『SS』 ちいさながと そのに 5

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 まるで真綿で首を絞められるといった感じの違和感を覚えながらも、長門が本を閉じる音はいつものように聞こえた。
「さあ、帰るわよ!」
 ハルヒの号令一過、朝比奈さんが着替えをスムーズに済ませるために俺と古泉が外へと追い出される。その時、
「確認してみる」
 と有希が俺の肩から離れた。ハルヒ達には見えていないだろうが、三回ほどのジャンプで長門の席へと向かったようだ。ならば俺も古泉からもう少しは話を引き出せるはずだ、あまり顔が近づかない範囲で俺は古泉に話しかけた。
「さっきの話だが、喜緑さんはいつ頃転校生が来るとかは言わなかったのか?」
「そういえば具体的な話はほとんど出来ませんでしたね。流石に会長もいましたし」
 なるほど、生徒会内部でも知らない話だと言ってたな。だがそれだと余計におかしい。
「そんな曖昧な話をお前は信じるのか? ああ見えても喜緑さんは人をからかう事が趣味と言うか生き甲斐にしている節のある人だぞ」
「そうですね、それは普段の会長とのやり取りを見ていれば分かります」
 どんな会話してるんだ、あの二人?
「あなたと涼宮さんの会話が上空数十メートルのタイトロープの上で行われているような感じです」
 よく分からんが危険な香りが漂ってくる事だけは理解出来た。ここに有希がいれば俺とハルヒの会話というところだけでヤキモチを焼きかねないので、ある意味助かったのかもしれないな。
「それはいいから、そんな喜緑さんのどこにお前が信じるところがあったんだ?」
 まああの二人についてはこれ以上触れないほうが得策だろう、それよりも喜緑さんの意図の方が問題だぜ。古泉は笑みからインチキ臭さを消した顔で、
「そのような状況であったからこそ喜緑江美里は僕に話したのではないかと思うのです。まるで自分までも追い込むような形を、彼女自身が作り上げたかったのではないかと推測しているのです」
 あの喜緑さんが、か? にわかには信じられない、常に飄々と俺達を翻弄してこその喜緑さんだからだ。だが、古泉の顔には笑みがもう欠片の様にへばり付いている様にしか見えなくなっている。
情報統合思念体側の策略なのか、喜緑江美里の独断なのかは今の段階では分かりません。ただし彼女の様子から推測しますが、涼宮さんが何らかのリアクションを起こす事は間違いないでしょう。それがいい意味ならば僕らは何も言いません、しかし、」
 そこで古泉が何を言いたいのかが理解できてしまった。
 甦る記憶。
 放課後の教室。
 光るナイフ。
 一人佇む少女。
 全身が無意識に大きく震えた。寒気が背中から昇ってくる、まさか、まさかあいつが?! 大声を出すわけにもいかないが、俺は古泉に詰め寄る。
「おい! アレはもう終わった事だ! それに喜緑さんがそんな事をするはずは無いだろうが!」
「承知しているつもりです。だが喜緑さんの意思はともかく情報統合思念体の意図までは僕らには分かりません、それは…………」
 古泉が濁した言葉の先を俺は正確に読み、今度こそヤツの胸倉を掴み上げた。
「てめえ、長門がそんな事すると思ってやがるのか?!」 
 あの長門有希だぞ? 俺は有希も、長門も、その全てを信じている。恋人だからってだけじゃない。信じられる、それだけの事をあいつらは俺達にしてくれていたはずだ、それなのに何を言ってやがる!
「落ち着いてください! 長門さんが何か起こすなんて僕だって思っていません!」
 冷静な古泉の声に我に返った俺は、古泉のシャツから手を離す。
「ふう、あなたも結構直情的ですね。室内の涼宮さん達に聞こえたらどうするんですか………」
 そんな事を言われても長門有希を否定するような事を言われて黙っていられるか。だが落ち着いて身なりを整えた古泉は、
「僕は最初から長門さんが関わるなんて思っていませんよ、だから喜緑江美里の独断なのかと言ったじゃないですか」
 多少疲れたようにそう言うと、
「もしも喜緑さんの独断ならば情報統合思念体の意思は益々不明なのですが、だからこそ無理にでも僕に話しかけたのではないでしょうか? これは喜緑さんから僕らへのヒントなのではないかと僕は思っています」
 要するに厄介な話になっていることを喜緑さんは古泉を介して俺達に伝えようとしていたって事か? そういう事なら理解できなくは無い、喜緑さんは何といっても長門や俺達の味方をしてくれているのだから。
 さっきの昼休みもそうだったのだが、やはり喜緑さんは俺達に何か伝えたかったのだろうか? しかし上手く言えなかったと考えた方が自然なのかもしれない。それが長門達の親玉の妨害なのかどうかは分からないが、気持ちを引き締めておかなければならなくなったのは確かなようだ。
「どうやら歓迎しない客ってのが来ると思って間違いないようだな」
「ええ。出来る限り涼宮さんとあなたの身辺には注意をしておきますが、なにしろ後手に回っているのは確かです。喜緑さんは正確な日付を言いませんでしたが、そこまで遠くない内に転校生とやらは現れるのでしょうね」
 そのようだな、有希も知らないところで喜緑さんがどこまで動いているのかは分からんが用心するに越した事はないのだろう。
 俺に関しては有希がいるから何も心配していないが、ハルヒが騒げばどうなるか分からん。とりあえずは有希が戻って来たときに話しておかねばならないだろうな。
 そう思ったとほぼ同時に部室のドアが開いた。
「では僕ももう少し生徒会との接触を増やしてみます。何かあればすぐに連絡しますので」
 離れ際に古泉はそう言うとハルヒが急かす中を歩き出した。朝比奈さんと長門が続く後ろを俺も遅れないように付いてゆく。と、長門の肩から有希が俺の肩の上に戻って来た。
 どうだった? と訊くまでも無く、
「ダミーも情報は得ていなかった、全ては喜緑江美里の独断と判断する。よって喜緑江美里の意図は不明、わたしは静観する事を推奨する」
 冷静に言っているようだが、流石に俺にだけは言葉の端々に滲むものが分かってしまう。つまりは面倒だから関わりたくないという、有希としてもまずありえないような気持ちなのだろうな。余程喜緑さんが苦手なのだとよく分かる。まあ俺も普段のあの人と積極的に関わりたいとは思わないが。
 それに転校生もいつ現れるのかまだ分かっていない、単に気をつけておけばいいだろうといったところだ。古泉は気にかけているし、確かに不安が無いって事は無いが、それでも有希と長門が知らないくらいなのだから大丈夫なんじゃないだろうか。
 まずは古泉に調べさせておいてから長門に相談すればいい、有希や俺が多少ハルヒの我がままに付き合えば何とかなるだろう。それに古泉が知らない喜緑さんってのもあるしな。
「まあ喜緑さんだからな、とりあえずは迷惑さえかからなけりゃいいさ」
「………そう」
 俺と有希は前を歩く長門達を見ながら少し離れて歩く。古泉には悪いが有希と話しながら歩く機会が放課後にあるとは思わなかったな。これは珍しい変化だ、今日は一日少しづつ何かが変わっている。違和感が全体を包むが、未だに俺達は日常の中にいた。
 …………そうだ、少しづつ変わっていた。それを知りながら何もしなかったのは俺の罪なのか? それとも、
「…………」
 前方を歩く長門を見つめる有希は、その時は何も知らなかったんだ。それは罪といえるのか?
 まだ俺達は何一つ分かっていなかった。喜緑さんの言葉の真意を。その行動の速さを。喜緑江美里という存在を舐めていたと言われても反論出来ないほどに。
 そして長門の、もう一人の長門有希の覚悟を。
 分かっていないくせに俺と有希は自分達なら大丈夫だなんて思っていたんだ。
 帰り道の長く伸びた影は既に夕闇に溶け込もうとしていたのに………………




 俺達の見通しの甘さを、翌日の朝に見せ付けられることになったのは罰と言うにはあんまりだと思うのだがな。