『SS』 ちいさながと そのに 2

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 毎日が通常通りに過ぎて行く事に慣れすぎた朝がまた訪れる訳であるが、そのような感想は時間が過ぎたからこそ抱く感想であって、その瞬間なんぞは背伸びでもしながら、
「おはよう、有希」
 と傍らで眠っていたはずの恋人に挨拶すると、
「…………おはよう」
 既に起きて制服に着替えた有希は俺の部屋での定位置の一つである机の上で正座しているのであった。
「悪い、ちょっと待っててくれ」
 毎日の事とはいえ有希はいつ起きているのか分からないな、と苦笑しながら洗面所で適当に顔を洗い、部屋に戻って着替えたら有希を肩に乗せて台所へ。トーストをひっ摘むとまたも部屋へ。妹も母親も今でこそ何も言わないが、ちょっと前までは色々とうるさかったものだ。だがこれも時間と共に慣れてしまって、
「…………おいしい」
「そうか? せめてジャムでも持ってくるべきだったと毎朝思うんだけどな」
 焼けすぎてパサつくトーストの半分を齧りながら、とりあえず確保したコーヒーで流し込む。有希は滅多な事ではコーヒーを飲まないのだが、よく喉が渇かないもんだな。
 そろそろ部屋に小型の冷蔵庫でも設置するべきなのかという最近の懸案を彼女に告げれば必ず断わるに違いないのだが、流石に内緒で買い物も出来ないだろうからタイミングが重要なのだろうと思いながら、
「それじゃ行くか」
 と有希を肩に乗せて部屋を出る。これもいつもの光景であって、そこに違和感を感じていない俺がいた。
 登校中は途中まで自転車で有希は何かを掴む訳でもなく普通に肩の上で落ちるような事もない。もう俺も気を使わずにいるし、風を受けてそよぐ有希の髪を見て楽しめるくらいの余裕もある。
 自転車を降りて地獄の登坂を毎朝やることにはうんざりしつつ、こういう時は有希はいいよな、などと少しばかり愚痴をこぼしながらようやく校舎に滑り込む。そして唯一朝の光景として変わった事と言えば、下駄箱で靴を履き替えるときに、
「お疲れ様」
 と有希が俺の髪を撫でるようになった事くらいだろうか。そんな事で今日一日を乗り切れる気になれるのだから俺もいい加減単純なものだと思いつつも、教室まで有希と小声で話しながら歩く。
 毎朝と同じ風景。毎朝同じ行動。
 それは教室に入って谷口と国木田に挨拶し、自分の席に着いて、
「おはよう、最近は少しは早く来てるんじゃない?」
 などと言うハルヒに、
「まあな、どうやら目覚ましとの相性がいいらしい」
 と肩の上の目覚まし役と視線を交わしたところで、
「それでもギリギリなのは変わんないけどね」
 などと言われてしまって、反論前にチャイムが鳴って岡部が来たところで有希に促されて正面を向く。そうだ、本当にいつもどおりな一日だったんだ。それは午前中の授業中もそうだったのだから何も言う事は無い。しかし変化は確かに訪れていたのだろう、昼休みを告げるチャイムが鳴り響く中を早くもハルヒが教室を飛び出した光景さえいつもと同じはずだったのだが。
 しかし、あの時の俺も有希もそんな事は分かっていなかった。二人は当然のように弁当を持って旧校舎に向かっていたのだからな。
 だが最初の変化はこの時から始まっていた。旧校舎に続く渡り廊下で俺達は背後から呼び止められた。
「申し訳ありません、今から昼食でしょうか?」
 すっかり馴染みになってしまった落ち着きながらも動揺を誘う声に嫌でも足を止めてしまう。有希がここまで露骨に嫌な顔をする事など見る機会はそうはない。
「……………………何の用?」
 うむ、声が固いぞ有希。確かに今となっては理解出来るが、それでも先輩であり、世話になっている事には変わりはない。
 だから聞こえるように大きなため息をつきながら挨拶を交わす。
「どうしました、喜緑さん?」
「あなた方二人の反応に対しては後で話すとして、まずは昼食をご一緒にしませんか?」
 優しい微笑みを浮かべる美人な上級生といった雰囲気を醸し出しつつ、否定を許さないオーラが見え隠れするのを気付かない俺達ではない。だがあの昼休みを永遠のトラウマにしてしまった当の本人に再度昼食を誘われて易々と承諾など出来るだろうか?
「あ、断われば生徒会での議題が一つ増えてしまうので面倒ですから遠慮してください」
 そうですか、完全な脅迫ですね。もしも生徒会で旧校舎での飲食がばれてしまえば教師はともかく、ハルヒが大騒ぎするに決まっている。そうなれば何故俺がわざわざ部室で飯を食うのか話さねばならなくなり、引いては有希の存在が露呈しかねない。
 なんという強権だ、これだけの権力をこの人に持たせてしまった事を後悔しなければならないだろう。俺と有希は二人で再びため息をつき、大人しく喜緑さんの後を追うしかなかったのであった。
 しかし、この時俺も有希も気付かなければならなかったのだ。この脅迫は諸刃の剣であったという事を。もし旧校舎の出来事をハルヒが知り、有希の存在を気付かれるような事になれば一番後処理に奔走するのは喜緑さんなのだから。にも拘らず、そのような手段を取ってまで俺達と話そうとしていたのだと気付くのはまだ先の話になる。その証拠に部室まで喜緑さんは俺達に表情を見せず、何も話しかけてこなかった。




 慣れ親しんだ部室で慣れ親しんだパイプ椅子を持ち出して座ると、
「どうぞ」
 と、これはあまり慣れていない上級生からのお茶を受け取りながら弁当箱を広げる。肩の上から有希が飛び降り、いつものように弁当箱の傍らに座ったところで、
「一体どうしたんですか?」
 と、自ら淹れたお茶を飲んでいる喜緑さんに問いかけた。
「あら、たまには私も長門さんと食事でもと思っただけですけど」
「おとぼけはいいので目的を話してください。俺も有希もあなたが何も理由も無く俺達に接触するなんて思ってませんから」
 正直なところを言えば前回のような事は勘弁して欲しいというのが本音だ。疲れてしまう前に釘を刺しておこうと言うのが俺の考えだったのだが、これは逆効果だったのかもしれない。
 喜緑さんは優雅な微笑みを絶やさないままで、
「では回りくどい手段はやめて本質のみお話しましょう、実は………」
 何を言い出すのかと俺は固唾を呑む。隣にいる有希も弁当に視線を向ける事も無く喜緑さんを見つめていた。
「…………その前に食べましょう。話し始めると食事の時間が取れません」
 これが漫画ならば俺と有希はそろってずっこけるところだろうな。実際小さな有希は前のめりになりすぎていてバランスを崩してしまった。
 だがマイペースを貫く事を至上の喜びとしているかのような有希のお目付け役の宇宙人さんは既に自分の弁当に箸をつけているところであった。どうやら普通サイズというか女性らしい小さくまとまったお弁当である。
「あ、お先にいただいてます。あなた達もどうぞ」
 いや、あなたのせいで食べるタイミングを失くしてしまったんですが。恐らく言っても無駄なので声にも出さずに心の中に留めたのだが、俺の彼女はそういうところは真面目なので、
喜緑江美里、伝達事項があるならば優先すべき。わたしのみに対しての用件ならば、このような手段を取らなくても伝達は可能のはず」
「要するに二人でいたいから邪魔するなという事ですね、わかります」
 有希の抗議を身も蓋もない言い方でまとめてしまった喜緑さんは器用にソラマメの煮物を一粒づつ口に運びながら、
「ですが話し始めると本当に食事時間が確保出来ない可能性の方が高くなります。あなたが食事を抜いてよいのならばお話しますけど?」
「…………………」
 有希、お前の負けだ。それだけ弁当と喜緑さんとを交互に見比べるくらいなら飯を早く食った方がマシだぜ。
「…………わかった」
 こうして俺たちもいつもどおりの食事となったのだが、その間は喜緑さんは何も話さずにただ黙々と箸を動かすだけだった。
 奇妙な沈黙の中、お互いに弁当箱の中身を減らす作業に終始していた訳なのだが、俺は目の前の喜緑さんが気になってどうにも味など分からなくなっていた。有希もいつもなら満足な視線を浮かべるのだが、どうも気を取られているせいか食べるペースも若干落ち気味である。
 結局の所、食事らしい食事にならなかったような感じで俺達は弁当を食べ終わり、俺が適当に片付けているのを先に食事を終えていた喜緑さんは黙ってお茶を飲みながら見ているだけだった。視線のみが刺さるようでどうにも居心地が悪くなる。何だっていうんだ、一体?
 それでも俺たちも茶を飲んで一服して、ようやく改めて喜緑さんから事情を聞きだせる体勢となったのだった。
「…………では説明を」
 全てを飛ばして要点だけを求める有希に対し、
「そうですね、実は…………」
 話し出そうとした喜緑さんだったのだが、いきなり軽快な音楽が鳴り響く。
「…………失礼しました」
 そう言って携帯を取り出した喜緑さんだったが、何故マナーモードにしていないのか、そしてこんな時間に誰が、と一気にツッコミを入れそうになる。
 だが喜緑さんは小さく溜息をつくと、
「生徒会からの呼び出しです。上手く誤魔化したつもりだったのですが会長が珍しく本気を出したようですね」
 渋々、といった様子で立ち上がり、俺達に頭を下げた。
「まあ私としてはあなた方と昼食を共にするという主目的を果たしたので良しとしておきます。それでは、また」
「え? 本当に一緒に飯を食うだけだったんですか?」
「そう言ったはずですけど?」
 思わず有希と顔を見合わせた。何だったんだ、あの思わせぶりな態度は? だが微笑みの中に本音を隠しっぱなしの先輩は、
長門さんもあなたと一緒にいることで様々な変化の兆しが見えていますね、それが確認できただけでも良かったです。では午後の授業に遅れないようにしてくださいね」
 それだけ言うと、本当に喜緑さんは部室を出て行ってしまったのだった。取り残された俺と有希は呆然とせざるを得ない。それでも早めの開放に多少安心してしまった俺は、喜緑さんが淹れてくれておいたお茶を飲みながら、
「結局何だったんだ………」
 と愚痴をこぼすしかなかった。
「喜緑さんが何をしたかったか分かるか?」
 食事による満足感を得られなかった為に不満そうな有希に話しかけてみると、小さく首を振り、
「分からない。喜緑江美里のパーソナルな情報はわたしやダミーには閲覧や検索が出来ないようになっているから」
 それほどまでに秘密主義なのか、あの人。だが余計にそんな人が何も目的も無いままに俺達と接触しようとするとも思えないのだが。
「ただし、本当に目的がなくてもやりかねないのが喜緑江美里
 ああ、あの人ならそうだろうな。何といっても面白そうというだけで俺と有希をどん底な気分に落とす事を厭わないお方だ。
「…………考えるのをやめとくか」
「そう、その方がいい」
 俺は馬鹿馬鹿しくなって長机に顔を伏せた。もう少しは時間があるはずだ、しばらくここで休む事にしておくか。
「……………」
 有希が俺の顔に寄り添うように背中を預けてくる。
「有希、読書はいいのか?」
「いい。わたしも少し休みたいから」
 そうか、まあ喜緑さんを相手にしてたからな。有希の体の温もりを肩と頬に感じながら、俺は静かに目を閉じた…………