『SS』 ちいさながと そのに 7

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 俺にとっては数時間が数日以上に感じたのだが、それはいつぞやの時に有希が時間を止めていた時には感じなかった程の長い時間を感じていたからであって、実際には学校の授業なのだから定時しか経っていないのである。
 その間、休み時間の度に朝倉涼子の席には人だかりが出来、その中心にいる優等生の転校生は以前と同じ様な笑顔で積極的に対処しているようであった。ほとんどそちらを見る事などしなかったが離れていた時間を感じさせないほど自然にクラスに溶け込んでいく朝倉は流石だと言わざるを得ないのだろう。
 その本質を知る俺にとってはまさに宇宙人の侵略にしか思えなかったがな。こんな公立高校の一クラスなど侵略しても何も利益などないと思うが、このクラスにはあいつがいる。その侵略のターゲットであろう涼宮ハルヒはこの午前中の授業の間も朝倉を囲む輪に加わる事も無く俺の後ろの席から動こうともしなかった。
 ハルヒの意図など知る由もないが、何か企んでいる事だけは分かる。俺の後ろからは何やら呟く声とシャーペンを走らせる音が止まる事は無かったからだ。大人しく勉学に励んでいるなどとは端から思っちゃいない、こいつは今は助走距離を取っているだけなのだろう。
 そして俺の彼女だ。有希は俺の手に抱かれて何も言わないままに俯いている。元々授業中は大人しい方だが、それでも俺の勉強を見ていたり後方のハルヒを観察していたりしていた有希は今日は動こうともしない。
「…………………」
 昔出会った頃のような無表情でひたすらに何か考えているように見える。勿論朝倉の事を考えているのだろうが、それは自分が朝倉の事を知らされていなかった事によるショックなのか朝倉との俺の知らない思い出を巡らせているのかは窺い知れない。
 まるで俺と有希だけが朝倉が存在する事を拒否しているかのようだ、実際に否定したい気持ちも抑えきれないが。それに朝倉からも俺にもハルヒにも話しかけてこない事が逆に不気味ですらあった。まあクラスメイトに囲まれ続けているためにそんな余裕が無かったとも言えなくはないが、少なくとも転校前はあれだけ気にかけていたハルヒに何も言わないのは違和感すらあるだろう。
 何もかもが違和感があって気分が悪い、こんなに居心地が悪い教室にいるのは勘弁だぞ。抑えようとしても止まらない脂汗が制服の中を流れている中で、ようやく午前中の授業を終えるチャイムを聞いた時、俺は思わず全身の力が抜けたような気がしたもんだ。大げさなんかじゃない、すぐ近くに殺人者がいて、それを誰にも告げる事も出来ずに数時間の間同席している事が平気だというのならば今すぐ代わってやる。
 という訳でもないが、俺は今すぐにでも教室から退散したいところなのであったがハルヒが珍しく教室を飛び出さなかった為に席を立つタイミングを計りかねているところなのだった。思えばこいつも今日一日おかしな態度ばかりだ、元々朝倉とは相性がいいようでもなかったが、それにしても極端な気がする。そのハルヒはようやく立ち上がったかと思うと、
「…………………」 
 無言のまま、しかも静かに教室を出て行ったのである。途中、必ず朝倉の席の近くを通るのだが一瞬だけ二人が視線を交わした、ような気がした。その時のハルヒの目はもしかしたら一年前のあの誰も寄せ付けようとしていなかった頃のハルヒの目だったのかもしれない。
 しかし、それについて俺も思いを巡らせている場合ではない。さっさと席を立って部室に行かないと有希の食事もそうだが、自分の息が詰ってどうにかなりそうだ。まだ腿の上にいる有希に視線を送ると、ようやく定位置の肩の上に乗ってくれた。だが何ともいい難い居心地の悪さを感じてしまうのは転校生の視線を感じてしまっているからだろうか。
 何も言わずに国木田とだけ視線で会話して席を離れる事を告げ(谷口は朝倉に話しかけようとして集団の中にいる)そのまま教室を出ようとしたのだが、よく考えれば俺達も朝倉の席の近くは通る訳なのだった。
「おう、キョン! お前、朝倉に挨拶したか?」
 何とか朝倉と一緒に弁当を食おうとして、そうはさせまいとする女子連中に押し退けられている空気の読めない阿呆が空気の読めないままに俺に話しかけてきた。それだから空気が読めないと言われるんだ、お前は。
「そういえばそうだったわね。お久しぶりね、キョンくん」
 やめろ、俺は出来ればお前になんか会いたくはなかったんだ! その言葉が喉から飛び出てこないように、ああ、とか曖昧に頷きながら俺は早くこの場から離れる事しか考えてなかった。
「どこに行くの?」
 だが朝倉は何も分かっていないかのように俺に質問を投げかける。肩の上の有希が一瞬動きが固まったようになった。見えていない、という事はありえないだろう。
「ああ、こいつは静かに飯が食いたいんだとよ。それより朝倉、転校初日からちゃんと弁当作ってきたのか?」
 とことんまで空気の読めない谷口だが、今度は助かった。朝倉の弁当を覗き込もうとして他の女子からアッパーカットを喰らうアホを尻目に、俺はそそくさとそこから逃げ出した。朝倉の視線が背中に刺さるのを感じたが、振り返る事などしなかった。
「…………彼女は、」
 言うな、聞きたくない。若干キツイ口調に有希が黙ってしまったのだが、俺は教室を離れる事しか考えていなかった。あの時、一瞬でも振り返っていれば。朝倉涼子がどんな表情をしていたのか見る事が出来ていれば。それは既に過去の話であり、どれだけ後悔しようとも覆せるものではなかった。
 ただ俺はそこには居たくなかっただけなんだ、そして教室を出れば何らかのアクションがあることを確信していたからでもある。その時の俺は次に起こるであろう出来事の事しか考えていなかった。決して責められても言い訳が出来なくても、あの時間帯の俺の恐怖と不安を説明出来るものではない。たとえそれで有希を悲しませていたとしても、俺は逃げ出したかったんだ……………



 いつもより時間がかかった分、いつもより急ぎ足で旧校舎に向かう。よくよく考えれば昨日から全然いつもどおりじゃなくなっている、それに気付いた時にはもう遅かったのだが。
 そして旧校舎へ渡る廊下で俺は足を止めた。肩の上の有希が、
「……………あそこに」
 指を指した先は角になって俺からは死角になっているが、言われなくても大体分かっていた。あの人がこの事態で動かないはずはないからな。
「そこにいるんでしょう、喜緑さん?」
 俺が声をかけると、物陰から静かに現れたのは予想通り喜緑江美里さんだった。いつものような微笑みではない、何かを伝えようとする真剣な眼差しで。
「やはり分かりますか?」
「当然でしょう、有希も知らないうちに朝倉が転校してくるなんてハルヒが望む訳もないし、あなたしか考えられません」
 そう言うと喜緑さんは微笑みを取り戻し、
「それはそうですね、では私からのお話の内容も予想が出来ますか?」
 そのまま俺の返事も待たず振り向いた。
「……………行きましょう、今度は食事をしながらでも話します」
 歩き出した喜緑さんを俺と有希は黙って追う事にした。喜緑さんが話すと言えば必ず何らかの話があるに違いない。そこだけは信用してもいいだろう、ならば話してもらおうじゃないか。
「……………」
 肩の上の有希が、そっと俺の頭に寄り添った。今回の件は有希も何も知らされていない。それがどれほどの不安を有希に与えているのだろう、俺はそれを思うと今すぐにでも喜緑さんを問い詰めたい。
 だが前を歩く有希のお目付け役と自称する女性は何も言わずに部室に向かって歩いていた。一体何を考えているのか、その後姿からは何も読み取る事は出来ない。今更ながら喜緑江美里という宇宙人の事をほとんど何も知らない俺を再確認して薄ら寒くなった。
 三人とも黙ったまま、慣れ親しんだ部室の前に着く。鍵がかかっているはずなのに喜緑さんがノブに手をかけると、あっさりと開いてしまった。この辺りは最早何も言うつもりは無い。
「どうぞ、お入りください」
 まるで自分の部屋へと招待するかのように俺達を招き入れると、喜緑さんは慣れた手付きで朝比奈さん愛用の急須でお茶を淹れた。俺がいつもの席に着くと、
「どうぞ、朝比奈みくるのようにはいきませんが」
 冗談のつもりか、そう言って俺の目の前に湯飲みを置いたのだった。立ち上る湯気が目の前の視界を曇らせたような気がした。
 そして喜緑さんは俺の向かいに座ると、
「さて、どこからお話しましょうか………」
 自分の分の湯飲みから昇る湯気を見つめながら、静かにそう呟いた。有希が俺の肩から飛び降り、湯飲みの横に正座する。
 息苦しくなりそうな沈黙が室内を支配していった……………………………