『SS』 幸せ家族計画! 2 その1

 ふと、目を開けてみた。まだまどろみの中で溺れていたいような衝動に駆られつつある脳内にも先程まであったはずの腕の中の温もりが消えてからしばらく経ってしまっていることに気付いてしまったからだった。
 あぁ、何だろうか。腕全体、体の全てで包み込んでいたはずなのにすり抜けるようにいなくなった影を追うように首を動かしてみる。まだ覚めやらぬ視線の先には閉じられたドアがあり、静かな室内に俺一人だという実感だけが沸いてきた。物音一つ立てず、気配すらも感じさせないままに部屋を出ることの出来るあいつの能力の高さには敬服するが、起こしてくれても良かったのにと思わなくも無い。この起き抜けの喪失感に近い寂しさはどうにも表現出来ないからな。
 何時からだろう、あいつの存在が俺の中で大きく膨らみ、そしてそれは俺の全てとなっていった。いつもあいつは俺の事を考えてくれていた、気付かなかった俺が馬鹿だったんだ。
 そして、あいつの気持ちに気付いた時。俺の中で何かが大きく膨らみ、それはあいつへの愛情という形で散華した。あの時の抱きしめた温もりと、小さく囁いた愛の言葉を俺は生涯忘れない。そんなあいつが今目の前にいない。それはとてもとても寂しい事なのだ。
 気付けばうっすらと頬に何か伝わる気配がある。俺も年を取ったのだろうか、涙脆くなったのかもしれない。しかし寂寥感は止められないのだ、思わず手を伸ばす。すると、
「こーのバカオヤジ! さっさと起きなさーい!」
 という大声と共に腹部に強烈な加重がかかったのである。ぐおっ! 息が出来ん! 見事に急所に入ったその一撃は本当に俺を孤独の世界へと旅立たせんとするような威力だった。
「ハ、ハルヒ…………お前、もう少し優しくだな……」
「ちゃんと声はかけたもん! なのにお父さんはキョロキョロして泣き出すし」
 うっ! そう言われると何も言えない。というか娘の前で涙を流すとは。
「お父さん結構泣いてるよ? どうせあたしのことなんかほったらかしだけど!」
 あ、キレた。枕を顔面に投げられる。ボフッと間抜けな音を立ててヒットした枕がずり落ちると、「フンッ!」とおかんむりの娘が大きな足音を立てて寝室を去っていくところだった。
 やれやれ、こいつは俺が悪いよな? 仕方ないので急いで起きてから背後から娘に抱きついてみる。
「悪かったハルヒ、ちゃんと起きたから許してくれよ」
「…………ヒゲ痛い」
 あれ? そうか? 俺は結構薄いほうだからそんなに気にはならないと思ってたんだが。それにあいつは構わずにいつも俺の頬に頬ずりしてくれるぞ。それがまた懐いてるようで可愛くてだな、
「あーもうっ! 朝っぱらからノロケるなっ! いいから顔を洗ってきなさい、お母さん待ってるわよ!」
 いかん、待たせるなんて出来るか! ということでハルヒに洗面所に放り込まれた俺は急いで顔を洗ってヒゲを剃ると(娘に言われると気になるよな)ダイニングへと駆け込む。休日の朝だというのに慌しい事この上ないな、まあ娘がうるさいので仕方ないとはいえ。
 それに俺が一分一秒たりとはいえ離れがたいのだ、朝食の用意をしてくれているのを分かりながらも目覚めた時に傍にいない事を不安に思うほどに。
 タオルで顔を拭いてすっきりしたところでダイニングに行けばそこには、
「おっそーい! 早くしてよね、もうお腹ぺこぺこなんだから!」
 とアヒルのような口で不満を述べる娘がいて。悪かったと謝りながら席に着けばキッチンから良い香りが漂っているのが分かる。そしてそこには俺の愛する人がいる。
「…………おはよう」
 朝早くから朝食の用意をしてくれていたのにいつもどおりに。俺の妻、旧姓長門有希は見た目は無表情に俺達に挨拶をしてくれた。
「ああ、おはよう有希。今日もエプロン姿がよく似合うぞ」
 一緒に暮らしだして最初の頃に買ってやったエプロンを今でも大事に使ってくれている。何度も買い換えようと言ったのだが、『あなたのくれたものだから』と言ってくれるのだ。しかも有希の家事が完璧なのか、何年も前のエプロンが汚れも綻びもなく今も現役である。そんなエプロン姿の有希を褒めずにして何を褒めろというのだろう。
「ありがとう。あなたもヒゲがないほうがいい。無論あっても構わない、あなただから」
 そうか、顔を洗ってきて正解だったな。この言い方ならばヒゲはない方がいいらしい。などと言っていると向かいの席から咳払いが。
「あのねえ、朝っぱらからバカ夫婦なのはいいけど朝ご飯食べたいんだけど」
 はいはい、実の娘にバカ夫婦扱いされるのもどうかと思いながらもこれ以上ハルヒの機嫌を損ねてもいけないので有希も大人しく用意に向かった。
「まったく、あたしじゃなかったらとっくにグレてると思うのよね」
 そうかな? 俺としてはごく普通に有希には接しているつもりだが。
「それがバカ夫婦だって言うの!」
 そうなのか。だが自重しない。とか言ってハルヒに睨まれていたら、
「お待たせ」
 ということで朝食となった。白いご飯に焼き魚、浅漬けと味噌汁、それと玉子焼き。典型的な日本の朝食だな、有希はこういうところは拘るタイプで、特に朝食を取らないことを嫌がる傾向がある。「あなたの健康状態を考慮すれば当然」などと言われれば仕事が遅刻寸前であろうと食べない訳にはいかないだろう? 実際は有希のスケジュール管理により遅刻したことなどないのだが。それに今日は休日なのでゆっくりとしてるし。
 自分の分まで用意した有希は急須から緑茶を注ぎながら、
「納豆は?」
「あ、あたしパス」
 俺は貰うことにするよ。納豆のパックを受け取ると黙っていても刻み葱が出てくる。多めに葱を入れて混ぜてから醤油、もう一回混ぜてご飯の上に。ちなみに有希は醤油さえあまり入れないシンプル派である。
「「「いただきます」」」
 三人で声を揃えて手を合わせる。休日の時の食事のルールだ、いつもはハルヒの学校や俺の仕事で有希は最後に食事してるから寂しい思いをさせているしな。
「それで今日はどうするんだ?」
 綺麗に身が解れる絶妙な焼き加減の焼き魚を食べながらハルヒに訊いてみる。さっき時計を見た限りでは休日にしては早めの起床だ、何かあるとすれば元気の塊である我が娘しかいないだろう。
 するとハルヒはニヤッと笑う。いかん、これは企んだ時の顔だ。
「へへ〜、実はね〜」
 ん? 有希と顔を見合わせたということは、俺にだけ内緒だったということかよ。そんな寂しいお父さんに娘は満面の笑顔で、
「動物園に行きましょう!」
 高らかに宣言したのである。
「動物園? まあ近いと言えば近いけど何も用意してないだろ。弁当とかはどうすんだ、行きがけに買うのか?」
「問題ない、準備している」
 なんと、どうやら有希とハルヒは早いうちから打ち合わせていたようなのだ。いつの間に、というかお父さんちょっと仲間外れみたいで悲しいなあ。
「だってお父さんいっつも疲れたって言ってるじゃない、だからお母さんと話しただけだもん」
 そう言われてしまうと辛いとこがあるな。それにしても有希も教えてくれたっていいじゃないか。
「あなたを驚かせたかった。ダメ?」
 いや、小首を傾げられても。ダメだって言えないの知っててやってるだろ。俺は溜息をついて我が家の女性陣に降伏するしかなかった。
「分かった、ご飯を食べたら着替えろよ」
 イエーイ、とハイタッチを交わすハルヒと有希を見て、まあいいかと湯飲みを傾ける俺なのだった。
「大丈夫、お弁当にはあなたの好物の唐揚げも入っている」
 おお、あの有希特製から揚げか?
「そう、昨日から仕込んでいた」
 得意気に右腕を上げる有希。あまり表情に変化がないようにも見えるだろうが有希は自信満々なのだ。
「そいつは楽しみだな、早いとこ着替えて行くとするか」
「お父さんって単純ね〜」
 何とでも言ってくれ、有希のから揚げはそれだけの魅力があるんだ。





 それから十数分後、着替えた俺は車を出して有希たちを待っていた。女の着替えは時間がかかるものだと承知していながらも、有希がいないのはどうも寂しいものだ。
「おっまたせー!」
 などと思っていたら元気な声でハルヒが飛び出し、
「…………おまたせ」
 有希が後を続いてきた。ハルヒは動きやすいジーンズにスニーカー、Tシャツとジャケットにリュックを背負っている。
 そして有希は弁当が入った大き目のカゴを持っている。服装はシンプルな白のワンピース。それが有希の清楚な雰囲気にピッタリで。
「よく似合ってるよ、有希」
 何度も見ているはずなのに何度でも見惚れてしまう。それほどまでに有希は美しかったのだ。
「……そう」
 思わず見詰め合う二人。ああ、やっぱり有希は綺麗だ。このまま時が止まればいいのに、って、
「いってーっ!」
 思い切り尻を蹴られた。蹴ったのはご承知の通りのアヒル口の愛娘である。
「さっさと行くわよ! このバカ夫婦!」
 へいへい。
「了解」
 まあ娘の前で何やってんだって話なのだ。ということでようやく車に乗り込んだ俺達は、
「しゅっぱーつ!」
 ハルヒの号令一過、勇躍して動物園へと向かうこととなったのであった。