『SS』 月は確かにそこにある 10

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 何となく夜に落ち合うこともやめておいて、まんじりとせずに眠りについて大した夢も見る事もなく朝を迎える。眠りが浅いような気がするのに何も記憶に残らないのは俺がまだ冷静だからなのか薄情なのかは些か考えさせられるものがある。
 そして俺のささやかな睡眠は普段は妹の暴挙により妨害されるはずなのだが。
「…………………なんでだ?」
「それは私が聞きたいくらいなのですが」
 昨日よりは幾分かマシな苦笑いを浮かべて玄関先に立っているのは言わずと知れた超能力者(女)である。珍しく妹に叩き起こされなかった理由はこいつが玄関先に立っていて、そちらに妹の気が逸れたからだとは言うまでも無い。
 だが、理由が無い。少なくとも古泉の顔を朝っぱらから自宅で拝まなければならない理由など存在してたまるか。しかも今の古泉は女の姿であって(男ならいいという訳でも無いが)、それが玄関で俺の出てくるのを待っているなどという、ご近所の奥様方のお昼のお茶の話題提供をせねばならないなんて在り得てはいけない話なのである。
 あからさまに機嫌が悪い顔をしていたのだろう、古泉は申し訳無さそうに頭を下げ、
「すいません、ですがこれが涼宮さんの指示なのだとしたらどうします?」
 本当に困った顔でそう言ったのである。ハルヒの? 分からん、何故ハルヒの名前が出てくるんだ?
「今朝方に僕に電話がありました。それが涼宮さんからで、いきなりあなたを迎えにいかないのか? と訊かれたんです。僕としても理由が分からないので行かないと言ったのですが、そこで涼宮さんが…………」
 無理矢理にでも迎えに行けと言ったんだな。
「はい、基本的には我々が涼宮さんの意思に逆らうことはありませんしね。ですから言われるままにこうしてあなたのお宅まで来たという事です」
 訳が分からんな、何でお前に俺を迎えに来させなきゃならないんだ? 
「それは私にも……………………」
 だろうな、ハルヒ心は理解不能だ。とにかく今から登校だから当然ついてくるんだよな?
「まあ私も学校には行かなければいけませんしね。どうします? 時間帯をずらす事も可能ですが」
 それだとハルヒが納得しないだろう。わざわざ迎えに寄越しておいてお互い別々に登校したら危険じゃないのか?
「確かに…………………」
 玄関先で考え込まれても困る、とりあえずはここから離れることにしよう。と、ここで気付いた事がある。
「お前はどうやって学校に行く気だ?」
 キョトンとして(本当に古泉は女になってから表情豊かである)俺の質問を聞いていた古泉だが、俺が自転車を持ち出したのを見て、
「ああ、そうですね。どうしましょうか、ここまでは『機関』で車を出してもらったのですけれど。ふむ、学校までの距離を考えた場合に私も自転車を用意するべきでしたか」
 理屈としてはそうなる。だが実際に今から自転車を用意させるのにも時間がかかる上に、それを待つほど時間に余裕はない。大体登校前から余計な負担が増えそうなことをされても困る。
 そこで仕方なく、自転車の荷台を指すしかないのであった。すると今度も少し驚いた表情で、
「いいんですか?」
 などと訊くものだから、黙って自転車に跨った。多少躊躇したものの、古泉も大人しく荷台に座る。ただ横座りだとバランス悪いんだが。
「あの、一応スカートなので…………」
 ああそうだった、いかん、面倒臭い。落ちるなよ、とだけ言って俺は自転車を漕ぎ出した。
 すると背中に柔らかい感触が、って当ててる訳ではなく古泉がしがみついているだけなのだが、ハルヒ長門を後ろに乗せた時にはない感覚に一瞬誰を後ろに乗せているのか忘れそうになる。というか朝比奈さんを乗せたことがないので恐らく同じ様な感覚だと思うのだが、それに勝るとも劣らないボリュームが今まさに俺の背中にって一体どうしたんだ俺は?!
 そんな苦悩など出すわけにも叫ぶ訳にもいかないのでペダルを漕ぐ足に力が入らざるを得ない訳で、そうなると益々古泉が落とされないようにしがみついて………………って待て! 神経が勝手にそこに集中していくから待て! そんな柔らかいものを押し付けるんじゃない! だが気付いていないのか古泉はしっかりと俺の腰に手を回しているのであった。どういう表情をしてやがるんだ、こいつは? 真後ろなので窺い知る事は出来ないけれど、少なくとも俺のように顔を赤くしていないことだけは祈る。これはあくまで女性に接近されたというか抱きつかれた事に対する初心な男子高校生としては当然の反応なだけであって、そこに何ら意図はないはずだ。ただ相手が男なのが分かっているのに照れてしまう自分の反応が悔しいだけだ。
 そしてそんな仲良く(?)自転車で二人乗りをしているところを不特定多数の学生達に見られてしまっているのも、もうどうすりゃいいんだか。これもハルヒが望んだっていうのならば、もう勝手にしてくれ。
 半分自棄になりながら自転車を漕いで駐輪場までやってきて、とにかく急いで自転車を止める。これ以上背中に押し付けられたら事故になりかねん、原因が馬鹿馬鹿し過ぎるので何としてもそれだけは避けねばならん。
「…………………ありがとうございました」
 ほんの数瞬だけ間が空いたが、古泉はそう言って俺から離れた。こっちとしても助かった、これ以上は古泉と分かっていても気恥ずかしいものがあったからな。冗談半分でそう言うと、
「…………ですね」
 一瞬だけ俺の視線を外した古泉はいつもの胡散臭い(まあ男の時に比べれば数十倍はマシだが)微笑みを浮かべると、
「だけどもう少しお互いに恥をかかねばならないようですよ? この先の坂道を登るまでは我々は別々に行動するわけにもいかないようですし」
 わざとなのか、スカートを翻してくるりと一回転すると爽やかにそう言いやがった。開き直りやがったな、こいつ。こうなるとどことなく楽しそうなのが癪に障る、だが古泉の言う事がもっともであり、俺はここにいないカチューシャの似合う女の為に元男の女と仲睦まじく登校しなければならない訳だ。
 大きくため息をつくと、俺はまだなだらかである坂道を登りだした。流石に遅刻が怖いからな、すると後ろからついてくる気配がある。言うまでもなく古泉なのだが、もう一々振り向く事はしなかった。昨日のように腕を絡めてきたら振り払って逃げようと思っていたのだが、流石に古泉も反省したのかそのような事もないまま俺のやや後方を歩いて俺達は登校した。
 今日は多少の距離もあったので、何ら噂にもならないだろうと安心して下駄箱で別れたのだが。周りの視線も落ち着いたような気がするのも慣れたという事なのだろうか、それがいい事だとは思えないのだけれど。 
 とりあえず妙に疲れながら教室に入るとクラスメイトの視線が妙に生暖かい。だがもう勘弁してくれ、これ以上は俺の身が持たない。これで後は放課後までは大人しくしておこうと思いながら席に着くと、背後から揶揄するような声がした。
「ねえ、あんたが一姫さんを三歩下がらせて従わせて登校したって本当? 随分と古風というか時代錯誤なんだけど一姫さんもよく何も言わないわね」
 ああなるほど、そういう風にも見えたのか。物凄く馬鹿な話だ、こっちはあいつと話したい事など無いんだからな。しかしハルヒはそこまで考えて俺の家まで古泉を迎えに行かせたのだろうか? 
 反論するのもアホらしいので俺は何も言わずに机に伏せた。言いたい事があるなら古泉の方に言ってくれ。
「………………何よ、せっかく人が…………」
 小さく呟くハルヒの声が聞こえない。だが俺としてはもうこいつに振り回されるのは勘弁して欲しかった。
 そして俺は午前の授業をほぼ棒に振るのだが、それは後ろの席から溢れてくる謎の威圧感のせいでもあり、今朝からの一連の元ハンサム、今美少女のせいでもある。やれやれだ、自分に何も関係のないところで何を考えているのか分からん連中のせいで俺が苦労するという構図は何も変わりはしないらしい。
 放課後の事を思えばもう少しハルヒと話すべきなのかもしれないが、とにかく疲れてしまった俺は威圧感を無視するように教師の話も無視して授業を過ごしてしまったのであった。