『SS』 月は確かにそこにある 38

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 長門が四個目の林檎の皮を剥き終わった時だった。林檎を見つめていた顔が病室のドアを向く。つられて視線をドアに、とすぐに何があるのか理解した。
 軽い音でノックされたドア。長門が音も無くドアに近づき、静かに開けた。ドアの向こうから入ってきたのは、
キョンくん……大丈夫ですか?」
 あの時のように事故だった訳ではないのに既に涙で瞳を潤ませている俺のマイエンジェルだった。
「すいません、朝比奈さん。ちょっと油断してたみたいで」
 本当の事は言える訳が無いので長門の操作した情報とやらに合わせてみたのだが何とも間抜けな理由に苦笑せざるを得ない。まあどちらにしろ朝比奈さんに嘘を言っているという点では後ろめたいのだ、今の俺の顔は苦虫を噛み締めながら笑っているのだろう。
 それが幸いしたのか、朝比奈さんは苦笑いする俺を照れ隠しで笑っているように思ったのだろう、自分もクスクスと可愛く笑うと、
「賞味期限なんかは男の子はつい見逃しちゃうって聞きましたからね、キョンくんも注意してください」
なんて言われてしまい、何だかんだで年上の女性の言う事なので「はい、わかりました」なんて素直に頭など下げてしまうのであった。くそ、俺のキャラがものぐさみたいじゃないか。恨むぜ、長門
しかし朝比奈さんから見れば、手のかかる子ほど可愛いのか(ハルヒなどを相手にしていればそうなるだろうが)カバンを置くなり、
「お腹の調子が悪いなら食べ物よりは飲み物の方がいいよね? あたし何か買ってきます」
とまあ優しく言ってくださったのだ。どこかの林檎を持ってきてしかも自分で食べてるヤツにも見習っていただきたいもんだな、と、
「わたしが行く」
思考を読まれたのか朝比奈さんを制した長門が静かに病室を出て行ってしまった。いや、冗談のつもりだったのに。
残された俺としては長門にすまないし、朝比奈さんだってどうしていいのか分からないだろ。ということで、妙に変な空気で沈黙するしかない。
「あの〜、キョンくん?」
気まずいので俺から何か話そうとしたら朝比奈さんから声をかけてきた。
「なんでしょう、朝比奈さん」
「さっきの話なんだけど」
さっき? ああ、賞味期限が何とかってやつですか?
「……あまり心配をかけないでくださいね」
それは、と言いかけて朝比奈さんの目尻がうっすらと滲んでいるのを見て何も言えなくなる。
「みんな、キョンくんを心配してたんですから」
「………………すいません」
間抜けな理由でも倒れた事は事実だ。そう思っている朝比奈さんが俺の身を案じてくれている、それは面映くも嬉しいものであった。
キョンくんももっと自分を大事にしてください!」
怒られた。目に涙を浮かべたまま怒る朝比奈さんは正直可愛かったが、怒られているので何も言わずに反省するしかない。
「あたしだけじゃありません、長門さんも古泉くんも皆心配してたんですから! 涼宮さんだって……」
そうだ、ハルヒは?
ハルヒはどうしたんですか? てっきり朝比奈さんと一緒だと思ってたんですが」
朝比奈さんのお説教を中断させてしまって申し訳ないが、俺はハルヒがまだ来ていない事の方が気になった。すると朝比奈さんは少しだけ苦笑した。
「涼宮さんならもう少し来るまでかかりそうですね、少し寄り道をして来るはずなので」
寄り道? 病院に来る前に見舞いの品でも買ってくるのだろうか。それとも何か他に用でもあるのか?
「そんなはずないじゃないですか、真っ先にここに来たいに決まってます!」
また怒られた。では何故まっすぐ来ないんですか?
「それは、うーん、来たら分かります」
珍しくはぐらかされたような気がするな。朝比奈さんはハルヒが何をしているのか知っていて誤魔化そうとしているようだ。
それを追求しようとしたらタイミング良く長門がお茶を持ってきたのでうやむやになってしまい、無言の長門が林檎の皮を剥く音を聞きながら朝比奈さんに買い置きした食品の保存や賞味期限についてお説教を食らう羽目になってしまったのだった。

 





結局、食中毒で入院したのなら食べ物はまずいだろうという事で長門が持ってきた林檎は本人と朝比奈さんが食べている。俺はそれを見ながら長門の買ってきたお茶を飲んでいるのだが、内心は焦っている。焦燥しているんだ、この時間が長いと感じているからな。
本当ならばまず最初にここにいなければならない人間がいない、思ったように組みあがらないパズルに苛立ちすら覚えてくるほどに。チクショウ、何で俺がこんなに会いたい時に限っていやがらねえんだ、あいつは。
自然とドアを横目で見る回数が多くなる、それを朝比奈さんも長門も気付いている。朝比奈さんの微笑みが全て承知だと言わんばかりで些か参るのだが俺の視線は病室の入口に向いてしまうのだった。




 そして長門が視線をドアに向けた時。




 俺にもそれはすぐに分かった、これだけ大きな音を立てて病院の廊下を歩く奴なんて俺の知り会いにはただの一人しかいない。まったく、少しは場所ってのを考えてくれよ、せっかくの再開を喜びたい気分まで萎んじまうぜ。
 なんて思いながらも唇が上向いちまうのは何故なんだろうな? 足音がだんだんと近づいてくるのがこんなにも待ち遠しいなんて。朝比奈さんも、長門だって表情はそのままだけど微笑んでいるように見えてくる。
 そんな足音は俺の病室の前でピタリと止まった。当然のようにノックも無く、部室のドアと同様にけたたましく開かれた扉の向こうから歩いてきた涼宮ハルヒは。
 絵に描いたような不機嫌だった。そう、こんな所に来たくはなかったと全身で物語っていたのだ。朝比奈さんの顔色が見る間に青くなっていく、恐らく普段の俺ならば同じだっただろう。
「…………なによ?」
 第一声がそれかよ。見舞いに来られて疑問系で問われても答えることなど出来ないぞ?
「うっさい、そんな顔してるならお見舞いになんか来なかったわよ」
 そんな顔ってどんな顔だよ。するとハルヒは俺を指差し、
「ニヤニヤしてんじゃないわよ、バーカ!」
 自分も笑顔でそう言ったのである。まあ大丈夫そうね、と振り向きながら小さく呟いたのを含めてまったくのハルヒらしさに泣きそうにすらなってくる。
 そうだ、俺は帰ってきたのだから。
「まあこんな時期に食中りになるような間抜けはヘラヘラ笑ってるくらいで丁度いいけどね。まったく、ちょっと賞味期限を守らなかったくらいで倒れるなんて気合が足りないのよ!」
 いやまあ間抜けだとは思うが気合でどうにかなるようなもんでもないぞ。それにさっき朝比奈さんからちゃんと期限を守りなさいと散々お説教されたばかりなのに真逆な事を言うんじゃない。
「うるさい! どっちにしろ入院なんかするあんたが悪いんだから!」
 おっしゃる通りだ、全部俺が悪い。それは腹を壊しただとか入院しただとかでは無い部分で、だ。しかしそれはお前だって同等なんだぜ? だから俺はほんの少しだけ折れてやる事にするよ、お前の為にもな。
「悪かった、心配かけてすまん。今後は気をつけて勝手に休んだりしない事にする。それに見舞いに来てくれてありがとな、正直お前の顔を見たら安心して笑っちまった」
 自分でも自然なくらいに言葉が出てきた。本当にハルヒの顔を見て、それがいつものハルヒだった事に俺は満足しきってしまったからだ。本当にそれは嬉しい事だったのだ。あの冬の日に、寝袋に包まったハルヒを見た時と同様に。
 朝比奈さんが目を丸くして、長門が俺を注視する中、言われた当のハルヒはというと、
「あた、当たり前じゃないのっ! このあたしの顔を見たらSOS団の団員として安堵のあまりにひれ伏して今までの自分の体たらくを泣きながら反省するのが当然ってもんよ!」
 見られたくないのか顔を背けたまま不遜な事を言ってはいるが、耳たぶまで赤くして声が震えていては威力も半減以下ってとこだぞ? そんなとこを含めてハルヒなんだけどな。だから俺は改めてこう言った。
「ありがとう、ハルヒ
 ハルヒは顔を背けて、「やめてよ、気持ち悪い」などと言っていたのだが、意を決した様に俺の顔を睨むように真正面に捉えて、
「心配させんな! もう、あんな思いはしたくなかったんだからね! それと…………元気なようで安心したわ」
 真っ赤な顔のままそれだけ言うとまた顔を背けてしまったのだった。やれやれ、もう少しだけ素直に言ってもらいたいのはまだ贅沢か? 朝比奈さんの笑顔に長門が再び林檎を手にしてハルヒはそっぽを向いたまま何かブツブツと呟いている。








「なあ、ハルヒ
「何よ?」
「俺は明日には退院するし、学校にも普通に行くからな」
「当然じゃない、食中りくらいで一々休むんじゃないわよ」
 本当にそう思ってたのか? などと訊くほど俺は野暮ではない。そしてハルヒが遅れてきた理由も分かっているのでそれをどうこう言うつもりも無い。だからな?
「その寝袋とかは持って帰ってもらっていいからな」
 前回と同じようにと寝袋や自分の食料まで用意していたから遅くなったのかよ。まったく、団長様は優しくも泊まるつもりだったのだ。
「え? あ、あたしはいつも最悪の予想まで考えて万全の準備を怠らないのよ! あんたがそんなに元気だったらここまでしなくて済んだんだから早めに言いなさいよね!」
 床一面に散らかした荷物を片付けているハルヒに横から手が伸びた。
「有希?」
「手伝う」
「あたしも手伝います」
 どうやって一人で抱えていたのか分からない寝袋やバッグを長門と朝比奈さんがそれぞれ持つとハルヒはばつが悪そうに謝った。
「ごめんね、ありがと」
 まあ勝手に寝泊りの用意までしてしまうのがハルヒなのだが、それを二人に謝るなんてな。今までなら一人で無理に抱えてしまうところだったのに。
「別にいい」
「構わないですよ」
 二人は当たり前のようにそれを受け入れた。この二人ならば当然、というのとは雰囲気が違う。それは俺じゃなくても分かるだろう、こういう奴を友人に持てば誰でもそうするもんなのさ。
 だからこれでいいのだろう、少しだけ照れたハルヒが二人に頭を下げるくらいはな。と、ハルヒに指を指された。
「何笑ってんのよ?」
 そうか、俺は笑っちまっていたのか。そりゃそうなんだけどな、とは言えないか。ハルヒのささやかな願いが叶っている、そう思っただけなのだから。
「いや、お前ら仲いいよなって思っただけだ」
 俺の答えをキョトンとした顔で聞いたハルヒだったが、やがて満面の笑みを浮かべると、
「あったりまえじゃない! ね? 有希、みくるちゃん!」
 傍らの二人を抱き寄せた。二人も「は、はい!」「そう」と返事をして大人しく抱きしめられている。 
 そんな三人を見て俺はまた笑うしかなかった。
 なあ、お前の願いは確かに叶っているんだぞ。長門も、朝比奈さんも、お前の大事な友達なんだからな。そしてお前もだ。
「古泉は居ないのか?」
 俺の質問にハルヒの眉が寄る。
「あら? まだ来てないの? てっきり先に来てお茶でも買いに行ってるのかと思ったんだけど。みくるちゃんは知らない?」
「あ、あたしが来た時には長門さんしか見てませんね」
「なら有希は? キョンが寝てる時に来たとか」
「知らない。わたしは授業が終わってからこちらに来たが古泉一樹とは遭遇していない」
 おかしいわねと首を捻るハルヒだが俺はある意味そうだろうとは思っていた。理由の一端を知る長門も何も言えないだろう。
「バイトだろ、あいつは」
 仕方なく俺がフォローを入れる。訊いた本人がフォローしてどうすんだよ。
「何言ってんのよ! SOS団の団員が倒れているのにバイトを優先なんて副団長失格じゃない!」
 そのお前の心配があいつのバイトを増やすんだけどな。しかし閉鎖空間だけが理由でもないだろう、あいつがもしも今回の件を少しでも自覚しているのなら。
「まああいつも苦労してんだろ、バイトもしながら進学クラスでおまけにSOS団までやってんだからな。それにバイトに急に穴を空けてクビにでもされたらこっちが気まずいわ」
 するとハルヒの顔がニヤケている。何だよ、変なこと言ったか?
「いや、あんたたち仲いいわねって思っただけよ」
 ああそうかい。
「ま、付き合いも長いからな」
 ふ〜ん、と笑っているのがハルヒだけでなく朝比奈さんも、ついでに何となく長門さえもってのが若干引っかかるが、そんなもんだよ友人なんてもんはな。






 結局ハルヒ達が帰るまで古泉は姿を見せなかった。まだ不満そうなハルヒを朝比奈さんが宥め、長門が軽く会釈して病室を出ていって俺は一人ベッドに横になっている。
 何となくだが次の展開は分かったので俺は一眠りすることにする。
「ったく、回りくどいのも大概にしろよな」
 布団を被ると俺は目を閉じた。長門ならいいが、あいつには文句を言わないとな。そう思っていたはずなのに俺の意識はいつしか深く沈んでいった。
 





 ――――――ハルヒ長門と朝比奈さんに、あの彼女が加わって笑っている。
 最後尾を歩く俺が軽く文句を言うと、ハルヒにあかんべーをされた。見ると朝比奈さんも、長門まで舌を出している。
 そして彼女に腕を引かれて俺はその中に飛び込まされるのだ。するとハルヒが彼女を引っ張って俺から離そうとする。
 朝比奈さんは困ったように笑っている。長門は無表情だけどハルヒの隣で。彼女とハルヒは笑顔でお互いを押したり引いたりしている。
 それを見た俺はいつもの口癖で肩をすくめるのだ。―――――――――






 …………それは、ささやかな願いが叶った短い夢だった。