラスへと戻る、もう交代だから。そして彼と少しだけでも会話出来れば。
 まだ遠い距離だけど、あの子よりはマシだ。私はまだ自分から歩き出せるから。
 秋も深まり、陽が落ちるのが早くなってきている。廊下を歩く私の影は長く、長く伸びていた。