『SS』 私は、あなたが、大嫌い

 そこにあなたは居た。そして私はあなたに出会った。
 必然? なんで? 何故あなたは私の前に居るのだろう。そして、私は。





 同じマンションに彼女が住んでいる事を知ったのは多分高校に入学してからだと思う。曖昧だけど彼女は制服姿しか印象にないからそうだと思うのだ。
「えーと、長門有希さんだっけ?」
 エントランスで声をかけると彼女は驚いたように顔を上げた。眼鏡をかけた顔はいつも俯いていて、儚げで。何故か癇に障った。でも私は声をかけた。かけてしまった。
「……なに?」
 小さく囁くような声。人見知りをするのか、まるで子犬のように震えながら私の顔を上目遣いで見上げてくる。庇護欲を刺激するようなその態度、まるで誰かの助けを待っているような。
 だから私が声をかけるのを待っていたかのように。そして私はそれに惹かれるように。
「いや、その制服は北高でしょ? 私もそうだし同じマンションだったらと思って声をかけたの」
 すると彼女の瞳が輝く。救世主を見たような期待に満ちたその瞳。そんな顔をするのならばもっと早くに誰かと話せていたんじゃないの? 
「わたしは…………声をかけるのが苦手だから」
 本当にそうなの? 気弱で人見知りをする少女。それなのに私の言葉に瞳を輝かせる少女。分からない、私を避けない彼女と彼女から避けられない自分が分からない。
「でもせっかく同じマンションに住んでるんだもん、出来れば話し相手になってもらいたいわね」
「そう…………わたしで良ければ」
 彼女はどうして私と話をするのだろう、そして私は何故彼女と話すのだろう。
 胸の中に黒く苦い重りを飲み込むように。
 私は長門有希と友人になった。まだ桜の花が淡く色付く季節の事だった。





 長門さんは生活というものと無縁の人だった。広いマンションに一人で暮らしているのにも関わらずだ。私も両親の都合で一人で暮らしているものの、おかげで自炊というものを覚えたし、何とかやりくりをしながらも生活しているといった感じだ。
 それなのに長門有希という人は同じ様な境遇でありながらあまりにも暮らすということに無頓着だったのだ。食事はコンビニのお弁当かスーパーの惣菜、服装も学校の制服以外は私服もあまり持っていない。部屋の内装だって必要最低限の物しか揃ってなく殺風景だ。
 ほぼ使われる事無く綺麗なままの台所を見て私はため息をついた。彼女と話すようになってから初めて部屋にお邪魔した時、寒気すら感じた玄関に不安を覚えたのだが的中したようだ。
「ねえ、長門さん」
「なに?」
 お客様だからとリビングに座らされた私にお茶を用意してきた彼女。恐らくそれ以外に台所を使う機会はほとんど無いのではないかと疑いたくなってくる。それ以前に彼女は料理など作った事があるのだろうか。
 酷く曖昧で現実味のない生活を淡々とこなす少女。まるでそこに居ないかのごとく。こんなに間近にいるのに遠い存在に感じた。
「もし良かったらなんだけど今度何かお裾分けしましょうか?」
 そう言うと彼女が何度も瞬きをした。言われた意味が分かってないのかしら?
「えーと、食事でも持ってこようかって事なんだけど」
「えっ…………」
 驚いている。突然の提案だったからだろうか。それとも意外だったの? でも彼女は俯いたまま、
「そんな…………悪いから」
 拒絶のようなセリフ。それなのに消えゆく語尾に引き込まれるように、
「いいのよ、どうせ作りすぎちゃうし。それに口に合うかどうか分からないけどね」
 そう言うと彼女は小さく首を振る。
「そんな、その、あ、ありがとう……」
 顔を上げて私を見つめる眼鏡の奥の彼女の瞳がわずかに潤んでいる。それは守ってあげたいと思わせるほど美しい硝子細工のような瞳だった。
 そんな瞳で見つめられれば誰しも従うのではないのだろうか? ふと、誘導されたような気がした。彼女の望む言葉を言わされているような、私の意志を越えてしゃべらされているような感覚。
 そんなはずはない、私はこの一人で寂しく暮らす彼女を同じマンションのよしみで助けたいと思っただけだ。それだけだ。
 可哀想な女の子。それを見捨てない私。自己満足と優越感。内面の私がどう思おうとも、彼女が喜んでいるのだからそれでいい。そのはずなのだから。
「今度一緒にお買い物とか行きましょうね、長門さん服とかあまり持ってないみたいだし」
「そ、そんな……」
「いいからいいから、ねっ?」
 押し切られるように小さく頷いた彼女を見て満足する。私がいないと何も出来ないんじゃないの? そう思わせる彼女の態度に優越感を覚えながら。
 それなのにこの違和感はなに? 目の前の少女に全てを見透かされているような、操られているような感覚は何なの? イラつく、この少女の態度全てに。
だけど私の世界に確実に彼女は入り込んできた。一人では何も出来ない弱虫。それを助ける面倒見のいい私。
私は長門有希の部屋へと来訪する機会が多くなった。その全てを喜びと共に受け入れる彼女。作られたような幸福がここにはあった。そう、彼女が望んだままの作り上げられた幸福な姿が。





…………彼と出会ったのは入学式の時だろう。もちろんその時には気付かなかったけど。それから一緒のクラスになり、それぞれ自己紹介をしたはずだけど彼が何を言ったのかは覚えていない。
ただ、何となく目で追っていた。意識していた訳じゃない、たまたまクラス委員になど選ばれたのでクラスメイトの事を把握しておこうと思っていただけ。そのはずなのに視線の中に彼が飛び込んでくるのだ、まるで私に見て欲しいかのように。いえ、私が視線の端にでも彼を捉えておきたいかのように。
変わったあだ名の少年だった。私も本名じゃなくて彼をそう呼んでいる。そう呼ばれると少しだけ眉を顰めるので気に入ってはないのかな、と思いつつも彼の名前よりも親しげで愛嬌のあるあだ名が私は好きだった。
「ねえ、キョンくん?」
「はあ、お前までそう呼ぶのかよ、朝倉……」
やれやれと口癖のように呟きながらため息をつく。そんな彼を見て笑う国木田くんに「お前のせいだろうが」なんて言いながら。でも、決して彼は拒絶したりはしない。あだ名で呼ばれることが嫌なのかもしれないけど、怒ったりはしないのだ。だからいつの間にかクラスメイトは全員彼をあだ名で呼ぶようになっていた、そして彼もそれを受け入れていて。
何気に凄い事なんだけどな、私はそう思いながらも彼のあだ名を呼べる事が嬉しかった。距離が、近く感じるからかもしれない。言葉とは不思議ね、名前じゃないのに彼そのもののような気がしてくるなんて。
「いいじゃない。私は好きだけどな、そのあだ名」
本当にあだ名だけが好きなの? 瞬間、脳裏を過ぎった疑問を振り払うように彼にプリントを手渡す。
「はい、これ。ちゃんと目を通しておいてね」
へいへい、と言いながら読まずにプリントを机の上に置いたのを苦笑しながら見て、私は自分の席に戻る。何事も無かったように友人と談笑する彼を見ながら思った。
遠い、な。
席だけじゃない、まだ私と彼の距離は遠かった。少しづつでも、ほんの少しでも近ければ私はもっと彼と話しているのかな? 分からない、まだ彼と私の距離は遠かったから。
次の席替えはいつになるのだろう、まだクラスメイト全ての顔と名前が一致してもいないのに、私はぼんやりとそんな事を考えていた。
長門有希と知り合うほんの少し前、まだ私が何も思わなくて良かった頃の話だ。






新緑が目に眩しく、ようやく高校生活も慣れてきた頃だった。いつの間にか自分の部屋からここに来ることが当たり前となっている彼女の部屋に入った時、奇妙な違和感を感じた。
相変わらず殺風景な部屋なのに、何も家具など増えてもいないのに。空気が、違う。
その原因はすぐに判明した。彼女が、微笑んでいる。その暖かな笑みがこの部屋の雰囲気を一変させているのだ。儚げな少女が浮かべる至福の笑み。思わず私は訊いてしまっていた。
「どうしたの長門さん? 随分と嬉しそうだけど」
彼女は嬉しそうに一枚のカードを取り出した。それは市立の図書館のカードだ、私も利用したことはある。それがどうしたというのだ?
「実は……」
それはまるで御伽噺のような出来事だった。一人本を抱えて佇む図書館。忙しそうに動く司書。人見知りの気弱な少女は話しかける勇気もなくて。そこに現れた一人の少年が彼女の為に代わりにカードを作ってくれた。そして彼女はお礼を言うのが精一杯で彼の名前すらも聞けなかったという。
有り得そうで有り得ない話だった。本人の口から出たものでなければ笑い話にしてもいいくらいに。しかしそう言えば繊細な彼女の心は傷つき、その大きな瞳に涙を浮かべてしまうのだろう。だから私は彼女に合わせた。
「そうなの、良かったわね」
素直に頷く彼女。何も疑うことを知らない純粋なる瞳。図書館のスタッフにすら話しかけられないあなたが何故初対面の男性の言うままに従ったのか私には理解出来ないけど。
「もしかしたら運命の出会いだったりしてね?」
「そ、そんな…………」
顔を赤くして俯いてしまう少女。その動作の一つ一つが愛らしい。
「わたしは…………ただ助けてもらっただけだから…………」
助けたのはあなただったからかもしれない。きっとあなたはカウンターの傍で泣きそうだったのだろうから。その場に居なくてもその姿は容易に想像出来た。そして寄り添うようにカードを作る彼。
―――――ほんの一瞬、物凄く嫌な映像が頭の中に浮かんだ。そんな、きっと、間違い。私も経験が無いからつい思い浮かべただけ。彼は、図書館になんか行かない。はずだ。
「でも……」
顔を上げた彼女はハッキリと言った。真っ赤な顔のままで。
「また、会いたい」
それは少女の明確な意思。その瞳に宿るものは一体何? まるで、何かを見つけたような。そう、それは…………
「会えるといいわね」
心がこもらない空虚な言葉を作られた笑顔で告げる。それでも彼女は嬉しそうに頷いた。純粋で無垢な飾り気のない心で。




その時の食事の内容も味もまったく覚えていない。彼女の感謝の言葉が鬱陶しかった事だけは明確に覚えているのに。




一人で帰る私の部屋。彼女の部屋よりも物が溢れ、生活の匂いがそこにはあった。
そして私は。荒れた。
「何なのよっ! 何で? 何であの子ばっかりっ!」
私は友人にも恵まれている。クラスでも委員長だ。慕ってくれる男性も居ないとは言わない。
だけど。
「どうしてあの子があんな顔が出来るのよっ!」
思い切り投げたクッションが壁に当たり間抜けな音を立てる。その壁の向こうに彼女の先程の顔が浮かんでいるようだった。
あれは…………恋をする少女の瞳だった。私にはまだ出来ない、人を想う心を表すような瞳。
「何で? なんで? 何でなのよーっ!!」
悔しかった。羨ましかった。あれだけ素直に自分の心が出せる彼女が。何が人見知りだ、何が気弱だ。初対面の人間に素直に好意を持てるような奴が言う言葉か。
それになんだ、そのシチュエーションは? 何の下心も無く女子高生に近づいて何もせずに名乗りもしないで立ち去った? 馬鹿馬鹿しい、ありえない。彼女が二目と見られない容姿ならば分かるが、あの子は私から見ても美人なのだから。
困っている美少女を優しく助けるヒーロー。それに一目惚れをして想いを寄せる文学少女。まるでマンガや小説だ、現実味に乏しすぎて評価すら出来ない。
「どう……して…………」
それなのに映画のように浮かぶのだ。彼女の行動全てが。そしてそこにいるのは、
「っ! いやぁっ!」
また浮かべてしまった彼の顔。嫌だ、そんな。私じゃないのに、そこにいるのは私じゃないのに。頭を抱えて蹲る。
「どうして? どうしてなの? 何で私…………」
彼の顔しか浮かばない。彼女の隣で笑っているのが、彼しか居なくなっている。嫌だ、嫌だ、イヤダ、イヤ!
何でなの? あの子は何も出来ない、ただ本を読むしか能の無い子なのに。私が食事を持っていかなければ満足に食べることさえ覚束無いのに。それなのに何故彼の隣にいるの? 何故私じゃないの? 何故……
「あんなのがいるから…………」
あんたは何も出来ずに本だけでも読んでいればいい。無口で、無力で、気弱なただの臆病者。
そして私に縋り付いていればいいのだ。私に感謝し、私の言うことだけを聞き、何も残さずに消えていけばいい。それだけの存在なのだ、お前は。
「ふ……ふふふふ…………」
何も恐れることはないんだ、あんな何も出来ない子に。私がいなければ何も出来ない哀れな人形に。
ただ一つだけ感謝しよう、あの子が私に気付かせてくれた。
キョンくん…………好き……」
そう、私の心に。彼の姿を焼きつかせてくれたことに。これが恋? 誰かを好きになる気持ち? 分からない、でも彼を離したくはない。
でも、彼と私の距離はまだ遠い。
待とう、その時を。私と彼の距離が近づくのを。それまでは彼女の世話でもしておけばいい、哀れな女に情けをかける優しい私でいればいい。
若葉が蒼く煙る、まだ季節は夏を迎える前の事だった。