『SS』 月は確かにそこにある 21

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 家に帰ってからは母親から雷を落とされながら冷め切った飯を食い、一日中自転車に乗りっぱなしだったので風呂に入って汗を流した。何よりも気分を落ち着けるためには入浴は必要だった、筋肉が緊張から緩和されていくのと同時に頭の中身も蕩けそうになる。これで明日がまともに迎えられるのならばいう事は無いのだが、また考え出すとせっかくの風呂が台無しになるので慌てて目を閉じて余計な思考を追い出した。
 風呂から上がって妹を振り切ってから部屋へと逃げ込み、カバンの中に入っている宿題などには目も向けずにベッドへとうつ伏せにダイビングする。枕を抱え込んだら何も考えずに寝てしまいたいのに今日の出来事が一気に蘇って寝返るしかなかった。走馬灯なら死ぬ間際だけで十分だ、今見せられても頭痛が増すだけでしかない。
 明日、本当に不思議探索があるのか、そこに俺は行っていいのだろうか? 今更ながら今日の態度が問題だったと思うしかない。あの時、俺が部室を出るときにハルヒはどんな表情をしていたのだろう。いつもなら携帯の着信はあいつのメモリだけで埋まっているはずなのに、喜緑さんとの会話が終わっても何も着信など入っていなかった。古泉からも着信が無かったから閉鎖空間が発生していなかったのかと思わなくはないが、それはそれで俺の存在など無くてもいいと宣言されたかのようで引っかかる。朝比奈さんも未来は大丈夫なのか、長門はどうしたのだろうか、取りとめのない事ばかりが脳裏を過ぎる。
 要するに俺はハルヒの巻き起こす事件の中心にいたと勘違いしていて実際はこうして蚊帳の外に置かれている事の方が多いのかもしれない。俺が居なくともSOS団もハルヒも何も影響は無いのだと考えると胸が締め付けられそうになる。
 不安、なのだろう。今までだって面倒だ、大変だと言いながらもどこかで楽しんでいたのは自覚していたからな。だが今回は俺が何かする訳でも無く話だけが進んでいるような気がしてならない、何よりもヒントが少なすぎる。頼れそうなのは今のところは喜緑さんだけだが、それも曖昧な感じだ。まだ喜緑さんも全面的には俺を信用しているとも思えないからな。
 詰まる所、俺には何も出来る事は無く、むしろ何かするほどに泥沼に嵌まりそうになっている。長門や朝比奈さんからは疑いの目で見られているように思えてしょうがない、これでまともに話など出来るのだろうか? 思考は取り止めもなくループし続けている、止めるために布団に潜り込んでいるのに頭の中だけが冴えてしまって目を閉じれば浮かんでくるのは泣きそうなハルヒの顔だったりするから混乱に拍車をかける結果にしかならなかった。
 何でハルヒの奴はこんな訳の解らない事を望んだんだ? それに何故古泉は変わっちまったのか? 疑問はそこに集約する、解決には原因を究明しなければならない。喜緑さんに言われるまでも無く俺も何故なのかは考え続けている。だが何も思い当たる節はない。ハルヒはいつもどおりのハルヒだったし、古泉や俺が何かやったとも思えない。その他でハルヒに影響を与えた要素も俺には見受けられなかったが、これはハルヒなら何から発想を飛躍させるかは分かったもんじゃない。
「あー、もう知らん!」
 布団を頭まで被って無理矢理目を閉じて俺は思考をカットすることにする。今までだってそうだった、こうなればなるようになれと開き直るしかないはずなんだ。だが、ハルヒの顔と、何故か女になった古泉の笑顔が交互に浮かび、俺は眠れないままで一夜を過ごす事となったのだった。
 その時、古泉の笑顔が誰かに似ているような気がしたんだ。そう、この世界と似たような世界の誰かに。それは喜緑さんが光陽園に居たからこそ繋がった何かなのか、それとも……………
 

 …………いつの間にか眠っていたようだ。ただ寝起きは最悪だったが。妹に起こされたわけじゃない、単に睡眠時間が短かっただけだ。
 いつもよりも遥かに早い時間に目覚めた俺は時計を見てほとんど眠れていない事に気付いた。だが二度寝する気分になど到底なれずにとりあえず気分を変えるためにシャワーなど浴びてみる。熱い湯を頭から浴びれば少しは気分も落ち着いた。
 一応今日は不思議探索だ、昨日の事もあるが着替えておいて用意だけはしておく。食欲もある訳じゃないが腹に何か入れておこうと昨日の残りの飯をもそもそと食べ終わると、玄関先でチャイムが鳴った。
 まさか、と思い玄関先まで出て行く。すると、そのまさかだった。目の前には驚いた顔の古泉一姫が居たのだ、律儀にも休日なのに迎えに来るとはな。
「まさかあなたが出迎えてくださるとは意外でした、いつもこの時間には起きてらっしゃるのですか?」
 嫌味か。いつもこうなら俺は奢らなくて済んでるだろうが。いや、お前らこそ、この時間には既に起きて待ち合わせ場所に向かっていたのかと思うと俺が毎回最後なのも納得してしまいそうになるが。
 それよりも古泉の顔を見たときに安堵してしまった自分に妙に納得をいかないものを感じてしまった。まさかこいつの顔を見てホッとするなんてな、そんなに仲間外れが怖かったのかと己を馬鹿にしたくなってくる。だが、現実的には長門接触するために今日の不思議探索は必要なんだと自分に言い訳している俺がいた。それが言い訳に過ぎないと分かっているのにな。
「毎回起きてるとは限らんが、これで済むなら次回からも頼む。というか、前からこうしてくれれば良かったじゃねえか」
「え? 次も迎えに来てもいいんですか?!」
 内心の安堵感を隠すような皮肉交じりの俺の言葉に何故か古泉の顔が輝いた。何故か、じゃないな。理由は分かる、だが分かりたくはなかった。なので俺は言葉を繋ぐ。
「これで俺が最下位にならなくて済むからな、罰金も無くなるならそれに越したことはない。元に戻ってからだと朝っぱらからお前の顔を見るのも鬱陶しいが財布の為なら致し方なしといったとこだからな」
 そうさ、元に戻れば。どうせ俺が最後になるのは分かっている、それがハルヒの望みらしいからな。だからこのくらいの嫌味は言ってもいいだろ、どうせお前は元に戻れば迎えになんか来るわけ無いからな。
「そう、ですね…………」
 だからお前が泣きそうな顔をしても俺の胸は痛まない。たとえその表情を見まいと自分の顔を背けたとしてもだ。そして俺は靴を引っ掛けて古泉の横を通る。行くぞ、と声をかけながら。
 背後で目を拭うような仕草をしたような気がしたが、何も考えないことにする。これ以上調子を狂わされるのは懲り懲りなんだ、戻ったらどんな顔をして古泉と話せばいいのか分からなくなってくるじゃないか。
 待ち合わせはいつもの駅前でいいらしい、俺が歩くすぐ後ろを寄り添うように古泉が続く。何日か前にこういう形で歩いていたら俺が亭主関白よろしく古泉を従えているかのように言われたが、今日は距離を開けている場合じゃない。なので俺は歩くスピードを緩めて古泉の隣に並んだ。いつの間にか子犬と表現しても違和感の無くなった少女は先程までの俯いた顔から急に瞳を輝かせる。分かり易すぎるくらいに分かりやすいその態度は逆に不安を煽る結果にしかならないのに、だ。
 俺は溜息さえも押し殺し、淡々とした口調で尻尾を振っている子犬に問いかける。
ハルヒは大丈夫なのか? あの後、どうなったんだ?」
 それを聞いた古泉はまたも表情を一変させると、
「大丈夫、だと思います。現にこうしてあなたを迎えに行けるくらいですから」
 あまり面白くも無さそうに言ってのけた。それ以上詳しい説明をしようともしない、古泉が自分のアイデンティティーを放棄してしまっているとしか思えないな。それどころか何か呟くその姿は拗ねているようにすら見える。
 だが恐らく閉鎖空間は発生していないのだと思う。もし閉鎖空間など出ていたら古泉はここまで落ち着いてなどいられないだろうし、俺が不思議探索に参加出来るはずがない。
 何よりもこの数日の出来事から俺は一つの疑念を抱いていた。即ち、ハルヒは本当に閉鎖空間を発生させる事が出来るのか? という疑問である。この世界を作ったのはハルヒかもしれない、だがその中でハルヒが能力を使えるのかというのはまた別の問題だからだ。それはあの世界と似通っているという自覚を持った時から胸の奥に瘧のように沈み込んでいた。
 だとすると、もう一つの疑問も当然浮かんでくるだろう。そう、あの時もハルヒの能力は失われていた。という事は、誰がこの世界を望んでいるという事になるんだ? あの、儚げに微笑む少女のように。そう、他の人間は変わっていなかった。ハルヒですら光陽園に居て髪は長かったがハルヒだと断言できる。今のハルヒだってそうだ、朝比奈さんも長門も、あまり接点はないが森さんや新川さん、それに会長と喜緑さんは光陽園に居てもあのままの二人だった。
 では変わったのは何だ? この世界で一番の変化、それは………
「おや、どうやら私たちが一番乗りではないようですね」
 古泉の声で俺の思考は中断を余儀なくされた。待ち合わせ場所にはハルヒは居ない、つまりは最下位ではない。朝比奈さんも見えないところからもしかしたら二人は一緒に来るのかもしれない。
 しかし俺達が一番乗りではない、それは先着していた奴が居るからに他ならない。あいつならば昨日の晩から居たと言われても納得してしまえそうな程に自然とその場に溶け込んでしまっている存在。
 長門有希は誰よりも早く待ち合わせ場所で所在無く佇んでいたのであった、せめて本でも読んでいればいいのにと思えるほどに無表情なままで。
 そしてこれは最大のチャンスだった。まだハルヒも来ていない、その上俺と古泉が揃っている。今長門に情報操作でくじ引きを操作してもらえる様に頼めば後は話合うだけだ。と、ここで俺は駆け出しそうになる心を抑える。今の俺が何を言っても長門には通用しないだろう、逆に怪しまれてこっちの記憶を改ざんされかねない。ここで適任なのは当然古泉ということになる、それは前から打ち合わせていた事でもあった。
 それなのに何故こいつは動こうともせずに俺の隣を離れようとしないんだ? まずは長門に話しかけてくれないことには何も始まらないのに。
「おい、古泉」
 苛立ちを隠そうともせずに肘で突いて古泉を促す。
「はい?」
 その顔は何だ? 何故キョトンとしているんだよ! まさか本来の目的を忘れちまったなんて言い出すんじゃないだろうな! 俺は今度こそ苛立ち、古泉を長門の方へ向けて、
「頼むぞ、くじの組み合わせは午前は任せるが午後は俺とお前と長門の組み合わせになるように上手くやってくれ。ハルヒにだけは気取られるな」
 それが今日の目的なんだ、長門に事情を説明してこの世界からの脱出を図る。その為の不思議探索参加なんだからな、別にハルヒのご機嫌取りだからだけではない。
「ああ、そうでしたね。……………わかりました」
 古泉がやっと理解したかのように長門に話しかけようとする背中を見ながら、俺は不安を感じないわけにはいかなかった。あまりにも古泉が非協力的過ぎる、これで長門が納得してくじを操作などするのか? それに昨夜の喜緑さんの言葉も未だ俺の胸に引っかかっていた。
 この世界の長門は何も出来ない、喜緑さんは確かにそう言っていた。一体何を根拠としているのかは不明だが、心当たりが無いとは言えないから反論も出来なかったのだ。それは長門に能力が無いとの事ではなく(喜緑さんと長門は宇宙人であるから能力そのものはあるのだろう)、ハルヒの命令という訳でもなさそうなのだが。
 まだ俺の知らない何かがある。その中でも俺は出来る事をやるしかない。だが、今日一日で全てが終わる気がまったくしなくなっていた。
 それでも足掻くしかないのだとしても。
 嫌な予感だけは当たりやがる、今回だけはそうあって欲しくはないのだとしても。
 俺は話が終わった長門と古泉に近づき、無表情な長門の小さすぎる会釈に曖昧に頷くしかなかった。頼みの古泉は俺の腕に自分の腕を絡めている、いつの間にというか注意する気にもなれなかったので好きにさせておいた。すぐ間近で笑顔を見れば長門に上手く話が出来たと思うしかない。俺といるから、なんて理由はこの場ではいらない。
 結局ハルヒが途中で合流したと思われる朝比奈さんと二人で待ち合わせ場所に来るまで俺と長門の間に会話は存在しなかった。古泉の楽しそうな声に曖昧に相槌を打つのに精一杯だったからというのもあるが、この後の展開が予測出来たかのようで俺の心は暗く沈んでいくしかない。
 今日という一日がどうなるのか、九割以上の不安とほんの僅かな期待だけが俺をこの場所に存在させる全てだった。