『SS』 朧月夜
「ふう、すっかり遅くなっちまったな…………」
辺りは既に暗くなり、街灯の明かりだけが頼りとなりつつある中を、俺は多少の疲れと共に一人ごちた。とはいえ、話し相手がいないわけじゃない。
「…………そう」
少々味気無い返事を返したのは言わずと知れたSOS団の誇る万能プレイヤーで宇宙人でもあるところの長門有希である。
「ここまで時間が経過するのは想定外だった。謝罪する」
「ああ、いいって。そういうつもりで言ったんじゃないからさ」
こうして俺達二人が夜道を歩くことになったのだって、ちゃんとした理由がある。とはいえ大したもんじゃない。SOS団のほぼ何もしていない活動をつつがなく終えた俺達はハルヒの号令の元、帰宅の予定だったのだが。
ところが今日に限って玄関先で長門がコンピ研の連中に捕まってしまったのである。何でもプログラムのバグ取りとやらで人手が足りなくなっているとの事で、ハルヒが騒ぐのをどうにか宥めた俺があいつらが長門に変なことをしないかどうか見張りとして付いていた、といった次第だ。大体コンピ研は長門の能力を崇拝することはあっても何も出来やしないし、ましてや長門が何かされるなどとはありえるはずも無いのだが。
とにかく俺はコンピ研で所在無く時間が過ぎるのを待つのかと思いきや、本当に猫の手も借りたかったらしい連中に否応無くつき合わされ、長門も全力を出すわけにもいかずにある程度レベルを落として付き合った為にこんな時間と相成った訳だ。それでも徹夜を覚悟していた部長氏から必要以上に感謝されたのだからいいのだろうよ。
「まあ長門も楽しかったのならいいけどな?」
俺以外に分かるのか不明ながらも、俺は何故か分かってしまう数ミリ単位の頷きで肯定する長門を見れば付き合った甲斐も多少はあろうというものだ。
「それにしても今日は暗いな、天気はいいはずだが………」
街灯があるから分かりにくいのではあるが、確かに今日は日が落ちるのが早い気がする。すると長門は天を仰ぐように見上げ、
「あれを」
と指差した。どうした、と見上げてみれば、
「ああ、そういうことか」
単純な話である。月が淡く霞んで見えていた。これじゃ暗いはずである、いくら街中とはいえ月明かりは影響するものなのだ。
「朧月夜」
そうだな、この季節ならではの風物詩といえるものかもしれない。春霞に煙る月は朧気で儚さを感じてしまうものだ。それはあまりにも不確かで淡く、まるで消えてしまいそうに…………
「……………何?」
何だろうな、俺はどうしちまったんだろう。気が付けば長門を背後から抱きしめていた。どうしたって言われるとこっちが困る。
そうだ、あの月が悪いんだ。まるで春の闇の中に溶け込んでいきそうな月を見てしまうと、長門も同じ様に消えていってしまいそうで。思わず抱きしめないと本当に消えてしまいそうだったんだ。
それを想像しただけで全身が凍りつきそうになった。長門がいなくなる、それに俺は耐えられそうも無い。本当にそう思ったんだ。
本当ならば慌てて離れなければおかしいだろ? けれど俺は離れる事が出来なかった。今離れると長門が解けてゆきそうだった、などと言ったら滑稽なのだろうか。
「なあ、お前は消えたりしないよな?」
長門を抱きしめたまま、自分の不安を口にする。そうしないと俺の方がどうにかなりそうだった。
「………………」
言われた意味も分からないだろう、だが長門は黙って俺に体を預けてくれていた。
「あんな月みたいにぼんやりして、やがていなくなっちまいそうなんだ……………頼む、そんな事にだけはならないでくれ…………」
思った事を全て口にすれば陳腐なだけだ。それでも話さなければ不安で押し潰されそうになる。愚にも付かない事を抱きしめたまま言う俺を、長門は何も言わずにただ成すがままにされていた。
やがて、長門は静かに俺の腕から離れた。それだけで空虚な思いを抱いてしまうのは何故だろうか? 不安に手を伸ばしかけた俺を制した長門は、
「あれは…………」
天空を見上げ呟いた。俺も釣られて見上げた先には淡く朧月が浮かんでいる。
「あの月は水蒸気に包まれて、柔らかくかすんで見えるだけの現象。つまりは地球上からのみ観察できるもの」
冷静に、淡々と長門は話す。
「たとえ地球上では霞んでいようとも、月は確かに存在している。変わらない光を地上に届けている」
その瞳は月光よりも明るく、強く輝いていた。
「故に月は常にそこにある。わたしも同様。わたしは、」
「わたしは、ここにいる」
それは静かなる、力強い決心だった。長門は、長門としてここにいる。居続けてくれる。
「そうか……………そうだな。長門はここにいるんだよな」
俺もそう思う。長門はずっとここにいる、俺達と共に。月が霞んでいてもそこにいるように。
「…………帰るか」
数ミリの肯定。俺達は再び歩き出した。
どちらからか分からないが、いつの間にか繋いでいた手から感じられる体温が確かに長門がここにいるという実感を俺に与えてくれていた………………
「それじゃあな、あー、今日はすまなかった……」
長門のマンションの前で俺は長門の手を離し、気まずい気持ちを隠すように頭を掻いた。
「いい。あなたの不安が解消出来たのならば、それで」
そうだな、ちょっとばかり春の宵闇ってやつに酔わされていたのかもしれないな。我ながらセンチメンタルなもんだ。
「そんじゃ、また明日な」
照れ隠しもあって、そっけなく別れようとした俺に長門は、
「待って」
と呼び止めた。決まりが悪いので早めにその場を離れたかったのだが、長門が話があるなら立ち止まらない訳にはいかないだろう。
「先程の言葉を訂正したい」
その言葉に俺の心臓が止まりそうになった。やはり長門は……………………
だが長門は俺の心を読んだかのように小さく首を振ると、
「わたしは確かにここにいる。だが、それだけでは語彙が不足していた。わたしはここにいるのではない、わたしは、」
物音一つ立てず、長門は俺に抱きついた。首に手が回され、顔と顔が近づく。
「あなたと共にいる…………」
柔らかい感触を唇に感じたかと思うと、それは一瞬で離れていった。今のは……………まさか?
「…………また、明日」
呆然とする俺に長門の声が届いた時、既にその姿はエントランスの向こう側へと消えていた。
しばらく唇に手をやったりしてしまったのだが、
「…………また、明日な」
俺は家へと急ぐ事にする。流石に遅くなりすぎたからな。
見上げた頭上には淡く煙る儚げな月の姿。
だが、その美しい姿は変わらずにここにいる。
そう、いつまでも俺と共に……………………………