『SS』 長門有希の複雑 5

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 そして翌日、月曜日。
 俺は空中遊泳を満喫していた!
「いやっほーい!」
「ちょ、ちょっとぉぉぉ!」
「誰にも見つからなければいいのよ!」
 そりゃそうですけどぉぉぉ!
 若葉さんが満面の笑顔で俺の手首を掴んで空を飛んで登校しているのだ! おまけに空中回転やひねり、キリモミと自衛隊の航空ショーさながらの飛び方だ!
 今回も俺の胸ポケットに有希を偲ばせてはいるのだが、有希自身は相当ご満悦のようである! その感覚が手から俺に伝わってくるんだ!
 何? 前を見れば若葉さんのスカートの中身が見えるんじゃないか、だと?
 馬鹿を言うな! はっきり言って目を開けていられないんだよっ! 怖い! 怖すぎるぅぅぅ!
 ゼェ……ゼェ……ゼェ……
 何で、飛んで俺を支えていた若葉さんが超ご機嫌で、俺が心底、疲れ切っているんだぁ……?
 って、答えは解るじゃねえか。若葉さんは楽しくて嬉しかったんだよ。失くしていた記憶の断片の一つを思い出したんだ。完全に嬉しさ余って、ってやつだ。
 さて現在、場所は校舎の玄関。ちなみにどこに着地したのかと言えば、裏庭である。
 そこから歩いてきたんだが、着くまでにこういう会話を交わしていた。
「どう? 随分早く着いたでしょ?」
「ええ……まあ……」
「んじゃ、明日からもね。着陸点さえ間違えなければ誰にも見つからない。なんか、先週の様子見てるとキョンくん、坂登りが嫌そうだったし、普段、お世話になっているから、わたしが坂道を省いてあげる♪」
「ま、待ってくれ!」
 先に玄関に到着した若葉さんの最後の一言を聞いた時、乱れた息を思いっきり押し込み、俺は思わず走って追いつき、若葉さんの両肩を掴んで、無理矢理俺の方へと向かせた。
 もう、こんなことせんでください! 俺の心臓がいくつあっても足りません! これを毎日繰り返すなら坂道を登頂します!
 と、懇願しようとしたのが、ちょうど玄関だったわけで正にその時、
「……何やってんの……あんたたち?」
 その摂氏マイナス273.15℃くらいに冷え切った声は芯から俺を凍り付かせるには充分だった。
 考えてみれば、である。
 俺と若葉さんは坂道ではなく、裏から出てきたわけで、玄関までの会話なんざ当然聞こえていないだろうし、俺は若葉さんにお願い事をするために切羽詰まった形相で、対する若葉さんも俺に興味がないことは歴然としていて不意をつかれて吃驚しただけなんだろうけど、第三者からは俺が若葉さんを追いかけているようにしか見えなくて、肩を掴んだシーンまであった日にゃ、俺が若葉さんに迫っているように見えないとしたらそいつは眼科か脳外科に行った方がいいってやつだ。
「あんた、ロリ萌えだったの?」
 しかもそれを目撃した相手が涼宮ハルヒとなれば何をいわんや。
「な、なんのこった……? それとお前の考えているようなことは妄想夢想完全フィクションで……」
「別に。あんたが誰とイチャ付こうが、あたしには関係ないわ」
 冷徹なセリフに絶対零度の不機嫌オーラを立ち昇らせながら、俺の脇を通り過ぎるハルヒ
 んで、去り際に、
「古泉くんが怒り狂わないといいけどね。なんか古泉くんが若葉ちゃんに気がありそうだし」
 という捨て台詞があれば、反射的に振り向くしかないってもんだ。
 そして、予想通り、難しい顔というか、俺を敵視に近いくらい非難している目をしているとでも言おうか。
 いつもとは違う、完全に笑みが消えた睨みつけるような視線を俺に送る古泉一樹がそこにいた。
 その日、午前の授業の教室の雰囲気は最悪だった。主に窓際一番後ろの席に陣取る涼宮ハルヒの言いしれぬどす黒いオーラが教室中を覆っていたから。
 ただ一人、平然としていたのは若葉さんくらいなもので、さすがは歴戦の戦士であり、ハルヒの力の影響を受けないだけのことはある、
 なんて的外れなことも思ったりして現実逃避に努めていた俺を誰が責められよう。なんせ本来、ハルヒが観察対象である有希ですら、後ろを向けなかったのだから、その心情は察して余りある。
 今日は吉崎も完全に敗北を認めていて、三時間目の授業では、始めから最後まで眠りこけていた若葉さんを放置したことが先週までと違うところだろうか。そう言えば、妙な嫌がらせ問題もやらなかったな。
 で、午後の授業を待たずにハルヒは帰宅してしまい、放課後、その旨を部室に伝えに行ったところ、古泉が待っていた。
 長門と朝比奈さんもその場にいたが、古泉の雰囲気に気圧されていることだけは確かで、二人とも完全に沈黙の置物と化している。
 長門までビビらせるなんて大したもんだ。
「お待ちしてました」
 あ、ああ……
 これは絶対に逆らわん方がいい。
「あ、あのぉ……キョンくん……古泉くんの気持ち、察してあげてくださいね……」と、これは朝比奈さんだ。どうやら朝比奈さんは何か勘違いしておられるようだ。というか、これくらい教えてやれよ、未来の組織。
「奇跡に近いのですが、まだ閉鎖空間は発生しておりません」
 怒りの古泉ってのは本気で初めて見た。
「そ、そうか……」
「これは涼宮さんの成長具合を示すもので大変喜ばしいことなのですが、今晩は覚悟しなければならないでしょう。僕も最大限、努力いたしますけど、あなたもお願いします。要らぬ勘違いで世界崩壊の危機を招くことはあなたも望んでいないはずです」
「もちろんだ。俺は若葉さんに異性としての興味はないし、若葉さんもそんな感情は抱いていない。そもそも若葉さんは早く自分の記憶を取り戻したいって気持ちでいっぱいだ。俺になんぞ興味を抱くわけがない。今日はたまたまああいうことになっちまっただけで、やましいことは何一つないぞ」
「ええ分かってます。あなたの言っていることは正しいでしょう。ですが、客観的に見て、そう見えなかったことも事実です」
「ああ、後から俺もそう思ったさ。だから、明日からは別々に登校することにした。もう、あんなことはあり得ん。なんなら、お前が若葉さんを迎えに来たらどうだ? その方がハルヒも喜ぶだろう。どうやら、お前が若葉さんに気がある、って思っているようだしな」
 どこか苦し紛れの俺の提案に、ようやく古泉の表情に笑顔が戻ってきた。
 うん、やっぱホッとする。こいつは笑顔がデフォなんで、それ以外の表情は異常事態の証でしかない。
「なるほど。その手がありましたか。では早速、明日から実行に移すとしましょう。若葉さんにも伝えておいてください」
 ふぅ。これで何とかなりそうだ。
 ちなみに若葉さんは今、この場にいない。なぜかと言えば、若葉さんは当事者の一人ではあるのだが、ことハルヒに関して言えば、完全に部外者だ。巻き込むわけにはいかんので玄関で待ってもらっている。
「待て、古泉。それは今日から実行しろ」
「おや、何故です?」
「万が一のためだ。お前も気付いているだろうけど、俺は今、部室にまでさえ若葉さんを連れてきていない。玄関に待たせているんだ。もし俺と若葉さんが一緒に帰っている姿をハルヒに見られたら、ってことを想像してみろ。何を言っても信じてもらえなくなる。それはさすがにマズイだろう。なんせ今日は必然的に歩いて帰らなきゃならんからな」
「そうですね。では、僕が先に行って若葉さんをご案内することにします」
「ああ頼む」
「そして、あなたは明日、涼宮さんに『若葉さんに交際を申し込んだけど断られた』と伝えることができる」
 その通りだ。そういう風に今朝の顛末は持っていくのが一番いいだろう。
 それにしてもお前も災難だな。いくらハルヒの機嫌を伺わなきゃならんと言っても、ロリ萌えにされてしまっているぞ。
「愛情の形は人それぞれ、と涼宮さんは思っています。ですから、あなたを疑い、僕を応援しようとしているのです。それに他の誰に蔑まれようが涼宮さんにさえ奇異な目を向けられなければ、僕はなんとも思いません。むしろ誇りに感じることでしょう」
 それだけ胸を張って言えるのもどうかと思うのだが……
「というより、古泉一樹にとっては彼女に好意を抱いていることにされる方がいい」
 は? 何だ長門、いきなり割ってきて。
古泉一樹には同性愛疑惑の噂が絶えなかった。しかもそれは涼宮ハルヒにも疑われるほど。確かに涼宮ハルヒは愛情の形は人による、とは考えているが、倫理に反する同性愛に対してだけは否定的。故に、彼女に好意を抱いている風に思われれば同性愛疑惑について潔白であることを証明できる」
 …… …… ……
 うん。長門。確かに俺も聞いたことはあるが、それは淡々と無表情で、それも本人の目の前では言わん方がいいと思うぞ。見ろよ、古泉がさりげなく、ドラクエ6でレベル30くらいの時にキラーマシンガの二回攻撃が二回とも痛恨の一撃だったダメージを受けているじゃないか。
「と、とりあえず……僕は若葉さんを迎えに行きます……」
 そ、そうか……
 同じ『そ、そうか……』でも、その言葉に込められた感情が前のときとまったく違ったのは、ここに最初にいたときの姿とは540度ほど変わってしまったヨレヨレの後姿を見せて去って行った古泉を見たからだろう。


 しかし、俺の作戦は決行の時を迎えることはなかったのである。
 これが予想外だったことは俺や古泉はもちろん、有希、長門、朝比奈さんSOS団のみならず、朝倉、喜緑さんが所属する情報統合思念体、超能力機関、未来組織、そのすべてが、恐怖とともに感じたことだ。
 もっとも、俺以外の恐怖は杞憂でしかなかったと断言してもいい。
 まさかとは思ったが、
「――起きろってんでしょうが!」
 鼓膜を破りかねん大声と、首を絞められ固い地面に打ち付けられて俺は目を覚ます。確か夜の十一時頃に自室のベッドに有希と一緒にもぐりこんだはずなのだが。
「やっと起きた?」
 あの日と同じく眉根を釣り上げ、怒りと怯えを同時に表現した表情の涼宮ハルヒが覗きこんでいた。
 もちろん、そこは灰色の闇夜とどこまでも深く続く影が支配する明り一つない風景の北高玄関口。
 一番最初の閉鎖空間がこれだと……!
 俺は、さらに重大な危機が迫っていたことを知らぬまま、ただただ愕然と、周りとハルヒを眺めるしかできなかった。
 予想通り、校舎の敷地に沿って見えない壁があり、外に出ることはできなかった。もちろん、無駄だとは思ってみても万が一の可能性で職員室から電話してみたがどこにも通じていなかった。
「前に同じようなことがあったわ」
「……」
 とりあえず電気は生きているようで、俺とハルヒは通い慣れた、現在SOS団基地と化している正式名称・文芸部室に来ていた。
 ハルヒは団長席後ろの窓に手をかけて、前髪の影に両眼を隠して、しかしあのときとは違い、どこか落ち着き払った声で、ひとり言のように俺に語り始めた。
「一年の五月の、そうね、季節の割には寝苦しさを感じていた日だった。あの日も部屋の布団で寝たつもりでいたのに、気付いたら校舎の前にいて、あんたが隣で横になっていた」
 もちろん、俺も忘れてはいない。あんな経験は認知症を患ったところで記憶から消えることはないだろう。
「あたしはずっと夢だと思ってた。なぜか忘れることができない夢だと」
 ここで、ハルヒは振り返る。
「正直に答えて、キョン
 何をだよ。続きを聞かないと答えようがない。
「それを答えてほしいの」
 何なんだそれは。質問の内容が分からないのに答えようがないじゃないか。
 鼻で一つため息を吐き、やれやれと俺は肩を竦めてしばし沈黙。
 その沈黙はハルヒの一言によって破られる。
「てことは、前の時も、そして今、起こっていることも現実ってわけね!」
 ――!!
「そっかそっか! あたし、ついに異世界に来たんだ! どうりで夢のことのはずなのに忘れないなんておかしいと思ったのよ!」
 ちょっと待て! 確かにお前は宇宙人、未来人、異世界人、超能力者との出会いを望んでいるから、こういう状況に100万ワットの笑顔を見せる気持ちは解らんでもないが、なぜ夢じゃないと断言したんだ!?
「ん? 決まってるじゃない。あんたの態度よ。もし、これが夢なら、あたしは夢ってことに気付いているわけだから明晰夢を見てるってことでしょ?」
 明晰夢つうとアレか? 意識がしっかりしてるってのに見るってやつ。
「その通り。でもね、あくまでそれはあたしの夢なんだから、その気になれば何でもあたしの思い通りにできる世界でもある」
 まあ夢ってやつはそんなもんだ。俺も経験がないとは言わない。
「だけど、あんたは今、あたしの質問に答えられなかった! てことはこれは夢じゃないってことよ! だって、あたしは質問の内容をテレパシーでキョンに送っていたから!」
「あのなあ、ハルヒ。テレパシーってものは超能力の一種で普遍的一般市民の俺が有しているものじゃないんだから伝わるわけがないじゃないか」
「ふっふうん♪ まだキョンは寝てるのかな?」
 な、なんだ、その悪企み全開の悪戯っぽい笑顔は?
「さっきも言ったけど、ここがあたしが見ている夢の中なら伝わるのよ。たとえ明晰夢でも」
 ……っ!
 一瞬、悔恨の絶句を漏らしたが、即座に平静を装う俺。
「待てよ。何でお前が見ている夢、って断言できるんだ? 俺が見てる夢かもしれないじゃないか。それなら俺が伝わらないって思えばお前の思考は伝わるわけがない」
 が、やっぱり冷静になっていなかった。この問いかけはハルヒの確信を決定的にしてしまうものでしかない。
「へぇ、じゃあキョンはあたしと二人きりになりたい夢を見てるんだー、へー、ふーん? で、あたしと二人きりで何したいの?」
 壮大な墓穴を掘った気分だ。ご丁寧にハルヒの奴、俺が見ている夢の中のハルヒとして演じてやがる。
「べ、別に……何をしようとかそういうことは……」
「いいわよ。あんたが夢の中だけで叶えられることをやろうとしても。でもさ、その時はちゃんと責任取ってくれるのよね? いちおー言っとくけど、今日は安全日じゃないから。それともそのスリルを楽しみたいってわけ?」
 セ、セリフは完全に夢の中じゃないと言わないハルヒだ。しかし、俺はこれが夢じゃないことを認識しているわけで、しかも(当然、ここには居ないけど)有希がという恋人がいるわけだから、当然、他の女とそういうことをするつもりはない。
 これでは行動に移せるはずがない。
「ほら、やっぱりあんたの見てる夢でもないじゃない。もし、あんたが見ている夢って確信があるなら躊躇わないんじゃない?」
 ぐ……決定的だ。これでハルヒはこれを現実だと認識しやがった……
「じゃあキョン! あたし、あの青い巨人を探してくる! あいつらが異世界人なんでしょ! 一緒に遊びたいのよ!」
 あ、こらハルヒ
 俺が止める間もなく、昼間の不機嫌もどこへやら、待ち望んでいた予約したおもちゃが届いた知らせを受けた子供が出掛けるような浮かれっぷりでハルヒは部室を飛び出していくのであった。
 実のところ、この時はまだまだ平和だったわけだが、俺は一つ懸案事項を抱えていた。
 それは、この世界からの脱出方法である。
 もちろん、俺はそれを知っているわけだが、何度も言うけど今の俺には長門有希という恋人がいるので、ハルヒが嫌とかじゃなくて、他の女子とキスするなんて真似は、例え有希が見ていないところでもするつもりはない。なぜなら前に何かの本で見た、ギャングになりたがる少年の面接官のセリフに「17世紀のフラーという神学者が『見えないところで友人のことを良く言っている人こそ信頼できる』と言った」というのがあって、それに感銘を受けたものだから、有希の信頼を裏切りたくない以上、当然の行動と言えよう。
 あの青白い巨人が出てくる前に、なんとかヒントを得ることができないかと、団長室のパソコンのスイッチを入れてみた。
 さすがは有希だ。俺の思惑と、次元を隔てているというのに的確に一致する。


YUKI.N>みえてる?


 ああ、もちろんだ。
YUKI.N>そっちの時空間とはまだ完全に連結を絶たれていない。でもすぐ閉じられる。そうなれば最後。だから早急な脱出を。
 とりあえず事情説明は前回と同じだな。前は末文の一節はなかったがまあいい。
『そのつもりなんだが方法はアレしかないのか?』
YUKI.N>……
 テキストでご丁寧に三点リーダ沈黙せんでくれ。
YUKI.N>それしかない。わたしは他の方法を提示できない。
 ――!!
YUKI.N>無いことはない。しかし、その方法はあなたもわたしも、そして誰しもが望まないこと。
『……てことは、ハルヒを抹消するってことか? さすがにそんな真似はできんぞ』
 というか返り討ちにあってしまう気すらする。
YUKI.N>その見解は正しい。もちろん推奨するつもりもない。わたしと涼宮ハルヒ、どちらを選ぶ?というレベルでもこれは度が過ぎている。
 ん? 何か引っかかる言い方だな?
 などと、ふと考えた俺のレスポンスを待つことなく有希が続けてきた。
 まあ、確かにこのやり取りできる時間もそうは長くない。前の時も結構短かったし、最後の方なんて文字化けが混ざっていたくらい通信しにくくなっていった。
YUKI.N>なお、古泉一樹がそちらに現れることはない。なぜならば、今回の閉鎖空間が世界の危機とは言えないから。それは情報統合思念体も、朝比奈みくるの所属する組織も同じ見解。ゆえに事情説明をしようとその世界に行きたがっている古泉一樹ではあるが、周りからは協力を拒まれている。
 ……俺に対する信頼ってやつか? ただ少なくとも有希の親玉は俺と有希のことを知っているはずなんだが、人の感情などそいつにしてみればチリの一つにもならんのかもしれん。
 などという俺の短絡的な考え方は吹き飛ばされることになる。
 俺にとって、いや俺と有希にとっては今回の閉鎖空間が前回以上に深刻なものであったことを痛感させられたからだ。
YUKI.N>ここで賭けを清算する。
『なんだって?』
YUKI.N>前のバレーボールの賭け。わたしが勝てばココ○チカレー食べ放題、あなたが勝てばわたしが一つであれば何でも言うことを聞く、というものだった。結果はあなたの勝ち。しかし、賭けの清算は為されていない。
『そうだったな。でも、それは俺がまだ何も考えていなかったからだし、今となってはどうでもいい。だいたい普段が俺の望みを有希に叶えてもらっているようなものだ』
 などと有希には見えないが慈しむ笑みを浮かべながらキーボードを叩いた俺だったのだが、伝わっているはずなのに有希はさらに続けてきたのである。
YUKI.N>命令して。
『どういう意味だ?』
YUKI.N>今回に限り、涼宮ハルヒと口づけを交わすことを見逃せと命令して。それでその空間からあなたは帰還できる。わたしはあなたの帰還を望んでいる。
 ――!!
 ゆ……有希……それは……!
『できるわけないだろう!』
 俺は迷わず打ち込んだ。
 当然だろ? 長門有希という恋人がいるのに他の女とキスなんてできるものか!
 などという憤然とした俺の思いは応えてくれた有希の言葉で百八十度転換して、一気に奈落の底に落とされた。

 
YUKI.N>あなたの気持ちは嬉しい。
    しかし、こちらの世界に回帰せず、その空間が新世界と成り変わった時、わたしは消滅する。
    涼宮ハルヒがSOS団存続を願っているとしても、そこにわたしはいない。


 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?!

YUKI.N涼宮ハルヒは、かの魔法使いを疎ましく感じ、今回の空間を創造したものと思われる。彼女は異世界有機生命体であるが故、わたし同様、涼宮ハルヒの意識外にある。よって新世界に誕生することはない。もっとも、彼女はわたしと違い消滅することなく、世界の入れ替わりと同時に発生する次元の狭間より、元の世界に回帰できると思われる。その理由は以前、あなたに話したこともある。
 じゃあ、どうしてお前は!?
YUKI.N>なぜなら涼宮ハルヒが目にしているのはもう一人のわたしだから。彼女の他にもう一人、長門有希がいるという想像はしていない。というより、あなたが話していない以上、するはずもない。だから、わたしは涼宮ハルヒに認識されていないことになる。
 なっ……!
YUKI.N>ゆえに同じく、仮にその空間がこちらの世界と入れ替わったとしても、もう一人のわたし、古泉一樹朝比奈みくると言ったSOS団関係者はこちらの世界同様の存在で新世界に誕生することができる、ではなく、こちらからやってくることができる。これが世界の危機と思われていない理由。
 ……!
YUKI.N>しかし涼宮ハルヒに認識されていないわたしが新世界に呼ばれることはない。先日の仮説が正しいとすれば、他のあらゆる存在は世界の根源に遺伝子情報として組み込まれ、そちらの世界誕生後と供に存在することができるが、反面、それに伴い、こちらの世界は滅びることになる。涼宮ハルヒに認識されていないわたしは遺伝子情報に組み込まれることなく取り残され、世界とともに消滅する。存在を賭す以外、仮説を否定する根拠がない以上、試行することさえ躊躇してしまう。
 俺の心を、倒壊するビルのように崩れ落ちながら破壊した報告に、俺は言葉を失っていた。ただ茫然と画面を見やるしかできなくなって、有希も俺の心情を察しているのだろう、俺のレスポンスを待たずに次々とテキストをリロードさせる。
YUKI.N>だから命令して。一度だけ他の女と口づけすることを見逃せと。そうすればわたしは消滅することなくあなたの傍にいられる。
 無機質なテキスト文字だというのに、どこか弱々しさ感じるのは気のせいではないだろう。俺には有希が偲び難きを耐えながらタイプしているようにすら感じられるんだ。
 しかもご丁寧に文字が薄れてきた。弱々しくカーソルはやけにゆっくりと文字を生みやがる。
YUKI.N>また、あなたの肩に
 有希!


YUKI.N>Sleeping beauty


 以前、見たスペルを刻んだ後、静かに文字は消え、ダークアウトした画面が広がるのみ。
 ……どうしろってんだよ……有希……
 俺はうなだれて団長席の椅子にもたれるしかできない。
 最悪だ。最悪の状況だ。
 この閉鎖空間の意味がそこまで深刻だなんて思いもしなかった。
 これなら無理矢理にでも若葉さんをハルヒのところに寝泊まりさせるべきだった。
 よく考えてみれば、寝泊まりまで一緒にする必要はなかったんだ。
 学校、団活、休日のパトロール
 いくらでも一緒にいられる。寝てる時間を除けば一緒にいる時間はかなり多い。四六時中一緒にいる意味なんてない。
 どうして俺は気付かなかった。
 これは俺の所為だ。俺の所為で有希を失おうとしているなんて俺は大馬鹿野郎だ。
 何がずっと一緒にいてやるだ。何が有希を守ってやるだ。
 今の俺はどっちもできていないじゃないか!
 くそ……自己嫌悪なんてレベルじゃない……俺は……俺は……
 などと自分を責め立てる俺の背後から、
 ……やっぱり出てきやがった……
 振り向かなくても分かる。
 部室が青白い光に包まれたからな。
 どうする……
 光が差してきたってのに、俺の心は深い深い海溝の奥に沈む沈没船のように行き場のない暗闇に押しつぶされそうになっていた。
キョン! やっぱ出た!」
 当然、ハルヒも飛びこんでくる。
「ホント、いつ見てもおっきいわ! あの手に乗って孫悟空ごっことかしたくならない!?」
 それは意味が違う。あれは暴れん坊の孫悟空がいい気になって走り回っていたら、そこはもっと絶対的な存在である仏陀の掌でしかなかった、って戒めだ。
 というか、お前も知っているはずだ! とにかく外に出るぞ!
「ちょ、ちょっとキョン!」
 ハルヒの抗議を無視して手を握り、部室を飛び出す俺たち。
 同時に背後から破壊音による地響きが俺たちを床に転ばせる!
「そうね。確かにここにいたらコンタクトの前に、校舎ごと壊されてしまうかもしれないわ」
「そうだ」
 言って、俺たちは再び走りだす。
「わぁ……」
 グランドまでの道すがら、何度か、ハルヒの恍惚のため息が聞こえてきた。おそらくはサンタクロースに会った子供のような顔をしていることだろう。
 しかし、逆に俺は暗澹たる思いに支配されていた。
 なんと言っても、このまま巨人を放置するということは有希との決別を意味するわけで、だからと言ってハルヒを……という訳にもいかんし、答えを見いだせない深淵の底なし沼に引きずり込まれているような自問自答という同道巡りを繰返すのみである。
 マジでどうすればいい。
 あの巨人が周りを破壊すればそれは新世界が拡張され、やがて前の世界と入れ替わると古泉は言った。
 新世界誕生は、前の世界の情報を集約した新しい並行世界の根源を生み出すものと有希は言った。
 確かに前のときと違い、ハルヒは変わっている。だとするならば、おそらく、SOS団の面々とその関係者たちは前の世界の記憶を持ったままこちらの世界に呼ばれることだろう。それは断言してもいい。有希のお墨付きだからな。
 だが、そこに有希はいないんだ。ハルヒに認識されていない有希は根源の情報に組み込まれることがないからだ。ハルヒはともかく、俺にとってはそれでは意味がない。
 かと言って、ハルヒは自分の力のことを知らないのだからハルヒの責任でもない。
 ハルヒにはいずれ、俺と有希のことを話さなきゃいけない時が来る。
 もっとも、それは今じゃない。先延ばしとかじゃないぜ。今の有希をハルヒは知らないし、有希自身のことを説明するわけにはいかないからだ。
 ハルヒはその時、どういう態度を見せるだろうか。思いっきり俺を罵倒するのか、それとも泣き出すのか。
 どっちにしろ、俺はその時、ハルヒを深く傷つけることになることだけは確かだ。その時までにハルヒが俺に代わる誰かを見つけいなければ、な。
 見つけていれば祝福してくれるかもしれん。できればそうありたいが今のまま推移すると仮定しておく必要はあるだろう。
 俺だってそこまで馬鹿じゃない。今のあいつの気持ちには気づいている。なんせ二度目の招待だぞ。世界誕生までは誰も来ることができないこの空間に呼ばれたのは。
 だからこそ、今、これ以上、ハルヒとの関係を深めるわけにはいかない。あいつに期待させちゃいけないんだ。
 それはハルヒの傷を深くするだけじゃなく、有希の心にも影を落とすからだ。
 だが、どうすればいいんだ?
 この世界から脱出するためにはハルヒとキスするしかない。前の俺ならともかく、今の俺はそう簡単に実行できるわけがない。
 くそったれ……
 どこか呆けたような羨望のまなざしで青白く光る巨人を眺めていたハルヒだったが。
「ねえキョン
 不意に俺に呼び掛ける。
「何だ?」
 あの時は『何なんだろう、この世界も、あの巨人も』だったわけだが、
キョンは元の世界に戻りたいと思ってる?」
 ――!!
 予想外のセリフだった。てっきりハルヒのことだから、こっちの世界がいいとか言い出すと思っていた。
 と言うか……
 な、なんだ、その上目づかいで懇願するような瞳は!? というか何で俺の考えていることが分かった!?
「だって、前に同じことがあった時、キョンは元の世界に戻りたいって言ってたし、色々、あたしに元の世界の良さを力説してくれたじゃない。あの時は、あんまり理解できなかったけど、今は違うわ。キョンが何を言いたかったのか、おぼろけながら解った気がしてるから」
 言いながら、ハルヒが両手を俺の肩に乗せてくる。
 ま、待て……
「何うろたえてるのよ。もう解っているんでしょ? この世界から元の世界に戻るためにはどうすればいいか。まあ、戻っちゃったら、また夢だった、なんて思ったりしてしまうかもしんないけどね」
 ならどうしてお前は『夢』を引き摺っているんだよ!?
 などと言えるはずもなく、俺は別の言葉を探しながらハルヒのセリフを聞いているしかできない。
「こんな状態になって、あたしは新しい自分を発見した。あたしは今の暮らしが結構好きみたい。あたしがいてあんたがいて、有希、古泉くん、みくるちゃんがいるSOS団が、涼子も鶴屋さんも阪中ちゃんも妹ちゃんも佐々木さんも国木田も。アホの谷口やいけすかない生徒会長の奴をそこに含めてもいい」
 ああ、確かにお前は変わった。そりゃ俺のセリフだったからな。ついでに俺の時よりも人数が増えてやがる。それだけお前が周りと関係を持つようになった証だ。しかも随分といい笑顔で言っているんだ。それだけでもハルヒの気持ちは解るってもんだ。
「だからさ、今回は特別。勘違いしないでよ。元の世界に戻るためのおまじないなんだから」
 その割にはまんざらでもなさそうな顔してるな。そんなに俺とキスするのが嬉しいのか?
「そうかもね」
 うわ、んなセリフ、ハルヒじゃねえ! いつものハルヒなら「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ! こ、これはそう! 仕方ないことなのよ! 仕方ないこと!」とかツンデレ全開で、取り乱しそうなものなのに、どうしちまったんだ!?
「ふふっ、こんなあたしもいいんじゃない?」
 ダメだ……雰囲気に負けそうだよママン……
 ハルヒが瞳を伏せ、少し開き気味にした唇とともにゆっくりと顔を近づけてくる。
 有希……スマン……戻ったらココ○チカレー食い放題の刑でいいぞ……それとお前に顔が変形するまで殴られたっていい……
 などと有希に謝罪の言葉を頭の中で並べつつ、俺も観念して瞳を伏せそうになって――


 いきなり発生する、まるでこの灰色の閉鎖空間の闇と今の雰囲気を打ち払うかのような光!


 この時ばかりは今回のお話を作った奴が普段の作者ではなかったことを心の底から感謝した。
 例え俺以外にはKYだと罵られようとも俺だけはあいつを褒めてやってもいい。なぜなら、あいつはこういう甘い話を書こうとすると体が拒否反応を起こす奴だからだ。それが今の俺の窮地を救ったんだ。
 いやまあ……普段の作者でもまさか、このシリーズで俺とハルヒのキスシーンなんて作るとは思えんが……
 って、いったい俺は誰に何を言っているんだ?
 という訳で、もちろん、その光は俺だけでなく、ハルヒも正気に戻す。
「な、なに!?」
 さっきまでのしおらしい雰囲気もどこへやら、突如の展開にハルヒも視線を光へと向けたんだ。
 そこに現れたのは――
「あれ……? 何で私……」
 そう、今は北高セーラー服を纏っているが中学生にしか見えない後ろ姿の若葉さんだったのである。