『SS』 月は確かにそこにある 18

前回はこちら

 朝の目覚めは悪くは無かった。妹に叩き起こされる前に目覚めたにしては、という注釈は付くのだが。やはり疲労の色は隠せようも無い、主に精神的なものだとしてもだ。
 そして朝飯をかっ込んで玄関まで出てみれば疲労の原因は晴れやかなる笑顔で迎えていてくれてたりしやがるんだよ。
「おはようございます、今日はまた一段と早いお目覚めですね」
 それを言うならお前は何時から起きてたんだって言いたいね。古泉は寝不足など微塵も感じさせない笑顔で今日も玄関先に立っていた。本当にいつここまで来ているのか問い質したくなってくるな。
 最早当然とばかりに古泉にじゃれつく妹を離すと俺は自転車を引っ張り出す。不満そうな妹の頭を乱暴に撫でてから古泉に荷台に座るように促す。
 失礼します、と座る姿もすっかり板に付いてしまい、妹に大きく手を振られて家を出るという近所迷惑且つ恥ずかしい行為を繰り広げる羽目に陥った。いくら今日で最後とはいえ酷過ぎる仕打ちだと思う。
 そんな事など露とも思わないであろう荷台に座る美少女は、慣れたように俺の腰に手を回してしまっているし。もうこいつにとっては当てる当てないではなく、こうすることが当たり前なのかもしれない。たとえ背中に柔らかく温かいものが押し付けられていたとしても、俺はそれを平然と流しておかねばならないのだった。
 しかも俺は古泉にとある事を言わないままである。それは昨晩突然思いついた(思い出したという方が正しいかもしれない)のだが、何故か古泉に相談することが躊躇われている。それを聞いた時の反応が恐らく俺が期待するものと違う予感がするからだ。
 本来ならば俺よりも古泉が気付くべきであり、そこに至らなかった時点で何らかの意図があった可能性の方が高く、俺一人で行動するのも躊躇われるのであるが、それでももう決めた事だ。古泉には言わない方がいいって事だけは。
 こうして登校中はこの後の行動の事だけを考えていた為に気付けば駐輪場に居たといった感じですらあった。
「ありがとうございました」
 古泉の礼に適当に頷いて自転車に鍵をかけたところで俺の腕に古泉が腕を絡めてくる。やめろ、と言って跳ね除けるのは簡単だったのだが今日のところは大人しくされるがままにしておいた。
「おや? 今日は何も言わないのですね」
 自分からやっておきながら拍子抜けしたかのような古泉に呆れてしまう。それで腕を離してくれれば冗談で済ませられるのにしっかりと腕にしがみついたままだから説得力も感じない。
「どうせ今日で終わりだからな。ごちゃごちゃ言って波風を立てるよりも大人しくしておこうと思っただけだ」
 それに切り札は握っている、ようやく生まれた余裕が古泉の行動について一々目くじらを立てずに済む様になっていた。
「そう、ですね。今日で終わりなんですよね………」
 腕を絡めたまま少しだけ思案気な顔をした古泉だったが、一瞬で笑顔に戻り、
「それならばもう少しくらいは大胆に迫ってみましょうか? その方がいいでしょうね」
 俺の返事も聞かずに腕を抱え込むように寄り添ってきやがった。いくら古泉が背が高いとは言えそれはあくまで女性として、という事であって、俺にしがみつくとちょうど肩に上に頭を乗せるような形になる。こいつが男だったときは俺よりも身長が高かっただけに妙な感じだ。
「…………歩きにくい」
 実際に歩きにくいが皮肉も込めてそう言ってみても、
「まあいいじゃないですか、まだ時間はありますから」
 とまったく意に介していない。馬耳東風な美少女にしがみつかれて、周囲から刺すような視線を浴び続けながら俺は必要以上に重い足で坂道を登らねばならないのだ、こんな事なら地球環境に多少影響があっても長門に平坦な道にしてもらっておけばよかった。
 重いが柔らかくて温かい荷物をぶら下げて登校した俺は下駄箱でようやく解放される。名残惜しそうに最後に袖を掴んでから手を離した古泉は上靴に履き替え、俺が靴を履き替えるのを待っていた。
「ではまた後ほど。お昼は楽しみにしておいてくださいね」
 爽やかに微笑んだ古泉はそう言うと一礼して自分の教室へと去っていった。そういえば今日は弁当を持ってきていないのだったと今頃になって思い出す。
 あれだけ嬉しそうな顔を見てしまうと昼休みは抜け出して行動出来そうも無い、となると放課後SOS団に行く前しかないだろうな。どうせあそこには放課後しかいないはずだ。
 自分のクラスに向かうまででもそんな事を考えていたのだが、教室に入った途端に空気の悪さに回れ右とばかりに出て行きそうになった。原因は言わずと知れた窓際最後尾の席である。しかも俺はその前の席に座らなければならないのだ、朝っぱらからいきなりの大スペクタクルというか今すぐに席替えをしてもらえないだろうか。
 しかも俺の登場と同時にクラス中の視線が集中する。それも完全にどうにかしろ、と命令調で。いや、お前らがどうにかしろよ、と目で言い返してもどうにもならないのが世の常である。それにしてもこの世界におけるハルヒは俺と距離を置いていると思っているのに、何故厄介事に関してのみ俺にお鉢が回ってくるんだ? しかもそれを当然として受け入れてしまっている自分自身にも呆れてくる。
 やれやれとばかりに溜息を一つ。クラスの期待を一心に背負い、虎穴に入る。上手いこと虎子を得られるかどうかはこの後の会話次第なのだろうが、何といってもこの虎はどんなきっかけで気分を変えるか分かりはしない。俺は慎重に、自分の席に座る。そして意を決して後ろの席のハルヒに声をかけた。
「よう、朝から機嫌悪そうだな。朝食でも抜いたのか?」
「馬鹿じゃない、あんたみたいに遅刻ギリギリな奴と違ってあたしはきちんと朝ごはんを食べる派なの。あ、でも今は遅刻なんか心配しなくていいんだっけ」
 不機嫌そのもので窓の外を見ていたハルヒは言うだけ言うと、俺へと顔を向けることも無くまたも黙り込んでしまった。いかん、会話になりそうもない。
 こうなったハルヒにはもう何を言っても無駄だ、周囲を見回し簡単に謝辞の気持ちを表すと諦めのムードが漂った。ある意味よく分かっているクラスメイト達でもあるが、それならば俺にだけ責任を押し付けないでもらえないだろうか。
「まあいい、ちゃんと飯は食っておかないとな」
 適当な事を言いながら俺も前を向いた。これ以上話すネタが無いから仕方ないとはいえ、どうもハルヒと話すのが難しくなっている。
 フンッ! と鼻を鳴らす音が聞こえたが無視していると、
「…………一姫さんと上手くやってるみたいじゃない」
 呟くように言ったハルヒに何か喪失感を覚え、思わず振り返った。
「………何よ?」
 驚くでも無く不機嫌なハルヒを前に俺も何故振り向いたのか分からない。誤解だ、と言っても聞きそうには無いし、俺は何と言うつもりだったんだ? 自分でも言葉が出てこないのに。
「いや、古泉の奴が色々と構ってくるだけなんだ。俺としては助かる面もあるがもう少し人目を気にしろというか、何を考えてるんだというか、まあ上手いのかどうかなど分かりはしない感じなんだ」
 しどろもどろに何を言ってるんだ、俺は? これじゃまるで間男だ、しかも言えば言うほどに決まりが悪い。どう見ても言い訳をしているようにしか自分でも思えなくなってくる。
 そしてつまらない言い訳しかしない男に対して女の言葉は常にシンプルで辛辣なのだった。
「バーカ」
 それだけを心底そう思っているように吐き出したハルヒは机に伏せてしまった。もう何も話すことは無いということだ、俺もどうしようもなく机に伏せるしかなかった。周囲の視線が諦めから生暖かいものになっているのを肌で感じつつ、何故こんな赤っ恥をかかねばならないのかと自分を責めて俺は始業のチャイムを聞くこととなったのだった。



 午前の授業は窓際最後尾の二人がまったく顔を上げない状態(慣れたもんで教師たちも注意一つしなかった)で過ぎていき、気づけば昼を告げるチャイムが鳴っている。
 寝ていた訳ではなさそうだったハルヒだが、いつものようにチャイムを聞くと同時に飛び出すということも無く、普通に立ち上がると殊更俺を無視するようにゆっくりと教室を後にしようとした。こちらとしてもあからさまな態度に腹も立つので無視しようとしていたのだが、ハルヒが教室の入り口で止まってしまったので流石にそちらに顔を向ける。
 その顔は驚きで誰かを見ていた。何人かの生徒がそんなハルヒを避けるようにして出入りしている。それでも立ち尽くしていたハルヒだったが、やがて殺気さえ籠もっていそうな視線で俺を一瞬だけ睨み、その目を入り口に立つ誰かに向けたかと思うとダッシュでその場を飛び出した。あんな目を向けられて黙ってなどいられるもんじゃない、俺は後を追おうと立ち上がったのだが。
「あ…………」
 入り口に立っていたのは矢張りというか、古泉一姫だった。こいつは単に俺を昼飯に誘いに来たに違いない、それに対したハルヒの態度がおかしかったんだ。まるで仇を見るような。いや、何も言えない悔しさを押し殺したかのようなハルヒ。そんなあいつを見るなんて思いもよらなかった。
 追うしかない、俺は古泉の横を通り抜けようとした。が、俺の腕を掴む奴がいる。古泉は真剣な眼差しで俺を見つめ、その腕は俺を掴んで離そうとはしない。
 振り払おうとしたのだが、古泉の目に涙が浮かんでいたような気がして動きを止めてしまった。小さく首を振って、
「涼宮さんなら大丈夫、だと思いますから………」
 何を根拠にそう言っているんだ? そう言いたかったが思いがけない強い口調に腕が振りほどけないままだった。それに今ハルヒを追っても話にはならないだろう、そう思い直すしかない。
 それにあの機嫌の悪さは何が原因なんだ? ハルヒの内心など読めはしないが、あの態度を見て古泉が何もしないのも変じゃないだろうか。閉鎖空間の心配が無いなどとは言わせないぞ、今まででも一・二を争うほどの不機嫌だったじゃねえか。
「いいから行きましょう、涼宮さんには後で私から説明しますから!」
 それなのに強引に引っ張られて来たのはいつもの中庭なんだ、しかも腕を絡めたままで歩いていたので注目度が高くなってしまっていた。言い訳の出来ない状態で無理矢理に座らされたベンチで古泉に不満をぶつけるしかない。
「どういうことだ? ハルヒの態度も問題があるのは当然だとしても、それに対するお前まで何考えてるんだ? これじゃ閉鎖空間とかが出てきてまたお前も苦労するだけじゃねえか」
「いえ、涼宮さんは閉鎖空間を発生させないと思います」
 古泉の返答は俺の理解の範疇を超えていた。ハルヒが閉鎖空間を発生させない? 何を根拠に話しているのか、古泉は淡々と弁当の用意をしている。まるで先程の出来事が無かったようにお茶を買ってくると席を立ったのを黙って見送るしかなかった。
 あの時のハルヒの目、あれは確かに敵意すら感じられた。だが、何もせずに歩いていった。それは何故だ? 相手が古泉だから、だとすれば何故古泉にそこまで譲歩する? あいつはたとえ弱みを握られてもそれを撥ね返してしまえる能力まで持っているのだ、無意識にでも古泉の存在を否定してしまえばそこで全てが終わってしまう。
 それなのにハルヒはどれだけ機嫌を悪くしても古泉の言動を容認している。古泉も分かってハルヒに遠慮が無いかのようだ。いつの間に二人の関係は変わったんだ、それが分かれば長門や朝比奈さんに話が出来ない理由にも繋がっているに違いない。全ては古泉とハルヒの関係性ではないのか、俺はそう結論付けようとした。
「お待たせしました」
 ペットボトルを持った古泉に声をかけられ、俺の思考は一時中断した。相変わらず自分の分はストレートの紅茶みたいだな、俺の分まで買ってきたそれを目の前に置きながら正面に座る古泉はもういつもの微笑みを浮かべている。何となく怖いな、と思った。
 いそいそと俺の分の弁当まで広げた様子は嬉しそうで自慢げであった。確かに美味そうな色取り取りのおかずとわざわざ握ったのだろう、おむすびが可愛く詰められている。昨日よりも手が込んでいるのは一目瞭然だった。本当に何時から準備をしていたのかと感服したくなる、これであのハルヒの顔を思い出しさえしなければ。
「どう、ですか?」
 俺が卵焼きを口に運んだ後に恐る恐ると訊いてくる古泉。子犬のような目で伺う姿は何度やられても見慣れない。美味いぞ、と言ってやると一瞬で顔が輝いた。本当に分かりやすくなっている目の前の少女の百面相はまともな状態なら和んでしまうだろうな。
 だが、美味いと言いつつもどこか味気無いのはどうしようもない。頭の中ではハルヒの顔やこの後どうするかといった事だけが渦巻いて、まともに古泉の顔も見れなくなっているのだが古泉は気にしていないようで嬉々として自らの手がけた料理の説明をしてくれている。
 仕方なく話を合わせながら箸を進めると古泉も自分の弁当を食べ始めた。楽しそうな表情にこっちの苦労は分かっているのかと言いたくもなるがもう何を言っても無駄なような気がして苦笑するしかなかった。
 まあ色々あったが後一日、しかも放課後には行くべき所もある。その余裕がようやく生まれ、古泉を責めずに済んでいる。むしろ最後だからと楽しんでもいい気分でもあったのに先程のハルヒの事もあるので油断は出来ないが、飯を作ってくれた礼くらいは素直に言ってやってもよい。
「ごちそうさまでした」
 と小さな弁当箱を片付ける古泉にそう言おうと思い、俺も自分の弁当箱を片したところで、
「美味しかったですか?」
 タイミング良く弁当箱を取り上げられたので(洗って返そうと思ってたのだが)つい、
「ああ美味かったよ、ごちそうさん
 と手を伸ばして頭を撫でてしまった。まったくの無意識だ、あえて言うなら子犬がご褒美を欲しがっていたように見えたもので。いい年した女子高生に何を、というか古泉相手に何をしてるんだよ、とすぐに手を引っ込めたのだが。
 効果は覿面だった。いや、劇的に過ぎた。やりすぎたなどと言っても後の祭りに過ぎたのだった。
 手を頭に置かれた瞬間は何があったのかときょとんとしていて、撫でられたと同時にくすぐったそうに目を閉じたかと思うと、慌てて引いた手を名残惜しそうに見ながら、状況を把握したと同時に喜びで全身が震えそうになっているのだ。本当に今のこいつに耳としっぽがあったら振り回しすぎて千切れそうな勢いだ。
「あ、あ、あの、ワタシッ、その、頑張りましたから! だから、はい、ありがとうございますっ!」
 朝比奈さん以上のリアクションに俺の方が若干引き気味になる。火照った頬を押さえて照れている古泉はどこから見ても垂涎ものの美少女であり、その熱いまなざしは間違いなく俺を捕らえているのだが。
「いや、確かに美味かったけどな? あれだ、いきなり頭なんか撫でて済まなかった、だからもうちょっと落ち着いてくれ」
 フォローにならないフォローをしてみても古泉の顔は赤いままで、俺の話を聞いているのかどうかさえ分かりはしない。どうも人の話を聞かないという点ではSOS団の女性メンバーらしくはなっていると言えばいいような気がしなくもないが、それは要するに俺の話なんて聞く気も無いということなのか? 何よりも女性らしいって何だ、古泉はあくまで男のはずなのに。
 とにかく妙に舞い上がった古泉を宥め賺しながら、どうにか落ち着いたところで俺は先の一件を古泉に問い質してみた。何故ハルヒが閉鎖空間を起こさないのか、それを確信するに至る何かを古泉は知っているというのならば俺はその原因を知りたい。
「ええ、それは…………どう説明すればいいのか、私にも上手く言えないといいますか………」
 まただ、自称ハルヒ精神分析家としては歯切れが悪すぎる。曖昧な表現になることは多いハルヒの心境だが、これは場合が違う。要は閉鎖空間が発生しない原因が何か、なのであって、古泉が言おうとしていることは根本的に違う気がする。
 それでも俺としても上手く説明出来ない部分でもあり、結局は古泉の言う事を信じるしかないのが現状だ。だが一応もう一点確認してみようと思い、俺は嫌味も込めてこう言った。
「なあ古泉、それは所謂女同士の話ってやつなのか? 朝比奈さんはともかく、あのハルヒ長門がそんな話題で盛り上がるなんて考えられもしないんだが」
「そんなことはありません! 涼宮さんも長門さんも女の子なんですから! それに私だって、え? あ、れ? 私は………」
 ああ、ようやく気付いたようだ。激昂しかけていた古泉の顔色が俺の不信な顔を見て青く変わる。そうだ、ハルヒ長門を庇うお前は何なんだ? お前は古泉一樹であって、古泉一姫じゃない。この世界の住人じゃないお前が何故そこまで拘るんだ?
 今更指摘するまでもない、違和感が確信に変わっただけだ。目の前に居る女は間違い無く古泉一姫なのだ、そして古泉一姫は古泉一樹の存在を無きものにしようとしている。それがハルヒの能力なのか、この世界の必然の流れなのかは俺には判断が付かないが、これだけは言える。
「しっかりしてくれ、古泉。俺はお前と一緒に元の世界に戻りたいんだからな」
 がっくりと項垂れる古泉に声をかけると俺は教室に戻るべく立ち上がった。まだチャイムが鳴るまでは時間はあるが、これ以上ここにいても仕方が無い。
 悄然とした古泉がすぐ後ろを付いてくる気配を感じながらも俺は何も声をかけることは出来なかった。沈黙が重苦しかったがどうしようもない。
 そして自分のクラスへ戻り際、俺は古泉に言うことがあるのを思い出した。即ち、
「今日の放課後、部室に行く前に少々寄る所が出来た、そうハルヒに伝えてくれ。多分あいつは俺を置いて教室を出るはずだからな」
 今のハルヒは俺を教室に残して先に部室に向かい、古泉を着替えさせるのが常となっている。俺としてはそれを利用させてもらうしかない、時間を取れるのはこのタイミングしかないからだ。
「え、それはどうしてですか?」
 落ち込んでいた古泉だがそれでも気にはなったのか。俺は全てを言わずに適当に、
「まあ俺なりに考えがあってのことだ、明日まで何もしないというのはどうにも落ち着かないからな。だからハルヒのお守りは頼んでおくぞ」
 そんなに時間がかかることじゃない、と言うと古泉も納得したようだった。どこに行くのか本当に分かっていないのだろうか、古泉なら気付いて当然だと思うのだが。多少やり取りが食い違う事に一抹の不安と寂しさを感じるのはあいつの長々とした説明癖を懐かしんでいるからなのかもな。
「では、また後で」
 分かってる、サボる訳にもいかないからな。だからその名残惜しそうな顔はしないでくれ。留守番を命じられた子犬はすがるような目をしながら俺を見送っている。そんな顔をされるとこちらとしてもどう対応していいのか困るんだが、それ以上に廊下に立つ俺に刺さるこの視線をどうにかしてくれ。
 クラスに戻るまで何らかの視線を浴び続けているような、自意識が過剰に働いているのかといえば決してそうとは言い切れないような要するに羨望と殺意が入り混じった空気が俺を取り囲んでいるというか、今までに無かったプレッシャーがある。古泉一姫とはそこまでの存在なのかと俺などは思うのだが、口に出せばどうなるか分かったもんじゃないな。
 九組から五組までの短い距離がマラソンコース並みの労力を要する程の感覚で疲労しながら自分のクラスへと戻って来たのだが、帰れば帰ったで違うプレッシャーに苛まれる事となる。これは俺に向けてというのが露骨に分かる分だけ始末に終えないのだが、それでも避けて通る訳にもいかないのだ。俺は黙って自分の席に着くと、プレッシャーの発生源は沈黙のまま重圧だけが増していったようだった。
「………………」
 何も言わないハルヒは不気味でしかない。いつもなら何を企んでるのかと勘繰るところなのだが今回は原因が古泉だろうと推測は出来る。ただ何故そこまで機嫌が悪くなっているのかが分からない、ハルヒが自分で言い出したのにも関わらず情緒が不安定すぎるんじゃないか? しかも俺に向けてなのか古泉に対してなのか、それすらも分からない。もしかしたら自分でも分かってないのかもしれない。
 それでも精神的な圧迫感はかなりのものだ、俺は声もかけられないままに後ろも向けない。クラスの連中は気楽にも俺に期待を込めた視線を向けているが、それなら今すぐ代わってやりたいよ。せめて、何でもいいから声を聞かせてくれないか、ハルヒ
 だが俺の願いも虚しく、時間だけが流れてゆく。空気を読んだ教師達には一瞥もされないままで重い沈黙だけが教室を支配していった。
 そのような午後の授業が頭に入ったかといえばそんな訳も無く。寝ていた方がマシだった時間は疲労感だけを残して何度目かのチャイムと共に終了した。
 そして放課後に入ったと同時に不機嫌の塊だったハルヒは機嫌の悪さを隠す事も無く立ち上がり、
「あんたは今日も遅れてくること! あたしの後なんか追っかけたりするんじゃないわよ!」
 とまあ捨て台詞を残して飛び出していった。こちらとしても予定はある、幸いな事にネクタイを捕まれる心配だけはないのだ。それが不満だとしても今日に限ってだけは幸いと言うしかない。
 俺はハルヒが見えなくなってから(あっという間だったが)ゆっくりと教室を出る。方向としては旧校舎に向かっている訳で葉無いので見つかると厄介だからな。俺が向かっているのは職員室(ハルヒと教師の関係は俺の世界と同じ様で睨まれているのは間違いない)の隣にある生徒会室だった。まさか自主的にここに来るような羽目に陥るとは思いもよらなかったのだが。
 しかしどうしても俺はここに来なければいけなくなっていた。生徒会のメンバー、限定するなら書記の方に用事があるからだ。俺は意を決して生徒会室のドアをノックした。
 どうぞ、と言う声を聞き、俺はドアを開けて中に入る。
 そして俺は賭けに敗れた事を知った。
 目の前には見覚えのある長机や黒板。だが、そこに居たのは見覚えの無い生徒達だったからだ。その中の大人しそうな小太りの生徒が声をかけてくる。
「どうしたんだい? 誰かに用事でも?」
 嫌な予感がしていたがそれでも聞いてみるしかない。
「あ、ああ、あの生徒会長って……」
「僕だけど、どうしたんだい? 何か生徒会に要望でもあるなら話は聞くけど」
 予想通り気の優しそうなぽっちゃり君が親切にも名乗ってくれた。それは俺に止めをさすようなものだったのだが。
「ああ、いえ。ここに喜緑さんという方はいないかと思ったんですけど、確か書記だったような……」
「書記は僕だけど、喜緑さんとは誰だ? ウチにはそんな名前の生徒はいないはずだけど」
 真面目そうな眼鏡をかけた恐らく上級生が不審そうに言った言葉で十分だった。
「そうですか、ちょっと勘違いしていたようです。それでは失礼します」
 返事も聞かずに俺は生徒会室を後にした。急いでこの場を離れないとどうにかなりそうだったからだ。その足は旧校舎などには行かずにふらふらと誰もいない非常階段へと向かっていた。
 無意識の内に物陰に隠れた俺は思わず頭を抱えて座り込んでいた。まさかこんな展開とは思わなかった、生徒会長も喜緑さんも居ないなんて。少なくとも喜緑さんなら俺と古泉の事情も理解してくれそうだったし長門の説得の助けにもなる、そう思っていたからだ。
「どうしろってんだよ、チクショウ!」
 壁に力一杯拳をぶつけたところでどうしようもない。俺は今度こそ絶望の淵に叩き込まれたのだった。