『SS』 ちいさながと そのに 6

前回はこちら

 いつもと同じ夜を越え、いつもと同じ朝を迎える。色々あったような気もするが、大きな変化でも無かった為に俺も有希も普通に過ごしていた。
 朝も起きれば普通に挨拶を交わし、着替えて飯を食って学校へと向かう。繰り返しが当然であり、そこに疑問を挟まなければならないほど変化も求めてはいない日常ってやつだ。俺の肩の上には有希がいて、それだけで十分なんだよ。
 そして教室に入り、国木田たちに適当に挨拶をしてから自分の席に着くと、
「おはよ、今日はトーストを口に咥えてチャイム直前に飛び込まなかったわね」
 そんな事いつやったんだよ? 漫画じゃねえんだから。つまらなそうに俺に話しかけたハルヒは、どちらかと言えば機嫌がいい方ではないようだ。このままだと古泉が授業中でもバイトに抜け出さねばならなくなりそうなので軽く方向転換を促してみる。
「どうした? 朝から飛ばしてるな」
「んー? なんか最近はダラダラしてるからさー、あんたが遅刻して教室のドアを開けて四つん這いで岡部に見つからないようにこそこそ入ってきたりしないかなーって思っただけよ」
 やめてくれ、他の誰あろうハルヒが望めば俺がそんな学園漫画の定番シチュに陥る可能性は高いんだ。しかし俺には彼女がいる。
「わたしがさせない」
 頼んだぞ、これでも無遅刻だけは守りたいんだ。皆勤賞は狙えないからな、冬休み前に休んだし。と、これは有希にとってのNGワードだと思った時は遅かった。凛々しく俺を守ると言った彼女は俯いてしまい、
「…………ごめんなさい」
 とまあ、一気に落ち込んでしまったのだ。いや?! 有希は悪くないぞ! ほら、あれがあったからこそ俺も有希の事がよく分かったんだし! 前も言ったけど怒ってもないから! 
「何ブツブツ言ってんの? 遅刻したくないからって徹夜で学校に来て何か電波でも拾うようにでもなったわけ?」
 たった一日の徹夜でそこまでなるかい。とりあえず有希を肩から降ろしてハルヒには分からないように頭を撫でて慰めながら、人の名誉を著しく傷付ける後ろの席の暴君に何と反論してやろうかと思っているとタイミング悪くチャイムが鳴ってしまった。
「ほら、前向いておきなさいよ」
 誰のせいで俺と有希がブルーになってると思ってるんだ。いや、有希には悪かったと思うがハルヒがいらん事さえ言わなければ良かったんだしな。
 こうして心に傷を負った俺達二人は岡部が入ってきても無視して机に伏せる事となったのだ。まったく、朝から縁起が悪いぜ。などと言っている内はまだ良かったのだった。本当に俺達が愕然とするのは岡部がホームルームで放った第一声だった。
「えー、今日は突然だが転校生を紹介する」
 ガタッ! と大きな音を立てて後ろの席のハルヒが立ち上がる。顔を見なくても分かる、恐らく瞳を輝かせながら尻尾が付いていれば大きく振っているところだろうさ。周りの奴らもハルヒほどではないが私語を止める奴はいない。岡部が騒がないように言ってはいるが、この時期の突然の転校生など話題にならないはずがない。誰もが興味深く教室の入り口を見つめていた。
 普段の俺ならば大して興味も持たないまま適当にハルヒに相槌でも打つところだろうが、今の俺は有希をその手に隠しながら冷や汗をかくしかなかった。
 有希も何も言わずにドアの方に目を向けている。まさかだろ、昨日の今日で転校生とは喜緑さんはこれを狙ってたとでもいうのかよ? これじゃ古泉に連絡も出来ない、つまりは奇襲を喰らったも同然だった。
 ヤバイ、今までの経験とそれにより培われた勘がそう告げている。これは危険だと。嫌な予感だけは当たってしまうんだよ、だから岡部が、
「とはいえ以前お前らとも一緒だったから簡単な挨拶だけでいいだろう、入ってきなさい」
 と言っただけで確信出来た。やはり嫌な予感だけ当たってしまうのだと。そして、
「失礼します」
 その声を俺はある意味で忘れた事はなかったということを。ドアが開き、そいつが入ってきたと同時に歓声が上がる。そりゃそうだな、誰もが歓迎するだろう。何といっても信頼感絶大なリーダーだったのだからな、こいつはクラスのまとめ役であり、優等生だったんだ。
 だが、その本当の姿を俺は知っている。そして有希は俺を守るために、こいつを消滅させたはずだったんだ。そうだったよな?
「……………何故?」
 ああ、何故なんだ? どうしてお前がここにいる? 言いたい事が多すぎるが全てはクラスメイトの歓声の前にかき消されるだろう。岡部の声も届いていないようだからな、騒ぎすぎるなとも言えない。後ろのハルヒは立ち上がったまま何を考えているのか分からないが、飛び掛らないだけマシなのかもしれないくらいだ。
 ただ俺と有希だけが愕然としているが、そんな事は関係なく、
「みんな久しぶり、事情があって帰ってこれました。またよろしくね」
 にこやかに微笑んだ朝倉涼子は転校前と変わらないように見えたのだった。男子の歓声と一部女子が涙ぐむといった歓迎ムードの中、ハルヒは不気味な沈黙を保ち、俺は意味のない焦燥感に苛まれていた。有希は……………ただ朝倉を見つめている。その時何を思っていたんだ、有希? それは訊けなかったが、その瞳には何とも言えない光が宿っていたと思う。
 俺達それぞれが何かを考えていた。これがどういった形になっていくのか、誰も分かっていなかった。ただ朝倉涼子は俺達の前に帰ってきた、それだけは事実だったのだ。
 騒ぐ生徒達を担任が怒鳴ったり宥めたりでホームルームが終わり、疲れた岡部が少しでも体力の回復を図ろうと職員室に戻ったところで朝倉の席には人だかりが出来ていた。人気者の突然の帰還にクラス中が沸いていたのである。それを俺は何とも言えない気分で横目に見ているだけだった。こちらから話しかける気になどまったくなれなかったし、朝倉もクラスメイトの質問に対応するだけで動ける様子でも無かったのが幸いだったといえるのかもしれない。
 奇妙な事にハルヒは騒ぐ輪に入る事も、それを押しのけてでも朝倉に詰め寄るでもなく不気味に黙り込んでいた。朝倉の方を眺めてはいるようだが何を考えているのか分かりはしない。
 そして有希も先程から黙り込んだままだった。それどころか定位置の右肩の上に戻る事も無く、むしろ俺の影に隠れるように机の下、俺の太ももの上に座り込んでしまっている。まるで朝倉に見つかるのが嫌みたいだが、そもそも朝倉に有希は見えているのだろうか? 何よりもあの朝倉涼子は俺が知る朝倉涼子なのだろうか。
 それを有希に訊きたかったが、有希は何も話そうとしない。教室全体が歓迎と歓喜に包まれているのに俺の周囲だけが暗く落ち込んでいるかのようだった。
「有希、なんだったら保健室にでも行くか?」
 少し席を外したかったのも確かなので有希に訊いてみたのだが、小さく首を振った有希は、
涼宮ハルヒが不信感を持つ。大丈夫、ここにいて」
 気丈にそう言ってくれたのだが、何となく我慢させているようで済まなくなる。
「…………昼休みまで我慢してくれ」
 せめてもの気休めと思い、俺は両手で有希を包み込むようにした。勿論朝倉があの朝倉ならば意味の無い行為ではあるものの、俺自身も有希の温もりでも感じていないとおかしくなりそうだったんだ。
 まだ何も理解できないままに混乱した頭だけが、しなくてもいい回転をして俺の背筋を凍らせる。忌々しい記憶が脳裏から離れる事がなく、脇腹がじわりと熱くなる。思わず有希を抱きしめそうになってしまい、そっとその手を抑えられた。
「大丈夫」
 有希の呟いた一言だけで少しは落ち着いた気になるのだから単純といえば単純なのだが、それでも深層心理に刻み込まれた恐怖心というものはどうしようもないらしい。賑やかな朝倉の席から顔を背けるように俺は窓の外を眺めるしかなかった。
 ハルヒも朝倉を見ているようだが何も動こうとはしない。何やらブツブツと呟いているようだが何を考えているやらだな。こちらとしてはそれどころじゃないのだが。
 胃が重たくなってくる中で授業を告げるチャイムが鳴り、俺は反射的に入り口を見てしまい。
 偶然なのか、朝倉涼子と視線が合ってしまった。
 

 柔らかなその微笑みを見た瞬間に、俺の全身が総毛立ち。


 俺は慌てて窓に顔を背けた。有希が俺の指を強く握ってくる。分かってるさ、何も言わなくても伝わってくる。
 大丈夫だ、俺には有希がいる。有希も俺がいれば何とかなる、と思う。
 ひとまず昼休みを待つしかない、恐らくあの人が出てくるだろうからな。その時にはっきりと何故こうなったのか聞かせてもらうしかない。
「…………大丈夫」
 そうだな、有希だって不安なんだ。俺は有希を抱きしめるように手を被せた。大人しく俺に寄り添う有希は確かに温かく、それが俺の切れそうな気持ちを繋ぎ止める。
 昼休みまでの授業をどうやって過ごしたのか、内容が頭に入ってないのは確かなのだが。とにかく有希の温もりだけを感じながら俺はひたすら時間が過ぎてゆく事を祈っていたのだった………