『SS』 ちいさながと そのに 20

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 手の中に残った感触が恐ろしくて俺は目を開けることが出来なかった。しかしこれで有希が救われる、そこに安心してしまっている自分も存在してしまう。それにこれで朝倉が消えてしまうのにそれを見送らないなどとは出来るものではないだろう。
 どうしたって見なければならないのだ。俺は固く瞑りすぎて痛む瞼を無理やりに開けた。
「まったく、貴方達はどこまで私に世話をかければいいのですか?」
 結論を言えば俺のナイフは朝倉に届いているということはなかった。その切っ先は制服姿の女性がしっかりと握っている、しかも血などは一滴も出ていない。
 その人の反対の手は朝倉を押し止めていた。あの朝倉が一歩も動けなくなっているのだから単に手をかざしているだけではなさそうだ。
長門さん、貴女もです」
 無造作にナイフを取り上げて投げ捨てたその手を伸ばし、有希を一指すると光は一瞬で消えた。空中に浮かんでいた有希が落ちてくるのを受け止める。有希は………………………………無事か?
「肉体的損傷はありません。ただサイズに合わないほどの情報操作で一時的に機能低下しています。要は気を失ってるだけですけど」
 その手に有希を優しく抱き、喜緑江美里さんは朗らかといえる笑みを浮かべていたのだった。
「き、喜緑さん…………………私の動きを止めたままなんだけど……………」
 見れば朝倉は俺に飛び掛ってきた体勢のまま空中に固定されている。
「貴女はもう少しそうしてなさい。それと長門さん?」
 これは有希ではない。呼ばれた長門が硬直したのが俺にも分かった。だが、そこは朝倉や有希よりもまだ付き合いの浅い長門の事だ、
「………………わたしの判断に誤りはなかった」
 気丈にも喜緑さんにそう言ったのだ。
「ちょっと、長門さん?!」
 朝倉の顔色が青ざめる。俺も顔が強張った、それだけ喜緑さんの雰囲気は落ち着いているが故に怖い。果たして喜緑さんは長門を見やると、
「その為にこの長門さんをここまで傷付けてもですか?」
 冷静な口調の中に立ち昇るオーラに俺はさっきまでとは違う意味で目を閉じたくなった。いや、長門に何かするとも思えないけど。
「貴女も少し頭を冷やしなさい」
 喜緑さんが小さく呟くと長門が再び硬直した。今度はどう見てもさせられた、だが。口を開け閉めしているところを見ると声も抑えられちまったのだろうか。
「情報操作をされないように声帯に制限を入れました、少しは反省していただかないと」
 あっさりと言っているが朝倉の動きを止め、長門の行動を完全に拘束するなんてとんでもない話なんじゃないか? 喜緑さんは確かに有希も恐れるほどの人だが実際にここまでの力の差を見せ付けられたのは初めてである。
 そして喜緑さんは俺に近づくと、
「ではお返しいたします」
 そっと有希を手渡してくれた。ほのかな温もりと静かに上下する胸にホッと一息つく。少なくとも今はまだ有希は無事なんだ、そう思うだけで涙が出そうになった。
「やはりあなたの傍が一番落ち着くようですね、急に心肺機能が安定してきました」
 そういうのが分かるものなのか、とは聞く必要もないのだろう。有希が無意識でも俺の手の中で安心してくれているのだから、それだけで十分だ。
「もう少し眠らせてあげてください。ただしこの後は否応無く起きてもらいますが」
 などと多少不安を煽ってはくれたが、有希を見る喜緑さんの瞳は慈愛に満ちた、と言ってもいいようなものだった。この人もまた有希や長門、朝倉の事が心配なのだ。
 俺が有希を起こさないように両手で包み込むように抱いたところで、
「さて、いつまでもこんな所に居ても仕方ありません。朝倉さん、ちょっとこれ壊しますから」
 喜緑さんはそう言って動けない朝倉の額に手を置いた。
「え? 喜緑さん、まさか?!」
 朝倉の驚きと、
「情報制御、開放」
 喜緑さんの呟き。そして、
「あいたたたっ! いったーいっ!!」
 朝倉の絶叫と共に空間が天空から静かに裂けていった。まるでゆで卵の殻が剥けていくのを内側から見ているかのようだな。パラパラと空間が割れてそこから新しい景色が生まれてゆく。まあさっきまでの長門の部屋なのだが。
 やがて俺達は何事も無かったかのように長門の家のリビングに戻っていたのだった。ただし朝倉は頭を抱え、長門は直立で固まったままだが。
「あたた………………酷いわよ、喜緑さん…………………無理やり私の情報制御を奪い取るなんて」
「そのくらいの痛みは当然です、あなたも反省なさい」
 涙目の朝倉に冷たい対応の喜緑さん。これもまたまったく違和感が無いのはどういうことだろう? 何となくだが昔から二人の関係はこうだったような気がしてならない。
 どうやら設定年齢だからという訳でもなく喜緑さんは年上の姉のようなものなのだろう。冷静な長女、世話好きの次女に無口な末っ子ってとこか? その末っ子は一人は固まったままで一人は俺の手の中で眠っているが。
 涙目のままの朝倉が諦めたように座り込み、喜緑さんも静かに正座する。俺も有希を起こさないようにしながらとりあえずは座る事にした。長門は可哀想だがまだ動けそうにない。
 三人が座って落ち着いたところで朝倉が切り出した。
「でもどうして分かったの? 情報操作は完璧だったはずなのに」
「私が何も知らなかったとでも? とはいえ情報源は貴女や長門さんではありませんけど」
 そう言って俺の方を見たのだが俺にも心当たりは無い。それとも俺の心でも読み取ったのだろうか?
「いいえ、流石の私にもそこまでは。ですが、あなたの様子をおかしいと思った人間が居て、その人間が私の知っている人に接触することにより私が推測するきっかけを与えてくれたと考えてもらえれば自ずと答えは出てくるものです」
 ああ、何となく分かった。とりあえず一件落着したらニヤケ面は殴っておこう。
「そっか、そこまでは私も読めなかったなあ」
「あなたは元々詰めが甘いのですよ。それに私も伊達に生徒会などやって校内に情報網を構築している訳ではありません」
 確かに喜緑さんが生徒会にいることによって長門のお目付け役になっているのは分かったが、ここまでだとはな。改めて恐るべしと言うしかない。
 つまりは朝倉や長門がいくら隠しても周辺から察した喜緑さんが動けばどうしようもなかったって事だ。俺もこの人の底の知れなさに感嘆と少々の恐怖を覚えた。
「さて、貴女方には色々と言い含める事もありますが」
 喜緑さんは立ち上がると固まったままの長門の背後に立ち、
「とりあえずは落ち着きましょうか」
 そのまま長門の肩を押さえると、長門は素直に正座した。どうやら行動の規制は解かれたらしいが、もう長門も何も言う事はなかった。
 喜緑さんはというと、長門を座らせてから勝手に台所へ行くとお茶の用意をして戻ってきた。そして人数分のお茶を淹れると、
「ではそちらの長門さんが目を覚ますまで休憩といきましょう。私も少々疲れました。ああ、朝倉さん? お茶菓子は奥にドラ焼きがありましたので」
「それはわたしの…」
「はいはい、なんで一緒に持ってこないのよ……」
 まるっきり自分の家のようにくつろぎながら、立ち上がる朝倉を見つめていた。それは在りし日の光景だったのかもしれない、喜緑さんの目はそれは優しいものだったからだ。
 そしてその瞳を有希に向けた時、
「……………辛いでしょうけど……………」
 その瞳が曇るのを見て俺の心も曇っていくようだった。
 有希に目覚めてほしくない、そう思ってしまうほど落ち着いた空間の中で俺達は有希が目覚めるのを待つのであった。