『SS』 月は確かにそこにある 32

前回はこちら

 次に俺が目覚めた時、一人きりだったのは仕方ないのかもしれない。ここはどこだ? よく見れば見慣れた光景、ここはSOS団の部室だ。ただし俺の知る世界のものかどうかは分からない。不安だらけだが慣れというものは恐ろしく、俺は立ち上がって自分の体を気遣う余裕すらあった。
 節々が痛むが大きな怪我などはしていないようだ、それを確認すると次はどうするかを考える。落ち着け、これは過去問なんだ。もしもこの世界があの時と同じならば。
「………………全然違うじゃねえか」
 愕然と膝を落とすしかなくなる。まず朝比奈さんが居ない、それはここが過去なのか未来なのかも分からないということだ。それに過去だとした場合、誰を頼ればいいんだ? 少なくとも長門には話せない、話したところで無駄足だろう。
 何よりも問題は、ここに居るべき人間が居ないということなのだ。そう、古泉が居ないということを。
 どうなってるんだ、まったく情勢が掴めない。俺が意識を失う寸前に喜緑さんが叫んだ言葉。俺の役目じゃない? では誰がエンターキーを押すべきだったんだ? 
 その答えはここにいないあいつが知っている、古泉一樹、いや古泉一姫だけが。
「くそっ!」
 思い切り膝を叩き、再び立ち上がる。何てタチの悪い鬼ごっこだ、それも原因不明ときた。
「やれやれだ、この貸しはでかいからな」
 ハルヒだけが原因ではない、それは理解した。だが古泉の意図が見えない、もしもこの世界が古泉の意思だというのならば何故なんだ。あの時の長門と同じなのか? だとしても何故古泉なんだ?
頼れる者は誰も居ない、ヒントは出尽くした、答え合わせを俺が間違ったということなのか? 何もかもが分からないが分かっている事が一つある。古泉を見つけなきゃならないって事だけが、この世界から俺が抜け出せる唯一の手段だって事だ。
まずは現状把握だ、とりあえず目に付いたパソコンのスイッチを入れるが応答が無い。
「どういうことだ?」
電源のプラグは刺さっている、電気が来ていないのか? 急いで電灯のスイッチを入れても点かない。
「まさか?!」
窓の外を見て愕然とした。そこは俺の良く知る北校でありながら、まったく別のものだった。しかもそれすらも俺は知っている。
「よりによってここかよ…………」
そう、全てが灰色に包まれた世界。ここは閉鎖空間だ、最初に気付くべきだったぜ。
「くそっ!」
悪態をついて座り込む。最悪の状況だ、古泉とはぐれた挙句に閉鎖空間への招待とは。ここじゃ本当に俺には何も出来ない、誰も居ない状況では。と、ここで俺はある事に気付き立ち上がる。
ハルヒハルヒは何所だ?!」
何故俺だけが閉鎖空間に居る? もしもここが閉鎖空間ならば、以前と同じならば俺と共にハルヒが居るはずだ。いや、今回の件はハルヒに原因の一端があるのなら居なくてはおかしい。
ただハルヒが傍に居なかった事だけが謎だ、それともハルヒは居ないのか? だとすれば俺は何故ここにいる? 冷静に考えろ、ここが閉鎖空間だったらもうすぐ神人が現れるはずだ。そうなれば古泉がやって来て…………
おかしい、矛盾だらけだ。ここが閉鎖空間なら古泉が出てくる。だがその古泉はあのエンターキーを押した時から行方不明だ。そのエンターキーを押す役目は俺じゃなかった。そして閉鎖空間。
「あーっ! 訳わかんねえぞ、チクショウ!」
叫んだ時には走り出していた。とにかく動かないことには始まりそうも無い、まずはハルヒ、もしくは古泉を見つけ出さないと! 部室を飛び出した俺は真っ先に階段を駆け下りた。行き先は一つしかない、俺自身の記憶を頼りにするならば。






一気に走ったツケで肩で息をしながらたどり着いたのはグラウンドだった。あの時、俺はハルヒの手を引いてこのグラウンドのど真ん中に立っていた、それしかもう思い浮かばなかったからだ。
見れば中央に誰かが立っている、ハルヒか?! 何だって今回は別々に居たんだよ、俺は重くなった足を引きずるように近づく。
「おい、ハル…………」
そこで俺は言葉を失った。そこには居てはならない人物がいたからだ。
「な、なんでお前が……?」
「…………」
冷静、いや冷酷な黒い瞳が俺を射抜く。ハルヒよりも小柄なショートカットの無口な少女が、まるで約束されたかのように俺を待ち受けていた。
「な、長門か………何でここに?」
考えられない、ここは閉鎖空間のはずだ。あの長門の能力を持ってしても進入は不可能だった、パソコンでメッセージを送るのが精一杯だったはずなんだ。それが何故ここに立っている?!
しかし長門は俺の問いには答えず、静かに口を開いた。その声は暗く、初めて出会った時よりも重く俺に響く。
涼宮ハルヒは失望している。『鍵』は『鍵』と成り得なかった」
 その背後にぼんやりと浮かぶ人影。あれはハルヒか?! だがハルヒに駆け寄ろうとする俺の目の前に長門が立ち塞がる。その迫力の前に俺は動けなくなった。
 長門は静かに言葉を続ける。
涼宮ハルヒは変化を望み、その願いは叶えられなかった。全ては『鍵』が移ろうた故の事態、わたしは、」
 気付いた時には長門の顔が俺の真下にあった。何時の間に懐に潜り込まれたんだ? たじろぐ俺が後ずさる間も無く、
「世界を正す。それがわたしの居る理由」
 長門の体が青白く光る。この光は、まるで神じ……
「ぐうっ?!」
 腹部が燃える様に熱い、意識した瞬間に鋭い痛みが後を追ってくる。なに、が、見れば俺の腹からナイフの柄が生えていて。
「がはあっ!」
 強烈な嘔吐感に吐き出すと赤黒い塊のようなものが俺の口から飛び出す。血だ、口の中が生臭い。痛みに耐え切れず膝から崩れ落ちた。地面の感触が頬にめり込むようだったが最早動く事など出来ない。
「なが……な……で………」
 冷徹な目で俺を見下ろす長門の顔には何も表情が浮かんでいない。出会った頃とも違う、俺を何とも思わない人形のような瞳。
 思い出される忌まわしい記憶。そうだ、エンターキーを押した俺は飛ばされた世界で。
 突き刺されたナイフ。
 あの委員長の瞳も今の長門と同じだった。
 そして朝倉が長門を守ろうとしたように、長門ハルヒを守るというのか。俺の存在を消す事によって。
「ハル……ヒ…………」
 最後の力を振り絞るように手を伸ばす。
 聞いてくれ、俺はまだお前から何も肝心な言葉を聞いていないんだ。そして俺も何も言えないままなんだ。俺達は何も伝えられないまま誤解を繰り返した、たったそれだけのはずなのに。
 霞む視界、伸ばした手の先にいたハルヒが振り返った。
 それは俺の知っている涼宮ハルヒではなかった。暗く、光のない瞳。何も見ていないその顔には生気というものが感じられない。これがあのハルヒだって言うのか……
「あ…………」
 ハルヒが去ろうとしている。何も言わないままで、俺の話を聞こうともせずに。声を出そうとしても苦しげな呼吸音しか出なくなっている、喉が焼けるように熱い。
 最低だ、誰も俺に自分の心を見せないままで俺だけが何も出来ずにここで死ぬのか? これがハルヒの、世界の望みだっていうなら理不尽にも程がある。
 虚しく伸ばした手が細かく震え、段々と力が抜けてくる。チクショウ、お前らのせいで俺は何回死にかければいいんだ! 
「があッ!」
 最後の力で立ち上がったが、長門が俺を地面に叩き伏せた。もう痛みが色々なところから起こりすぎて意識が混濁している、
「ハ………ル……」
 それでもハルヒに何か言おうと、俺の口は開こうとした。だが、
「………キョンのバカ。あたしの事なんか見てもくれなかったじゃない、だからもういい」
 ハルヒが小さく呟き、長門の手に力が入る。俺の頭が地面にめり込み、腹は痛みを通り越して下半身が痺れている。
 もう、駄目か。
 よく持ったよ、出血のせいか目の前はもう暗くなっている。地面の感触も痺れて感覚が無くなっている、これで終わりか。
 失いつつある意識の片隅で、俺は何もかもどうでもよくなった。何なんだよ、結局振り回されて殺されてって。しかも大事な事は何も言えないままで。
 いいや、もう。世界なんか滅びちまって構わない、どうせここで俺は死ぬ。








 その時、閉鎖空間に大音量が響いた。空間が裂け、俺の頭を押さえていた長門が吹き飛ばされる。
「遅くなりました、ご無事とはいかないでしょうけど我慢してください」
 誰かの声が聞こえる。
「すいません、私…………」
 誰だ? 女の声がする。
長門さんの形状とは悪趣味ですが遠慮はしません! まずは空間の制御に入ります、あなたは涼宮さんを!」
 鋭い声が飛び、激突音が響いたが俺は顔を上げる力すらなかった。何が起きてるんだ、ここはハルヒの閉鎖空間のはずだろ。こんなに侵入者があるなんて考えられない。
 というか、考える事なんかもう出来ない。意識がさっきから無くなっては声で起こされてるような感じだ。
「何よっ! 何なのよ、あんたはっ?! あたしは、あたしはキョンに、」
「それは私だって!」
 ハルヒと誰かが叫んでいる。
 だからお前ら、俺の話を聞けよ。俺はお前らに何も言ってないだろうが。ああ、何となくだけど分かってきた。頭がぼーっとするけど、お前らが間違ってるのは分かってきたぞ。
 それを言いたいが、俺はもう声も出せなくなっている。腹から下の感覚はもう無く、体全体が冷たくなってきたようだ。



 周囲から爆発音すら聞こえてきたのだが、俺の意識は暗く閉ざされていった。