『SS』 天使の矢

息を吐けば白くなるほどに冷え込んできた昨今、隔離されているといっても過言ではない部室棟においてその自然の多大なる影響力は建物内の空気を確実に蝕み、そこに生活するものを冷気で包み込む。これといった暖房設備は校舎に比べて整備されておらず、寒いときは本格的に寒い。そりゃもう、腹が立つくらいに。まあ寒さで腹が立つのは理に適っていることである。寒さというのは一種のストレスであるからだ。ストレスといっても実は多くの種類があるわけで、一概に寒さが腹立たしさにつながるとはいえないが。

その寒さに取り巻かれているのが文芸部室、もとい非公認団体SOS団活動場所であるわけなのだが、いかんせん、こうも寒いと何をするのにもやる気が起きない。寒いとは言っても何かを着込むほどの寒さではなく、逆に着ると暑いというよくあるあの感じだ。そんな寒さの中、いつものようにメイド服姿の朝比奈さんの入れるお茶の味は格別である、何より体が温まる。

「どうですか?」

盆を胸に抱えて天使の微笑をたたえる朝比奈さんがそう聞いた。アルカイックスマイルなぞ、この笑顔に比べれば無表情に等しい。

「ええ、美味しいですよ。」

「あのぉ、そういうことじゃなくて・・・」

困ったような、もどかしいような表情を浮かべる朝比奈さん。何に困惑しているのかは分かりませんが、その表情は反則です。

「生姜ですね?」

「え?」

一瞬にして顔がパッと輝く。

「この紅茶には生姜が入っている、違いますか?」

突然、俺と将棋盤を挟んで向かいにいる古泉が口を開いた

「うんうん、そうです。生姜紅茶って体があったまるんですよ?」

ちゃんと俺たちのことを配慮してくれているのが嬉しい。そして、得意げな顔をしている古泉が憎らしい。

古泉の言葉で機嫌を良くしたのか、鼻歌を歌いながらまた新しく紅茶を注ぎ始める朝比奈さんを横目に、古泉のほうへ向きなおす。将棋盤を囲んではいるものの、その盤上に王の姿は見当たらない。それどころか角や飛車、金と言った駒さえも乗っかってはいない。あるのは変な陣形の歩のみである。何をしているかといえば、俺たちははさみ将棋をやっている。

挟み将棋なんてものは小学生の頃に親父とやったきり、まったく手を付けたことの無いようなガキ臭い遊びであるのだが・・・

古泉が新しい将棋盤の使い方を見つけたというから何かと思えば、これである。古泉には常識が無いのか、はたまた挟み将棋なんて低俗な遊びをやるような家庭で生まれ育っていないのか、どちらにせよ庶民的感覚は無いようにに思うが。

まあ、古泉が見つけてくるゲームとはいえ俺がそれに負けるのは極々稀なことであり、大抵は大した説明も受けていない俺が勝つというのが常だ。どうしたらこんなに弱いのかというくらい弱い、この間なんてバックギャモンというものがあるからと古泉の進めるがままにやってみたものの、無駄な時間を使い古泉は自分の駒を一つも陣地に入れることが出来ずに終わった。それ以来、バックギャモンはやっていない。ボードゲームの箱が寂しそうにガラクタ入れの中に収まっているところをつい最近目撃したぐらいだ

そんな古泉ではあるが、もしやあれだけ勧めるならば強いのかもしれないと淡い期待を抱いてみるものの案の定弱い弱い。あくびが出そうだ

「いい加減飽きたらどうだ。」

「いえ、こういうのも実は楽しかったりするんですよ。」

苦笑しながら古泉が言う。何が楽しいものか、俺は退屈で仕方がない。

「ところで古泉よ」

「何でしょうか?」

また歩を挟み将棋の陣形に並べる古泉に聞く。というか、まだやるのかよ

「何で生姜が入ってると分かった。」

「飲めば分かりましたよ、といいたいところですが、実は見えてしまったのですよ。生姜を入れるところをね」

見えてしまった、などと自分にはさも非の無いような言い方をしているが、どうせこいつはいやらしい視線で朝比奈さんのことを眺め回していたのだろう。俺の視界には朝比奈さんは完全に入らないが、古泉の側からならじっくりと見ることが出来る。何とも最低な野郎だ、ちょっとそこを代われ、というのはぐっと堪える

「反則じゃねえか」

「確かに、そうかもしれませんね。ですが女性というものは些細なことに気づいてくれる男性に好意を寄せるものなんですよ。例えば髪型を変えただとかね」

古泉の自論なのかどうかは定かではないがそれに同意せざるを得ないほどに的を射ているのには腹が立つ。さすが顔がいいだけはある、恋愛のテクニックとやらもたくさんあるのだろう。僕の恋愛に関するテクニックは108式までありますよ、とか言い出すに違いない

「へぇ、そういうもんなのか。」

「そういうものなのよ!」

会話に突然割り込んできたのはさっきからパソコンの画面をおよそ可愛いとはいえない表情で、つまり呆けた顔で見つめ、何を見るでもなくマウスを弄繰り回しながら朝比奈さんの入れたお茶を一気飲みしていたハルヒである。そんなんじゃ生姜が入ってるかどうか以前にお茶の味すらわからんだろう。

「何言ってんのよ、あたしにだって生姜が入ってたことぐらい分かるわよ!」

「そうかよ、で、何がそういうもんなんだ。」

「女の子の些細な変化には気づきなさいってこと。で、あたしはあんたをさっきから呼んでるのに振り向きやしないから腹が立ってんのよ、分かる?」

「そうか、すまなかった。」

「だから、呼んでるんだからこっち来なさいよね。みくるちゃん、お茶入れて頂戴」

人を顎で使うとはこいつのようなやつがすることを言うのであろう。

「見てよ、これ」

ハルヒが指差すパソコンの画面にはなにやらおっさんの画像とその説明と思われる文章が横に書き連ねられていた。

「誰だこの人。」

「山本さんよ、アーチェリーの。」

そういわれてピンときた。この髪の短めなおっさんは少し前にテレビでよく取り上げられていた。何でも40過ぎてからオリンピックで銀メダルを取ったというなんか凄いおっさんらしく、スポーツ番組やなにやらに引っ張りだこだった。現在ではほとんど見かけないが、時々スポーツの解説員として仕事をしているのを見たことがある。一躍時の人となっても、アーチェリーという競技の規模の小ささからあまり注目されなくなってしまったのだろう。

「何かね、日本記録更新したらしいのよ。しかも二つ。さらにさらに日本代表にもなったらしいわ。 」

そいつは驚いた。そういえばこのおじさんは大学生で銅メダルを取り、40で銀メダルになった。つまり20年かけてレベルアップしたことになる。ということで次は20年かけて金メダルを取るつもりらしい。確か金メダル取得の最高齢は63歳のはずだからもし仮にそうなったとすれば、ギネスを塗り替えるような事態になるかもしれないな。

「急にどうしたんだ?山本さんの話をするなんて。」

いきなり忘却のかなたにあったおじさんの話をするためにわざわざ俺をここに呼び寄せたわけではあるまい。もしそうならどんなに嬉しいことか。だがハルヒのことだからまた何か厄介ごとを思いついたに違いない。

「別にこのおっさんなんてどうだっていいわ。あたしが興味あるのはね、このアーチェリーよ。40の冴えないおっさんがメダル取れるくらいなのよ?中年の親父に出来てあたしに出来ない事なんてあると思う?」

無理だとは思うが、誰かこいつに物の道理ってものを教えてやったほうがいい。アーチェリーなんて特殊な競技、俺たち素人がやろうとしたところで出来るわけが無い。

「無理だ、やめとけ。どうせ怪我をするのがオチだ」

「ねえ、古泉くん。知り合いにアーチェリーやってる人とかいない?」

俺の精一杯の静止の言葉などまったく聴く耳を持たず、何も聞こえなかったかのように華麗にスルーされた。元々人間の耳というものは聞きたい情報のみを脳が選別して聞きだすことが出来るらしい。人ごみの喧騒の中で友人と会話できたりするのはそのためだ。だからといって俺の声をシャットアウトすることは無いだろうに

「思い当たる人はいませんが、一応当たってみます。」

「おねがいね」

そういうとハルヒはまたネットの海へともぐりこんでいった。もうそのまま余計な言葉など発せずずっともぐりっぱなしでいい。

「これよ!」

まあ、予想できた流れではあるな。

キョン、アーチェリーって的までどれくらいあるか知ってる?」

知ってるわけが無いだろう。

「無知ね、そして無恥ね」

何を言っているのかさっぱりわからない。

「まあいいわ。競技によって種類はあるみたいだけど50mは離れてるらしいわ。インターハイの予選にいたっては70メートルよ。馬鹿じゃないの?戦艦ヤマトじゃないんだから」

んなもん俺に言われたって知るかという話になってくる。というより宇宙戦艦ヤマトが70mだってことも知らなかったしな。

「ところが聞いて驚きなさい。日いずるわが国にはもっと簡単な良心的な競技があったのよ。」

良心的な競技が何を持って良心的なのかを今の話の流れから推測することは不可能であるが、めんどくさいことなのは間違いない。何を持って簡単とするかも同様だ。それよりも、先ほどからまどろっこしくて聞いていられない。言うならいうで早く結論を言って欲しい。あれだな、世界の驚くような映像を紹介する番組が肝心なシーンの直前でコマーシャル入れてくるのと同じくらいイライラしてくる。そういう手法なのかもしれないが、やりすぎるのも考え物だ。

弓道よ」

「かわらねぇだろ!」

思わず目の前にあったパソコンをフルパワーで壁に叩きつけ、挙句の果てに雄叫びとともにスーパーなんたら人の如く身にまとっている衣服が膨張した筋肉によってバリバリと裂け、髪は増え金髪と化し、その衝撃波で周りのものを吹き飛ばした上で、いい加減にしろと突込みを入れそうになったが、俺は100年に一度のサイヤ人でもなんでもなかったので未遂に終わった。

「変わるわよ!弓道なんてね、たった28メートルの距離よ!アーチェリーの半分じゃない。」

ストラックアウトでちびっ子が一般人よりも前に出てボールを投げるのとはわけが違う。弓道だろうがアーチェリーだろうがそれ相応の鍛錬が必要であり、その競技の容易さを目標物との距離で判断するのは勘違いも甚だしい。それが通用するのなら野球においてピッチャーマウンドからホームベースまでの距離は約18メートルであるし、ダーツにいたっては2メートルと少しだ。だが、それらが簡単かといわれれば答えは否であることは言うまでも無い

「アンタは否定することばっかりしか能がないわけ?否定するのならちゃんとした根拠を述べなさい」

「さっきも言っただろ。アーチェリーも弓道も大して変わらん。出来るわけ無いだろ」

「変わらなくはない」

声のしたほうを向くと先ほどまで機械かと思えるほど等間隔の時間でページを捲り読書に没頭していた長門がこちらを向いていた。

「どういうことだ?」

「アーチェリーと弓道は洋弓と和弓という分類において根本的に異なる。具体的に言えばアーチェリーはハンドル、リム、スタビライザー、サイトからなる弓を用いる。弓道は竹やグラスファイバーなどで作られた弓を使用する。アーチェリーのように付属品は無くいたってシンプル。また競技人口は弓道のほうが多い。さらに言えば弓道の弓はシンプルではあるが、的中率はアーチェリーよりもはるかに劣る。なぜならアーチェリーが弓の中心部にあけられている窪みに矢を置いて放つのに対し、和弓にそのような窪みは無い。そのため、弓道で番えられた矢は必然的に的に対してやや右側を向く。また矢を放つべき位置は弓の中心よりも下に位置しているため、合力の関係によって矢は普通に放てば上に跳ぶ仕組み。つまり、総合的に見て矢は右上に発射される。それを防ぐために、弓を絞る力、弓を単に押す力、弓を下に押さえつける力の3つの力を用いる。これをうまく機能させることを角見を利かせるといい・・・」

長門、ストップだ。」

長門の博識ぶりには舌を巻く。まったくそんな知識いったいどこから仕入れてくるのやら。それにしても俺が今止めなかったらどこまで突き進んでいたかわからんな

「つまり、弓道とアーチェリーは違うってことか?」

「・・・・・・そう」

小さく頷く長門。その表情が少しばかり悲しんでいるように見えたのは説明を途中で打ち切られたからだろうか。俺の思い違いであるほうが可能性は高いが。

「ほらね、まったく違うじゃない。何か有希の話聞いていたらますます弓道がやりたくなったわ」

今の話の中のどこにハルヒに発破をかける要素があったのか理解に苦しむ。俺には般若経と同じ感じにしか聞こえなかったぞ

「古泉くん、至急弓道場を手配して頂戴。あたしは一分一秒も無駄にしたくは無いの、今すぐお願い。」

なんという傍若無人ぶり。

「い、今すぐにですか。解りました、掛け合ってみましょう。少し席を外してもよろしいですか?」

古泉はそういうと携帯片手に部室を出て行った。新川さんや森さんあたりにでもそういう知り合いがいないか聞くのだろう。何とも健気なやつである。俺ならばそんなもの自分でやれと一蹴するだろうが、古泉の双肩には世界がかかっているからな。ハルヒの機嫌を悪くするわけには行かない。何だかんだで一番過酷なポジションにいるのがあいつなのかもしれない。

「これで弓道場の確保は出来たも同然ね。古泉くんを副団長に任命したあたしの目に狂いは無かったようね。」

もうハルヒの中で弓道をやる事は既定事項になっているらしい。最早俺の反論など聞く耳も持たないだろう。

やれやれと呟いてため息をついたとき、俺の携帯が振動した。

メールの送り主はドア一枚を隔てて向こう側にいる古泉。

弓道場の確保が出来なかったんですが、どうしましょうか』

これはまずい展開になった。確保できなかったということをハルヒが知れば、その不満はヴェスヴィオ火山の如く噴火し、ポンペイのみならず世界中を混沌とした世界に突き落とすことになりかねん。


ハルヒは俄然やる気だ、何でもいいからとにかく場を持たせるだけの策でも考えてくれ。すまないな。と返信しておく。

俺にハルヒを満足させることの出来る策など思いつくはずも無いので、古泉に丸投げする形になってしまう。これで古泉に期待するしかないが、古泉の考えた策が何であっても弓道場の確保が出来なかったことに変わりはない。

あのドアが開いた瞬間が世界の終わりにつながることも十分ありうる。何せハルヒはやると決めているのだからな。

古泉のヘルプメールから10分が過ぎようとしていたそのとき、ドアのノブがカチャリと捻られ、運命の扉がゆっくりと開いた














「やっほー、ハルにゃん。何かお困りっかな?」

現れたのはパンドーラーではなく、救世主だった。

「あら、鶴屋さん?どうしてここに」

長く美しい髪をなびかせながらくるりとその場で回転し、

「ハルにゃんが困ったときはいつでも参上するのが名誉顧問の務めっさ」

と、貴女はスーパーマンですかと聞きたくなるくらい凄いことを言い放った。だが、彼女の言うとおり俺たちは困っている。もしかすると彼女の言っている事は本当なのかもしれないという考えが脳裏をよぎる中、苦笑いを浮かべつつ安堵の表情も浮かべる古泉が鶴屋さんについで現れた。

なるほど、古泉の策はこれか。

困ったときの鶴屋さん頼み。あまり関心の出来ることではないが、まあ苦肉の策といったところか。たしかに鶴屋さんは古泉並、またはそれ以上に人脈の多いお人であり、彼女自身多趣味であり多くのことに精通している。鶴屋さんに死角無しとも言えよう

「流石鶴屋さんね。物は相談なんだけど、鶴屋さんの御家に弓道場なんて無い・・・わよね?」

いくら鶴屋さんに死角がないとはいえ、まさか自宅の敷地内に弓道場などあるわけないだろう。庭に池があったり、松の木が生えてきたりするのとは規模が違いすぎる。何せ的までの距離だけで28メートルあるのだ。俺の家の敷地内に弓道場を作るとすれば、弓道場が一つで終了だ。

「あるよん」

あるんかいっ!

「たぶん袴も人数分あるし、弓も人数分あるはずっさ。それにうっとこには先生がいて稽古付けてくれるから初心者でも問題ないにょろ」

恐るべし、鶴屋邸。弓道場のみならず、先生までいるとは格が違いすぎる。それでも「わるいなこれ4人用なんだ」とかいうどこぞの坊ちゃんのような嫌味っぽさを感じないのは、内から溢れ出るその人の良さからなのだろう。決して鼻にかけず、それでいて謙虚過ぎないその人柄が、彼女に嫌悪感を抱かせない要因になっているのだと思う

「そうと決まれば、今すぐ鶴屋さんの家にお邪魔するわよ!さあ、さっさと準備しちゃいなさい」

ハルヒはそういうと、今の一連のやり取りで忘れ去られてしまい完全に冷え切っているお茶をぐいと飲み干した。

「ところでみくるちゃん、この生姜紅茶、冷えてもいけるわね」

「あ、あのぅ・・・。そ、それ普通の紅茶・・・・・」

朝比奈さんがとても言いにくそうに、だが自分が自信を持って入れたものを勘違いされるのは納得がいかなかったのか、発した言葉は出発前の部室内の高揚感を一気に変な空気へと変えた
























「これが弓道場?想像してたより大分立派じゃない!」

先ほどの微妙すぎる空気を打開したのは、鶴屋さんの登場によってハルヒに忘れ去られ文字通り空気と化していた古泉だった。奴のフォロー力の高さは半端じゃないことを改めて実感した。

そして、今のハルヒの言葉からわかるとおり、俺たちは鶴屋邸の敷地内にある弓道場の前へとやってきていた。一瞬誰かの家かと思うぐらいの規模で、もしかすると俺の家はこの弓道場よりも貧相なのではないかということがふと頭をよぎり、いたたまれない気持ちなる。

「ささっ、みんな中に入った入った」

鶴屋さんの先導で、ぞろぞろと門をくぐってゆく。入り口の上にどこかの腕の立つ書道家が書いたと思われる達筆な字が荘厳さをあらわしている。ここが弓道場ってことを知らなきゃ、書いてある文字が弓道場だなんて読めないほどに崩された字で正直俺からすれば、ナメクジが這った痕にしか見えない。ピカソの絵画を幼稚園児の落書きなんじゃないかと錯覚するのと似ている。

ただ、ピカソは普通のデッサンを描かせればうまかったと聞くし、こういう崩し方は書の道を極めた人にしか出来ないものなのだろう。

中に入るとすぐに目の前には的が広がっているものと想像していたが、どうやらここは客間のような場所らしく、和室独特の畳の匂いが鼻をつく。見回せば、水墨画っぽい掛け軸が飾られその下には花が生けてある。どこまでも純和風に仕立てられている。

「ちょいとまってておくれ。準備することがあるから」

鶴屋さんはそういうと俺たち5人を部屋に残すと、今来た入り口から外に出て行った。準備が整っていないのも無理は無い、何せ俺たちは下校からまっすぐここに来たのだから。俺たちはもちろん、鶴屋さんだって制服のままだ。日を改めることも出来たのだが、ハルヒが頑として譲らなかったので今日来ることになった。あいつはだだっこか。

「時に長門よ、俺たちみたいな未経験者が突然弓を打ったりすることは出来るのか?」

畳の上に行儀よく正座し、いつの間に取り出したかわからないハードカバーの本を開く長門に聞いた。

「不可能ではない。それと、弓を打つという表現方法は間違い。正しくは弓を引くという。貴方の表現の場合、弓を作るという意味になる。」

「そ、そうか。」

本当に何でも知ってるなこいつ。長門がわからない、なんていったことは無い様に思う。いやあるな。いつだったかは忘れたが

「今、長門さんは不可能ではない、と仰りましたがそれが可能という表現でないことに疑問を感じたのですが。何かあるのでしょうか?」

再び空気と化すところだった古泉が口を開いた。細かいところに目をつける奴だな。

長門は小さく頷くと(古泉にはわからなかったと思うが)

弓道には射法八節というものが存在する。弓を引く一連の動作を八つに分割したもの。それら全てを正しく行うことが出来れば、初心者でも行射することは可能。ただ、それら全てをこなすことが出来るようになるには長い期間を要する。そのため一日で出来るようになるには困難だと判断される。」

なるほど。首振り三年コロ八年ってな感じか。となると、ハルヒがいっていたことを実現するのは無茶が過ぎるというもの。今すぐにあきらめてくれれば丸く収まるのだが、そんな物分りのいい奴じゃないってのは俺が一番良く知っていることで、現にハルヒは今の話を聞いて額にしわを寄せるどころか顔を輝かせている。

「ねぇ有希。出来ないわけじゃないんでしょ?」

腕を組みながらハルヒが聞く。ところで長門と朝比奈さんは正座、古泉と俺は壁に寄りかかっているのに対し、ハルヒはといえば座布団の上に胡坐の体制で居座っている。もちろん俺たちは帰宅してないため必然的に制服だ。となると、ハルヒはもちろんスカートを穿いている。

まあ、いいたいことはわかるだろ。遠まわしに言うとすれば、今ハルヒにピントを合わせることは出来ない。それだけだ。

「もちろん」

その言葉を聴いたハルヒは胡坐の状態から器用に飛び上がりそのまま立ち上がった。その瞬間スカートがひらりと舞い上がり完全に下着が露出していたのを、俺の目はしっかりと捉えてしまっていた。まあ、何だ、減るもんじゃないし、いいだろう。


「あたし達は不可能を可能にするSOS団よ。そのあたし達に可能なことなら呼吸をするかの如く出来るに決まってるわ。」

ハルヒは誰に言うでもなく、いやきっと誰にも言ってないのだろう。自分自身に言い聞かせるようにそう叫んだ。

「お、ハルにゃん気合は入ってるねぇ。あたしもわくわくしてくるっさ。」

いつの間に居たのやら。鶴屋さんが袴姿に紙袋を五つ持っているという奇妙な格好でいらっしゃった。

袴の上はどうやら胴着らしい。柔道着とは異なり、袖は半分までしかない。そのため、鶴屋さんの白く綺麗な腕が露出している。さらには鶴屋さんの特徴的な長く艶やかな髪の毛は後ろで一本に束ねられ、髪がまとめられた事によってあらわになる耳が、これまた美しい。また、前髪は残し、顔の両横にたれる長めの髪の毛が彼女の頬を優しく撫でるようにして伸びている。

これを完璧といわずして何と表現すべきか。悲しいかな、俺はこの美しさを伝えられる語彙力を持ち合わせていない。ただただその艶やかさに見とれるばかりである。まさに、これこそ俺の理想とするポニーテールの形だ。

「や、やだなぁ、キョンくん。そんなに見つめられるとお姉さん照れるっさ。」

「す、すみません。」

この瞬間果ててしまわなかった俺の精神力を褒め称えよう。国民栄誉賞を受賞したっておかしくない。だが、天にも昇るその気持ちは後ろから喉元に突きつけられた刃物によって、一気に冷めていった。

実際には刃物などあるはずも無かった。だが、俺にそう錯覚させたのは後ろから突き刺さる禍々しく冷たい殺気である。その殺気を放つ主は俺には複数居るように感じるのだが、恐る恐る振り返ってみても鶴屋さんを除く4人は普通に笑顔だ。あの古泉までもが3割り増しの笑顔を浮かべている。しかしながら、この部屋の空気は肌が切れるのではないかと思うほどに張り詰めている。

「ま、まあ、とりあえずこれにちょろんと着替えてくんないっかな」

そういって鶴屋さんに紙袋を手渡された。今の鶴屋さんの一声で息の詰まるような空気は和らいだ。他の四人も同様に紙袋を渡され、俺と古泉の男衆は別室で着替えるように言われた。

「で、どうすりゃいいんだ?」

いきなりはいと手渡されても、袴の着方など知るわけがない。着物なんて七五三の時くらいしか着ない。剣道やってる奴なら着付け出来るらしいが、あいにく俺はそんなことも無い。

「僕が教えて差し上げましょうか?」

すでに着付けを終えた古泉がにやけた面で俺に聞く。くそ、忘れていた。こいつと二人きりで着替えをせにゃならんことを。

「ああ、頼む。」

俺がそういうと古泉はシュルシュルと袴の結びを解き、ばさりと下に袴を下ろした。みたくもない太ももがあらわになる。

「まず下着を身に着けろ。」

「ちゃんと穿いてますよ。胴着が長くて見えないだけです。」

わかったからパンツを俺に見せ付けるな。お前は俺に着付けを教えてくれるだけでいい、余計なことは一切するな。

「承知しました。」

そうして、古泉の袴の着付け講座が始まった。

それにしても何故こいつは袴の着付けなど知っているのだろうか。単なる俺の推測だが、機関とやらでは剣道だか弓道だかが必須なのかもしれない。まあ、灰色の不気味な空間で得体の知れない青白い巨人と戦うのだから、日々鍛錬していても不思議ではない。現に古泉はいい体つきをしている。もちろん、変な意味ではない。断じて違う。

まずは胴着の中にある紐を結ぶところから始まり、帯を巻き、袴の着付けへと移る。なにやら小難しいことをやりつつ、作業を進めていくうちに何とか着られるまでになった。

「ここの仕上げがポイントです。」

古泉が言うには最後の結び目を四角く整えるらしいのだが、俺には何をしているのかさっぱり理解できないため、何度やっても失敗してしまう。

「仕方ありませんね、僕が結んで差し上げましょう。」

「悪いな。」

俺はてっきり古泉が俺の前にかがみこむ形で結ぶのかと思っていたが、古泉は何を思ったのか俺の後ろに回りこみからだを密着させてきた。

「な、何してる!」

「自分の側からやらないとわからないもので・・・」

喋るな、息が耳にかかる。あとからだを俺にくっつけるな。離れろ、下半身を押し付けるな気持ち悪い。

ということがありつつ、何とか着付けが終了した。悪夢のような時間だった。




足袋を履いて少々歩きにくい足を引き摺り、もと居た部屋へと戻ろうとする。



「んー、みくるは弓道着がちょいと苦しいかもね」

「ふぇ?どうしてですかぁ?」

「どうしてもこうしても無いわ。自覚してないのがいじらしいわね。邪魔なのがここに二つ付いてるじゃないの!」

「ふみゃあぁぁ!?や、やめてくださーい」

「お?ハルにゃんなかなか大胆なことをするねぃ。あたしも混ぜてくんろ」

「だ、だめですぅ、鶴屋さんまで・・・ふ、ふぇぇぇ」

「下着の中に手は・・・・・・あ、そこはだめぇ!!」








という会話が今障子を隔てた向こう側で繰り広げられているので入るには入れない男二人がそこに居た。

「もう少し待つか。」

「ええ、そのほうがよろしいかと。」











「・・・終わった」

突然障子が開き、長門が出てきた。

当の長門もすでに着替えを済ませており、袴姿での登場だ。これはまた鶴屋さんとは異なった美しさがある。元々長門は純和風な日本人的体型をしている。どこがどうであるかは伏せさせていただくが。そのため、日本人が着るために作られたものである袴が長門に合わないはずが無い。長門の周りに広がる凛とした空気は自然と周りの視線を集める。

「お、長門。髪結んでみたのか。」

「・・・そう」

長門の短い髪では限界があったのか、後ろでただ髪をくくるだけになっているが、それでも普段の長門とは違った雰囲気がある。

「よく似合ってるぞ、長門。」

そういってポンポンと頭を撫でてやる。少し表情が柔らかくなったのは目の錯覚なんかじゃないんだろう。

そのコンマ一秒後にものすごい勢いの座布団が俺の顔面にクリーンヒットしたのも気のせいなんかじゃない。なぜならものすごく痛い

おぶほぉっという情けない声とともにいつものように床に崩れ落ちた。

「セクハラしてんじゃないわよ!」

いてぇな、そう罵る気力がそがれたのは目の前に仁王立ちするハルヒの姿に不覚にも心を奪われてしまったからである。

「・・・何よ、あたしの顔になんか付いてんの?」

見とれてしまっていたなんて口が裂けても言えまい。

「なんでもない。」

「あ、そ。どーでもいいけどアンタ案外似合ってんじゃない。」

俺はこの瞬間背筋に寒気を覚えたね。ハルヒがこんなことを言い出すとは予想だにしなかった。明日は雪が降るぞ、なんて悠長なこと言ってられないくらいの危険信号だ。それこそ、マヤ文明の予言がどうのこうのとかいうのよりもよっぽど確証がある、予言というよりも既定事項に近いな。

「あたしがほめてるんだからもっと嬉しくしなさいよ、馬鹿!」

そんな事言われて喜べる奴がいたらあってみたいもんだ。

このあとは鶴屋さんのまあまあ、というフォローで何とか切り抜けることが出来てほっとした。

鶴屋さんに案内されるがままに、通された場所は先ほどの和室とはまた違った厳かな雰囲気漂う場所であった。前方は開けており、かなりの開放感がある。その置くにはいくつか的らしきものが見える。

「ここが射場っさ」

「的ってあんなに遠いんですかぁ?」

目をそれこそビー玉のように丸くして朝比奈さんが聞く。朝比奈さんの袴姿は、普段のメイドやナース服などの影響か、どうしてもコスプレにしか見えない。ただ、原因はそれだけではないようだ。その、朝比奈さんの体型は長門とは違い、グラマラスであるのでどうしても、その細いからだに大きな胸はアンバランスに思えてしまう。何か巻いているとは思うがそれでも不自然さは隠せない。長門のように起伏の少ない体型であればぴったりあうのだが、朝比奈さんは少し日本人的な体型からかけ離れている。いや、もしかすると未来の女性達はみな胸が大きいのかもしれない。

「ふっ!」

今のは腹を急激に閉められたことによって俺の口からもれ出た特に意味の無い音声である。

「な、ながと?」

「帯が緩んでいた。」

「そ、そうか。ありがとうな。」

俺の今考えていた事が長門に伝わっていたのではないかと心臓が止まる思いだったが、気のせいだろう。とはいえ、長門がいつもより怒っている感じがした。何だか今日の長門はよくわからない。

鶴屋さん、一ついいですか?」

「ん、なんだい?」

「どうしてこんな大きな弓道場があるんですか?もしかして、鶴屋家で何か弓道の流派があるとか?」

「あはは、そんなたいそうなもんじゃないにょろ。うっとこのお祖母さんのお祖母さんがこの弓道場を立てたらしいんだ。あたしも詳しくは知らないんだけどね。最初は小さかったらしいんだけど、当時どこにも弓道場なんて無くってさ。あたしんとこで大会とかやったらしいよ。そいで、もっとたくさんの人に来てもらえるように今の大きさになったってわけっさ。」

「そうだったんですか。」

最初から馬鹿でかかったわけではなく、多くの人の為に改築されて今の大きさになったということに、鶴屋家の人々の懐の深さを知ることが出来る。

「さーて、準備も整ったんだし、そろそろ始めと行くわよ。」

ハルヒが屈伸やらアキレス腱伸ばしをしながらいう。それ、弓道に必要か?

「何をだ。」

「決まってるじゃない。勝負よ、勝負。もちろん負けた人は罰金よ」

「ちょっと待て、まだ俺たちは弓道のやり方すら知らないんだ。とりあえずレクチャーを受けるのが先決だと思うぞ。」

「そんなもの要らないわ。ふっと引いてパッとやれば当たるでしょ。」

そんなに簡単に出来れば苦労しないさ。

「だめだよ、ハルにゃん。まずはあたしの話をきくっさ。」

「わかったわ」

何故俺のときだけ聞き分けが悪いのかがわからない。こいつが俺の要望を聞いてくれたためしなどただの一度だってない。それなのに他の奴らの話は聞く。これはもう俺に対するあてつけだな。

「まずはこの弽を付けて、その次にこの粉をちょちょいっと付けておくれ。」

言われるがままに作業を行う。鶴屋さんに手渡されたのは指を入れる箇所が親指、人差し指、中指までしかない、変な形をした手袋だ。しかも親指のところだけやけに太く、硬い。さらに、ただはめるだけでなく、付属している紐を帯のようにくるくる手首に巻きつけて装着するらしい。

そして、きな粉のような色をした粉末を中指の指先に付ける。

「正しくは親指の先端に付けるんだけど、まあ細かいことはいいっこなしさ。で、ちゃんとつけたら、親指と、粉のついているところを強くこすり合わせて。グリグリーっと。」

すると、ギリッ、ギリッという音が鳴り、何やら碾き臼で擂っているようなそんな感覚が感じられる。何で出来てるんだこの粉。

「ほらほら、ギリギリってなるでしょ?だからギリ粉っていうんさ。」

そのままの名前だな。

「これ、手についたらべたべたするのね。」

そういいながらハルヒは朝比奈さんの頬にそれをこすりつける。

「あんまりおふざけは良くないねっ。これは松脂だから毒じゃないから安心だけど。」

鶴屋さんからのお咎めが入る。こいつは朝比奈さんが上級生だってことを絶対忘れてると思う。

「さてっ、下準備はおわりっさ。次はレクチャーに入るよ。」

どこからともなくおじいさんとお祖母さんが現れてきた。その手にはすでに弦の張ってある弓が握られている。

「あたしは教えるのへたっぴーだから先生にお願いしたんだ。ちょいと難しいけど、頑張ってねー」




そしてマンツーマンでのレッスンが始まった。

ここからは多少長いので割愛させていただく。









小一時間ばかりの指導を終え、ため息をつく。こんなに難しいこといきなりやって出来るわけないだろう。

しかし、そんなに長い時間を練習に割くことも出来ない俺たちは生まれたての小鹿が歩き出すが如く不安定な状況下での勝負をせざるをえなくなった。

「みくるにハルにゃんに有希っ子ー。ちょいとこっちに来てよ」

「はいっ。これは女の子のからだを守る大切なものだから、ちゃーんと着けるんだよっ?」

三人が渡されているのはおにぎりを横に引き伸ばしたような形をした一枚の皮っぽい素材出来ており、ゴムの紐がついているお面のようなものであった。

「これどうするのかしら。」

ハルヒが頭に被ったり目隠しのようにしているのを見かねてか、

「このように着ける。女性の胸部を弦で払わないようにするための防具。」

といって長門が装着したが、ずるっとずれ落ちて腰の位置にまで下りてしまった。

「なるほど。こう付ければいいのね。」

ハルヒはそういうと長門のように装着した。ハルヒはずれ落ちない。

「ちょっと苦しいですぅ」

朝比奈さんは少しきつい。

長門は依然ずり落ちたまま。

因みにハルヒと朝比奈さんが付けている間に長門はそれとなく元の位置に戻したがすぐにずり落ちたので、落ちたままというより再び落ちているという表現のほうが正しいだろう。

「ゆ、有希は・・・ほら!ちょっとゴムがゆるかっただけよ。こうすれば問題な、ないわよね?」

どうしてこっちに振るんだ。とはいえ、何も言わないということは出来ないのでとりあえずうんうんと頷いておく。長門を除く全員が頷いている。

「・・・・・・そう」

今日はよくこういう空気になる日だな。






















「第一回、ドキッ!女の子多めの弓道大会をここに開催します!」

時間が飛び飛びになるのはその間にある色々なフォローを省略しているからなのでご了承願いたい。テレビ番組でいえば編集作業のようなものである。

「ルールは簡単よ。一人持ち矢4本。沢山中てた人の勝ち。ドベには罰金が科されます。異論があるなら聞くけど、採用はしないわ。」

じゃあ言うな。誰が受け入れてもらえない文句を好き好んで言うものか。

的は15個あって15人同時に出来るようになっているのだが、なんだかよくわからないことに3人ずつに分かれてやるそうだ。こんな広いのに無駄な使い方をするもんだ。

ということで公正なるじゃんけんの結果最初に引くことになったのは俺に古泉に鶴屋さんだ。この三人の中で明らかに俺が劣る気がするのは間違いなんかじゃない。鶴屋さんはとりあえず経験者としてうまいのは確定だ。古泉に果たして弓道の経験があるかはわからないが、俺よりは確実にうまい。着付けの仕方とか知っている時点で差がある。

だがしかし、何もこの3人の中での勝負ではなく、6人全員での勝負であるから勝機がないわけでもない。

各自、揖をして入場する。言われたとおり、からだの中心に射位が来るような位置で足踏みをする。この足踏みという動作はこれから弓を引く上での土台、いわば木の根のようなものであり、非常に重要だとおじいさんが言っていた。

その後口で説明するのは面倒な行程のいくつかを終え、弓を引く過程へと移る。このときばかりは普段使うことのない上腕三等筋とやらを使うらしく、俺の使い込まれていない筋繊維はすぐに悲鳴を上げ痛みに変わる。腕の筋が延びすぎているような感じだ。これは明日あたり絶対筋肉痛が来るだろうという考えが浮かぶも、すぐに消えただ弓を引き分けその状態をキープするための筋力をフル活用するべく意識を集中させる。

長門が部室でなにやら言っていた角がどうしたとか言う力は初心者には無理だとおじいさんが笑いながら言っていたので気にする必要はないらしい

弽と弦と矢が取り付けられている部分がキチキチと音を立て、俺が目一杯引いているうちにその感覚はだんだんと広くなり、キチ・・・・キチ・・・・という音へと変わる。

腕が限界を迎えるころ、あの弽の硬い親指の手のひら側の付け根あたりについている弦の溝から弦がはずれ矢は頼りない軌道を描きながら的のほうへと飛んでいった。

惜しくもなんともないところに刺さった矢を見て思わずため息が出る。こりゃ、俺の罰金決定だな。

古泉と鶴屋さんはといえば、何か順調に中ててきている。俺が最後の射を引く頃に二人はもう4射終っていて、古泉が2中、鶴屋さんが3中であった。

ここで中てなければ、俺は間違いなくダントツでビリだ。

だが、ここで中てなければという俺の思いも空しく、4本とも全て外れた。

次はハルヒ、朝比奈さん、長門の番である。

一番最初に弓を引いたのは朝比奈さんだったが、朝比奈さんは引くことはおろか、引く準備段階である大三すらとることが出来なかったので棄権となった。頑張って引こうとするその愛らしさで鼻血が出なかったのは、引いているときの「あっ、ふぅっ。ひゃぅっ」という声で別のところに血が集まったからだろうと思う。

棄権となった朝比奈さんは罰金の対象から外れるらしい。

そして次に引くのはハルヒだ。

こいつは野球大会や球技大会などでその類稀なる抜群の運動神経を見せ付けているから、今回の弓道だってしでかしてくれるに違いない。

美しいフォームで弓を救い上げるようにして打ち起こすと、そのまま華麗な大三をとりスムーズに引き分けてきた。とてもはじめてやるとは思えない。

だが、確実に当たると思われたそれは、空しくも安土に刺さるのみとなった。

「ハルにゃん、中てようとしたね?」

鶴屋さんが楽しそうに軽快な調子で聞く。

「駄目だったかしら?」

「中てるんじゃないっさ。中るんだ。」

禅問答みたいなことを仰る。そう思ったのはハルヒも一緒らしく、よくわからないといった顔をして二射目に入った。

同じく、外れ。

ハルヒの眉間のしわの数が増えてくるたびに、古泉の顔にたれる冷や汗の数が増えてゆく。古泉にしてみれば、これはハルヒにとってもっとも良い退屈しのぎになると思われたのに、それが原因でこうしてハルヒにイライラが募ってゆくのだからたまったものではない。


「あー、もう!何で当たらないのよ。」

ハルヒは悪態をつきながら次に打つべき矢を手に取り、弓を床に置くと

「ふざけんじゃないわよ!!」

と一つ叫んでそのまま右手を大きく後ろに振りかぶると、野球のボールなら200マイルは軽く出るんじゃなかろうかというほどの腕のスイングを見せ、ダーツの要領で矢を的に向かって投げつけた。

今まで明後日の方向に飛んでいた矢はまっすぐ吸い込まれるようにして、的の中心に突き刺さった。

「ふん、どんなもんよ。」

ハルヒは得意げにそういっていたが、残念ながら俺の意識はそちらへ入っていなかった。








風が吹いた、室内なのに何故だかそんな気がした。

その錯覚の風になびくように、髪がふわりと動く。凛とした空気を漂わせ、そこの空間だけ切り取られたように俺の目には映って見える。

弓をゆっくりと打ち起こす長門の横顔から俺は視線を外すことが出来なかった。

本来であれば、男の俺でさえ苦しかった弓を引くという動作を顔色一つ変えずに行うその態度、風格には柔らかな強さとりりしさを感じる。そして、時が満と同時に放たれた矢は美しい直線を描き、すでに矢が3本刺さっている的に4本目が華麗に中った。弦が顔の横を通ったことによって、髪は乱れる。その中で的からゆっくり顔を戻す。そのときに乱れた前髪が目にかかり、首をフルフルと振って払いのける仕草。今までの一連の動作に俺は何かしらの形容しがたい感情を感じた。端的に言えば心臓がどくりと跳ね上がった。

「もしかして有希っ子、皆中かい?」

小さく頷く。

鶴屋さんはほえー、とため息とも感嘆の声ともつかない声を上げると

「すっごいよ!初めてで皆中なんてあたし聞いたことないっさ。」

「私はまだまだ。」

鶴屋さんはそれを聞くとケラケラとわらって、将来有希っ子は大物になるよ、なんていいながら頭を撫で回していた。長門もまんざらではなさそうだ。


ところで、3射目を槍投げスタイルで中てたハルヒは、どうも今のあたりが気に喰わなかったのか、4射目は普通に弓を引き始めた。そして普通に中てた。末恐ろしい奴だ。

こうして、短い弓道大会は長門の皆中による優勝で幕を閉じた。

その後、ハルヒは勝てなかったことにいらいらすると思われていたが、

「最後は会心の当たりね」

と満足げに語っていたので自分の中ですっきりしたのだと思われる。まあ、これで暴れだされちゃ何のためにこういう場を設けたのか解らなくなるから一件落着といえよう。

大会が終わったあとは鶴屋さんのご好意によってお茶をご馳走になった。何でも鶴屋さんは茶道にも精通しているらしく、鶴屋さんが入れてくれたというお茶は真に美味であった。こんなに何でも出来るなんて彼女のほかにはワタリくらいしかいないだろう。

これ以上長居するとご迷惑になるのでそろそろお暇することになった。何か長門鶴屋さんに弓を借りるようだ。何でも弓道に興味がわいたとか。なんにでも興味を持つのはいいことだ。

途中の道まではSOS団全員で移動し、分かれ道でハルヒの「じゃあ解散!」という声で分裂して行った。俺と家の同じ方向にある奴はいないので俺は一人だ。もうすでに筋肉痛の始まっている重たい腕をぶら下げつつ、家路に着いた。
















・・・とまぁ、ここまでが今日の事の顛末だ。

だけどな、実はまだ続きがあるんだ。

俺が夕飯を済ませ、勝手に部屋に侵入してきたシャミセンのおなかを撫で回しごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らすシャミセンに心癒されているとき、いつものバイブレーションではなく着信音がなった。俺は思わずそれに驚き、シャミセンを叩いてしまい、もちろんシャミセンの怒りを食らった俺は頬に久しぶりの引っかき傷を頂戴する破目になったのだが、痛がっている暇もないことは机の上で鳴る携帯電話が伝えている。

この着信音は長門以外にはいない。




「もしもし俺だ。」

俺の携帯にかけているのだから出るのは俺しかいないのにこの応対は明らかにおかしいが家電に出るときの癖なので仕方がない。

「今から私の家に来ることは出来る?」

「あぁ、別に良いけど。用事ならさっき伝えてくれてもよかったんだぞ」

わざわざどちらも家に帰ってからもう一度連絡を取り合うのは二度手間でしかない。

「それでは駄目、私は一度家に帰る必要があった。」

「そうなのか。」

「そう。それじゃあ、待ってるから。」

そうして電話は切れた。

ふむ、一度家に帰らなければならない用事がなんなのか気にはなるが、長門が呼んでいるのだから今すぐ行く必要がある。

くそ寒い中自転車に乗るのはためらわれるが長門のためを思えば何の苦にもならない。マフラーをしっかり巻き、足をペダルにかけると極寒の夜の道へと自転車を漕ぎ出した。










引っかかれた傷が寒さにしみる中、何とか長門のマンションまで漕ぎ着けた。




「・・・入って。」

言われるがままにドアを開けるとそこには長門がいた。先ほど持ち帰ったと思われる弓とともに袴を着て。

長門、用事って・・・」

俺が言い終わらないうちに、長門は今日の皆中を出したときと同じように真剣な表情で目一杯弓を引いた。


俺に向けて






「ちょっ、待って」


ビュンっという弦音だけが響いた。

本来なら確実に俺の心臓に矢が刺さって、今頃俺は目を見開いてひざまずき、そのまま地面に倒れこむはずだが、俺の胸からは何も飛び出てはいなかった。

「な、何をしたんだ?長門

「矢を放った。」

・・・・・・?放たれているはずなら俺は今生きていないはずだが。

「古来、弓を引いて恋の矢を放つという行為がある。」

確かそれはキューピッドって奴だな。

「貴方の心臓を目掛けて矢を放った。・・・刺さった?」

悪戯っぽい表情で首を傾げる長門。こんな表情の長門は初めて見る。

確かに、刺さったのかもしれないな。そんなかわいいことを言っている袴姿の宇宙人に俺は見とれているのだから。