『SS』 どれだけ時が経とうとも

 それはもう過ぎ去った日々の想い出になった話。
 冬の夜空は乾燥しやがった空気の中で星空だけが輝くというある意味幻想的な光景を繰り広げている。
 だが、現実に暮らす人間にはただ単に寒いだけの話であり、俺は自転車を押しながら手袋をしなかったことを後悔している最中である。だが手持ちの手袋ではハンドルを握ると滑るだけなので仕方が無い、片手を離しながら息を交互に吹きかける。吐いた息は白く天に昇っていった。
「随分と寒そうだね」
 お前に比べればな。傍らで微笑む同級生はマフラーに手袋、コートにブーツと完全に防寒している。ただ足元は寒そうでもあるな、女ってのは何でこんな時期にも短いスカートが穿けるんだ? 
「結構暖かいんだよ、このタイツ」
 そういうもんかね。中学三年の冬を学習塾通いという不毛な行為に費やしつつも、俺は佐々木という同級生との帰り道をそれなりに楽しんでいた。何と言っても話は面白い上に(若干分かりにくくもあるが)、変な気遣いもいらないのが助かる。異性と話しているという感覚じゃないのは思春期を迎えている一男子としてはいかがなものかと思わなくも無いが、それよりも佐々木と過ごす時間というものは悪い気分じゃなかった。
「僕もキョンと話をしている時間というものは貴重なものだと実感している次第さ、受験という強制的なプレッシャーにもストレスをあまり覚えないのは君の存在のおかげだと感謝しているよ」
「お前がストレス? 嘘つけ、お前の成績ならどの高校にだって行けるじゃねえか。それを言うなら俺は毎晩プレッシャーの山に押し潰されている最中だって言うんだよ」
「クックック、君のご両親はそれだけ君に期待しているという証拠だよ。それに君はやれば出来るという事を証明してみせてると思うんだけどね?」
 まあ確かに成績は急上昇とは言わないまでも、それなりに上向きのカーブを描いていた。だがそれは俺の成績が今まで底辺をひた走っていたからであって、マイナスがゼロに近づいたに過ぎない。
「…………謙遜は美徳だが過剰な表現は些かいただけないな、君は自分の実力を過小評価しすぎのきらいがあるよ」
 そうでもないだろ、まごう事なき事実だ。すると佐々木は呆れたように、
「君は確かに塾に入塾した当初は高校受験を危ぶまれていたのだろう。親御さんもそう考えたから三年生になっての短期間での塾通いを決断したのだろうからね。だが僕の知る限り君の成績は自分で言うほど低いとは思わないし、逆に成長率で表せば十分上位を狙えるとすら思っている。単にキョンは勉強をやるべくしてやるものだと思っていないだけなんじゃないのかい?」
「まあ確かにな。関数や化学式が俺の将来に影響するなんて思えやしない、歴史の年号を覚えるよりかは今やってるRPGのアイテムの名前を覚えた方がマシだと思うね。少なくとも友人同士の会話にはそっちの方が重要だ」
 ため息すらつきやがった。そりゃお前はいいだろうけど男子中学生なんてこんなもんだよ。
「いや、キョンはこの時期にもまだゲームが出来るほど余裕があるのかと思うと自分の狭量にやるせなさすら覚えてきてね」
 嫌味かよ、実際ゲームなんぞやってたら親に何言われるか分かったもんじゃない。
「……機嫌を損ねてしまったかい? それならば謝るよ、どうも君と話すと僕は遠慮というものを忘れてしまうようだ」
 いや、そんなにへこまれても。それに上目遣いで見られると別の意味で困る、せっかく異性を感じない間柄なんて言ってたのに思わずドキッとしてしまうだろうが。
 内心の動揺などひた隠し、俺は努めて笑顔で、
「俺とお前に遠慮なんかいるかよ、まあ少しはお前を見習って学業に精を出すとするさ」
 言いながら照れくさいので上を見上げると満点の星空。言葉と共に吐き出された息が星に混じろうとするように昇っていく。
 そうだね、と佐々木が言った後、二人は黙って歩く。バス停までの短い道のりが永遠のように長く感じられるほどに。
「綺麗だね……」
 ふいに佐々木が上を向いてそう言った。星は瞬きながら静かに俺達を照らしている。
「そうだな」
 俺も再び上を向いた。自転車を押しながらなのでバランスが悪いな、少しだけ足を止めてみる。佐々木も何も言わずに俺の横で星空を見上げていた。
「もうすぐ、こうしていられなくなるね」
 そうだな、受験もピークになればこんな余裕も無くなるだろう。しかし佐々木は小さく首を振った。
「違うよ、受験も終われば僕達は卒業する。そうなれば進路が違う僕達がこうして一緒に歩く機会など無くなってしまうだろう、それを言っているのさ」
 残念ながら今更進路も変えられないしね、そう言った佐々木の笑顔が寂しげだったのは気のせいなのだろうか。俺はつい佐々木に声をかけた。
「そんな事はないだろ、別に引っ越す訳でもないんだから。まあ登下校の途中に会うこともあるだろうし、休日なら都合はつくぞ?」
 高校生活だってそんなに忙しくはないだろ、俺はそう思っていた。だが佐々木はつまらなそうに、
「生憎と僕の方が時間が取れるのか分からなくなりそうなんだ。我ながら高望みしすぎたのか僕の進学先は勉強づくしなのさ」
 別に嫌でもないけどね、一応そう付け加えたものの内心はどうなのだろうか? 佐々木は求められているものが高すぎるから自分でもそれに応えようと無理をしているのかもしれない。
 俺などには理解出来ないレベルでこいつも悩んでいるのかもしれん、そう思うと可哀想だな。
「俺で良ければ都合のいい時に呼んでくれよ、間違いなく暇してるからな」
 すると佐々木は、
「あまり安請け合いしない方がいいと思うよ? 君の高校生活はまだ始まってもいないのだからね」
 そこで笑うなよ、俺が中学浪人でもするっていうのか?
「そうじゃないよ、きっとキョンは高校でも友人に恵まれるだろうってことさ。だからね?」
 降り注ぐような星空を見上げた佐々木は、はっきりと俺にも分かるようにこう言った。
「忘れないようにしよう、この一瞬を。君と僕がこうして並んで歩いて帰れる、その貴重な時間を大切なのだと思うから。どれだけの時が流れても、僕は今のこの光景と気持ちを忘れないようにする。キョン、君もそうあって欲しいと思うのは僕の我がままかな?」
 見上げたままの佐々木の表情は俺からは見えない。だけど返事は決まっている、
「ああ、俺も忘れないさ。佐々木と帰るこの道を、な」
 佐々木に見られなくて幸いだな、間違いなく俺の顔は赤いぞ。佐々木の顔は見えないが赤くなっている耳たぶと同様なくらいには。
 こうしてしばらくの間、俺達は黙って星空を見上げていた。流れていく時間がどれほど大切なものなのか、いつの間にかハンドルを握る俺の手の上に重ねられていた佐々木の手が何も言わないけど物語っていたと思う。






 赤くなった顔がようやく落ち着き、しばらく歩くと俺達はバス停まで着いていた。ここで佐々木が乗るバスを待つ。
 いつもより多少遅くなってしまった為にバス停でぼんやりと立ち尽くす俺に佐々木は静かに寄り添っていた。いつもと同じ様でいつもより近く感じる距離、くっ付いている訳でもないのに佐々木の体温を感じられるかのようだった。
「今日はすまなかった、無為に時間を過ごさせてしまったようだね」
 ポツリと佐々木が呟いた。まあ確かに遅くはなった、だけどな?
「無為じゃなかっただろ。言ったろ? 俺はお前と過ごす時間は嫌いじゃないんだって」
 まあ寒かったけどな、そう言って笑うと、
「ああ、キョンは手袋をしていなかったんだよね。すまない、寒かっただろ?」
 佐々木は笑顔で俺の手を取った。何するんだ、という前に佐々木の顔が俺の手に近づき。
 はあ、と佐々木が息を吐くと白い吐息が俺の手を包んだ。暖かく、何かいい香りするよなって、何すんだよ!?
 恥かしさのあまり手を離そうとしたのだが佐々木の両手にしっかりと包まれた手は動こうとはしなかった。そのまま何度か息を吐きかけられて、その度に暖かさに包まれる。
 やばい、これは手だけじゃなくて全身が熱くなってくるぞ。恥かしいけど嬉しいような。緊張のあまり硬直しながらも俺は黙って佐々木の言いなりになっていた。
「…………これで少しは暖まったかな?」
 少しどころか汗が噴きだしそうだ。多分真っ赤だぞ、俺の顔。とは言えなかったのは俺の目の前にいる佐々木の顔が俺以上に赤くなっていたからだろうな。
 でもやり過ぎだろ、俺がそう言おうとしたところで丁度良くバスがきやがった。ドアが開き、佐々木がそそくさと乗り込む。
 その別れ際、
「忘れられなくなったかな?」
 なんて言いながら照れくさそうに笑う佐々木を見てしまったものだから。何も言えずにバスを見送るしかなかったじゃないか。
 テールランプが小さくなっていくのを見送ると、俺はやれやれと肩をすくめて呟いた。
 ハンドルを握る手は佐々木のおかげで暖かい。
「……絶対に忘れるもんかよ」
 今、この瞬間を。
 彼女と過ごす貴重なこの時を。
 俺は決して忘れないだろう。
 その時間を少しでも長く感じる為に。
 俺は自転車に跨り家路を急ぐのだった。



 また明日、佐々木と会える時間を待ちながら。