『SS』 月見草

 季節はもう真冬に近いと言ってもいい時期の話である。そろそろ文芸部室唯一の暖房器具である電気ストーブをカオス状態になった棚の奥から引っ張り出せとの団長命令が下る前に自らの意思でそれを実行しようかと思ってくるくらいの寒さを覚える日の事だった。
 その文芸部室は相も変らぬメンバーで絶賛非生産的活動中である。あえて言えば朝比奈さんだけは心も体も温まるお茶を生産されているのだが。とにかくその湯気香る緑茶だけを生命線に、俺達は安易で幼稚な活動に終始していたのである。どのくらい幼稚かと言えば古泉がセオリーを無視して飛車を犠牲に俺の歩を一枚取るくらいの幼稚さだ。お前、そこに穴を開けて俺の桂馬の通り道を作ってどうすんだ? 早く終わらせたいのか、敗北の最短記録でも作るつもりかね。
 さて、俺と古泉は将棋をしていて朝比奈さんはお茶の管理に余念が無い。残る二人のメンバーの内、文芸部員に相応しい活動をしているのは窓際の定位置で読書中の長門なのだが生憎とここは文芸部ではなくSOS団とやらに乗っ取られてしまったのでこの活動を評価されることは無いのであった。まあ読むだけなので誰にも評価されることはないのだけど。
 そうなれば我がSOS団の団長閣下は何をしているのかと思えばいつもの団長席で朝比奈さんの淹れてくれたお茶を飲みながらネットサーフィンの真っ最中であったりするのだ。何でも情報収集らしいのだが、昨日朝比奈さんと二人で盛り上がっていた冬物のバーゲンとやらにどんな不思議が隠されているのかは俺達男には不明のままなのだろう。とはいえ、本当に不思議というか奇妙なものなど見つけてしまえば苦労するのはこちらなのであって現状は概ね平和であると言えるのだ。のんびりとした時間が流れているんだ、それに越したことはない。平穏万歳。
 たまに俺達が駒を置く音に長門がページをめくる音、カチャカチャと湯飲みを朝比奈さんが片す音にハルヒのマウスをクリックする音と、静かで平和な時間が流れてゆく。平和だ、ありきたりな表現ながら平和という言葉のありがたみが染みてくる。このまま終われば話は楽なので終わりたいのだが。
「ふ〜ん、野球選手も大変よねぇ…」
 そのハルヒの呟きにより話は続く事が確定した。というか何を見てるんだ? それは俺以外の団員も疑問に思ったらしく、朝比奈さんが天使のハニーボイスで、
「何見てるんですか涼宮さ〜ん?」
 とハルヒの背後からパソコンモニターを覗き込もうとした。別段見られても困るものではなかったのか、ハルヒは少し席をずらして朝比奈さんに画面を見やすくすると、
「これよ。何か契約更改で何千万円も下げられたとか何とか言ってるからね、お金なんてあるとこにはあるのねって」
 さっきと言ってる事違うけどな。ただスポーツ選手というのは選手寿命が短いから稼げるときに稼いでおかないと大変なんだろうなとは思う。とにかく俺などには無縁の話でもあるし、それはここにいる面子なら全員そうなのであるからしハルヒが何も思うことも無くただ話しただけの事なのも分かろうというものだ。
 ただし俺はすっかり忘れていたのだがハルヒという女の思考回路は全ての出来事を自分レベルの話にまで持ってくるのを常としていたようだ。
「そういえば野球って中途半端だったような気がしない? SOS団初の対外活動としては優勝するべきだった気もするのよね」
 瞬間、部室内に緊張が走る。具体的に言えば朝比奈さんはお盆を取り落とし、古泉は駒を置く直前で動きを止め、長門は普通にページをめくっていた。俺は眉間に皺が寄らないように指で揉み解す。まさかたかがネットのニュースごときであの悪夢のような野球大会を思い出すなんて予想出来る筈ないだろ。
 その後も何やらブツブツと画面を見ながら呟くハルヒに不穏なものを感じてきたので流石に注意が必要だと思い、俺はハルヒを止めるべく話しかけた。
「なあ、もういいだろ。一勝とはいえSOS団は勝利に終わったんだし、素人としては十二分な結果だ。それにあの時はお前だってそれでいいって言ってたじゃないか」
「そうは言うけどあたしのSOS団ならあそこから破竹の勢いで優勝までの道を一気に駆け上がって行ったに違いないもの! 時間制限なんていらないものがあったから仕方なく諦めてあげたけど時間無制限一本勝負なら負けるはずがないじゃない!」
 それはもう野球じゃないぞ。それに勝てたのは九分九厘長門のインチキのおかげであって決してそれは言えないのだ。しかもハルヒのやつは言うに事欠いて、
「あんただって凄かったじゃない、ホームランも打ったし何よりピッチャーの才能があるなんて意外すぎて履歴書の特技の欄に困らなくていいじゃない!」
 などと言い出したものだから背中に冷や汗が流れる。まさかそこまで鮮明に覚えているとは。それにたかがピッチングが上手いくらいでは履歴書に書くにはちょっと弱いと思うぞ。
 とはいえこれはなかなか危険な兆候ではないのだろうか。朝比奈さんも慌てているが、これは多分また野球をすると思っているからかもしれないがシーズン的に無いと思います。それよりも古泉が微動だにせずに顔色が悪くなっていっている事の方がまずそうだ、何を言い出すのかと戦々恐々なのだろう。
 しかも俺への直接的な被害が避けられそうもない状況だ、これは話を逸らさねばならないだろう。
「そうだ! キョンを野球部にレンタルするのはどうかしら? もしかしたら才能が一気に開花しちゃってプロからスカウトなんかきたらSOS団の名前も一気に売れるし資金に困る事なんてなくなるじゃない!」 
 逸らせなかった。それどころか直接俺への被害しか被らない事を言い出した。何より俺の給料は全部SOS団の資金なのかよ。
キョンくん、ツッコミどころが違います」
 ああすいません、ちょっと動揺していたようです。朝比奈さんに言われるまでもない、俺は敢然とハルヒの妄想を止めねばならないのだ。というか野球なんてもうやる気ないし。
「いやハルヒ、お前レンタルってSOS団の活動優先なんだろ? 野球部なんて朝練もあるし夜間練習もあるし夏休みも冬休みも正月だって無くなっちまう。俺はそんなの嫌だからな」
 言ってて思うが本当に嫌だな。よくあんなもん出来るもんだ、俺とは無縁なものだと改めて実感する。なのでどうしてもハルヒには翻意してもらいたかったのだが。
「大丈夫よ! あんな凄いピッチングしたキョンでしょ、ちょちょいと助っ人で参加しちゃえば甲子園だろうが東京ドームだろうがサンマリンスタジアムだろうがどこにだって行けるわ! それに有希だってコンピ研に仕方なく貸し出してあげたりしてるじゃないの。だからどんどんレンタルしたっていいのよ」
 文科系丸出しのコンピ研と体育会系の象徴たる野球部を一緒にするな。というかそんな助っ人なんかで甲子園になんか行けるわけないだろ、あと何で宮崎県の巨人のキャンプ地に行かなきゃならんのだ。ほとんどうろ覚えな知識のまんまじゃないか。呆れながらも見ればハルヒの目は輝いている。主に\マークで。いや、俺がプロ野球選手になるのが前提なのか?
「それだけあなたに期待しているということでしょうね」
 ようやく顔色の悪さが抜けてきた古泉が面白そうに呟いた。お前、自分に被害が無さそうなのを確認してから言ってやがるな。
「いえいえ、あの野球大会の時もあなたに言ったはずですが? 何故打順がああなったのか、そして一番花形のピッチャーをあなたに譲ったのかと」
 俺の活躍をハルヒが見たかったというやつか? ありえないだろ、能力的には残念ながら全ての面で俺はハルヒに勝てる要素がなさそうだ。
「それでもですよ。あなたには活躍して欲しい、涼宮さんらしい心遣いじゃないですか」
 それでこれだけ迷惑してるんだがな。すると古泉は何か言いたそうに肩をすくめた。何だよ?
「いえ、涼宮さんもあなたも素直ではありませんからね」
 やかましい。なんて事を言っている場合ではなかったのだ。ハルヒの中では既に話が進んでいた、後は行動のみだったのだ。よし! と叫んだハルヒはいきなり立ち上がると、
「そんじゃちょっと行ってくる!」
 と部室を飛び出そうとした。嫌な予感しかしない俺は自分でも驚くスピードでハルヒの進行方向に立ち塞がった。
「待て! 待ってくれ! お前どこに行こうとしてるんだ?!」
「野球部に決まってるじゃない。あいつら万年一回戦負けなんだから喉から手が出るほど人材が欲しいに決まってるわ!」
 いやいやいやいや! 俺なんかが行った所で相手にされないし! それにハルヒがねじ込んだという理由でしごかれたら堪ったもんじゃない。かといって今のハルヒを止めるにはかなりの労力が必要だ、どうすればいい? 誰か救いの手を、と周囲を見渡してもこんな時に役に立ちそうな奴はいない。基本的にハルヒの言う事には逆らえない連中であっておまけに被害者は俺一人なのだ、朝比奈さんに至っては応援用の衣装を既に容易しようとしている。早すぎます、それより助けて!
 しかし、こんな場合に助けとなる人物は常に俺の傍にいる。その名も長門有希といい、今まさに本から顔を上げたのだ。もう少し早い段階で動いて欲しかったぜ、とも言っていられない。俺は全力でハルヒを説得にかかった。
「そ、そうだ! アレはキャッチャーの力がほとんど全てだったんだ。情けない話だが俺なんかはただ投げていただけでキャッチャーの長門が凄かったから三振の山なんて築けちまったんだよ!」
 ほぼ完全に事実である。アレは長門の力というか宇宙的なパワーで何とかなっただけの話であり、本当に俺は何もしていない。但し長門さんがホーミングモードだの高速で何か呟いたらボールが早く投げられちゃうんですよー、なんて言えないだけだ。そして悪い事に長門は万能でありながらも見た目は小柄で無口な読書少女でしかなく、ハルヒの認識としては長門の運動神経はせいぜいギャップ萌えの範疇に納まる範囲らしい。
 つまりは信じてもらえなかった。
「あのねえ、いくら有希でもボールの速さとかを変えられる訳じゃないじゃない。あんたね、謙遜してるつもりなのかもしれないけど単に自慢げにしか見えないからね」
 呆れるように言われても真実なのだが。さてどうする? このままじゃ俺は野球部に引きずられた挙句にシゴキ決定だ。それだけは避けたい、避けねばならない。ええい、ままよ! 俺は考えるよりも先に口を開いた。
「あ、あれはだな? そう、長門がキャッチャーボックス内で相手のバッターに向かって色々囁いてたから相手が気を取られた隙に俺の球が投げられてたんだ! ほら、聞いた事無いか? キャッチャーのささやき戦術ってやつ。長門は俺に指示をしてて、あいつが気を引いた瞬間に俺が投げてたって仕組みなのさ。だから俺の棒球なんかでも相手はバットを振る余裕なんか無かったんだよ!」
 それでも見た目のボールの速度についての言い訳にはならないのだが、背に腹は変えられない。幸いな事に長門の能力の高さはハルヒも承知済みであり、同じくらい俺の平凡ぶりも承知しているはずなので、ごり押しすれば何とかなるかもしれない。さっきまでと違ってハルヒの様子も少しは話を聞こうという気になってきているからな。
「う〜ん、確かにそういうのがあるってのは聞いたことあるけど。でも有希みたいな女の子の言うことなんて聞いてくれるの? 無視しちゃったら終わりじゃない」
「むしろ逆だ。長門のような女の子がいきなりズバッと切り込んでくるから相手はつい聞いちゃうんだよ」
 少なくとも男なら一瞬でも耳を傾けてしまうものだ。これは本能に近いだろう、長門が普段小声なのも注意を引いてしまう要素になる。しかも相手はスポーツ一辺倒で女に対して免疫が無い、長門が口を開けば気を惹かれてしまうに違いない。
 俺の説明にもハルヒは納得しきれていないようで、
「でも有希が女の子だからってほんの一瞬じゃない、そんなに話し上手でもない有希があの連中を手玉に取ったなんて信じられないわよ」
 確かに鋭いところを突いてくるな。だがそこはSOS団が誇る万能選手の座を欲しいままにしている長門である、言い訳などすぐに思いついた。
「そこが長門の凄いところじゃないか。事前に相手の事を調べていたんだよな、長門?」
 俺のいきなりの投げかけに本から顔を上げた名キャッチャーは静かに頷いた。話を合わせてくれてありがたいのだが本当に聞いていたのかと言えば謎だな。まあ長門にかかれば世界中の何処で内緒話をしていても無駄なような気もするが、反面何も聞いてない可能性も高いのが長門なのだから。
 長門の数センチの肯定にも(ハルヒにも分かるようにいつもよりも大きく頷いてはいる)不信感を隠し切れない団長は自ら席を立つと長門に近づいた。
「ねえ有希、キョンの言ってるのって本当なの?」
「そう。わたしは事前に調査したデータを元に相手バッターに対して初動動作の妨害に着手、成功した。結果として彼のピッチングをサポートすることになる」
 おお、話を聞いていただけでなく辻褄まで合わせてもらえるとは。これは長門に感謝しなくてはいけないな、今度の休みは一緒に図書館にでも行くか。
「ふ〜ん、まあ流石といえば流石は有希よね」
 ハルヒ長門の言う事には納得するとみえ、一人大きく頷いている。まあキョンなんかにそんな実力なんてあるわけないわよね、とは余分な感想だが。
 しかし事態は収拾に向かっているのだろう。朝比奈さんは大きくホッと溜息をつき、古泉もニヤケ面に戻っている。まあ暇つぶしの話題としては悪くはなかったのだと思いながら長門が本を閉じるまでの時間をゲームへと費やそうとしたのだったが、そうは問屋が降ろさなかった。問屋の名前は涼宮ハルヒという。あいつはまだ何か引っかかるものがあるのか、しつこく長門に食い下がるのだった。
「でもそれならあたしがピッチャーの時も有希がキャッチャーをやってくれれば良かったんじゃないの? 何で最初から言ってくれなかったのよ」
「彼とは事前に打ち合わせ済みだった。即ち、わたしの作戦を実行するためには彼の協力が不可欠。彼以外の人物では作戦の完全なる履行は出来ないと判断した。彼以外じゃダメ」
 そうか、それなら納得だな。って、何か言い方がおかしかったような気がするんだが気のせいか? しかし気のせいでは無かったようで。
「ちょっと! 打ち合わせは分かるけど二人だけでってのはおかしいんじゃない?! それならまず団長のあたしに話をするのがスジってもんでしょう!」
「時間が無かった。それにわたしの作戦を実行する為にはピッチャーが投げるボールのスピード、投げるタイミング、全ての要素がかみ合わなければわたしが囁く為に必要な時間が出来ない。その条件を兼ね備えていたのが偶然にも彼。彼なしではわたしの作戦は実行出来なかった。彼じゃないとダメ」
 その最後の一言は必要なのか? 言われるたびにハルヒの機嫌が悪くなっていくのが俺にでも分かるんだぞ。見ろ、朝比奈さんが再びお盆を抱えて震えだした。古泉、まだ携帯は鳴らないよな? 
 ハルヒは眉を片方だけ吊り上げるという器用なことをしつつ、尚も長門に詰め寄ろうとする。
「つまり有希はキョンがピッチャーだから自分の囁きが上手く言ったって言いたいのね?」
「そう。バッテリーとは互いの信頼によって協力することにより全能力を発揮できるという二人一組での作業。わたし一人の力ではない、彼あってこそ。彼あってのわたし、わたしがいてこその彼」
 おい! 絶対最後の一言いらないだろ! ハルヒのこめかみに青筋が浮かび、それを見た朝比奈さんが気を失いそうになって古泉に支えられた。それは俺が、などと言っている場合じゃない。とにかく目の前で繰り広げられている光景は目に見えない何かが飛び交っているような、はっきり言うと火花が散っているようにしか見えないのだ。どうしてこんなことになっちゃってるんだろうなあー?
 俺が古泉の携帯がいつ鳴るのかとハラハラしながらも二人を止める事も出来ずに時間だけが流れてゆき、朝比奈さんが古泉に支えられたまま意識を飛ばしかけた時だった。
 バンッと大きな音を立ててハルヒが長机を叩いた。ヒッ、と朝比奈さんが身をすくめる。そしてハルヒは勢い良く長門を指差して宣言したのだった。
「分かった! そこまで言うならあんた達の実力とやらを試してあげるわよ! キョンがピッチャーで有希がキャッチャー、それをあたしが打ち砕いてやるわ!!」
 な、なんだってー?! いきなり何でそうなるんだ、大体ハルヒ相手に野球勝負なんてやる意味が…って何故本を閉じる長門
「承知した。我々の実力を判断してもらういい機会、わたしは涼宮ハルヒと勝負する」
 おいおい、お前まで何だよ! っていうか俺の意思はどこいった?! 朝比奈さんは完全に気を失ったようで古泉がどうにか介抱している。携帯が鳴らないのを幸いと言っていいものかどうか。
 とにかく勝手に話を進めてしまっていたハルヒ長門は勝負することとなったのだ。あの長門が何故ここまで勝負に拘るのか分からない、それともこれもカマドウマのようなハルヒの退屈しのぎの策だっていうのなら些かやりすぎなんじゃないだろうか。しかも毎回人を巻き込むんじゃねえよ、単純に運動神経を競うなら二人でやってくれ。
 気絶したままの朝比奈さんを介抱するからという取ってつけた理由を持って古泉を置いたまま、俺とハルヒ長門はグラウンドへと向かわざるを得なくなってしまっていた。ほんと、出来れば二人でやっててくれないか? お前らの迫力に哀れにも意識を失った可憐なるエンジェル朝比奈さんのお傍で優しく起こして差し上げるのは俺にこそ相応しい役目だろうって、もう言いませんからその視線はやめてください。今度は俺が気を失っちゃいますから。










 と、言うことでここは野球部のグラウンドである。この場に至るまででも結構な時間が経っていたので野球部は既に片付けに入っており、最後に整備をするという条件であっさりとハルヒにマウンドを貸し出しやがったのだった。まあ揉めて野球部と勝負するという展開にならなかっただけ、マシなのかもしれない。うん、全然マシじゃない。だって俺はマウンドに立っているんだもん。
 そして俺の傍らには長門。キャッチャーらしい格好などまったくしていないがミットだけは持っている。俺だって制服のままでグローブしか持っていないが。そして俺の視線の先には、これまた制服姿でバットを持ったハルヒが仁王立ちしているという構図である。おお、見事なスイングだ。流石はハルヒ、あれから何もしていなかったのにフォームは体が覚えていたとみえる。
「はあ、どうすんだよ? アレ」
 プロ野球初の打って走って守れる女性選手に限りなく近い女の圧倒的なスイングを見て俺は溜息をつく。触れるものを全て粉砕しそうな勢いに恐怖すら覚えるのだが何故にあいつはそうまでして勝負に拘るのだろうか。
 拘ると言えば傍らの小柄な相棒もそうだ、何故俺のちょっとした誤魔化しがここまで大げさな勝負事へと成り上がっていったのかカリスマロックンローラーに訊いても答えてはくれないだろう。
「問題ない。当初のあなたの予定通り、わたしが涼宮ハルヒに対して会話を試みる。それにより彼女が三振をすればミッションは成功、わたし達の力が証明される」
 えーと、微妙に俺の考えとずれているような気がするんだけど。別に俺たちがハルヒよりも上だとか言いたいわけじゃないし。
「あくまでもバッテリーである事が重要。わたし達二人ではなければ意味が無いとなれば野球部へのレンタルも困難になる。故にわたしはあなたの為にも涼宮ハルヒから三振を取らねばならない。許可を」
 確かにバッテリーでのレンタルとなれば長門が女性である以上野球部としては公式戦にも使えないし意味が無い。それにSOS団から二人も欠けるのは流石のハルヒも許さないだろう。理屈としては長門の言う事は正しいはずなのだが。
 どこか長門の言い方が引っかかるんだよなあ。何が、と言われると困るのだけど。しかしまあ、ハルヒの理不尽には逆らいたいのもあるので長門に協力することに吝かではない。
「分かった。そんじゃハルヒには少しは痛い目を見てもらうか」
「了解。あなたにはボールを投げるタイミングを指示する。ストライクゾーンに入りさえすれば後はわたしが」
 そのコントロールも怪しいもんなんだが、何とかするさ。という事で、早くしなさい! というハルヒの怒鳴り声を共に俺と長門ハルヒの野球対決となってしまったのであった。
「さあ、あんたたちの実力をこのあたしが確かめてあげるわ! どっからでもかかってきなさい!」
 あー、その前にちょっといいか?
「何よ?」
長門、下に何か穿くか着替えてこい。お願いだから当たり前のように構えないでくれ」
 思わず普通に見ちまったじゃないか。白と緑のストライプを。
「なっ?! ゆ、有希! 今すぐ下にブルマ穿きなさい! ケダモノキョンに犯されるわよ!」
 酷いことを言うな! 制服で野球やろうとするお前が悪いんじゃねえか! あと、長門はもう少し自分を大事にしなさい。
「わかった」
 ということで長門の着替えでまた時間が無駄に過ぎていった。このまま日が暮れてなかったことにしないか? それと長門、あなたになら……ってどういうことだ?
 などとくだらない事で時間を消費しながらも結局三球勝負は実行されてしまうのだ。やれやれ、本当に帰らないか? 何もしてないのにマウンド上で疲れきってるんだけど。









 さて、第一球だがタイミングと言われても、と思ったら頭の中に声がする。
『聞こえる?』
 うわ、何か気持ち悪い。これは長門の声か? テレパシーか、これ?
『違う。極微細動な振動を唇から派生させてあなたの鼓膜まで直接届けている。振動は微弱だがあなたは音声として認識しているだけ』
 えーと、凄く小声で内緒話しているようなものか?
『概ね、そう。これであなたに指示を送る』
 トランシーバーのようなインチキじゃないだけいいのだろうか。それでもこれもかなりの反則だと思うが。とはいえ長門流に言うのならば自らの技術のみの力でインチキではないのだろう。高速タイピングと違って傍目からは分からないしな。
「って、俺がお前の声を聞けるのは分かったけど何で俺の思った事がお前に分かるんだ? 俺は声には出してなかったはずだぞ」
『…………勘?』
 お前、それで誤魔化したつもりか! 本当に脳内に直接アクセスされてないのか怖いんですけど。
『それよりも第一球を』
 いや説明が足りてないって! マウンドから降りたいのにも係わらずハルヒがブンブンとバットを振っているので結局投げるしかない。
「くそっ!」
 イライラをぶつけるような勢いで投げたボールは我ながら驚くほどの棒球だった。コントロールを重視した結果としてはスピードが落ちるのは否めない。というのも言い訳でおれの実力としては届くだけマシだろ、としか言い様が無い。
 自信満々に構えていたハルヒの目がギラリと光った、気がした。見事なるフォームからバックススイング。
「おりゃー!!」
 やばい、完全に打たれる! と、ハルヒのバットが急制動して。
はえっ?!」
 ボールは長門のミットに綺麗に納まった。中途半端な体勢でバットを止めたハルヒが呆然と長門を見つめている。一体何を言ったんだ、長門は? しかし長門は立ち上がることも無く手首を軽く捻っただけで俺にボールを返すと、
『第二球のタイミングはわたしが』
 脳内で響いた声に頷くしかない。
「さ、さっきのはナシ! あんなもん偶然よ偶然! 今度は騙されたりしないんだから!」
 慌てふためいて叫ぶハルヒ。本当に何を言われたんだろう。訊きたいような訊いたら何か終わりそうな。主に俺の生命的に。
 兎にも角にも二球目は長門のタイミングとやらに従うだけだ。ハルヒが気を取り直しつつあるのだがインターバルをわざと置いたのかもしれない。やると決めたら徹底的だからな、長門は。一応構えながら長門の指示を待つ。
 と言ってもそんなに待たずに声は聞こえた。
『今、外角高めに投げて』
 だからコントロールなんて出来ないんだって。しかし長門が言う通りにしないとハルヒから三振は取れないので狙いをつけてボールを投げ込む。
 当たり前だが狙い目よりも遥かに高いクソボールが長門のミットよりも上を目掛けて飛んでいく。さすがにこれはハルヒも見逃してボールだろう、三振はともかく三球勝負ならこれで負けだとか言われかねん。あいつは遊び球なんてもんは使いそうもないからな。
 これで終わりか、と投げた本人すら諦めかけ、ハルヒも余裕を持って見逃すと思っていたら長門がミットを軽く上げた。
「な、な、なあああっ?! 何言ってんのよ有希ィ!!」
 は? お前こそ何言ってんだ? と言いたいのだが勢いで振り回したバットは見事に空を切った。というか長門を見てボールなんか見ていないから当たったら奇跡だ。ハルヒならあるいは、というのもあるが今回はそれどころではないらしい。長門トークが恐ろしくなってくるな。
 マウンド上から見ても顔を真っ赤にしているハルヒに一体何があったのかと逆に不安になりつつあるが冷静な長門の声が頭に響く。
涼宮ハルヒは動揺している』
 それは見れば分かる。どうやってハルヒにそこまでダメージを与えたのか教えて欲しいくらいだ。でも聞かないコトにしとくよ、多分その方が正解なんだと思う。
『三球目までにもう一度彼女に囁きかける。動揺した隙に投げて』
 もうかなりの動揺具合だと思うのだが。だが長門は念には念を入れるタイプだ、止めを刺す気満々らしい。
 今更なのだがこれ大丈夫なのか? ハルヒの機嫌が悪くなれば色々とまずいんじゃないのかよ。主に古泉だが。そういえば古泉と朝比奈さんはどうしてるんだろう、朝比奈さんだけが心配だ。
朝比奈みくる古泉一樹により保健教室へと移動済み』
 そうか。なあ、やっぱりお前は俺の思考読み取ってないか? という俺の思考だけ無視された。もう気にしたら負けなんだろうな、と溜息を一つ。
 しかし状況としては後一球で終わりなのだ、早く終わらせて朝比奈さんのお見舞いにでも行こう。そう思って再び構える、長門がどのタイミングでハルヒに話しかけるのか分からないからな。
 ほぼ待つことも無く、俺から見ても分かるくらい長門ハルヒの方に体ごと寄せて何事か話しかけたようだった。
「ひゃあっ?! あ、あたしは別に……」
 何言った長門? ハルヒがバットを振り回している。いや危ないから、長門に当たりそうだから! まあ長門にバットが当たる訳もないけど。むしろ当たったらバットの方が折れ曲がるんじゃないか、などと余計な心配をしていると、
「へ?! え、それって有希! あんたねぇ!!」
 何だ、何が起こってるんだ? もうバッターボックスから飛び出しそうな勢いで長門に詰め寄ろうとするハルヒ。おい、それはまずいだろ!
 と、ここで長門の声がする。
『投げて』
 は? 今かよ?! と、俺も反射的にボールを投げてしまった。コントロールなどあったものではなかったのだがどうにか真っ直ぐ飛んでいくボール。
「あ? え? キャアッ!」
 咄嗟に飛んできたボールにバットを向けてしまったハルヒだが、勿論当たるはずも無く。ボールは何時構えていたのか分からない長門のミットに綺麗に納まったのだった。これで三球三振である。だがこんな事で納得するハルヒではない、というかハルヒでなくとも納得は出来ないだろうな。
「ちょっと有希! いきなりボールを投げさせるなんて反則よ! 断固やり直しを要求するわ!」
 俺がマウンドから降りて二人に近づいた時、ハルヒは物凄い勢いで長門に詰め寄っていた。
「あなたはタイムを申請しなかった。ルール上は何も問題は無い、我々の勝利」
 対する長門は冷静そのものだ、確かにタイムをかけた様子も無かったしな。俺としてもこんな茶番は早く終わらせたい。
「なあ、もう決着は付いただろ? これで俺の力じゃなくて長門が凄いんだって分かった事だし、とっとと朝比奈さんのお見舞いに行くぞ」
 納得はしてないだろうが長門はルールを守っている。少なくともハルヒに反論の余地は無いのだ、だからもう帰ろうぜ。などと言っているとハルヒから凄い目で睨まれた。何だよ、自分が三振したからって人に当たる気か。それは我が儘も過ぎるだろ、俺だってそんなに優しくはないぞ。
「あんたのせいじゃない!」
 は?
「ねえ、有希と二人っきりで有希の部屋に居たって本当?」
 なっ?! いきなり何を言い出したんだ? 見れば長門は無表情のままなのだが、まさかお前が囁いたのって。
「有希の部屋に泊まった事もあるんだって?」
 いやそれは朝比奈さんが…………って言えるか! ハルヒは真っ赤な顔で目尻に涙すら浮かんでいて。え? 何これ、何で俺ハルヒに詰め寄られてるの?!
 それに誤解だ、俺と長門は何も無い! というか事実なだけに反論しにくいじゃねえか、何て事言いやがった長門! 本人は無表情なままだけど。
「い、いや誤解だ! 俺が長門と何かある訳ないだろうが! 落ち着け、これはあくまでも作戦というやつで……」
 しかし涙目のハルヒはバットを持ったまま俺に向かい、
「それに、それにあんた! あたしにはポニーテール萌えだなんて言っておきながら有希にメガネがない方が可愛いなんて言ったんじゃない! だから有希がメガネをしなくなったのね?!」
 長門ーっ! お前、何て事言いやがったんだ! やばい、ハルヒがやばい! 待て、まずはそのバットを下ろすんだ! 落ち着け、話あおうハルヒさん! あとポニーテール萌えは夢の中の話じゃなかったのか? 俺、現実にそんな事言ってないですよね!
 しかしもうハルヒに俺の声は届いていないようだ。バットを引きずって俺へと歩み寄るカチューシャを着けた鬼、それが迫り来る恐怖! 怖い、これは怖い! あの朝倉に襲われた時以上に怖いって!
「あ、あたしだって! あたしだってキョンに萌えてもらえるようにってポニーテールにしたのにー!」
 うわちょっと嬉しいけどバットを振り上げるなーっ! 最早ヘビに睨まれたカエル、俺は恐怖のあまり動けなかった。その脳天にバットが振り下ろされる!








 思わず目をつぶったが、何も起こらなかった。…………どうしたんだ? 思い切って目を開けるとそこには。
 気を失ったハルヒと、それを支える長門の姿があった。助かった…………のか?
「問題ない。涼宮ハルヒは自らが敗北した興奮のあまり貧血を起こした事にする」
 そうか。色々言いたい事はあるが、とりあえずどうすればいい?
「保健教室へ。朝比奈みくるの隣のベッドは未使用」
 はあ、そうするしかないのか。俺は長門からハルヒを受け取るとおぶって保健室へ向かう事にする。なんだろ、すっごく疲れた……









「え、え〜と、何があったのでしょうか?」
 説明したくない。朝比奈さんの隣で眠るハルヒを見て冷や汗をかいている古泉には悪いが本当に説明出来ない。ただこっちから訊いておく事はある。
「なあ、閉鎖空間は出なかったのか?」
「若干精神的な不安はありましたが閉鎖空間が発生する前に涼宮さんが気を失ったようでして。本当に何があったんです? 顔色も悪いようですし」
 いやもう何も言いたくない。何よりも俺には理解出来ていないといった方が正解だ、訊くなら長門にしてくれ。
「その長門さんもあの調子ですし……」
 いや、あいつはいつもあんなもんだ。ベッドの傍らで本を読む姿は先程まで野球をやっていたなんて思いもしないだろう。淡々と、変わることも無く長門長門のままだった。
 はあ、こいつのせいでとんでもない目に遭っちまった。俺はカバンを持つと、
「悪いが先に帰るぞ、疲れた」
 そう言って帰ることにした。
「出来れば涼宮さんが目覚めるまで居てもらえた方がいいのですが。起きた時にあなたがいないとまた不機嫌になってしまいます」
 知るか、こっちはハルヒのせいで疲労困憊なんだからな。お前が上手い事誤魔化しておけ。
「そうですね、何とかします。ではまた明日」
 やれやれ、もう運動は勘弁してくれ。俺は一人帰宅の途に着いたはずなのだが。
「おい、お前はハルヒの傍に居なくていいのか?」
 後ろから静かについてくる気配に声をかけてしまう。
「構わない。命には別状はない、目覚めた時の記憶も操作済み。情報操作は得意」
 そういうものでもないと思うぞ。それにお前が原因でもあるんじゃないか。何故ハルヒがあそこまで激高したのかはちょっと不思議だけどさ。
「わたしは事実のみを伝えたに過ぎない」
 その事実が問題なんだろうが。とはいえ長門に頼りっぱなしというのもまた事実なんだと思わされるな。
「それにしてもやりすぎだろ、お前にしては珍しくハルヒをやりこめちまったけど何でなんだ?」
 長門の本来の役目からすればハルヒの機嫌を損ねかねないような行為は慎むべきだ。それなのに今回は長門ハルヒの退屈を紛らわすというのとは違う様子で勝負した挙句に勝ってしまった。それは何故なのだろうか。
 すると長門は少しだけ俯き、しばらく何か考えをまとめるように黙り込んだ。無口なのはいつものことだが俺の質問に答えないのは珍しい。というか言いよどんでいる、というのが正解か。それも珍しいというか今までに無かった反応だな。
「まあ言いにくいならそれでいいけどな。お前だってハルヒに言いたい事もあったんだろうし」
 すると長門はようやく口を開いた。
「上手く言語化出来る自信はない。でも聞いて。わたしはあなたとバッテリーを組んだ。そしてわたし達は野球で勝利した」
 まあそうだな、ほとんど長門の力だったけど。
「違う。わたしの能力が使用できるのはあなたがわたしの事を理解して容認していてくれたから。あなたでなければわたしは何も出来なかった」
 うーん、そういうものなのか? まああの時は俺もハルヒの機嫌を損ねるくらいならと長門イカサマな宇宙パワーを使ってしまったが。
「そして、わたしはあなたとのバッテリーを大切に思う。故にあなたを守るために涼宮ハルヒと対決した」
 そこまで思ってくれるのは正直嬉しい。それでもやりすぎな面はあるけどな。
「妻として当然」
 …………え?
「わたしはあなたの妻。妻として夫を立てて守るのは当然の義務」
「ちょ、ちょっと待て! 何で長門が俺の妻なんてもんになってるんだ?!」
 分からん、理解不能だ! いきなりとんでもない単語が出てきたぞ? 今までの話とまったく繋がってないじゃねえか、どこで勘違いなさったんだこの宇宙人さんは。
「あなたとわたしはピッチャーとキャッチャー」
 そうだな、確かにそうだった。
「そしてわたしたちは理想的なバッテリー」
 うーん、そうかもしれないがそれと俺の妻との関係は?
「理想的なバッテリー、即ちあなたにとってわたしは恋女房」
 んん? 何だぁ? えーと、確か野球でピッチャーがキャッチャーの事をそう呼んだりすることもあったような。
「女房とは妻の事。つまりあなたとわたしは夫婦関係。それはわたしにとっても望むべきもの」
 あ、あれは言葉のあやというやつでってお前さりげなく凄いこと言ってないか?! 思わずこちらが顔を赤くして長門を見れば相変わらずの無表情。
 に見えるかもしれないが俺には分かる。分かってしまうんだよ、これが。ほんの少しだけ自慢げな光を瞳に宿した宇宙人の得意そうな顔っていうものが。
 いかんな、それは勘違いですよなんて言えそうもない。むしろ俺なんかでいいのか? って訊きたいくらいだ。
「やれやれ、今回は助かったけど明日にでもハルヒには謝るか。気絶させちまったのは悪かった、てな」
 だけどよくやった、頑張ったな、長門。そう言って俺は長門の頭を撫でてやる。大人しくされるがままになっていた長門の唇の端がほんの少しだけ上がっていたような気がして、俺は自分の唇も上がってしまっているのに気が付いた。
 本当によく出来た女房様だ、今後ともよろしく頼んだぜ。
 頭を撫でられた勢いでそのまま肩に体を預けてきた小柄な女の子の肩に手を回し、俺はたまには寄り道して帰るかと思うのだった。家には飯を食って帰るって言わないとな、久々にカレーとキャベツの千切りもいいだろうさ。













 そんな感じで夜を過ごした俺たちが翌日にポニーテールにしたハルヒに再び勝負を挑まれ、何故か今度はハルヒがキャッチャーをやったり、長門が不覚にも三振したりして俺が重婚罪とやらで死刑になりそうになったりしたのはまた別の機会にでも話そうと思う。