『SS』 発作

 そこは誰も居ない闇の中だった。目を開いているのか、閉じているのか判断も出来ない。あたしは底なし沼に嵌まったかのごとく両腕を振り回す。だけどそこには何も無くて。
 ヤバイ、また、だ。またあの発作が襲ってきてる。暗い闇の中で地面も天井も感じられなくなり、グルグルと空中で回っているような感覚。
 息が出来ない、喉が締め付けられる。声が、呻くことさえ出来なくなってる。
 アタマイタイ。クルシイ。ムネガシメツケラレテ。
 駄目だ、こんなはずなかったのに。いつもどおりにご飯を食べて。いつもどおりにお風呂に入って。いつもどおりにベッドに入って。
 目を閉じた途端に世界が変わる。
 狂いそうな程の発作。
 いつからこうなったんだろう、突然やってくる動悸と眩暈。苦しくて、クルシクテ。
 どんなに手を伸ばしても何も無い。どんなに蹴り上げても何にも触れない。それどころか抑え付けられたみたいに動けなくなっていく身体。
 やだ、もう嫌だ! こんなのあたしじゃない! こんなにちっぽけで、こんなに情けなくて、こんなにも可哀想なんて。
 そうだ、発作が起こればあたしは何も出来なくなる。ただ手足を振り回し、そして最後に小さく身体を丸めて。
 痛いよ、苦しいよ、誰か助けてよ………
 どうしようも無くなって。自分の弱さに涙しか流せなくて。なのに辛くて、辛すぎて何も出来なくて。
「あ………う…………あぁ…………」
 自分でも訳が分からない声が喉の奥から絞り出される。もう、駄目だ。
 早く、早くクスリを!
 苦しくて動かない身体を無理矢理にでも動かす。力の入らない四肢に感覚の無い皮膚。何とか這いずるようにベッドから降りる。そうか、あたしベッドに寝てたんだ。今更そんな事しか思えない。
 遠い、手を伸ばした先に何も感じないくらいに。それでも這いずって。苦しくて止まらない鼓動を抑えるように胸に手をやって。
 何度か虚空を彷徨った手がようやく形あるモノに触れる。これだ、この感触! あたしは奪い取るようにソレを手に取った。
 もっと早く、もう限界だから。なのに焦って上手く手に付かない。ハヤクシナイトドウニカナリソウ。
 発作が止まらない、あたしが壊れてしまう前にハヤク。
 手の中のソレを壊さないようにそっと開く。そしてあたしは………………


















『……………で?』
 不機嫌そうな声。時計なんか見てないけど深夜だってのは分かってる。
 だけどちゃんと出てくれる、電話の向こうで眉を顰めながらでも。
『…………何時だと思ってるんだ、お前は?』
 そんなの知らないわよ! 時間なんて気にする余裕なんかなかったんだから! もう苦しくて、泣きたくて、実際泣いちゃったし。だけどもう泣いてないけど。
 だからいいの、もう声を聞いたから。
『何なんだよ、用があるなら簡潔かつ分かりやすく頼むぞ。』
 なんて生意気な事を言うもんだから、つい意地になって色々話してやろうと思っちゃう。なんてのも口実で、話の中身なんかどうでもいいくらい声が聞きたい。
 何でもいい、話が続けば。思いつくままに言葉を紡ぐ、その一つ一つに意味なんか無いし、きっと忘れちゃう事の方が多いんだけど。
 それでもいい。ただ声が聞けたなら。
 それだけでさっきまでの気分が軽くなる。それだけで泣きたかった自分が消えていく。
『はあ、勘弁してくれよ…………そんな用なら明日でいいじゃないか』
 文句なんか言わせない、だってあんなにも苦しかったんだから。弱って、泣いて、どうしようもないからクスリが必要だったんだもん。
 そして効果は劇的に現れる。
 もうあたしは笑ってる。
 発作はいつの間にか治まって、いつもと同じ様に話せてる。
 それほどまでに効き目は抜群なのだ、この電話の向こうの話し声は。不機嫌だけど、苦虫を噛み潰したような顔をしてるんだろうけど。
 だけど、そんな声でも。そんな顔でも必ずあたしに付き合ってくれる。必ず話を聞いてくれる。義務じゃない、適当じゃない、本当にあたしを見て、あたしの話を聞いてくれる。
 そんな人がここにいる。ここにいてくれる。
 知らなかった、誰かが居てくれる事がこんなに嬉しいなんて。
 だからもっと。
 声を聞きたい、誰のでもいい訳じゃなくて。ただあいつの声だけが、あたしを落ち着かせてくれる特効薬なんだから。
 静かで、暗くて、誰も居ない部屋の中で。
 あいつの声だけが耳に響く。失った隙間を埋めるように。あたしがあたしでいられるように。
 




 もう、苦しくない。
 




『やれやれ、もういいか? それじゃまた学校でな』
 いつもの口癖が自然と口をつき、あいつは電話を切った。ようやく治まった発作はすっかり影も形も無くなり、あたしは今気分が高ぶって眠れないくらい。
 そうよ、また朝になれば。学校に行けばあいつに会える。眠たそうな目をこすりながら、だらしない格好して。遅刻しないギリギリなのに走りもしないで適当に友達と挨拶を交わしながら。
 疲れたように席に座る。そこはあたしの目の前で。あいつの背中を見て少しだけ安心しながら。『ようハルヒ、おはよう』なんて挨拶しちゃって。返事も聞かずに机に伏せちゃうくせに。
 そんな背中にホッとしながら、それが悔しいからシャーペンで突いてみたりしちゃう。ちゃんと話したい、ちゃんと…………あたしを見て欲しい。
「あー! 何なのよ、もうっ!!」
 悔しくて、恥かしくて。あたしは布団を頭から被り、身悶えする。しばらくドタバタと一人で騒いで疲れたから大人しくなって。
 再び静かになった室内で、ただあいつと何を話すのかだけを考える。SOS団の事、不思議探索の事、あいつの成績だって気になるし。ほら、色んな事を話したい。
 そしてあたしの事も。もっと話してあげたい、これがあたしなんだよって。
 だから早く寝ないと。早く明日が来ないと。あいつに会えない。そんなの我慢出来ない! 布団を被ったまま目を閉じる。
 …………あいつの気まずそうな、だけど優しい微笑みが瞼の中に浮かんで。
 あたしはそれに満足して微笑んで眠りについたのだった。






 













 だけど幸福な気分のままじゃいられない。
 何故ならばまた発作が襲ってくるのが分かるから。
 しかもどんどんと発作は短くなってきてる。一週間が一日に、一日は十二時間に。十二時間は六時間になって、六時間なんてあっという間に半分になって。
 ついさっきまで、学校から帰るまで話をしてたはずなのに。もう声が聞きたくて。
 今だってそう、電話して声聞いて。すっごく落ち着いたのに、もう何か苦しくなってきてる。
 ダメだ、きっとあたしの発作は止まらなくなってるに違いない。クスリを幾ら取っても間に合わない。
 いえ? 違うわね、きっとクスリが悪いのよ。
 それは効果的だけど麻薬。
 劇的なまでにあたしを元気付けるけど、ソレが無ければ生きていけない。もっと、もっとって思うほどに狂おしいまでにソレを求める。
 依存して。甘えて。でも無ければ死んでしまいそう。
 一体どうしちゃったんだろう、何時からあたしはこうなっちゃったんだろう。
 気付いたら発作が起こるほどの病気に罹ってて。気付いたらクスリが無ければ生きていけない身体にされていて。
 病名は何なの? どうやったら完治するのよ? 答えは誰も知らないままで。ただ理解する、これは酷い病なのだと。
 だけど。
 それなのに。
 何でこんなに温かいんだろう、どうしてこんなに嬉しいんだろう? きっとクスリが効き過ぎてて、あたしの頭の中まで侵食されているに違いないわ。
 だから早く朝になって。
 声を聞きたい………………会いたい。会って顔さえ見れば、あたしはきっと嬉しくて。
 そしてこの病の正体を知らないままで。だけどクスリは止められなくて。
 あたしは眠りの底で思う。
 病気が完治するまで。ううん、きっと治らない病なんだけど。
 ずっと、ずっとクスリが必要なの。発作も止まらないから。だから。
「…………キョン
 麻薬のようなクスリの名前を呟いて。
 あたしは甘美な夢を見る。
 一生治らない病と、一生を共にしたいと思う麻薬のようなあいつの顔。
 また明日? ううん、これからもずっと。
 一緒に居たい、キョンが居ないと死んじゃうかもしれない。だってあたしは病気なのだから。
 完治しない病気に苛まれ、依存しきったクスリを味わいながら、あたしはまた明日を待つの。
 明日を、そしてこれからもずっと。










 この狂おしく愛おしい発作を胸に抱えて…………………