『SS』 月は確かにそこにある 34

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 喜緑さんのマンションを飛び出した俺は闇雲に走り出した訳ではない。要は今までと同じだ、少なくとも俺の知らない範疇にいないだろうと期待しているだけなのだが。
 しかし自信が無いわけでもない。何故ならば俺がここにいるという事は俺に何らかの役目があるという事であり、俺は俺の知る範囲でしか行動出来ないのだから。だから古泉一姫は近くに居る、俺が行ける範囲に必ずいるはずなんだ。だが一体何処にいるんだ、古泉は? ヒントは、何かあるはずだ、思い出せ! 走りながら頭の中身をフル回転させる。それでなくても酸素が不足してるのに回想なんか出来るかよ。などと文句を言いながらも足を止める訳にもいかない。
 俺と古泉が共通の思い出を持つ場所、それもSOS団とは係わりの無い場所のはずだ。そんな場所が多くは無いが確かに存在する、それも古泉の強烈な思い出の中には。
 思い出すんだ、古泉が俺に何を言ったのか。そしてそれは何処だったのかを。即ち古泉の中での重要な場所を見つけるということだ。
 ハルヒなら校庭のグラウンドだった。朝比奈さんはあの川べりのベンチだろう。長門の場合はマンションの部屋だ。それぞれが自分の記憶の中で重要な箇所なのだろう、それに俺が偶然なのか必然なのか係わっている。そして古泉の場合は?
 考えられる箇所はいくつかある、例えば合宿時の孤島などがそうだがこれは俺の行ける範囲ではないので消去だ。残る場所でSOS団が係わっていないのは、
「…………まあ安易だが間違いないだろうな」
 俺は坂道を登りながら確信に近い気持ちだった。まったく、これで今日は何度ここを登ってるんだ。あいつもそう思いながらここを歩いたのだろうか、俺よりも遥かに華奢になったあの体で。
 





 北高の校門は閉まっていた。当然だろう、もうとっくに夜、それも深夜に近い時刻だ。周囲を見ても人の気配もしない、不気味なくらいに静かだった。
 かといって正面から乗り込んでも万が一見つかるとまずい。少しだけ遠回りだが裏に回ると壁を乗り越えた。別におかしくはない、二年近くもこの学校に来ていれば抜け道の一つや二つは把握してしまうのだ。特に俺の所属する団体の団長はこういうのを好んで探したがるしな、覚えていても使う事はないだろうと思っていたがSOS団にいて初めて有効な情報があったと言うべきか。
 セキュリティの心配もあったのだが、それを言うなら先にいるはずのあいつもまずい状況のはずなのに何も無い事から何らかの力が働いていると考えた方がいいだろう。なので警備の見回りだけを用心しながら俺は校内を歩いている。ここでの目的地は三ヶ所、SOS団の部室と生徒会室、後一ヶ所。
 その内の文芸部室はSOS団としての活動が主なので無いだろう。生徒会室はさっき使ったし俺と重要な話をしたという訳ではない(会長の正体などはハルヒの為の芝居であってそれは『機関』としての任務だ)。では残る場所は一つしかない。
 俺が初めて古泉一樹という人物とまともな会話をした場所、そしてあいつが自分が超能力者だと告白した重要な起点。
 北校の中庭に着いた時に俺は自分の予想が正しいことを知ったのだった。
「……よく分かりましたね」
 お前も案外単純だからな。それに大事な話を軽くやってのけたつもりだろうけど俺はあの時うんざりしながらお前の話にショックを受けてたんだぜ。
「そうですね、順番的には私が一番最後でしたから」
 まったくだ、タチの悪い冗談も大概にしろと思ったもんさ。まだ俺はそういうのを信じられなかったしな、おまけにハルヒを神扱いなんて頭を疑うだけだろ。
 俺はそう言いながらベンチに座る。正面の古泉一姫は笑顔で肩をすくめた、その姿が嫌に様になっている。たとえ女であっても絵になる奴なのは間違いないんだ、古泉ってやつは。
「はい、どうぞ」
 古泉は俺の目の前に紙コップを差し出した。白い湯気が上がるそれはつい先程買ってきたようだ。何だ?
「コーヒーですよ。言ったじゃないですか、今度奢るって」
 それを今やるのかよ。とはいえ走ってきたから喉も渇いていたので黙って飲む。それを古泉は嬉しそうに見つめていた。
 空になったコップを置き、一息ついたところで俺はふと沈黙した。一体何を言えばいい? 古泉はエンターキーを押さずに逃げようとした、それは何故だ? 感情的になろうとする心を抑えて問い質さないといけない、真実を知らねば何も先に進まないんだ。
 そこで話を切り出そうとした俺を制するように古泉の方が先に口を開いた。
「あなたが無事で良かったです、涼宮さんには申し訳無いとは思いましたけどあの場面では仕方なかったですから」
「やっぱり喜緑さんと一緒に俺を助けにきたのはお前か」
 古泉は静かに頷いた。流石の喜緑さんも閉鎖空間に単独で侵入出来るはずはないので(長門が無理で喜緑さんには可能だとは思えなかった)こいつの力が必要だろうとは思っていたが改めて本人が認めるとなると言いたい事は山のようにある。
ハルヒはどうなったんだ?」
「簡単に言えば普通の閉鎖空間と同じです。神人を倒せば空間は消える、今回はそれが長門さんの形状を模していたという点だけが異なっていましたが別段長門さん本来の能力があった訳ではないので私と喜緑さんで制圧は充分可能でした」
「あの長門は神人だったというのか?」
「あなたも気付いていたはずです、このような事態は稀であるとはいえ無かった訳でもありません」
心当たりが無いとは言えない俺は黙るしかなかった。神人が人間の形態を取ったのは初めてではないからだ。ただそれが長門の姿だったというのが心に痛い。
「お前は抵抗は無かったのか、神人とはいえ長門と戦う事に」
「抵抗が無かったと思いますか? 私や喜緑江美里に」
苦笑する古泉を信じるしかないだろう、無いはずは無いと信じたい。それでも言いたいことはまだあるんだ、俺は次の質問をぶつける。
「何故その後行方を眩ませた? 喜緑さんですら探知出来ないなんてありえないだろ」
「その答えはあなたならば気付きそうなものですけどね。だからこそ此処にあなたはいる」
上手くはぐらかされた。確かに正解と言えるものに俺は近づいている、だが認める為にはこいつ自身の言動が必要なのだ。俺は矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「何故エンターキーを押さなかった?」
その瞬間、笑顔だった古泉一姫の表情が変わった。
「あれは俺の為に用意されたものじゃない。この世界から抜け出す選択権を持っていたのはお前だ、古泉。それを俺は勘違いして自分が選択するものだと思い込んでいた。だがお前は気付いていたはずだ、あのメッセージは自分の為に用意されていたものだと」
もう古泉は俺を見ていない、項垂れて下を見つめている。やはり分かっていたのか、あのパソコンのメッセージは自分に向けてのものだったということを。
「それなのに何で逃げたんだ? 分かってるはずだ、俺達は帰らなきゃならないって事を。喜緑さんはお前に会えばまだチャンスがあると言っていた。もうお前に賭けるしかないんだ、頼む古泉!」
言いたいことはあるが、それも戻ってからでいい。今はこの世界から脱出するのを優先する、だからこそ俺は古泉に頭を下げた。
「…………」
沈黙が続き、やがて古泉が顔を上げた。その時の古泉一姫の表情を俺は忘れないだろう。それは優しくも儚げで。



何よりも美しい笑顔だった。



古泉は立ち上がると静かに天を仰いだ。
「月が、綺麗ですね」
見上げた天空には深々と降り注ぐ月光。月は確かに光り輝いていた。静かに、そして孤独に。
「でもあの光は太陽の反射を受けて輝いているに過ぎません、月はそこにあるにも関わらず太陽が無ければ存在しないかの如くね」
月を見上げたまま、古泉は皮肉を言うように自嘲した。俺は何も言えなかった、突然脈絡の無い話を始めた古泉を黙って見ているしかなかった。
「けれど月は確かにそこにある。自らのものではないとはいえ輝いてすらいる、それを私達は知っている」
もういい、限界だ。こいつが何を言いたいのか分からないが俺が訊きたい事とは違う、はぐらかすつもりなら今度こそ容赦はしない。
「おい、古泉! いい加減に、」
「……私もそうだから」
怒鳴り声を上げようとした俺は再び動きを止めてしまった。古泉は静かに、自らの痛みを曝け出すように語り続ける。
「元の世界に戻らねばならない、それは充分理解しています。古泉一樹はそう思っているんです。でも、私は、古泉一姫は違う」
月を見上げたままの古泉の表情は見えない。けれど声は何事も無かったように静かだった。
「気付いてましたか? 私はもう『私』としか自分の事を呼べないんです。『私』が『僕』だったなんて思えない、思いたくもないんですよ」
そう言われていつの間にか古泉の呼称に慣れてしまっていた自分に気付く。そうだ、男である古泉が『私』という事にに不快感さえ持っていたじゃないか。それが何故普通に感じるようになっていったんだ?
「涼宮さんは願いました、それは些細な望みでした」
ハルヒの願い? それは何だ?
「今のあなたならば分かるはずです。それは本当にささやかな、女性らしい願いなのですから」
ああ、何となくだがな。だがそれはこんなに回りくどい手段を使うものじゃない、それは元の世界に戻ったら言わなきゃならないだろうな。
「あなたらしいですね」
何とでも言え、だからこそ俺は何があっても戻らなくてはならないんだからな。しかし古泉は話を止めようとはしない。
「そして古泉一樹も願いました。それもまたささやかな願いだったのです」
お前がか?! それは何だ、一体何を願ったって言うんだ?
「………………月は、そこにあると言いたかったのです。太陽が無くとも確かにそこに存在する、月はそう言いたかったんですよ」
月? お前は自分が月だと言いたいのか? しかし古泉はそれには答えなかった。
「けれど私は違う。私は、太陽になりたかった」
声が、震えた。
「誰かの輝きでしかそこに存在出来ない、そんなものになりたくは無かった! たとえ古泉一樹の意思とは違っても私はそうなりたい! 私は、あなたの太陽になりたいんです…………」
太陽? 月? その時俺の脳裏に浮かんだものは。
太陽のような笑顔のハルヒ
静かな微笑みを絶やさない古泉。
お前は、ハルヒになりたいというのか。いや、俺にとっての太陽とは何だ? それは輝く笑顔だけではない、俺にとっての太陽とは……
「だから私はここにいる。月のように、確かにここにいるんです。けれど私は自分が輝きたい、あなたの為に。あなたにとっての太陽のような存在になりたいんです」
天を見上げていた古泉がゆっくりと顔を下ろした。
その瞳から大粒の涙を流して。
そして彼女は泣きながら笑顔でこう言ったんだ。



「私は、あなたが好きなのです。誰よりも、何よりもあなたの事が好きなのです。心から…………愛しています」
古泉一姫は涙を流しながら、精一杯の笑顔で。
俺に好きだと告白したのだった。