『SS』 月は確かにそこにある 19

前回はこちら

 しかしこの場に蹲ってばかりもいられない、いくら遅れていいとはいえ遅すぎると団長の機嫌がまた悪くなる。もしかしたら居なくてもいいのかもしれないと思ったが、それはそれでと思わなくも無い。
 結局は俺もSOS団というものに依存しているのかもしれない、あの空間はいつの間にか俺にとって無くてはならないものになっていたということだろう。たとえ今の精神状態が最悪であっても、だ。
 俺は結局旧校舎の文芸部室へと向かっている。目を瞑ってでも行けるのではないかと思うほどに通いなれた廊下を歩きながらも考えているのは先程までの事だ。大体喜緑さんの存在を失念していただけでもおかしな話ではあった、この時点で何らかの意思が働いていたのではないかと推測したのも無理はないだろう。だがその後に出向いた生徒会室で喜緑さんにも会えなかったし生徒会そのものが俺の知るものと違っていたのはどういうことだ? それどころか生徒会の連中の口ぶりだとこの北校に喜緑江美里という生徒そのものが存在していない節さえある。
 つまりは現状は八方塞というやつであって俺には他に手段が思いつかない以上、後は当初からの計画通りに明日を待って長門に相談を持ちかけるしかないのであった。そう思わなければ俺の精神が崩壊しかねない程の衝撃ではあったのだが、ここで心が折れるわけにもいかない。まだ手は残されているのならば最後まで抵抗しないと訳も分からず世界の流れとやらに乗ってたまるか。それだけを決心した俺は目の前にある文芸部室のドアをノックする。
「あ、キョンくんですか? どうぞ……」
 朝比奈さん? 何故ハルヒじゃないのか疑問に思いながらドアを開けてみて、その原因にすぐ気付いてしまった。そこは昨日以上の混沌とした空間と化していやがったからだ。
 まずは朝比奈さんだが、これはいつものメイド服だ。いつもがメイドだというのもおかしいのだが目をつぶるべきだろう。そして何故かハルヒがバニー服を着ている、いつだったかは暑いからとか言っていきなりバニーになっていたが今日は網タイツまで履いているから暑いというのは理由にならないだろう。こいつが唐突にコスプレをしたがるタイミングなど理解出来ようがない。
 長門はといえばいつもの窓際でいつもの制服姿なのだが、ここまでコスプレしている連中に囲まれているとまるで長門まで制服のコスプレをしているようにしか見えないな、こいつの場合は私服の時も制服なのである意味コスチュームなのだが。
 そして、目を逸らし続けている訳にもいかないだろう。コスプレ集団と化したSOS団の中での古泉一姫を。
 古泉はチャイナ服を着ていた、太ももまでスリットの入ったかなり際どいデザインの物である。ただし、これはハルヒの衣装コレクションの中に存在していたものであり、俺も見惚れそうにはなるが覚えの無いものではない。
 問題はそんな事ではないんだ。あいつの、古泉の髪型を見て俺は愕然としたのだから。
「え、え〜と、どうでしょうか?」
 古泉は肩まで掛かっていた髪をひとつでまとめている。つまりはポニーテールにしていたのだった。髪をまとめると古泉の顔の小ささも際立ち、こいつのモデル顔負けのプロポーションはスリットの大きなぴったりとフィットしているチャイナ服に包まれている。こいつが店の前にそのまま立っているだけで客が行列を作りかねんな、バニーと違い抵抗が少ないのか、多少格好をつけたモデル立ちをしている。まあ頬が赤くなっているところを見れば開き直っているだけなのかもしれないが。
 だが照れる古泉よりも俺の目は不機嫌に窓の外を見ているバニーのハルヒに向いていた。完全に俺を無視しようとしている、気のせいじゃなく意図的に俺と視線を合わせようとしていない。
「なあ、お前なんでそんな髪型してるんだ?」
 聞くまでも無く聞いた質問に、何かを感じたのか古泉は不思議そうに、
「いえ、せっかくならと涼宮さんがしてくれたのですが。…………どこかおかしかったでしょうか?」
 いいや、おかしくない。それどころか完璧といってもいい。だからこそ気に入らん。何が気に入らんなどと言うつもりも無い。
「そうか、ハルヒがね……」
 窓の外を見てもいないくせに俺達の話など聞いていない振りをしてやがる。益々持って気に食わない。
「おい、ハルヒ
「なによ」
 こっちを向く事も無く返事をするハルヒの目の前まで行くとようやく顔をこちらに向けた。眉が寄っているのを見なくても不機嫌そのものだ。
「なんでだ?」
「だから何がよ? いきなり人に訊くならきちんと何がどうなっているのか説明しなさい!」
 言わなくても分かっているだろうが、とは言えない。言わない代わりにあえて訊いた。
「お前はやらないのか?」
 その瞬間、ハルヒの顔色が変わった。青くなったかと思えば一気に真っ赤になり、
「何であたしがそんな事しなきゃいけないのよっ! 大体一姫さんがあんたの気に入った髪形にわざわざしてるんだから、それでいいじゃない! あんたは一姫さんだけ見てればいいのよ!」
 椅子を蹴り飛ばして立ち上がると一気にまくし立てた。その剣幕に朝比奈さんと古泉が青い顔になり、長門が本から顔を上げる。
 だが、怒鳴られた張本人の俺自身はといえば不思議な程冷静だった。いや、違うな。人間というものは怒りが頂点を過ぎると冷静というよりも冷酷なほどに心が冷めていくのが分かった。怒りのあまり声が震えそうなのを押し殺して低く呟く。
「よく分かった。だけどな? 何でお前が俺の好みの髪型なんか知ってるんだよ?」
「!」
 ハルヒが、古泉が、長門が、朝比奈さんが凍ったように固まるのが分かる。そうだ、俺がポニーテール萌えだなんて妄言を吐いたのはあの時だけだ。そう、あの夜の閉鎖空間の中だけの。
 そしてそれはハルヒしか知らない、古泉も長門もあの空間には入ることは出来なかったのだから。しかもこの世界のハルヒもそれを覚えているだと? ありえない、じゃあ何でハルヒは古泉にここまで肩入れをするようになってるんだ?!
「それは、」
「いや、もういい。俺は気分が悪いので早退させてもらう、いいな?」
 それだけ言うとハルヒの返事など待たずに俺は部室を後にした。古泉が何か言っていたようだったが知ったことか。今の俺は一秒たりともこんなとこに居たくないんだ。
 追いかけられる可能性がまったく無いとは言わないが、追ってくる可能性のほうが無いだろうと思いながらも足は段々と速まっていき、下駄箱で靴を履き替える頃には気ばかり焦って飛び出すように走り出す。闇雲に転げ落ちるように坂を駆け下り、自転車を持ち上げんばかりに引っ張り出すと足よ千切れろとばかりに漕ぎ出した。
 目の前に誰かが居ても轢き逃げそうな勢いで必死に自転車を走らせる。とにかく少しでも早く学校から離れたかった。家へと帰るつもりなども無く、ただひたすらにペダルを漕ぎ続ける。息はあっという間に上がり、呼吸が出来なくなってきたが関係なかった。感情が爆発しそうなのを抑えきれる自信が無い、倒れるまで走らないとどうにかなっちまう。
 走りながら目の前が白くなり、意識が遠のきかけたところで俺の防衛本能か、それとも情けないところなのか、自然と両手がブレーキをかけていて自転車は急に止まった。勢いが殺しきれなかった自転車から転げ落ち、俺は地面へと叩きつけられて自転車は滑るように吹っ飛んだ。
「…………いてぇ」
 車道じゃなかったのが幸いだった。倒れた際に右半身を打ったのか擦ったのか痺れるような痛みが走る。だがそんな事はどうでもいい。
 俺はのろのろと立ち上がると自転車まで歩き、どうにかそれを起こした。酷使し続けたママチャリは所々に擦り傷が付いたものの無事だった。俺は痛みを堪えて自転車を押す。
 どうにか道の脇に自転車を寄せ、スタンドも立てずに塀に持たれかけさせると俺はその横に座り込んだ。荒くなった呼吸を整えようと勝手に肺が要求する、流れている汗も鬱陶しい。大きく息をつきながらも何もする気が起きないままで俺は地面に座り込んでいる。
 しばらくして少し息が整うと共に、やった事への後悔が押し寄せてきた。最悪の選択だった、あんな言い方をして出て行けばハルヒも他の連中も不審にしか思わないだろう。これで長門に何を言っても聞く耳を持たれないかもしれない。
 それでもああするしかなかった、俺はそう思うしかない。ハルヒはあの夜の事を覚えていた、それだけでもショックだったのにあろうことか古泉に髪型を変えさせた。つまりは俺とハルヒだけが知っている事実を間接的でも他の連中に教えて平気だったということになる。
 思い出すだけで怒りが再燃しそうになる、どうしてあんな事をしたんだ? 俺はハルヒ以外の奴にポニーテールにしろなんて言うつもりはないんだからな。
「あの馬鹿は…………」
 そうさ、俺はハルヒだからポニーテールが反則的なまでに似合っていると言ったんだ。それを何で古泉なんかに、いや違うな。
 何で俺とハルヒだけの秘密を他の奴にばらしたんだ! 俺にとっては一生物の恥部であり、あいつもそうだとばかり思っていたのに。それでも二人だけが覚えていれば充分だと思っていたのにだ。
「………帰るか」
 もう何か全部がどうでもよくなってきた。このまま世界がハルヒの不機嫌に巻き込まれて終わるもいいさ、長門辺りが俺をイレギュラーだと殺しに来たって構わない。あんなハルヒを見るくらいなら死んだ方がまだ気が楽なんだよ、あんな遠慮しながら泣きそうなハルヒを見るくらいなら。
 まだ痛む体をどうにか叱咤しながら起こして埃を払いながら見直してみると制服のあちこちに綻びや擦り痕が出来、おまけに土や埃で薄ら汚れている。汗まみれの顔や手にも汚れが付いていて見事なまでにボロボロになっていた。大きな怪我が無かったのは幸いと言ってもいいのだろうか。いや、それももうどうでもいい。自転車をとりあえず押しながら家へと帰るだけだ。




 どの辺りを走っていたのか気にしていなかったがどうやら家とは反対に走っていたようで打ちひしがれた俺を触らぬ何とかのような目で見ている北校以外の制服の生徒が何人か居た。あれは確か光陽園だったような。見世物じゃねえぞ、チクショウ。
 自棄になってわざとそいつらの横を通ろうとする。ボロボロの俺の様子が怖いのか臆病な目つきの生徒達を横目で睨みながら俺はすれ違おうとした。
 その時だった。奇妙な違和感に気が付いたのは。
 光陽園の生徒? 何故俺は光陽園の生徒だと思ったんだ? 確かに女子の制服は間違いなく光陽園のそれだが、全体的におかしい。大体、光陽園の生徒に学ランはいないはずだ、あそこは確か女子高のはず…………
「まさか?!」
 いきなり叫んだ俺に驚いた生徒が何人かこちらを見てきたが、俺は気にせず急いで自転車に跨った。まだあちこち体が痛むが関係無い、自転車を一気に漕ぎ出す。
 そうだ、北校に居ない時点で気付くべきだったんだ! もしもこの世界があの時と同じだと考えれば北校に存在しない人間は自然と別の所に居なくてはならない、そして前回と同じならば。
 俺は光陽園学園の正門の前で自転車を降りた。もう下校時間は過ぎ、部活が終わった生徒達くらいしかいないようだが俺にはどこか確証があった。あの二人ならば恐らく生徒会でこの時間まで残っているはずだと。もしも居ないようならどうにかして聞き込むしかない、そうなればまた面倒な事になるだろうがやらないよりも可能性に俺は賭ける。
 何人かの生徒の不審な視線を浴びながら、これ以上は通報されかねないと不安に陥った頃に、俺は自分の賭けが今度こそ勝利した事を知るのだった。
 前方からこちらに歩いてくる男女が一組。仲睦まじげに寄り添う姿は俺が知る二人よりも若干距離が近いように感じた。
 理知的で真面目そうな、しかも威圧感を与える眼鏡をかけた男と優しく微笑む女性。間違い無い、あの二人は光陽園に居たんだ。
 二人が校門まで近づき、俺はその目前へと飛び出した。驚いた彼女がしがみつくのを庇うように男が身構える。
「喜緑さん!」
 いきなり名前を呼ばれた女性は驚いた顔をして俺を見つめていた。隣の男、俺の世界では生徒会長だった、は敵愾心を隠そうともせずに俺を睨みつけている。
 ようやく会えた、喜緑江美里さんを見て俺は安堵の溜息をつきたくなってしまった。後はこの人が俺の知る喜緑さんである事を祈るしかない。
 舞台に役者が揃いつつある、滑稽にもそう思えてきてしまっていた。